悲鳴なのか怒号なのか、地響きのような低い音が遠く鳴り響いている。
 荒涼な景色がパノラマに広がる崖の上には、身を切るような冷たい北風が吹き付けている。遠くより砂塵と血の臭いを乗せた風は、炎を思わせるような紅い髪を静かに舞い起こす。鋭い金色の目は物寂しい景色の奥で繰り広げられているであろう戦争を淡々と、何の感情も交えずに眺めていた。
 今からおよそ三週間前。二つの民族が共生する北方の小国で戦争は勃発した。二つの民族は異なる宗教を主な理由として相容れず、以前から緊迫した空気が流れ、何時争いが起こっても可笑しくは無かったのだと言う。国の統治は常に一方の民族が行い、もう一方は常に虐げられた。それが、統治者の暗殺を切っ掛けに紛争が起こり、その土地を虎視眈々と狙っていた近隣の国を巻き込んでの戦争へと発展した。


(宗教戦争か)


 ロックは軽く咳き込み、不機嫌そうに目を細めた。
 国境なき騎士団、零番隊隊長。上記の通り、燃えるような紅い髪と猛禽類のような金色の瞳が印象的な、世間一般で言う青年だ。だが、その性質は余りにも浮世離れしている。
 国境なき騎士団は世界各地で勃発する戦争に現れ、客観的な目で解決へと導く無償の武装組織だ。総勢三百人程の少数組織だが、その存在は全世界に知れ渡る正義の軍と呼ばれる。医療班・情報班等を除き、団員はそれぞれ十個の部隊に振り分けられ、本部からの通達に従って各地の戦場に赴く。ロックはつまり、その一個の部隊を率いる隊長で、通常は部下を纏め、指令を下す筈のポジションだ。しかし、如何せん人手不足で、そんなロックまで現場に駆り出されているのが現状である。
 何で俺が……。そんな思いが脳裏を過ぎる。この世は所謂戦乱で、戦争も紛争も各地で勃発し続けている。幾ら国境なき騎士団が参上したところで、争いは瞬時に終わる訳ではない。後の世界に禍根を残さぬようにするのでは尚更の事で、長い時は数十年もの時間を必要とするのだ。
 元来の短気を含め、ロックは苛立ちながら空に舞う戦塵を眺める。この戦争は、当事者には悪いが、この世に有り触れた宗教戦争の一つでしかない。主観を交えずに物事を見極める目を培って来たロックから見ればその程度のものなのだ。そんなものは他の部隊に任せて、自分はより深刻な戦地へ行かなければならない。事実、本部からも通達は来ているが、生憎、体は一つしかない。


「人手不足は深刻ですね」


 少し離れたところで、戦争の概要を伝えていた部下のリオンが暢気に笑みさえ浮かべながら言った。確かにその通りだった。
 ロックとリオンの在籍する零番隊は、十個ある戦闘部隊の中でもかなり特殊だ。まず、隊員は二人を含めて七人しかいない。それと言うのも、零番隊は他の部隊では手に負えない、言うなれば『問題児』を集めた特殊部隊なのだ。常軌を逸した戦闘能力を持ち、通常の戦地にはまず現れない。それが隊長のロックともなれば尚更の事だ。しかも、どんな戦争にも一個の部隊が動くと言うのに零番隊だけは、基本的に二人組で行動している。つまり、この零番隊に関してはあらゆる例外が認められているのだ。
 ただし、零番隊だ隊長だと言ってもリオンの言う通り人手不足は深刻である。ロックは寝不足で垂れ下がって来る瞼を押し上げるように目を擦った。


「本当だよ。……ったく、放って置きゃ戦争なんてもんは勝手に収まるってのによ」
「はい。でも、その分、多くの犠牲が出ます」
「犠牲無く人は学習出来ないんだ。幾ら文明が発達しても、それだけは猿の頃から変わっちゃいねぇ」


 ロックは口に掌を当て、再び軽く咳き込んだ。酷く空気が悪いのは、戦争の影響だろう。
 歩き出そうとして、リオンがだんまりを決め込んでいる事に気付いた。何だよ、と低い声を掛けようとしたが、リオンの生い立ちを思い出してロックは黙った。国境なき騎士団等と言っても、団員は皆、戦争による被害者ばかりだ。過去を語ろうとしない訳有りの者も多い。


「ロックさん」


 リオンは表情を凍り付かせたまま、脇に抱えたファイルを持ち直して言った。


「犠牲は本当に必要でしょうか」


 なるべく平静を保ったつもりだろう声が震えていた事にロックは気付いていたが、何も知らないような顔で静かに答えた。


「犠牲ってのは、命だけじゃない。心や体の痛みの場合もあれば、時間の場合もある」
「時間……」
「そればっかりは、仕方が無いのさ。この世には限りがある」


 色褪せた革靴が静かに、乾いた砂利を踏み締める。ロックは黙って歩き始め、やがてリオンの横を通り過ぎた。
 ロックの言葉がリオンの頭の中に、遠く鳴り響く鐘の音のように反響する。リオンは自分に向けられた、決して大きくはない背中に向かって叫んでいた。


「それでも!」


 足は止まらない。リオンは一呼吸の後、問い掛けた。


「犠牲なんて無ければいい……。そう願うのは、傲慢でしょうか」
「いいや」


 ロックは足を止め、振り返って微笑んだ。耳の横を通り過ぎる風が突然音を失い、景色はモノクロームに包まれロックの姿をより鮮明なものとする。


「理想論だよ」


 リオンが息を呑んだのが、解った。ロックは一瞬で微笑を消し去り、いつもの仏頂面に戻るとまた歩き出す。リオンはそれ以上、何も言っては来なかった。









願う 強く 強く

いつか 叶うと信じている




1、イデオローグ





 消毒液の薬臭さと、血液の鉄臭さが鼻を突く。
 眉間に皺を寄せ、鼻に手を当てているリオンを尻目にロックは表情一つ動かさずに歩を進める。二人は今、この戦争の真っ只中、一方の民族の本拠地にいる。彼等は嘗て虐げられ支配されて来た民族、革命軍とでも言うのだろうか。
 革命軍の本拠地は悲惨な状況だ。死者・負傷者多数、武器・物資の不足。
 ロックはそれらを横目に見ながら、戦争の終結は目の前だと知った。
 すぐ横を通り過ぎる少女の、一つしかない目玉が物珍しそうにロックを見る。片目は包帯に覆われ、赤茶く血が滲んでいた。此方を見る栗色の眼球は濁り、世界に諦観を抱いているようだ。武器など持った事も無いだろう細い腕、褐色の皮膚は傷だらけだった。
 そうして戦争が終結した時、革命軍に在する人々はどうなるのだろうか。今まで以上に虐げられ、奴隷のように扱われるのだろうか。では、その時に目の前にいるこの少女はどうなる。使えないとして、殺されてしまうのか。


「酷いですね」


 顔色を悪くしたリオンがそう、一言呟いた。ロックは何も言わない。
 無言を通したまま、少女の視線も無視して、正面中央にある一際大きなテントの入り口を潜った。
 革命軍の本部だが、中は殺伐として重苦しい空気が支配している。幹部らしき男達は皆、憔悴し切った顔付きで何処か一点をぼうっと見詰めていた。だが、ロックとリオンが訪れると、一人の男が何の気無しに顔を上げ、数秒の沈黙の後、目を丸くした。


「……あんたは」


 男は、ロックの肩に光る銀色の紋章を穴が開く程見詰める。銀色のプレートに浮彫されているのは、雄々しく吠える銀色の獅子。国境なき騎士団の紋章だった。
 ロックは小さく息を吐き出した。


「国境なき騎士団、零番隊、隊長。ロック・アルファ」


 ざわりと、空気が揺れ動いた。リオンはその様を眺めながら、ロックの背中を見詰める。それまで意気消沈していた雰囲気ががらりと変わってしまったのだ。ロックの名前には、それだけの力がある。
 ロックは眉一つ動かさず、淡々と口を開く。


「戦況を教えろ。――と言っても、負け戦には違いないがな」


 チラリと周囲に目配せして、ロックは言った。幹部の男がばつが悪そうに口篭り、リオンは何か弁解しようとあたふたしている。


「知っての通り、俺達はお前等の味方ではない。状況によっては、お前等にとっての死神にも成り得る存在だ」


 誰も何も言わなかった。誰もがそれを理解していたのだ。隣でリオンが苦い顔をするのも無視して、ロックは事務的に言葉を並べて行く。


「先に述べた通り、これは負け戦だ。戦力、物資共に違い過ぎる」


 男達は何も言わなかった。全て理解し、肩を落とし、虚空を呆然と眺めている。


「降服しろ。……停戦協定を結ぶ為に、俺達はここに来たんだ。お前等の言い分も、なるべく聞こう」


 それだけ言って、ロックはテントを出た。重苦しい空気から放たれ、血液と薬品と火薬の臭いの充満する外気に触れる。不快さを感じながら、ロックは眉を寄せて歩き出した。
 人間はどうしてこんなにも愚かなのだろう。何故、人は歴史を繰り返すのだろう。過去の過ちから何故、学習しない。先人の犠牲を何故生かさない。一体、こんな世界を人は何百回繰り返すのだろうか。
 自分の痛みが解るのなら、同じく、相手も傷付けられれば痛いと解るだろう。
 勿論、ロックはそれが理想論であると解っている。この欺瞞に満ちた世界で人は同じ人を疑いながら傷付け、傷付けられて死んで行く。


「ロックさん」


 少し後ろを歩くリオンが言った。


「停戦協定を結んだって、法律を変えたって、人の心は変わらないでしょう。歴史はきっと繰り返す。革命軍の人達はまた虐げられて、また革命を起こすんだ」


 振り返らないままロックは言う。


「なら、お前はこの革命軍の勝利を齎す事こそが、正解だとでも言うのか?」
「正解なんて、解りません。でも……」
「お前」


 ロックは振り返った。リオンは叱られて頭垂れる子供のように俯き、爪先を見詰めている。


「全てを救えるだなんて思うな。この世界はそんなに甘くない。……飢え死にしそうな野良猫に、その場凌ぎの餌をあげたとして、明日はどうする。切りが無いだろう。人は既に皆、自分に出来る領分で出来る事をしている。それでも死ぬのなら、それは自然の摂理だろう」
「――そんなのおかしい!」


 リオンは顔を上げ、叫んだ。


「例えば、目の前で百人が瀕死の重傷で、助けの手を求めてる。ロックさんは、切りが無いと言って目もくれずに通り過ぎるんですか!?」


 ロックは答えない。


「違うでしょう! 一人でも多く助けようと、奔走するでしょう!」
「……なあ、リオン」

 酷く乾いた声で、ロックは言った。表情は無く、目は何処か遠くを眺めている。


「人は、増え過ぎたと思わないか?」


 リオンの背中を何か冷たいものが走った。戦くリオンを尻目にロックは少し笑った。


「……冗談だ」


 そのまま、ロックは歩き出した。
 人は確かに増え過ぎた。牙も爪も鱗も毒も持たない、恐らくは最弱の動物が頭脳を持っただけで、自然界の頂点にでも立ったかのように驕り高ぶっている。弱いからこそ武器を持ち、文明を発展させ、結果、互いに殺し合い、世界そのものを破壊しようとしている。
 動物は、子を肉食獣に食われたからと言って、仲間を引き連れて仕返しなどしない。弱肉強食こそが世界の絶対的定理ならば人間も同様にそれに従うべきだ。弱いからこそ死んだのだ。ならば、強くなるしかない。そう、強くなるしかないのだ。
 そして、人は強くなった。その結果が、この様か?
 ロックは周囲を見渡し、溜息を零した。自然界の王者とは思えぬ惨めさだ。数ばかりが無駄に増え、知性は原始より遥かに発達した筈なのに、その行為そのものはなんと愚かな事だろう。
 人間に対する諦観は加速する一方だ。この戦争の最も良い結末は、両方が同等の力を持って滅ぶ事ではないかとさえ思っている。そうすれば、世界はこの国を悪い見本として平和になるかも知れない。勿論、人がそこまで賢くないと解っているのだが。
 ロックはふと足を止めた。遠く離れた先で、あの片目の少女の手当てをするリオンの姿が見えた。微笑を浮かべて包帯を取り替えながら。何か言っている。
 余計な事を、と思った。連れて来るんじゃなかったとも思った。リオンは不意に顔を上げ、ロックが冷めた目で見ている事に気付いて、ばつが悪そうに目を伏せた。
 リオンの脳裏に先程のロックの言葉が過ぎった。ロックは黙って横に立ち、睨み下ろした。


「戦争に深入りするな。俺達はこの戦争の当事者じゃないんだ。お前のしている事はただの自己満足だろう」


 リオンは俯いたまま、顔を上げない。


「力も無い癖に綺麗事抜かすな、偽善者め。被災者を憐れんで、英雄にでもなったつもりか」
「……ロックさん」


 リオンは顔を上げた。


「でもね、生きてるんです」


 今にも泣き出しそうな目で、リオンは言う。


「生きてるんですよ、今こうして」
「それがどうした。こんな時代で、一人の命を重んじる気は無いぞ」
「……ロックさんはいつも冷静で、まるで血が通っていないんじゃないかと思ってしまうこともあります。でも、本当は誰よりも優しい人だ」
「何が言いたい」
「お願いです。僕には、この人達を見捨てられません。僕達が正義の軍だと言うのなら、それを示さず何が国境なき騎士団でしょうか」


 ふと、肩に刻まれた銀色の光る紋章を見た。銀色の獅子。
 遥か昔の革命で活躍した騎士をモチーフにしたものだと言う。彼は裏切り者の汚名を着せられ、革命に大きく貢献しながらも、最後には処刑された僅か十八歳の青年だったと言う。
 彼は何を思い、何を願い、何の為に戦い、何の為に死んだのだろう。そして、何の為に生きた。僅か十八歳で、世界平和の為とは言うまい。


「善悪の境界線程、曖昧なものはねぇよ」
「ロックさん」
「一朝一夕で戦争は終結しない。傷痕を埋めるには、何十年、何百年と言う月日と数え切れない試行錯誤が必要だ」


 ロックはリオンを見た。


「お前にそれが出来るのか。この戦争の責任を、剣も振るえないお前が背負えるのか。何千何万と言う命の犠牲を背負って、お前は明日に向かえるのか!」
「……解りません。僕は、そこまで強くない。戦場じゃ、目の前の少女一人守れないと思う」
「理想を語るにも力が必要だ。力も無い癖に」
「でも!」


 リオンは叫んだ。


「救いたいんです!」


 ロックは苛立った。


「付け上がるな青二才が! 戦争に関わった事も無い癖に! この世界にハッピーエンドなんて用意されちゃいねぇんだ! お前に何が出来る! 何が守れる! 人から恨み一つ買った事も無いひよっこの分際で、知ったような口を利くんじゃねぇ!」


 その時だった。
 カーンと、鉄を打つ高音が辺りに響いた。人込みはざわめき、戦き、戸惑う。遠くで誰かが叫んだ。


「敵襲ーッ!」


 わっと砂埃が舞った。武器を持った男達が、重傷の身体に鞭打って走り出す。悲鳴が、怒号が、乾いた砂に混ざって轟いた。
 武器など襤褸なのに、負けは目に見えているのに、歩く事すらやっとの身体で何をしようと言うのだろうか。
 出陣して行く革命軍を見届け、ロックはリオンに目を戻した。だが。


「――リオン?」


 その姿は何処にも無かった。先刻の自分の言葉が脳裏を掠める。


「まさか、あの馬鹿」


 言葉を真に受けて、戦場に向かったのか。


「手間を掛けさせやがって……!」


 ロックは腰の剣を掴み、走り出した。





2010/11/6