それはね。

 蜜のような甘さを含み、嬉しそうに少女が言った。日に焼け無い真っ白な頬に、僅かに朱が差している。
 綺麗な服を来た、可憐な少女だった。鉄格子の向こうで、少女はリオンに囁くように言った。それは確かに言葉であった筈なのに、口にすると意味の無い音となる。少女は歌うような軽やかな口ぶりだった。
 それはね、貴方のことなんだよ。
 少女の吐き出す言葉が、リオンへ届く。鼓膜を震わせ、脳まで届いた音が言葉として認識される。その刹那、リオンは階段から足を踏み外したような転落感と共に目を覚ました。
 痩せた大地は、薄らと雪に覆われていた。
 リオンは頭上に張られた簡素なテントを見上げる。自分が寝入った後、ロックが用意したのだろう。当人は燻る焚き火を残し、現地視察へ向かっている。凍えるように寒いというのに、額には僅かに汗が滲んでいた。夢見が悪かったことは自覚している。けれど、あの少女は何と言ったのだろう。
 テントの側に、白い鷲が留まっていた。真っ黒い眼球に、酷く疲れた自分の顔が映り込み、うんざりする。白鷲は右足に装着された伝書を差し出した。リオンがそれを取ると、白鷲は用は済んだとばかりに、早々に飛び立って行った。
 世界各地で活動する国境なき騎士団の主な通信手段は、白い鷲だ。どんな過酷な状況下であっても職務を全うする姿は、選ばれし隊員と呼んでも過言でないのだろう。ロックがいれば、リオンよりも遥かに優秀だと悪態吐いたかも知れない。
 筒状に丸められた伝書を広げ、共通言語を読み込む。一番隊より、北方戦争についての報告だった。
 戦争の終結には、暫し時間が掛かる。第三機関の介入によって両国の指導者が話し合いの席に着いたが、互いに子どものような水掛け論を展開している。顔も知らない一番隊の隊員を思い浮かべ、心の中で労う。だが、僅か三日で大国同士の武力による戦争から、協議まで持ち込んだのだ。どんな手段を用いたのか知らないが、圧巻である。組織きっての問題児集団と呼ばれる自分達、零番隊とは大違いだ。
 そんな自分達は、危険な感染症の蔓延する山奥の小国へいるのだ。何故だか酷く虚しくなって、リオンは溜息を零した。
 報告書を広げていると、雪に覆われた平野の向こうから燃えるような紅い髪が見えた。器用に雪の上を進むロックの足は早い。リオンは報告書を広げていると知ると、その口から報告させた。


「水掛け論か……。結局、戦争なんて最後は子どもみたいな意地の張り合いになるんだよな」
「早期解決は望めないでしょうか」
「慎重に進めなければ、戦争は再び勃発する」


 それでは意味が無い。そう言って、ロックは大きく背伸びをした。
 リオンは荷物の中から携帯食を取り出し、手渡した。


「現地を見て来たんでしょう? 如何でした?」
「空に煙が昇っているだろう。遺体を焼いているんだ」


 ロックは干し肉を噛み千切りながら、上空を指差した。確かに其処には、一本の糸のような黒煙が昇っている。それだけ被害は深刻ということだ。リオンは歯噛みする。


「何か、出来ることはありませんか」
「報告書を上げろ。それから、言語の解読をしろ」


 患者の誰かが口にしただろう言葉を、ロックが真似る。音は解るが、言葉にするのは難しい。微妙な抑揚の違いで、全く逆の意味になることもある。
 どのように記すべきか唸りながら、リオンはペンを走らせる。その横で、腰に差した剣の手入れを始めたロックが呑気に言った。


「言葉を一つ、覚えたぞ」
「何ですか?」
「初めまして、だ」



 リオンは、がくりと項垂れた。
 状況は膠着している。リオンは毎日のように報告書を飛ばすが、返事は変わらない。
 今も被害者は増えているのに、ロックは焦る様子も無かった。焦ったところで何も変わらないのだと解っていても、目と鼻の先で人の命が脅かされていれば、居ても立ってもいられなかった。何通目かも解らない報告書を見返しながら、リオンは暮れて行く空を眺める。太陽が死に、その腹を食い破って夜が遣って来る。また、あの少女が何か理解の出来ない音を発すのだろう。それがリオンには酷く恐ろしいことに思えた。
 空気は乾燥し、酷く冷たい。軽く咳込み、リオンは白湯を啜った。ロックは一日の大半を感染者の溢れるテントで過ごし、少しずつ共有の言語を持たない彼等との距離を縮めているらしかった。感染のリスクのあるリオンには近付けない。
 ふと、手の甲を見遣る。疲労に滲む視界で、何か羽虫でも留まったと思った。だが、見覚えのないそれは小さな赤い発疹だった。何となくむず痒いような気がして、爪を立てる。膨れた皮膚は音を立てて破け、中からどろりとした黄色い体液が溢れた。


「リオン?」


 その様を見ていたらしいロックが、訝しむように名を呼んだ。
 膿疱だ。リオンは額に手を当てる。指先が冷えているとは言え、確かに異常な熱を持っている。視界が滲むのは疲労のせいではなく、発熱の為だ。自覚した途端、関節が軋むように痛み始めた。


「ロックさん、」


 潜伏期間は一週間。全身に膿疱を生じ、内蔵が溶解する。国中に蔓延しているという感染症の症状を思い起こし、リオンは身震いした。初日に見た感染者の姿が、リオンの網膜には鮮明に焼き付いている。
 嘘だ。自分が死ぬ筈無い。感染する訳が無い。
 喉の奥から空気の抜けるような音がする。寒くて堪らない。膿を吹き出した傷口からは、今も体液が零れ落ちている。これは悪い夢なのだ。そう思い込もうと固く目を閉ざした時、だらしなく体液を漏らす腕をロックに掴まれた。


「ミイラ取りがミイラだな」
「ロックさん、」


 声が掠れている。空気の乾燥の為ではない。気道が狭まっていることが自分で解る。それでも、信じたくない。ましてや、自分がこんな僻地で感染症によって死ぬだなんて、信じられた訳も無い。


「僕、死ぬのですか」


 治療法は無い。感染者は等しく死んでいる。自分だけが例外だなどと驕るつもりもない。
 死にたくない。死を目の前にして、そんなことを強く思う。鈍痛が頭に響いていた。息苦しさに喉を掻き毟りたい衝動に駆られるが、両手はロックに掴まれた。


「死なせない」


 だから、落ち着け。
 金色の相貌に、一目で異常と解る微睡んだ顔が映っている。リオンは確証が無くとも、ロックの言葉に縋るしかない。人を戦争へ駆り立てるのは恐怖で、それを押し留めるのは理性だけ。ロックの言葉が脳裏を過る。
 ロックに感染のリスクは無い。だから、そんなに落ち着いていられるのだ。意地悪く考える自分にすら辟易し、リオンは拳を強く握った。その時、掌に現れた膿疱が音を立てて割れた。
 血液のように零れ落ちた膿が、ロックの腕に付着する。けれど、それを厭わぬロックのまっすぐな瞳にリオンは力を抜いた。張り詰めていた糸が千切れるようにして、リオンの意識は途絶えた。




2.悪魔




 高熱に魘されるリオンを簡素な屋根の下に寝かせ、ロックは報告書に目を通した。
 北方戦争の終結には時間が掛かる。治療法を探るにも、雲を掴むようで何の成果も得られない。情報は無い。各地からの報告を一言一句逃すまいと頭に叩き込みながら、ロックは奥歯を噛み締めた。
 潜伏期間は一週間。発症後、五日程で内蔵は溶解し、死亡する。死に至る病だ。そんなことは、解っている。伊達にこれまで足繁く感染者の元へ通って来た訳では無い。手を拱いている間に、リオンは死ぬだろう。
 こんなことなら、初めから一人でこの地へ来れば良かった。胸の内に苦い後悔が滲む。
 顔を真っ赤に火照らせたリオンが、何か譫言のように繰り返していた。
 初めは魘されているのだと思った。掛ける言葉も無いまま傍で胡座を掻いていたが、それはただの音では無く、自分にも理解の出来る言語だった。魘されるリオンの口元へ耳を寄せ、ロックは目を閉じた。荒い息遣いの合間に、自分の名を譫言のように繰り返している。


「そんなに呼ばなくたって、俺は此処だ」


 それでも、ロックはリオンの言葉を否定しない。
 死の危険に晒されている彼の縋る先が、此処にしか無いことはロックが誰よりも解っていた。過酷な状況下で生きなければならない幼い青年の頭を撫で、ロックは目を閉じた。
 楽園と呼ばれた国を、ロックは知っている。
 あれは、何年前のことだろう。ロックの瞼の裏、美しい石畳の街が蘇った。
 世界の戦争等、露程も知らず楽園の人々は笑っていた。貧困に喘ぐことも、戦火に怯えることも無い。町程の小さな国に統治者はおらず、この地を侵略しようと画策する者もいなかった。楽園は常に旅人を歓迎し、豊かな食材で長い旅を労った。恵まれた大地に囲まれ、人々は明日の服装を考えながら眠るのだ。収穫の季節には盛大な祭りが行われた。男達はその日の為に一年を掛けて準備をする。女は美しい布を織り、子ども達は歌や踊りを披露した。
 暖かな太陽の下、緑の芝生の上で宴を開く。女達は競うようにして腕を振るった料理を並べ、男達は夜が明けるまで酒を呷る。子供達はご馳走に腹を満たし、明日の遊びを考え、期待に胸を膨らませて眠る。
 訪れる人々は、その国を楽園と呼んだ。事実、その名に違わぬ恵まれた国だった。
 その国の北の外れに、崩れ落ちる寸前のような教会があった。管理するものは誰もいないのに、撤去されることもなく存在する。ロックが其処を訪れたのは、偶然だった。
 国にはある慣習があった。子供達が十歳になった頃、一人の大人が彼等を連れてその教会へ訪れる。子供達は何の催しかと胸を躍らせる。しかし、寂れた教会の地下を進むに連れて、様子がおかしいことに気付く。
 地下の奥深く、湿気と腐った空気に満ちた其処は牢獄だった。開閉される様子のない錆びた鉄格子の向こうに、一人の子どもがいた。楽園の子ども達とは見合わぬ貧相で、薄汚れた子どもだった。
 大人は、子供達の前で、その一人の子どもを甚振った。石ころを投げ、食事を引っ繰り返し、時には焼き鏝を押し付けた。悲鳴を上げ、苦痛に喘ぐ様に、子供達は涙を流す。
 こんなことは止めてあげて。可哀想だよ。
 必死に訴える子供達に、大人は殊更優しく告げるのだ。
 あの子が苦しんでいるから、楽園は平和なんだよ、と。
 家に帰った子供達は、恐怖に怯え、同情に涙を流す。気に病んでしまう者もいる。その子を牢獄から出してあげたいと願う。その子を連れて、ご馳走で腹を満たし、美しい衣服を与えてやりたいと思う。けれど、やがて彼等は気付くのだ。
 あの子が苦しんでいるから、楽園は平和なのだ。ならば、あの子を出してしまえば、楽園は如何なるのだろう?
 あの子が牢獄の外へ出ることで、楽園が滅んでしまうかも知れない。大勢の人が苦しむのかも知れない。ならば、それはあの子一人が苦しむよりも、もっと悪いことではないか?
 子供達は成長し、その子を忘れていく。そして、その一人の苦しみが楽園を支えているのだと納得する。そして、大人になった時、彼等はその子に感謝するのだ。感謝の証として、石ころを投げ、食事を引っ繰り返し、時には焼き鏝を押し付けるーー。
 辛いか、苦しいかと尋ねても、返答は何も無かった。
 崩れ掛けた教会から、子どもを連れ出したのは、ロックだった。
 手足は骨と皮しか無いように痩せ細り、会話に必要な言葉一つ知らなかった。呻くことは出来ても、単語を発することは出来ない。大義の為の犠牲とは屡々使われる言葉だ。けれど、ロックは、彼を連れ出した。
 楽園が崩壊したことは、それから一年程経った頃、風の噂で聞いた。その子供が原因だったのかは解らない。
 食器も扱えず、会話も出来ず、己の足で立ち上がることも出来なかった生贄の少年。楽園に閉じ込められた哀れな子羊。それが、リオンだった。
 言葉を理解し、生活習慣を身に付け、一人の人間となったリオンは、国境なき騎士団の本部で保護された。事情を打ち明けたことはない。彼は戦災孤児だと知らせた。同年代と同じ程の知識を身に付けたリオンは、時々、過去を思い返して言った。
 不幸かと尋ねられても、比べられるだけの幸せを知りません。痛いのか辛いのか苦しいのか、考えたこともありませんでした。だから、僕はこの世は冷静な天国なのだと思っていました。
 リオンを連れ出したことが正解だったのか不正解だったのか、ロックには解らない。ただ、彼が何時か幸せだと噛み締められる未来を創って遣りたいと思った。
 高熱に魘されるリオンが縋る先は、ロックしかいないのだ。彼に家族はいない。知り合いもいない。生まれ落ちたその瞬間から犠牲となることが決まっていた。楽園の人々はそれを祝福していた。


「こんなところで死なせる為に、連れ出した訳じゃない」


 治療法の無い未知の感染症。高熱が出るということは、リオンの身体が病原菌に対して戦っているからだ。彼は生きようとしている。
 譫言に耳を寄せていたロックは立ち上がろうとして、動きを止めた。熱に潤んだリオンの瞳が、ロックを捉えていた。


「ロック、さん」
「なんだ」
「僕……、僕は悪魔なんでしょうか」


 理解出来ず、ロックは眉を寄せた。リオンの目から、大粒の涙が溢れた。


「彼処にいた頃、言われたんです……。皆が何を言っているのか解らなかったから黙っていたら、女の子が教えてくれました……。それはね、悪魔のことだって……。僕、悪魔なんですか……?」


 幼稚な言葉だ。ロックが苦々しげに顔を歪めた。
 人間が風情が、悪魔だなんて烏滸がましい。人に善悪も、神も悪魔もありはしない。全ては思想の中に存在する妄想の産物だ。だけど、それでも、その言葉がずっと、リオンを縛って来たのだろうか。
 溶けそうに熱いリオンの掌を握り、ロックは言った。


「神も悪魔もこの世にはいない。お前は、ただの人間だよ」


 そう告げると、リオンは蕩けそうに微笑んだ。そのまま目を閉じたリオンに、意識は無いようだった。
 ロックは大きく深呼吸をし、目を閉じた。頬に冷や汗が伝った。思考の中で、リオンの言葉が釣り針のように引っ掛かっている。この世には神も悪魔もいない。
 この国の人間は、何を指して悪魔だと言ったのだろうーー?
 ロックの中で、一つの考えが稲妻のように迸った。目を開いたロックは意識を失くしたリオンを背負い、駆け出した。




2015.10.3