21,The cost.










 幾分か、身体は楽になった。
 十分な休養の甲斐があったのだろう。夜も更けた闇の中、ルビィは足音を立てまいと静かにベッドを降りる。周囲は相変わらず静まり返り、何処かで犬の遠吠えが聞こえるくらいの平和な夜だった。
 ダイヤがいない。
 時間帯は不規則ながらも、一日に一度は顔を見せる筈のダイヤが現れないことは妙だった。加えて何かを隠しているような素振りと、増える傷跡。決して自分から答えはしないだろうと悟り、ルビィはダイヤを探すことにした。
 この部屋以外をルビィは知らない。扉を押し開ければ闇に染まった一本の通路が細く長く伸びていた。
 意を決して足を踏み出す。昼間は暖かい町も、夜になれば冷たい風が吹き付ける。通路は室内とは思えない程、まるで洞窟のように底冷えしていた。慌てて室内から自分の上着を引っ掴み、羽織る。ダイヤも、室内だというのに上着を手放さなかった。傷を隠す為だけでなく、防寒の意味もあったのだと今更気付く。
 通路は蝋燭の小さな灯りが僅かに照らすのみで、気温とは異なる寒さがルビィに纏わり付いた。


(ダイヤ)


 何処に行ったのだろう。通路の奥、また扉がある。外界へ繋がっているのだろうかと察しを付けて押し開けるが、その先はまだ屋根に守られた屋内だった。
 アクアマリンは此処が病院だと言ったけれど、随分と大きな施設だったのだと思い知る。この調子では、夜の間にダイヤを見付けるのは難しいかも知れない。扉を後ろ手に閉め、開けたホールのような室内を見渡す。ダイヤの居場所等、見当も付かない。手応えの無さに肩を落とす。その時だった。
 聞き間違いかと思う程の、微かな声がした。
 風の音にも似たその声は、地を這うように低い、呻き声だった。


「ダイヤ?」


 耳を澄ませば、その声が聞き間違いでないことが確信出来た。確かに聞こえるダイヤの声。それも、苦しげな喘ぎ声だ。
 声を頼りに歩を進める。ルビィが行き着いたのはホールの片隅にある、古い小さな扉だった。
 音を立てないよう、押し開ける。その先には、地の底まで続くのではないかと思う程の長い階段が待っていた。これまで歩いて来たどの場所よりも暗く寒い空間に身震いする。けれど、物寂しげな風の音の中で、確かにダイヤの声がする。
 気休め程度の灯りの中、踏み外さないよう慎重に一歩一歩階段を下って行く。何処まで続いているのだろう。下層に近付くに連れて体感温度が急激に低下して行く。震え立ち止まりそうになる足を動かしてくれるのは、ダイヤの声だった。
 階段が終わると、冷たい石の床が待っていた。空間を区切る壁は無く、だだっ広い広間のようだった。その奥の壁際、オレンジ色の灯りが照らしている。見覚えのある背中が、身体を屈め蠢いている。


「……う、」


 ダイヤの声が、した。
 白衣の背中――アクアマリンの前には、簡素なベッドが置かれている。柔らかな布団も、暖かな毛布も存在しないそれは正しく手術台のようだった。ベッドの傍、冷たい地面に何かが無数に落ちている。羽根だった。
 ベッドからだらりと伸びた細い腕は、切り刻まれたように傷だらけだ。白亜の羽根を染める真紅の血液が、地面に血溜まりを作っている。忙しなく腕を動かすアクアマリンの手には、オレンジ色の光を反射する鋭い刃が握られていた。
 それが、何の迷いも無く、振り下ろされる。切り付ける。刻む。皮膚を剥がす。肉を抉る。ダイヤの呻き声も喘ぎ声も、何もかも無視して自分の欲望のままに傷付けている――。


「ダイヤ!」


 思わず声を上げた。その瞬間、アクアマリンが勢いよく振り返った。
 白衣の奥で、固く目を閉ざしたダイヤが身体を投げ出すように横たわっていた。包帯で隠された右目は昨日のままだった。此処まで来れば、ダイヤの怪我が何なのか、ルビィにも解ってしまった。アクアマリンが医者だからと言っても、まさか治療とは思えない。


「ダイヤ!」


 ルビィの声に、ダイヤが僅かに反応を示す。それでもその目は開かれない。
 駆け寄ろうとするルビィを押し留めるように、アクアマリンが刃を向けた。


「よく此処が解ったね」


 世間話でもするような穏やかさで、アクアマリンが言う。けれど、ダイヤの返り血を頬に貼り付けたその様に狂気すら感じる。糸目を歪ませ微笑むアクアマリンは、これまで見て来た穏やかな青年のままだ。


「ダイヤを、離して……!」


 無造作に広げられた翼も傷だらけだった。深い隈も、扱けた頬も、これがたった数日の変化だとは思えない。
 如何して、もっと早く気付いてやれなかったのだろう。ルビィは唇を噛み締めた。
 アクアマリンは可笑しそうに喉を鳴らす。


「断る。彼はね、君の治療と引き換えに、僕の実験動物になることを選んだんだよ。謂わば、これは彼が望んだことなんだ」


 ルビィは、言葉を失くした。
 傷だらけの腕、包帯に覆われた右目、血塗れの翼、刻み込まれた深い隈。全てが、ルビィの為に負った傷だった。
 ダイヤは魔族だ。人間の為に傷付く理由なんて無いだろう。事実、ダイヤもルビィを突き放すような言動を取っていた。――けれど。


「ダイヤ……!」


 けれど、それだけではないのだ。ダイヤは冷たい。厳しい言葉も、素っ気無い態度も、相手の気持ち等微塵も配慮しようとしない。けれど、それだけでないことを、ルビィは知っている筈だった。
 平然と微笑むアクアマリンが、心の底から憎いと、思った。感情のままに強く睨み、ルビィは叫んだ。


「如何して、こんな酷いことをするの!!」


 すれば、アクアマリンは驚くこともなく微笑み言った。


「だって、魔族だろう?」


 彼が何を言っているのか、ルビィには解らなかった。アクアマリンは自分の言葉を疑う事無く、つらつらと言葉を紡いでいく。


「人間の敵だろう。それに、幾ら傷を負っても、すぐに治癒するじゃないか」


 ほら、とアクアマリンはダイヤの腕を掴んで見せた。確かに、其処には昨日あった傷が跡形も無く治癒している。
 微かに、ダイヤが呻いた。それでも開かれない瞼が、彼の疲労を物語っているようだ。ルビィが休養している間、ダイヤはずっとこの場所にいたのだろうか。冷たくて暗い、まるで牢獄のようなこの場所に。そして、生きたまま身体を切り刻まれ、血を流し、碌に睡眠も食事もしないまま、自分を気に掛けていたのだろうか。
 刃を翳すアクアマリンに近付けぬまま、不利な体勢と解っていても、ルビィは叫ばなければならなかった。


「ふざけないで!!」


 空間をびりりと揺らしたその声は、怒声と呼ぶに相応しかった。


「確かに、傷は癒えるわ。ダイヤの治癒力なら、傷跡すら残らないでしょう。でも、痛みは感じるわ。傷が癒えても、受けた苦しみは消えないんだよ!」


 人間だから、とか。魔族だから、とか。
 異なる種族だ。相容れないこともあるだろう。共存は理想論かも知れない。けれど、それでも、ルビィはダイヤの傍にいたかった。
 自衛の為ではなく、自己満足の為でなく。ただ、傍にいたかった。


「貴方、医者でしょう! 如何してそんな簡単なことが解らないの!」


 叫んだ瞬間、アクアマリンはふらりと距離を詰めた。その手に握られた鋭い刃が、振り上げられた。
 ルビィは、丸腰だった。自衛の手段すらないけれど、対峙したその凶器から目だけは決して逸らさないと誓った。真っ直ぐに睨み付けるルビィを、光の無い胡乱な眼差しでアクアマリンが見遣る。


「お前のような餓鬼に、僕の崇高な研究が理解出来るものか!」
「人質を取って、無抵抗のダイヤを苦しめた貴方のことなんて、理解したくもない!」


 凶刃が振り下ろされるその刹那、ずぶりと、肉を刺し貫く鈍い音がした。
 その生々しい音は、アクアマリンの腹部を貫いていた。


「なっ……」


 腹部から突如生えたかのような刃は、オレンジ色を反射して夕陽のような光を放っている。切っ先から真紅の血液が、ぽたぽたと滴り落ちている。ゆるりと振り向いたアクアマリンの視線の先に、片目を包帯で覆われたダイヤが、苦悶の表情で立っていた。


「お前、動ける筈が……!」
「人間と一緒にするんじゃねぇ……」


 崩れ落ちたアクアマリンの後ろで、ダイヤが膝を着いた。その足元には血溜まりが広がっている。


「ダイヤ!」


 駆け寄ろうとするルビィを、ダイヤは掌で制す。


「お前、身体は、大丈夫なのか」
「私より、ダイヤの方が!」
「俺はこんな怪我じゃ死なない。でも、お前はそうじゃないだろう」


 眉を寄せ、ダイヤが言った。


「此処で治療を続けないと、お前、死ぬんだろう?」


 ダイヤの言葉に、ルビィは全てを理解した。
 ルビィが倒れたのは、単なる過労だ。休養すればすぐに治る。けれど、アクアマリンは病気だとでも言って、ダイヤを騙し、実験台としてその身を提供することを強要したのだ。ルビィの様子から状況を悟ったダイヤは、苦々しげに視線を落とした。
 呻き声を上げるアクアマリンが、手にした刃を強引に振り回す。痛むのだろう腹部を押さえ、立ち上がることも出来ない。それでも、ダイヤに追い縋ろうとする様は狂気そのものだった。


「待て、お前は、僕の」
「俺は、誰のものにも、ならない!」


 剣を杖にして、ダイヤが言った。
 立っていることすらままならないのだろう重傷で、ダイヤが何度も大きく呼吸する。アクアマリンだけが、忌々しそうにダイヤを見ている。


「絶対に、逃がさないぞ」


 その時、階段の上から大勢の人の声が、足音が響き渡った。状況に気付いた町の人間か、アクアマリンの協力者が駆け付けたのだ。
 ルビィはダイヤに肩を貸し、脱出しようと足を踏み出す。痩せっぽちの身体は想像するよりも遥かに軽いけれど、抱えて走れる訳では無い。加えて、出口は階段の上だ。背後からはアクアマリンが凶器を持って迫る。絶体絶命の状況で、ダイヤはルビィの腕を掴んだ。


「しっかり、掴まってろ」


 絶え絶えの息で、ダイヤが言った。血塗れの翼が開かれる。ボロボロの羽根が抜け落ち、新たな羽根が現れる。
 ダイヤが大きく羽ばたいた。空間に満ちた生臭い腐った空気を一掃するように風が起こる。ルビィの身体は浮かび上がった。ダイヤは一直線に上昇した。その姿に、駆け付けた人々は驚愕し、恐怖し、武器を我武者羅に振り回す。武器を避けるように身を翻しては壁に衝突し、それでもダイヤは羽ばたき上昇する。その目に何が映るのだろう。激しく回転する視界の中で、ルビィは必死にダイヤの背中を見詰めていた。


「――ぐ、」


 羽ばたきと共に零れた血液が、ルビィの頬を濡らす。
 人垣を越えた階段に落下したダイヤが、ルビィを抱え込んで転がった。呼吸すら辛いように起き上がれないダイヤの下から、抜け出したルビィがその身体を揺らす。


「ダイヤ、ダイヤ!」


 ダイヤは起き上がらない。翼は力無く投げ出され、意識も朦朧としているのか返事すらない。
 階段の下から、人々が追い掛ける。迫る怒声に、ルビィは肩を貸すように立ち上がった。
 逃げなければならない。咄嗟に傍の扉を開いた。途端、凍り付くような寒風と鼻を突くような異臭がルビィを襲った。
 視界は拓け、遮る物の無い景色には広大な闇夜が広がっていた。目が眩むような切り立った崖だった。遥か下方では、荒波が岩場に打ち付けては砕かれていく。激しい潮騒が、背後より迫る人々のざわめきを打ち消そうとしている。それはルビィにとって、初めて見る海だった。山で生まれ育ったルビィには、それが如何いったものなのか等解る筈も無かった。そして、迷う暇も無かった。
 不規則な呼吸を繰り返すダイヤを、アクアマリンに引き渡す訳にはいかない。そうすれば、今度こそ本当に殺されてしまう。


「……ダイヤ」


 死ぬつもりも、殺させるつもりも無い。
 覚悟を決めるように名を呼べば、ダイヤの冷たい掌が応えるように震えた。


「迷っている時間は無いぞ」
「解ってる」
「俺も流石に疲れちまった。もう暫く、飛べそうにない」


 青い瞳が、荒れた海を見据えている。


「覚悟は決まってんだろ。――必ず、守ってやる」


 弱々しい声なのに、力強い口調だった。ルビィは肩の力が抜けたように微笑んだ。
 足が竦むような高所だ。落下した先が水面であっても、この硬度では岩場と変わりないだろう。死ぬかも知れない。否、生き残れる可能性の方が限りなく低い。――けれど、こんなところで諦めるつもりは毛頭無かった。
 追い付いた人間が、二人に手を伸ばす。その刹那、導かれるようにルビィは大地を蹴って、二人は空中に浮かび上がっていた。





2013.11.3