10,Rules.
どさりと、肉の塊が砂塵に塗れ落下した。 澄んだ金属音が鳴ると、一陣の風が周囲に立ち込める鉄の臭いを運び去ろうと吹き抜けた。足元に散らばる無数の肉片と、砂に染み込む血液。ルビィは口元を押さえながら、右手に銀色の刃を握っていた。 正面で、刃を鞘に納めたダイヤが無表情に立っている。青い瞳には命を失った肉片も、ルビィの姿も映ってはいない。遠くに運ばれていく砂塵を眺めているようだった。 モーブの都を後にしたダイヤとルビィは、荒涼たる岩砂漠を宛ても無く突き進んでいた。ダイヤが何処に向かおうとしているのかは解らない。それを問うこともルビィには躊躇われていた。ルブライトと別れてから、ダイヤは何かを深く考え込んでいるようだった。 「行くぞ」 足元の砂を踏み付けて、ダイヤは翼を広げることも無く歩いて行く。如何やら、単身ならまだしも、ルビィを連れて長時間飛ぶのは疲れるらしい。同様に、ルビィもダイヤに抱えられて慣れない高空を進むのは神経が疲弊してしまう。 先を急ぐ訳でも無い。ただ世界を見て回るという二人が地に足を下ろすのは当然の選択だった。それは安全な上空に比べ、多くの危険が伴うのもまた然りだ。人を喰らおうとする魔族、金品を狙う盗賊、血に飢えた獣。襲い来る脅威から身を守る為には強くなるしかない。 ルビィの手にぶら下げられた刃は誰かを傷付けることも、攻撃を防ぐことも無かった。全ては一瞬にしてダイヤの剣技によって一掃された。 人も魔族も獣も、ダイヤの前では同じことなのだとルビィは思う。 魔族は人の負の心から生まれた存在だとダイヤは言った。だから、魔族によっては本能的に人を襲い喰らう。その為に進化した爪や牙、毒や鱗を持っている。そして、人の生み出した武器を其の怪力で襲うこともある。 恐ろしいと、思う。生殖能力で劣る魔族が、その個体能力の高さで人を殲滅しようとしている。それがこの世界の現状だ。 「ねえ、ダイヤ」 振り返りもしないで歩いて行くダイヤに、漸くルビィは声を掛けた。 何処に向かおうとしているのかとは、訊く気も無かった。 「如何して、ダイヤは強いの?」 「俺が強いと思うのは、お前が世間知らずだからだ」 自分より強い者など、この世界に幾らでもいる。 ダイヤはそう言って歩き続ける。今、ダイヤが何を考えているのかなんてルビィには解らない。そうして言葉を探している間に、二人の先には岩砂漠が消えて痩せた赤土の大地が現れた。 生命の育たぬ不毛な砂漠と殆ど変らない。点在する緑が食べられるとは思えない。モーブの都を離れてから随分時間が経っているように思う。空腹に思わずルビィは溜息を零す。空腹を訴えないダイヤとルビィの体力は全く違う。疲れたな、と歩調の鈍ったルビィを一瞥し、ダイヤが言った。 「おい、家があるぜ」 ルビィの肉眼では捉えられない先に、小さな木造の家があった。ダイヤは隠す事無く苛立ったように舌打ちし、膝に付くルビィの手を取った。 その瞬間――。ルビィの足は宙に浮かんでいた。 剣を握って来たとは思えない程に華奢な掌が、ルビィの腕を掴んでいる。上から聞こえる羽ばたきと共にダイヤは一直線に其の家の前まで駆け抜けた。 赤い屋根の、みすぼらしい質素な家だった。人が住んでいるとは思えない。けれど、微かに香る食べ物の匂いにルビィは引かれて行く。ダイヤは腰の剣を握ったまま、今にも剥がれ落ちそうな扉を叩いた。 数秒の沈黙。扉が、軋みながらゆっくりと開いた。 「はい……?」 隙間から此方を窺うように顔を覗かせたのは、美しい女性だった。 漆黒の艶やかな髪を腰まで伸ばした、色白の細身の女は、怪訝そうに二人を見ている。ルビィは言葉を失った。視線は、女性の宝石のように美しい碧の瞳を捉えている。 人ではない。――魔族だ。 けれど、ダイヤは欠片も気にすることなく言った。 「旅をしている。食べ物を、分けて欲しい」 自らの容姿を隠す事無く、ダイヤは凛と背を伸ばしている。この痩せた大地に食べ物が豊富にあるとは思えない。 無茶な要求だ。ルビィがそう思った時、女性は花が綻ぶように微笑んだ。 「お疲れでしょう。――どうぞ」 女性は何の警戒も無く、二人を招き入れた。 「恩に着る」 ダイヤもまた、女性を疑うこと無く家に足を踏み入れる。取り残されたルビィだけが動揺しながらもダイヤの後を追った。 家の中は外見とは異なり、綺麗に整頓され衛生的だった。料理をしていたのだろう。竈で鍋が煮え立っていた。 女性に通された四足の椅子に腰掛け、ダイヤは食事の用意をする後姿を見ていた。何も言わない彼が何を考えているのかルビィには解らないけれど、警戒していないとは思えなかった。 「あの……」 湯気の立つスープを運ぶ女性に、ルビィは遠慮がちに言った。女性は微笑みを浮かべたまま首を傾げる。 「如何して、こんなところに……?」 女性は微笑んだまま、答えなかった。ダイヤはスプーンを握って、失笑したようだった。 そんなの勝手だろう。ダイヤが嗤う。その通りだ。スープを一口飲み下し、ダイヤが言った。 「食える時に食っておくべきだ。お前は弱い人間なんだから」 それは人間が弱いと言っているのか、ルビィが弱いと言っているのか。ルビィには判別できなかった。 ルビィと向かい合うように座り、スープを啜る女性の仕草は精練されている。 スープにパンを浸しながら、女性が言った。 「旅をされているのですね」 答えないダイヤに代わって、ルビィが言った。 「あ、はい。私はルビィと言います。こっちはダイヤ」 「良い名前ね。私は、エメロード」 エメロードは微笑む。美しい女性だ。――否、美しい魔族だ。人に牙を向くとは思えない。 碧の瞳はルビィに微笑み掛けると、無言で食事を続けるダイヤに問い掛けた。 「あなた、魔族?」 「ああ」 「人と旅をしているの?」 「非常食みたいなもんだ」 酷い言い草にルビィがねめつけると、ダイヤは鼻を鳴らした。 エメロードは興味深そうに二人を見比べると、嬉しそうに言った。 「旅は楽しい?」 ルビィには答えられない。楽しい思い出ばかりではない。それ以上に、辛いことが多かった。 ダイヤが答えた。 「閉じ籠っているよりは、退屈しないな」 皮肉で言ったのではないだろう。エメロードが困ったように笑った。 ダイヤは何時だって自分勝手だ。相手のことを思い遣ることも無く、自分の思ったままの言葉を口にする。 そんなダイヤの不躾な言葉も気に病むことなく、エメロードは微笑みを絶やさなかった。 「もうじき日が暮れるけど、泊まって行く?」 「いや、結構だ。近くに村があった筈」 茜色に染まる空を一瞥し、ダイヤは言った。エメロードはほんの少しだけ形の良い眉を下げて頷いた。 「西に向かって進めば、オリーブの村があるわ」 「そうか。助かった」 ダイヤは素早く衣服を整え立ち上がった。同じ場所に留まらないその姿は風のようだ。ルビィは二人分の空になった皿を重ね、上着を肩に掛ける。直に日が暮れる。日光の無い夜は当然、冷える。この場所が砂漠のような極寒の地になるかは解らなかったが、魔族のダイヤは兎も角、人間であるルビィには命に係わる。 開け放った扉に、ダイヤは振り返ることなく進んで行く。見送りに出たエメロードは少しだけ、寂しげだった。会釈し後を追うルビィは後ろ髪引かれる思いだった。最後に振り返る。エメロードはこれから食事の片付けをするのだろう。長い袖を捲り上げたところだった。 その白く細い腕に、醜い火傷の痕があった。引き連れた皮膚は変色し、醜く歪んでいる。エメロードはそのまま家の中に戻り、扉は閉ざされた。 振り返ることのないダイヤは早足に西へと歩き続ける。ルビィは走った。 「ダイヤ、あの人の腕――」 「余計な詮索するんじゃねぇ」 吐き捨てたダイヤは、それ以上何も言わなかった。気付いていたのだろうか。ただ興味が無いのだろうか。ルビィには解らない。 漸く追い付くかと言う瞬間、ダイヤは足を止めて振り返った。視線をすっと泳がせ、ダイヤは白亜の翼を広げた。 音も無く羽ばたいたダイヤは空を裂くように引き返していく。ルビィの目が追い掛ける。その時、火柱が上がった。 轟々と唸る業火が、エメロードの家を呑み込もうとしている。ルビィは息を呑んだ。 「エメロード!」 燃え盛る紅蓮の炎は群青に染まった空すらも照らし出す。炎の前に降り立ったダイヤの小さな後姿を追い掛けるようにルビィも走り出す。 何が起こったのか解らない。ただ、あの家にはエメロードがいる――。 「――クソッ!」 ダイヤの吐き捨てた声がした。次の瞬間、ダイヤは炎の包まれる家の中に突っ込んだ。 「ダイヤ!」 漸く家の前に着いたルビィは、自ら炎の中に飛び込んだ。 家はがらがらと音を立てて崩れ落ちる。天を舐める業火は離れた場所に立つルビィすらも畏怖させた。中に飛び込んで行ったダイヤは戻らない。死に掛けの太陽にも似た炎がルビィに迫る――その瞬間。 炎の中から、一つの影が浮かび上がった。 「ダイヤ!」 白亜の翼は折り畳まれているが、燃え盛る炎に少し焦げてしまっている。けれど、そんなことは如何でもいいというように、ダイヤの腕には意識を失ったエメロードがしかと抱えられていた。 ダイヤが脱出した瞬間、見計らったかのように家は崩れ落ちた。今も燃え続ける炎を背に、エメロードをゆっくりと地に下ろすとダイヤは其の口元に手を遣った。 「生きてるな……」 良かった、と息を吐くダイヤは人間と変わらない。 こういうことをするから、ルビィはダイヤが解らないと思うのだ。興味が無いような態度を取る癖に、危機には誰より先に駆け付ける。人間も魔族も見境なく殺す癖、双方に当然のように手を伸ばす。 死に絶えた太陽の下、エメロードの瞼がゆっくりと持ち上がった。微かに震える長い睫に彩られた碧の瞳は何も映していない。やがてゆっくりと起き上がると、少し困ったように笑った。 「ありがとう……、助けてくれて」 「お前には借りがあったからな。――それより」 ダイヤは闇に染まった地平線を一瞥し、言った。 「あいつ等は何者だ?」 ルビィの目には何も映らなかった。何者かが潜んでいる気配すら感じられない。 武器に手を伸ばそうとしないダイヤから見るに、如何やらその相手はもう遠方へと離れたようだ。エメロードはやはり、笑みを浮かべて答える。 「多分、オリーブの村の人ね。今年は作物が不作みたいだから……」 「意味が解らないな。それで、如何してお前が襲撃されるんだ」 ダイヤの目に映るのは純粋な疑問だった。怒りも憎しみも悲しみも無い。ただ、目の前の事態の説明だけを欲している。それはつまり、エメロードに興味は無いのだ。 エメロードは其処で漸く笑みを消し去り、酷く驚いたように目を丸くした。 「貴方、私のこと、知らないの?」 「知るかよ。何処かで会ったか?」 呆れたように、煤に塗れた美しい相貌でエメロードは溜息を零す。 なるほどね。何か合点がいったのだろう、エメロードが言った。 「私は、人間と魔族の混血なの。所謂、間者なのよ」 伏せられた目を彩る長い睫が、不安げに揺れている。 「この世界には掟が在るわ。人間は魔族に関わってはならない。魔族は人間に関わってはならない。混血には、人間も魔族も関わってはならない」 それはつまり、この女性が人間でも魔族でもない異質な存在であることを示していた。 人にとっては異形の姿で、魔族にとっては無力な存在。どちらにも属すことの無い、ただ忌み嫌われるだけのもの。 「それが、何だって言うんだ」 ダイヤには、心底理解出来ないのだろう。 不思議そうに言ったダイヤの青い目は、既に消えた気配の行き着く先を追い求めていた。 言葉に詰まったエメロードを抱え上げ、ダイヤは立ち上がった。器用に畳まれていた白亜の翼から、焼け焦げた羽根だけが抜け落ちて行く。 「行くぞ」 「何処に?」 反射的に問い掛けたルビィに目を向けることもなく、ダイヤは歩き出す。 「一番近い村は、オリーブの村なんだろう?」 この男は、何を言っているのだろう――。 ダイヤの当然のような提案に、二人は瞠目した。けれど、その足は既に前進している。それを止めることなど誰にも出来はしない。溜息を一つ零し、ルビィは後を追った。 |
2012.2.29