この国には呪術師がいる。医学の発達していない国では医者に代わり、病人を救って来た。 荒れ果てた大地の先、鬱蒼とした森が生い茂る。息苦しい程の湿気に満ちた其処に、彼はいた。 草臥れたテントの下、今も病人が列を成している。死に掛けの我が子を抱いて懇願する母親へ、彼は労わるように声を掛ける。その態度は真摯で誠実だった。ロックの聞き取れない言葉を唱え、子どもを撫でる。治療は其処で終わる。母親は頻りに頭を下げて感謝し、我が子を抱いて帰路を辿る。 そんなもの、効く訳が無い。 空気感染するこの病は、全身に膿疱を生じ、融解した内蔵を嘔吐して死に至る。国中に蔓延した疫病に治療法は無く、感染者は苦しみながら死を待つだけだ。ロックは荒く呼吸を繰り返すリオンを背負い直し、呪術師の座する本陣へと足を踏み入れた。 年老いた男だった。この国のものではない衣服を纏っている。白髪交じりの無精髭で、痩せっぽち。この国の人々が縋る希望の光。触れれば倒れるような貧弱な男を、ロックは真っ直ぐに見下ろした。 「お前が、呪術師か」 男は、ロックを見上げた。厳密には、ロックの左肩に輝く銀色のエンブレムを見た。絶対的正義と永久の中立を誓う、国境なき騎士団の証明だった。 燃えるような紅い髪と、猛禽類のような金色の瞳。男は力無く笑った。 「まさか、君が来るとは思わなかった」 親しげに話す男と、面識は無い。男が一方的にロックを知っているだけだ。 「この感染症にも罹らないとは、不死身を謳われるだけのことはあるね」 「御託はいい。治療法を差し出せ」 「何のことだい。私は只の呪術師で、人々の不安を取り除くことしか出来ない」 「その種を蒔いたのは、お前だろうが」 忌々しく、ロックは吐き捨てた。 世界に忘れ去られたような僻地にある小国に、北方で起きた戦争によって、短期間で滅亡へ追い込まれる程の甚大な被害が及ぶ筈も無い。一番隊とは、蔓延する疫病の症状を執拗に確認した。全身に生じる膿疱も、高い致死率も変わりない。ただ、潜伏期間が異なった。この小国では一週間程の潜伏期間があり、発症後、死亡に至るまでは五日程しか無かった。けれど、北方の生物兵器では患者は未だ苦しみ、感染はしても被害は甚大ではない。この差異は何だと、幾度と無く報告し合った。 被害の拡大したこの地で、病原体が変異し、致死率が上がったのではないか。そう唱える者もいた。可能性は限りが無い。八方塞がりの状況下では、その可能性を虱潰しに一つずつ消していくしかなかった。 「この国の人間は、悪魔が病を齎したと言っていた。悪魔とは比喩ではなく、特定の個人を指していたんだな」 「これは、悪魔の仕業だよ。烏滸がましい人間達に、鉄槌を下したんだ」 「鉄槌を下すなら、悪魔ではなく、神だろう」 悪魔が鉄槌を下すなんて、聞いたこともない。 男は無精髭の下で何かを言い淀み、結局、黙った。ロックは更に言う。 「病を運んで来た感染源は、人間だな。お前の親しい人間だろう」 男は何も言わなかった。無言を肯定と捉え、ロックは続ける。 「北方の国に所属する医者か、軍事関係者だな。この戦争に生物兵器を持ち出したのも、そいつだろう」 「何を言っているんだ……」 「生物兵器を開発し、戦争を誘発させた。何か不都合でもあったのか、この山奥に逃げ込んだんだろう。この人口の密集した小さな国で、感染は爆発した」 黙り込んだ男を、ロックは睨んだ。既に真実は目の前にあった。 「治療法を確立する前に、誤って自身が感染でもしたんだろう。そいつが逃げ込んでから感染が始まった。だから、人々はそいつを悪魔と呼んだ」 其処で男は不敵に笑った。 「仮に、その荒唐無稽な話が事実だったとして、私に何の関係がある? 私は私の良心に従って人を救っているつもりだ」 「本当に人を救いたいのなら、今すぐ治療法を差し出せ!」 「私には身に覚えが無い」 「この国に医療は無い。病を患った人間がいれば、お前の元に連れて来る」 「何の証拠があるんだ」 最早、この問答に何の意味があるのだろう。ロックは苦く思う。 犯人探しをする時間は無い。今はただ、命を救う手段が欲しい。こんな時程、自分の無力さを痛感する。幾ら剣技を磨こうと、強靭な肉体を得ようとも、人を救うには未だ足りない。 「お前が悪魔祓いをしたから、もう大丈夫だと言っていたぞ」 男が、ぴたりと動きを止めた。ロックは言う。 「この国の呪術師が悪魔祓いをしたから、もう大丈夫だと言っていた。感染源の人間と接した筈のお前がぴんぴんしているのは、おかしいじゃないか」 離れた場所にいたリオンですら感染したというのに、病人が引切り無しに訪れる筈の呪術師が健康である筈がない。無精髭に隠れた面には、あの悍ましい膿疱は存在しない。 「仮にお前が感染源と無関係だとしても、膿疱すら無いなんて不可解だろう。この国の人間は、お前が立派な呪術師だからだなんて言っていたけどな」 「私は生まれつき抗体を持っていたんだ。だから、感染しないんだ」 「閉鎖的なこの国で、抗体なんて思考をする時点で破綻している。呪術師なら、お得意の奇跡とでも嘯けよ」 言葉を失った男が、だらりと俯く。列を成していた患者が、膿疱に塗れた顔を上げ、訝しげに様子を伺っている。ロックは言った。 「この世には神も悪魔も存在しない」 自分が悪魔ではないかと、幼稚な妄想に縛られているリオンにこそ言ってやりたい。 神も悪魔も、人間の思考の中にだけ存在する。妄想の産物だ。皆、不可能を抱えた無力な人間だ。 男が、ぽつりと言った。 「……息子だったんだ……」 ロックに理解出来る言語だった。 「北方の医者でね、この小国の風土病について研究していたんだ。それが或る時、強い毒素を持つ病原体へと変異した。息子は取り憑かれたように研究に没頭した。……そうだ、あれは悪魔に操られていたんだ」 この期に及んで悪魔等と宣う男に、ロックは舌打ちをした。けれど、ぼんやりと空を見上げる男は続ける。 「息子の研究に目を付けた軍事関係者がいたんだ。金を積まれて、研究を評価されて、息子は舞い上がった。努力が報われたと、本気で思ったんだよ」 努力が報われただなんて、馬鹿げた話だ。結局は、その軍事関係者の掌で転がされただけだろう。 「研究の途中で、息子は誤って感染した。其処で漸く冷静になった。この感染症が外部に漏れたら大変なことになる。大慌てで帰って来た息子は既に全身に膿疱を生じていて、手遅れだった」 「お前は、何故感染していないんだ」 「言っただろう。この感染症の元は、風土病だと。治療法くらい、私だって弁えている」 「なら、何故、被害を食い止めなかった!」 先程、男が子どもの頭部を撫でていた。もしかしたら、風土病に効く薬を塗り込んでいたのかも知れない。ロックには判断が付かない。男は苦い顔をして、絞り出すように言った。 「数に限りがあるんだ」 「何?」 「息子は未完成の薬を三本だけ持ち帰った。此処にある薬と併用することで、特効薬となる」 男は座する後ろから、この場所に不釣合いな二本の小瓶を取り出した。 「……それは、完成品か?」 「そうだ」 「寄越せ」 「そうはいかない。私は、この薬を使うに足る人間を見定めているのだ」 目の前の男が何を言っているのか、ロックには理解出来なかった。 この世は戦乱だ。恐怖は狂気を呼び起こし、争いを生む。男が冷静に話をするので、ロックは見誤っていた。この男も狂気という悪魔に取り憑かれている。 ロックは腰の剣に手を伸ばした。狼狽する男の喉元に、切っ先を突き付ける。 「何を勘違いしているんだ。お前に選択肢は無い。俺はお前に取引を持ち掛けているのではなく、それを寄越せと命令している」 男が青褪め、周囲では希望の光が脅かされる様に悲鳴が上がる。ロックは切っ先で撫でるように、首の薄皮を剥いでやった。悪夢のような感染症を掌握しているとは思えない男の狼狽え方に、ロックは肩を落とす。大概、自分も冷静ではなかったのだろう。 小瓶を奪い取り、ロックはリオンに呑ませてやった。間に合ったのか、効果があったのかは判断出来ない。男は顔を紅潮させて声を荒げた。 「国境なき騎士団は、正義の軍では無かったのか! 民間人よりも、身内を択ぶのか!」 横暴だと訴える男に、ロックは笑い掛けた。傾いた太陽の光を受けて、銀色のエンブレムが輝いた。 「これが、俺の正義だ」 男は崩れ落ちた。 |
3.理性
北方戦争が終結したと、報告があった。両国の争いの原因は生物兵器の有無だった。治療法が確立され、感染の脅威が無くなれば、自然と狂気は収まっていった。和平は速やかに結ばれた。 四方を海に囲まれた国境なき騎士団の本部は、沖合から離れた孤島にある。天を穿つような白亜の塔は、団員の居住区であり、訓練場であり、研究施設でもある。ロックの持ち帰った小瓶は医療班によって複製され、感染者は少しずつ快方へ向かっている。 ロックは塔の上部より、水平線を見詰めている。銀色のエンブレムを掲げた帆船が遣って来る。何処かの隊が帰還したのだろう。寄せては返す波が、岩礁にぶつかっては砕かれる。潮騒が心地良く耳に届いた。 「隊長」 ぼんやりしていると、背後から呼び掛けられる。振り向いた先、短い金髪に日光を反射させ、シヴァが立っていた。些か不機嫌そうな顔をしているのは、戦場で暴れ謹慎を受けた為だ。 「リオンの奴、目ぇ覚ましましたよ」 「そうか」 短く返事をして、ロックは再び水平線へ目を向けた。 碇を上げた帆船が旅立っていく。何処かの隊が、新たな戦場へ向かうのだろう。歩み寄ったシヴァが、隣に並んだ。 「一番隊の奴に睨まれちまいましたよ。隊長の任務は北方の現地視察で、和平条約の締結じゃなかったですよね」 「そうだよ」 「何があって、あのクソガキは訳の解らない病気に罹って、隊長が特効薬持って帰って、北方戦争が終結したのか知りませんけどね。あんまり、敵を作らないで下さいよ。戦場で出食わして、後ろからぶっすり殺られたんじゃ笑えないですし」 言いながら、シヴァは笑っている。 「そりゃ、隊長は死なないから良いですけどね。まあ、俺だって簡単に刺される筈も無いですけど。でも、あのクソガキはすぐ死にますよ」 軽口のように、シヴァは忠告する。ロックとて、そんなことは解っている。 「意外と悪運が強いからな、しぶといかも知れないぞ」 「まあ、結局生きてますからねえ」 シヴァが笑った。 「リオンって、戦災孤児で、隊長が拾って来たんですよね。掴み所が無いというか、何というか」 言葉を探し、シヴァが唸る。そして、閃いたように声を上げた。 「そうだ。あいつ、空っぽなんですよね」 その言葉に、ロックは目を閉じる。 楽園の犠牲だった少年。牢獄の中が世界の全てで、与えられる苦痛を何の感慨も無く享受していた。其処に人格は無く、ただ存在するだけ。リオンが人生の大半を過ごしたのは、そんな虚無の空間だった。シヴァがそのように評価するのも、当然なのだろう。 「でもまあ、空っぽなりに頑張ってるのは解りますよ。反抗期のガキみたいに、口答えしますからね」 シヴァが嬉しそうに言うので、ロックの口元も自然と綻んだ。 零番隊という組織でも特殊な部隊で、リオンはまともに剣一つ振るえないままに、副将を勤めている。名ばかりの役職に、不満のある者もいるだろう。けれど、選んだのはロックだ。 抵抗の手段一つ持たない子どもを、あの安寧の牢獄から連れ出したのはロックだ。行動には責任が伴う。リオンの縋る先が此処にしか無いのならば、その道標でなければならない。 「あーあ。戦場が恋しいなあ」 戦闘狂のシヴァが退屈そうに口を尖らす。ロックは無事帰還を果たした名ばかりの副将を見舞う為、歩き出した。 |
2015.10.3