15,Apoptosis.










 泥濘の中に沈むような倦怠感と、頭痛を覚える既視感にダイヤは目を覚ました。天上には濃紺の夜空が広がり、満天の星空は硝子片のように地上を照らしている。夢見が悪かったのだと、同族が聞いて呆れるようなことを考えダイヤは額の汗を拭った。
 燻るような焚き木の炎。自分がしなければ誰もしない火の番に、ダイヤはゆるゆると薪を投入した。
 魔族と過ごすのは久しぶりだな、とダイヤは自嘲する。ルビィと出会う前、自分はずっと独りだった。それを悲観することはないし、かといって誇りに思う訳でも無い。どうだって良かった。ただ、遠くへ行きたかった。
 警戒心も無く熟睡するラピスとラズリを見下ろし、ダイヤは肩を竦める。油断し過ぎだろう。数時間前には命のやり取りをした筈の相手の前で、こんなにも無防備でいいのだろうか。殺されない保障など何処にも無い。彼等も自分と同じように、どうだって良かったのだろうか。
 その時。
 ピィ、とまるで琴線を張るような鋭い音が闇に響いた。咄嗟に飛び退いたダイヤの足場が、ぐらりと崩れ落ちる。雪崩のように崩壊する岩場の異変に飛び起きた面々を意に介すこと無く、ダイヤは闇の中に沈む気配に目を鋭くした。


「――誰だ」


 腰の剣に手を遣れば、闇の中からあの音がした。
 空気を切り裂くような高音は、風を呑み込んで突き進む。それが矢であると理解すると同時に、ダイヤの頬に嫌な汗が伝った。
 矢の突き刺さった岩が崩壊する。燃えるような熱波を飛ばすその鏃を覚えていると思った。否、忘れる筈が無いと解った。
 闇に浮かぶ二つの血のように紅い光。


「……ガーネット」


 青白い肌、額に生えた小さな双角。魔王軍の四将軍が一人、ガーネット。
 青年と呼ぶに相応しい容貌に見合わぬ鋭過ぎる眼光はダイヤを見てはいない。視線の先にあるのは。


「――ラピス・ラズリ!」


 ダイヤが叫ぶのとほぼ同時だった。
 空気を裂いた二つの矢は、生き物のようにうねり、岩場で混乱する二人の魔族の額に突き刺さった。割れた額から赤い血液が一つの筋となって零れ落ち、二人の体は折り重なるようにして倒れた。
 声を上げる間も、無いまま。
 絶命した二人に呼吸は無い。状況が理解出来ず呆然とするダイヤとエメロードを一瞥することなく、ダイヤは白亜の翼を広げ一直線に駆け抜けていた。


「ガーネット!!」


 振り下ろされた白銀の刃は、掲げられた刃に防がれた。
 冷静な態度を崩さないガーネットと、ダイヤは真っ向から切り結んだ。
 ルビィは、一瞬にして覚醒した体を動かし、命を失った二人の手を握った。僅かに熱を持った体もやがて冷え固まるだろう。数時間前まで交わした会話が、見せた笑顔が失われている。
 ガーネットは爆ぜるようにダイヤの剣を弾くと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「お前に用は無い」


 それでも引かないダイヤの剣を往なしながら、ガーネットは表情を崩さぬままに言った。


「魔王様に弓を引きかねない危険因子は早急に処分する」


 それが当然だと言うガーネットに、ダイヤの青い瞳がぼう、と音を立てて燃え上がる。


「ふざけんな、ガーネット!」


 刃が稲妻のように振り下ろされる。耳を塞ぎたくなるような高音が響き渡り、ガーネットは心底解らないという顔をする。
 ダイヤは、己の内に湧き上がる衝動のままに叫んでいた。


「強さが罪になることなんて、無い!」


 火花が散るような鍔迫り合い。ダイヤの面が苦々しげに歪む。
 弱ければ殺される。強ければ消される。ならば、如何すればいいのだ。如何すれば生きられるというのだ。ダイヤには解らない。
 脳裏に浮かぶラピスとラズリは、子どもだ。己の力を制御することも、生きるということも解りはしない愚かな子どもだった。衝動のままに殺戮を続ける二人を、一体誰が責められる。彼等を生んだのは人間の負の感情でも無ければ魔族でもない。この、時代だ。


「その使い方を知らないことが、罪になるんだ!」


 その強さの使い方を、誰も教えてはくれなかった。命を奪うことが悪いことだと、誰も教えてはくれなかった。
 救いの手等差し伸べてはくれなかった。それでも、降り注ぐ裁きが同等なんで不条理だ。
 訴え掛けるようなダイヤの叱責に、ガーネットが苦い顔をした。それは至近距離だったダイヤでなければ気付けない程、小さな感情の機微だった。


「正論等、聞き飽きた!」


 弾かれた瞬間、見計らったかのようなタイミングで矢が空気を切り裂いて押し寄せる。紙一重で躱しながら空中へ逃れたダイヤの目に映るのは魔王四将軍、ガーネット。血の色をした瞳の奥に見える消え入りそうな炎を、ダイヤは知っている。
 もう二度と動くことの無いラピス・ラズリ。時代によって生かされ、時代によって殺される。まるで誰かの都合の為に生み出され、殺されて行く様はアポトーシスだ。
 ガーネットは目を伏せ、眉間に皺を寄せながら絞るような声で言った。


「正論で救えるものなど、何一つありはしない……!」
「それでも俺は、お前にそんな世界を与えたかった訳じゃない……!」


 勢いよく滑降したダイヤと、ガーネットの剣が交わる。刃が軋み、砕け散ってしまいそうな鬩ぎ合いに、終止符を打ったのはガーネットだった。
 大きく後ろに飛び退いたガーネットを追う事無くダイヤの両足は地面に縫い付けられたように動かない。舞い起こる砂塵が二人の間を吹き抜け、悲鳴のようにか細く鳴り響く。
 固く結ばれた口は開かれない。沈黙を守るダイヤを、侮蔑するようにガーネットが一瞥する。


「縁も浅い餓鬼の仇討に剣を振るうとは、お前も堕ちたものだな」


 仇討。黙り込んでいたダイヤが小さく復唱する。それまでの剣幕を消し去った無表情で、ダイヤが言った。


「……もう、いい」


 猫の体毛のように逆立てていた翼を丁寧に折り畳むと、ダイヤが目を伏せる。力無く両手を下げるその様は何時もの傍若無人ぶりを消し去っていた。絶望、嫌悪、諦念。
 口を挟むことすら憚られる痛い沈黙の中で、ルビィはダイヤの横顔を見詰めた。無表情ながらも、其処には確かに身を裂くような深い悲愴が刻み込まれていた。
 衝動のままに生きる魔族。其処に価値を見出せないというダイヤ。魔王軍に従うガーネット。彼等の間には浅からぬ因縁があることは火を見るより明らかだ。目を伏せたダイヤが再び翼を広げる。それはガーネットと切り結ぶ為に広げられたのではない。


「行くぞ」


 ルビィを振り返ってダイヤが言った。
 ラピス・ラズリの亡骸を抱えるエメロードの腕を軋む程の力で掴み上げると、ルビィを脇に抱えて大きく羽ばたいた。置き去りにされた二人の死骸は沈黙し、さらさらと零れる流砂に埋まって行く。悔しげにエメロードが腕を伸ばしたけれど、その手が届くことはない。
 ガーネットが背を向ける先で砂嵐が起こっているのが黙認出来た。それは只の自然現象ではなく、夥しい数の魔族が武器を携えてこの地を目指していることの証明だった。
 伸ばし続けた腕を漸く引き戻したエメロードが、宙ぶらりんになりながら問い掛けた。


「あの軍勢は、ラピス・ラズリを狙って来たの……?」
「それだけじゃない。あの軍勢が狙っているのは――、俺だ」


 苦虫を噛み潰したような顔で、ダイヤが言った。
 放浪する魔王の末子。その存在の意味を、意義を、意図を全く知らない。今更ながらに気付いたルビィは、魔王軍から離れるように曇天の下を翔け抜けるダイヤに問い掛ける。


「如何して、追われているの?」


 口元を結んだダイヤは答えない。
 耳元で轟々と風が吹き抜ける。沈黙を保つだろうとルビィが小さくなって行く魔王軍に目を向けた時、聞き間違いかと思う程に微かな声が耳に届いた。


「――俺は、籠の鳥だから」


 独白にも告白にも似た声に返す言葉は無い。
 それは如何いう意味だ。問い掛けたかった言葉は形にならない。
 前を見据えるダイヤの目に何が映っているのか解らない。ルビィがそっと振り返った先で、ガーネットがじっと此方を見詰めていた。それは先程剣を交えた敵とは思えない程、慈愛にも似た縋るような悲哀に満ちていた。


「ダイヤ」
「ガーネット」


 青い瞳が、紅い瞳が交差する。
 どちらが呼び掛けたのか。振り返らないダイヤはただ前に進んで行く。大空を飛べる鳥に、地べたを這いずる蟻の気持ちは解らない。群れに生きる蟻に自由が無いように、独り大空を羽ばたく鳥の孤独は理解出来ないだろう。
 彼等の中に芽吹くものが何かなど、所詮一介の人間でしかないルビィには解らない。
 けれど、もしも、自由に羽ばたくことの出来る大空を失ってしまったら?



 曇天に消えて行く白亜の翼を見詰め、ガーネットが拳を握る。
 僅か三回切り結んだだけの掌が微かに痺れている。情け容赦無い殺気の籠った斬撃だった。


「剣の腕を、上げたな」


 ぽつりと呟いたガーネットの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
 背後に迫る魔族の軍勢はガーネットを視認すると、濛々と砂埃を巻き上げながらその場に跪いた。先頭の紫色の鱗を持つ蜥蜴のような魔族は、跨っている黒く滑る四足の蛇から降り立つと、口角を釣り上げて厭らしく笑う。


「あの魔族の餓鬼は始末しましたか」
「ああ、滞り無く」
「ガーネット様も勤勉な方ですな。あのような雑魚、我々ならば貴方様の手を煩わせることも無かったのに」


 そう言って、紫の魔族がラピス・ラズリを足蹴にする。その様を横目にガーネットが眉を顰めたことに気付きもせず、つらつらと得意げに言葉を続けて行く。


「それより、ダイヤ様は捕獲出来なかったのですね」


 捕獲?
 その単語にガーネットの目が鋭くなる。


「サファイヤ様もお怒りでしょう。愛玩動物が逃げ出してもう百五十年……。そろそろ籠の中に戻っていただかないと、魔王軍にも支障が出てしまいます」


 くつくつと喉を鳴らしながら軽薄な笑みを浮かべる。
 背後に従える魔族に視線を投げると、同じ厭らしい笑みを浮かべた魔族が頷いた。そして、一歩前に進み出ると、蝙蝠にも似た薄い翼を広げる。骨と皮だけの矮小な身体がダイヤの後を追うようにふわりと浮かび上がる。両手両足をぶら下げた灰色の魔族が微かに開いた口元から鋭い牙を覗かせていた。


「あの方に、自由は必要無い」


 断言するように落とされた言葉に、ガーネットの体は既に動き出していた。
 腰に差した剣は誰の目にも留まることなくすらりと抜き放たれ、一瞬の内に紫の魔族の首を跳ね飛ばした。
 声を上げることも出来ぬまま戦慄の走る魔王軍に視線すら向けず、動揺し振り返った空中の魔族に矢を向ける。首だけになった魔族が言葉を放つよりも早く、ガーネットの射た矢は空中の魔族の額を、ラピス・ラズリと同様に貫いていた。
 額から一筋の青い血液が零れ落ちる。空中から叩き落された魔族がごろりと転がったのを合図に、首だけになった魔族が声を張り上げた。


「気が触れたか!」


 ガーネットが、軽薄に笑う。


「正気など、とっくの昔に捨てて来た」


 魔族の軍勢が武器を構え取り囲んで行く。怒号が響き渡る。
 それでも、ガーネットは余裕の態度を崩すことなく笑っていた。


「もう二度と、あいつの空を奪わせはしない」


 振り返らないダイヤには届かないだろう。――否、届かなくていい。元より届いて欲しくなど無い。
 曇天の元に響き渡る怒号と悲鳴と雄叫び。その尾を微かに掴んだダイヤの翼が僅かに動きを鈍くした。


(……ガーネット)


 胸中で呼び掛けた声は届かない。思い浮かべる紅い双眸に、過去の記憶が蘇る。
 灰色の空、灰色の壁。伸ばした手は、届かない。





2012.12.23