これは神の鉄槌だ。思い上がった人間を罰する為に神が地表を洗い流したように、今度は殲滅せんと猛威を奮っているのだ。 痩せた大地は命を生むことも育むこともせず、ただ怠惰に存在するだけだ。悲鳴のような乾いた風が吹き抜けていく。薄暗いテントの下は湿気と血の臭いに満ち、身動き一つしない人間の身体には霧の如く羽虫が群がっている。 此処には安らかな死等、存在しない。繋がれた命を貪り、消えていくだけだ。神の定めた天命へ抗う等、烏滸がましいのではないだろうか。 手当をしているのか、弄んでいるのか。恐らく医療知識など皆無に等しい民間人が、風前の灯火にも似た命を懸命に繋ごうとしている。リオンは、厳重に口元を覆い隠しながら周囲へ視線を巡らせた。侵入者に見向きもしない。臓器の覗く傷口には白い蛆が沸き、リオンは意識が遠のきそうになる。 世界は戦乱だった。今も何処かで戦争は勃発し、大勢の民間人が生命の危機に晒されている。リオンの在籍する国境なき騎士団という組織は、世界で多発する戦争を、第三者として公平な視点で見定め、解決へと導く正義の軍だ。この組織の零番隊へ所属し、既に二年が経過する。戦場を歩いた経験は少ない。 リオンは隣に立つ男を見遣る。異臭に満ちた帳の中、猛禽類を思わせる金色の瞳が深く被ったフードの下に輝いていた。 「無駄な足掻きだ」 人目も憚らず、歯に衣を着せることもなく、ロックが言った。零番隊の隊長を務める彼は、酷く不機嫌そうだった。 この場所から遥か西方で大国同士の戦争が勃発した。永い冷戦が明け、互いに武力を行使するようになり、多くの民間人が犠牲となった。殲滅するまでは止まらぬと非人道的兵器の使用にすら踏み切った大国の戦争に、漸く組織が介入したのは僅か三日前のことだった。現在は他部隊が和平の為に奔走していると連絡が入っているが、何れ程の期間を要するのかは解らない。そうしている間に、大国の使用した非人道的兵器は無関係の小国を巻き込み、甚大な被害を齎した。 非人道的兵器ーー生物兵器だ。高い感染力と致死率を誇る死の病と呼ばれる感染症が、戦争に関わらない山奥の小国を襲ったのだ。感染者の全身には膿疱を生じ、やがて内蔵は溶解し、死に至る。潜伏期間は一週間で、現在治療法は無い。テントの中は感染者に溢れ、苦痛に呻きながら今も死を待っているのが現状だ。 国境なき騎士団には情報処理班と医療班が存在する。どちらも治療法を懸命に探っているが、成果は未だ無い。このような土地へロックと共に派遣された理由が、リオンには解り兼ねた。感染のリスクを負い、被害を拡大する可能性もある。医療知識の無いリオンに、呻く患者を救える訳でもない。この小国は、ただ一つの感染症によって滅亡しようとしている。人の紡いで来た歴史の裏には大勢の尊い犠牲があるのだ。騎士団幹部の会議では、高い山脈に囲まれたこの国を犠牲として被害の拡大を防ぐという意見もあった。この連絡を受け、リオンは非情だと憤慨していたが、現地を見れば容易く首を振ることは出来なかった。 気道粘膜より感染するこの病は、飛沫ではなく空気によって感染する。リオンは口元を覆う布を強く押さえた。 フードを下ろしたロックが、苦痛と痘痕に顔面を歪める女性の側に膝を着いた。皮膚は樹皮のように粟立っている。リオンは生理的な嫌悪を必死に押し殺す。膿疱をじっと見詰めるロックの紅い髪が揺れた。 「治療法は、未だ無いのか」 無表情に振り向いたロックが言った。その声は苦渋に満ちている。 リオンもまた、眉を寄せて頷くばかりだった。 「捜索班が情報を集め、医療班が研究を急いでいます。ですが、未だ手掛かりは……」 「そうか」 ロックは立ち上がり、患部を隠すように布を掛けて遣った。そのままくるりと踵を返して出て行く後ろを、リオンは慌てて追い掛けた。 痩せた大地を必死に耕し、僅かな作物を育て、生活を繋ぐ。その田畑も今は感染者を隔離する為のテントで埋め尽くされている。曇天からは今にも雪が降り出しそうに、気温は低かった。テントから離れ、リオンは口布の隙間から綿のような息を吐き出す。感染予防の必要が無いらしいロックが、今は恨めしかった。 「北方戦争の管轄は、一番隊だったか」 「そうです」 「和平を結ぶにしても、一方を罰するにしても、早期解決が望ましいな」 リオンは頷いた。其処でふと、自分達がこの場所に立つ意味を考えた。 「僕達は、どうしてこの場所へ派遣されたのでしょうか」 「現地視察だよ」 「ロックさんは兎も角、何故、僕が?」 「お前、他に出来ることあるのか」 足手纏いの癖に、とロックが悪態吐いた。この態度はデフォルトなので、今更気にしない。 高い山脈が、牢獄のようにこの小国を囲んでいる。山頂より吹き降りる風が病を連れ、そして、外国への感染を阻んでいるのだ。感染経路の特定も未だ出来ていない。野生動物が媒体となったのだろうというのが、探索班の見立てだった。原因である北方戦争が未だ解決していない状態で、情報を探ることは難しい。リオンとて重々承知だ。大国は互いを牽制し合い、出方を伺っているのだ。第三機関が介入し、両国とも動転していることだろう。生物兵器の使用を踏み切るまで、どれ程の血が流れたのだろう。リオンは苦く思った。 空を仰いでいたロックは、仕切り直すように言った。 「俺達の目下の課題は、この国の言語理解だな」 リオンは肩を落とし、控えめに笑った。 この小国は、自給自足で生活する民間人ばかりだ。国境を越える者は少なく、排他的だった。独自の文化と言語を介し、ひっそりと息を殺すように存在している。歴史の表舞台には決して立たぬであろう山国だった。故に、ロックとリオンには病に魘される患者の言葉が解らない。僅かな交流を持つ近隣の国からの報告が無ければ、組織は気付くことも無く、この国は静かに滅亡したのだろう。 全身に膿疱を生じた患者が徘徊し、何かを呟いている。ロックにも、リオンにも解らない。だが、呪詛のように吐き出されるそれはテントの中でも繰り返し耳にした音だった。 「あれは、何と言っているのだろうな」 「……さあ」 リオンとて、首を捻るばかりだった。 まあいい。ロックは上衣を翻し、歩き出した。 |
1.インフェルノ
「悪魔だ」 唐突に、ロックが言った。 感染者の犇めく地域から離れ、焚き火を囲んでいる。昼間よりもぐっと冷え込んだ空気は肌を刺すようで、リオンは火に手を翳しながら毛布に包まっている。 白湯を啜りながら、ロックは探索班の報告書を読んでいた筈だった。リオンの反応を気にしない様子から、それは独り言の類なのだと理解する。けれど、二人きりの状態で聞かなかったことにも出来ず、リオンは問い掛けた。 「何です?」 「だから、あの音だ」 音と言われて、リオンは耳を澄ませた。ちらちらと粉雪が舞っている。周囲は死んだように静まり返って物音一つしない。その様子を見ていたロックが、憐れむような視線を向けていた。 「感染者が、頻りに口にしていただろう」 「ああ、なる程」 言語が理解出来ない以上、耳で音として捉えるしかない。けれど、リオンには出来ない芸当だ。 報告書を興味深そうに眺めているロックは珍しい。面倒なことはリオンに押し付け、事務的な作業は殆ど手を出さない。報告書にしても、大抵はリオンが要所を纏めて伝えることが多い。 早く文章が自分の手元まで廻って来ないかと、リオンは毛布に頭を埋める。潜伏期間は一週間。既に感染している可能性は零ではない。そう考えると、恐ろしい。発症すれば、あの膿疱が全身に生じるのだ。溶解した内蔵を吐き出すというのは、何れ程の苦痛なのだろう。リオンは身震いする。 ロックが言った。 「悪魔の仕業だとさ」 「医療技術の無いこの国では、病気に罹るとまず呪術者の元へ行くそうです。そして、病気を悪魔の仕業と捉え、悪魔祓いをする」 「ふうん。時代錯誤だな」 「文化の発展には差異があります。閉鎖的なこの国には、医療技術を得る術が無かったんです」 興味も無さそうに相槌を打ち、ロックは報告書を投げて寄越した。 この地に到着してすぐに言語の違いを知り、本部へ連絡したのだ。探索班の地道な作業により判別された僅かな単語が、リオンにも理解出来る共通の言語で記されている。 文化の壁、言語の壁。牢獄のようなこの国は、物理的にも心理的にも閉鎖されている。 悪魔という単語に、リオンは胸が軋むように痛んだ。ぎゅっと眼を閉じた先、何も存在し得ない暗闇の中で声がする。何かを頻りに叫び訴えていたけれど、リオンには理解出来なかった。浴びせられる暴力から逃れる術も無く、ただ反射的に身を丸めていた。何も疑問には思わなかった。それが、リオンの世界だったからだ。 「おい」 声を掛けられ、暗闇に転落しそうな意識は引き戻された。目を開ければ、燃え盛る炎に照らされた金色の瞳が揃ってリオンを見ていた。 ロックの手には、金属製のカップがあった。白湯を勧められたことに気付き、リオンは小さく礼をする。カップは温かかった。凍傷になりかけた指先が痺れるようで、感覚が鈍い。 俯いたリオンを横目に見遣り、ロックは思い出したように口を開く。 「一番隊には、現状報告をしておけ」 「あ、はい。感染症のことですよね」 「それ以外に無いだろう。判断材料は多いに越したことはない」 「判断材料?」 首を傾げたリオンに、ロックは退屈そうな目を向けた。 「毒を使う時は、解毒剤を常備する。取引材料や、誤飲時に服用する必要があるからだ」 「それはそうですね。……じゃあ、つまりこの生物兵器を使用したどちらかの大国が、ワクチンを持っていると?」 「確証は無い。追い詰められた人間は何をするか解らないからな。刺し違えるつもりで、ワクチンも存在しない生物兵器を使用したかも知れない」 それでは、八方塞がりではないか。リオンは肩を落とす。 僅かに希望の光が差したと思ったのだ。けれど、それは砂上の楼閣なのだろうか。リオンには打つ手のない現状が、絶望の色をして広がっているように感じられた。 「俺達が今すべきなのは、情報収集だな」 「それこそ、探索班に任せるべきでは?」 「治療法も無い感染症の巣窟に、安易に探索班を送り込める筈が無いだろう」 当たり前のことを言うなと、ロックが眉を寄せた。 リオンとて、感染のリスクが無い訳ではない。今も空気中に蔓延しているだろう病原菌が、気道粘膜から身体を蝕んでいるような気がしている。一週間後、自分は果たして生きてこの地を脱出出来るのだろうか。 「僕が感染することは予測していないのでしょうか……」 「お前は悪運が強いから、大丈夫だよ」 何の根拠も無いロックの物言いに、現実主義の彼らしくないとリオンは笑った。 夜は更けていく。毛布を深く被り直し、リオンは入眠の体勢を取った。火の番をしなければならないが、眠る気配の無いロックが行ってくれるのだろう。大したことはしていないが、リオンとてこの国へ来る為に山を一つ越えて来たのだ。精神的にも、身体的にも疲労は蓄積されている。 微睡みながら、リオンは問い掛けた。 「何故、生物兵器等、使用したのでしょう。人には言語という文化があるのに、何故武力で訴えるのでしょう」 「話し合いで全てが解決するなら、戦争等起こらない。譲れないものがあれば、武力に訴えてでも、勝ち取ろうとするだろう」 「それは、不毛です」 「そうだ、不毛だ」 静かに肯定したロックの瞳に、紅い炎が映っている。リオンは意識を繋ぎ留めるように口を開く。 「命が惜しくは無いのでしょうか」 「死んだことの無い人間に、命の大切さなんて解らないだろう」 「それでも、身近な人の死を悼む気持ちはあるでしょう」 「それを何時でも自身に反映出来る訳ではない。戦場では、相手を殺さなければ自分が死ぬんだ。異なる価値観を持つ者同士が武器を携えて、命の尊さを協議するか?」 リオンは黙った。 これは不毛な鼬ごっこなのだ。ロックの言うように、武器を携えて対峙した者の一方が、命は尊いものだからと訴えて武器を棄てれば如何なるか。まず、間違いなく殺されるだろう。武器の使用を躊躇した者は、それを躊躇しない者に殺される。 酷く、虚しい。ならば、この終わらない輪廻に介入する国境なき騎士団という組織は、何の意味も無いのではないだろうか。自分の存在さえ疑問に思い、リオンは知らず掌に力を込めた。 「戦争は、終わらないのでしょうか」 「終わるさ」 その言葉に、リオンははっとした。迷い無く告げられた言葉は希望的観測ではない。 「一方が疲弊し、或いは殲滅されれば嫌でも終結する」 「それでは、多くの血が流れます」 期待外れだと、リオンは俯いた。ろくに武器も握ったことのない掌に、他者の命を奪う感触は解らない。それでも、誰も死ななければ良いと願うのは理想論なのだろうか。リオンには解らない。 ロックは言った。 「人を戦争へ駆り立てるものが狂気ならば、それを押し留めるのは理性しか無い。互いの傷跡の深さを見て漸く冷静になることもあるだろう。第三者によって、理性を取り戻すこともあるだろう。俺達は、その為の組織だ」 「理性……」 「例外はあるが、誰だって死にたい訳ではないだろう。恐怖が人に武器を握らせる。皮肉な話だが、戦争へ備えることは、平和を維持する有効な手段の一つだ」 リオンは北方戦争を思い起こす。拮抗した武力を持つ二つの大国は、冷戦状態が続いていた。それは些細な切っ掛けで戦争へと雪崩込み、多くの血を流させた。 その、切っ掛けとは? 彼等に武器を握らせ、争いへ駆り立てたものは一体何だろう? 遠くで薪の爆ぜる音がする。致死率の高い感染症が蔓延しているとは思えない程、静かな夜だ。リオンの意識は、転がり落ちるように真っ暗になった。 |
2015.10.3