22,The origin.










 淀んだ空気が、肺を腐敗させて行くようだ。底冷えする暗闇は、まるで出口の無い洞窟のようだった。
 周囲には霧のような灰色の煙が満ちている。空気すら毒に侵された空間で、ルビィは視線をぐるりと旋回させる。光の差さない闇の中、目に映るものは何も無い。足元どころか自分の掌すら見えない。
 此処が何処なのか、自分が何をしていたのかも解らない。突然、声が聞こえた。


「ガーネット!」


 身を裂くような、悲鳴にも似た声が響き渡った。それは聞き間違う筈のない、ルビィにとって最も身近な魔族の声だ。
 ぽつりと、オレンジ色の光が灯る。照らし出されたのは、宝石のような青い瞳、透き通るような銀色の髪。牢屋のような強固な格子の奥で、魔族の子どもが必死に訴えている。幼いけれど、確かな面影がある。
 ダイヤだ。ルビィは、確信する。
 何が起こっているのだろう。ダイヤに駆け寄ろうとするが、まるで凍り付いたように体が動かない。声すら発することの出来ないルビィは、牢屋に囚われたダイヤに近付くことも出来ない。当然、ダイヤは気付くことも無く、ただ声を振り絞るように叫んでいる。


「ガーネット!」


 その声に含まれるものは何だろう。
 ダイヤの視線の先、見覚えのある魔族の青年が座り込んでいる。


「ダイヤ……」


 力無く吐き出された言葉。黒い短髪と紅い瞳。眉の無い額に小さな角が生えている。
 ダイヤが繰り返し叫んでいるのは、彼の名前だ。ガーネット。魔王四将軍の一人。
 座り込んだガーネットは、身動き一つ出来ないように縄に打たれていた。その面は傷だらけで、纏う衣服も乱闘でもしたかのようにボロボロだった。


「ガーネット!」


 牢屋の奥、闇の中で何かが蠢いている。暗闇から伸びた奇妙な触手が、ダイヤの足に絡み付く。のた打ち回るような不気味な触手は湿気を帯び、粘着質な液体を纏いながらダイヤの身体を包み込んで行く。
 ダイヤの口が開かれ、そして、悔しげにそれは閉じられた。縋るように格子を掴んだ手は解かれ、ダイヤの身体は闇へと引き摺られて行く。何かを諦めたようなダイヤの掌は、もう伸ばされない。けれど、その途端、縄に打たれたガーネットが勢い良く立ち上がった。


「ダイヤ!」
「――もう、いい」


 力無く、ダイヤが言った。今まで聞いたことも無いような、弱り切った声だった。


「もう、いい。もう、俺は何も望まない。だから、お前は、お前だけは――……」
「ふざけんな、ダイヤ!」


 両手を封じられたまま、ガーネットが体当たりをするように格子に駆け寄った。ダイヤの身体はずるずると闇の中に引き摺られていく。その奥に何があるのか等、ルビィには解らない。けれど、得体の知れない恐ろしい化物の息遣いが聞こえるような気がした。
 ガーネットが、声を上げる。


「強がってんじゃねぇよ、この馬鹿野郎!」


 格子を殴り付けるような轟音。ガーネットの怒声が尾を引いて響き、やがて消えた。その瞬間、俯いていたダイヤが顔を上げた。
 まるで、行先すら見失った迷子のようだった。青い瞳が、泣き出しそうに歪む。力無く投げ出されていた腕がゆっくりと持ち上がり、縋るように再度、伸ばされた。


「  」


 ダイヤの口元が、何かを伝えるように動き出す。声にならない言葉は、それでも確かにガーネットへ届いたようだった。ガーネットの顔が苦痛に歪む。――否、ダイヤと同じように、泣き出しそうに歪んだのだ。
 縄で打たれたガーネットが、複数の魔族に引き倒される。武器を携えた魔族はそれをガーネットに押し当て、恫喝するように声を荒げた。
 引き倒され、引き摺られるばかりだったダイヤが叫んだ。


「ガーネット!!」


 その声が合図だったかのようにうつ伏せのダイヤの背中から、ぶわりと白亜の翼が現れた。それは腐敗した周囲の空気を一掃するように風を巻き起こし、絡み付く触手を引き離し、武器を携える魔族を吹き飛ばした。
 唸る強風に、灯火が掻き消される。再び訪れた闇の中で、青い双眸だけが煌々と輝いていた――。


 ぽたん。ぽたん。ぽたん。
 水面でも見ていたように視界が歪み、崩れて行く。そして――、ルビィの視界は突如として明るくなった。


「――気が付いた?」


 ぽつりと零された覚えの無い声に、ルビィは目を向けた。そして、自分の身体が錆び付いたように軋み動き辛いことに気付く。視界がぼやけている。随分と長い間、眠っていたようだった。
 霞む視界の中、周囲の奇妙な明るさで小さな影が映った。


「何? 如何したの、人間」


 歌うような軽やかな口調で、鈴のような美しい声が問い掛ける。けれど、其処には何処か小馬鹿にするような意地悪染みた響きが含まれている。
 ゆっくりと視界が慣れ、影が像を結ぶ。透き通るような水色の光が満ちた空間。身の丈程の岩場の上に、一人の少女が腰掛けていた。彼女が人間でないことは、一目で解った。桃色の波打つ長髪、輝くような橙の瞳、白磁のような滑らかな肌、そして、人間にはある筈の両足は其処には無く、まるで魚類のような尾が生えていた。


「貴方は……」
「何? 見て解らないの?」


 声を上げて笑うその様は、無邪気な少女のようだ。
 エメラルドの鱗を煌めかせ、少女が指差し揶揄する。ダイヤと同じように、この魔族に害意は無いのだろう。


「貴方、魔族でしょ。そのくらいは見れば解るよ」
「じゃあ、他に何が知りたいの? 名前?」


 少女は、美しい微笑みを浮かべながら言った。


「シトリン。私の名前」
「私はルビィ。此処は何処?」
「見たら解るでしょ」


 そう言って、シトリンは両手を広げた。その背後――、否、周囲は水色の光に満たされ、大小様々な魚群が悠々と横切って行く。幻想のような美しい風景だ。見覚えも無い。
 黙ったルビィに、シトリンはすぐさま答えた。


「此処は海の中」
「海――?」


 記憶を失う前、最後の記憶は、闇に染まる海に飛び込んだ瞬間だった。
 自分が海の中にいるということは、理解した。けれど、海とは大きな水溜りだ。人間は水面下で呼吸出来ない。ならば、此処にいる自分は死んでいるのだろうか?
 シトリンが言った。


「此処は海の中だけど、呼吸の出来る場所もあるの」
「そうなの?」
「此処はオパール様の治める水中庭園。水生でない魔族が生きられるように、空気の満ちた空間を造って下さったのよ」


 ぐるりと見渡す此処は正に楽園だった。人間と魔族の戦争も無く、飢餓や貧困も無い。寒さに凍えることも無く、熱さに喘ぐことも無い。美しい景色の中で、魚類はのびのびと泳ぎ回っている。
 ルビィは、はっとして顔を上げた。


「――ダイヤ!」
「は?」
「銀髪で、青い目をした魔族がいたでしょ!? 酷い怪我をしているの!」
「ああ、ダイヤ様なら、眠っていらっしゃるわよ」


 平然と答えたシトリンは、何でもないように微笑んでいる。
 ルビィは一先ず安心し、大きく肩を落とした。その様子を見ていたシトリンの目がすっと細められたことに、ルビィは気付かなかった。


「あんた、何者?」


 シトリンは、訝しげに目を細め言った。


「ダイヤ様が魔王様の元から逃亡して百五十年。それまで何百何千という魔王軍の追跡を振り切って、世界を転々としていらっしゃったけれど、その間、何をなさっていたのかは誰も知らないの」
「百五十年!?」


 魔族が人間よりも遥かに強靭で長命であることは知っていた。若く見えるダイヤも、ルビィより遥かに長く生きていることは解っていた。けれど、まさか、百五十年。想像も付かない程の長い間、ダイヤは一人で生きて来たのだ。
 ルビィの反応を冷ややかに見遣り、シトリンは息を吐いた。


「まあ、人間が知っている筈も無いわよね」
「それより、ダイヤは何処なの!?」
「ダイヤ様は眠っていらっしゃるってば。当分、起きられないでしょうね。酷く疲れているようだったもの」


 けれど、生きている――。
 シトリンの言葉から考えれば、ダイヤは魔王の末子として悪い扱いはされていないだろう。だが、以前、ダイヤの言っていた言葉を思い出す。魔王軍に追われていると言ったダイヤが、魔族の元で無事に解放されるのだろうか。


「ダイヤ様は、サファイヤ様に引き渡すことになるでしょうね」
「サファイヤ様っていうのは……?」
「そのくらい知っているかと思ったけど。ダイヤ様の腹違いのお兄様よ。魔王様の後継者で、最も有力とされているの」
「そのお兄さんに、如何してダイヤを引き渡すの?」


 シトリンが、呆れたように大きな溜息を零した。


「ダイヤ様は、サファイヤ様のお気に入りらしいわよ。だから、百五十年前もダイヤ様を――」


 其処でシトリンは口を噤んだ。その目はルビィの後方へ向けられ、ぴくりとも動かない。導かれるようにルビィも振り返る。光を背中に浴びた影が、言った。


「お喋りが過ぎるわよ、シトリン」


 それは日輪にも似た美しい金髪だった。光を受けては跳ね返す白い肌と、この楽園を包む海と同じ水色の瞳。整った顔立ちはいっそ作り物のようだった。完璧な微笑みを浮かべた唇は、紅を刷いたようだ。
 純粋に、美しいと思った。


「オパール様……!」


 先程、シトリンの話に出た名前だった。この美しい水中庭園を造り上げた魔族。シトリンの口ぶりからして、それなりに高い身分と能力を持ち合わせている筈だ。
 ルビィがじっと見詰めていると、シトリンが言った。


「態度に気を付けなさい。この方は、魔王四将軍のお一人、オパール様よ」
「魔王四将軍――」


 思い浮かぶのは、ガーネットだ。其処で同時に思い出す。眠っている間に見たあの映像は、夢だったのだろうか。それとも、嘗て起こった現実だったのだろうか。ルビィには解らない。
 オパールは黙ったルビィを探るようにじっと見詰めていた。





「魔王様には七名の後継者がいらっしゃるの」


 幻想的な美しい風景の中、シトリンは尾びれで水を蹴りながら進んで行く。海底を歩くルビィとの間には境界線があるようで、シトリンの傍には近寄ることが出来ない。薄い膜の奥、軽やかに語るシトリンの表情は明るい。


「さっきも話したけど、その長兄がサファイヤ様で、最有力候補と言われているわ」


 先導するシトリンを追うように、オパールと呼ばれる美しい魔族が堂々と闊歩して行く。
 ルビィもまた、二人に従って歩いて行く。語り手となったシトリンは時折振り向いては、悪戯っぽい愛らしい笑みを浮かべている。


「サファイヤ様は、天下無双と呼ばれる程の力を持っているそうよ。それは通常の物質的な力とは一線を引く、魔法と呼ばれる力なんだって。私は見たことが無いから、如何いうものかは解らないんだけど」


 まるで空想を語るかのような楽しげな口調で、シトリンが言った。


「それは山を吹き飛ばし、軍隊を退け、海を乾かし、大地を荒野へ変える程の力だと言われているの」
「そんなものが本当に存在するの?」
「本当のことよ」


 シトリンの話を黙って聞いていたオパールが、そっと言った。耳触りの良い美しい声だった。


「サファイヤ様は本当に恐ろしい力を持っている。それこそ、ただ一人で人間を殲滅することも出来るでしょうね」


 表情の無い横顔が、それが真実だと何よりも物語っているようだった。


「人間が今生きていられるのは、サファイヤ様が遊んでおられるからよ」
「遊んでいる?」
「そう。ダイヤ様を使ってね」


 着いたわよ。シトリンが言った。
 到着した先は、白を基調とした丸みを帯びた建物だった。地上では見たことのない造りをまじまじと見詰めていると、薄い膜から顔を出してシトリンが急かす。そして、膜を越えた瞬間、魚類の尾びれは人間と同様の二本足へと変わった。
 歩き出すシトリンを追って建物へ足を踏み入れる。白い壁と白い天井に囲まれた内部は、外観以上に広かった。迷いの無い足取りで進むシトリンは、やがて一つの部屋に辿り付く。真っ白の扉は金色の金具に縁どられ、それが通常以上に格式高い部屋だとすぐに解った。
 オパールが一歩進み出て、静かに扉を押し開けた。大きな窓から光を取り入れた室内は、海底とは思えない程に明るかった。そして、その窓辺の中央、真っ白のベッドで見覚えのある青年が眠っている。


「ダイヤ!」


 投げ出された翼、傷だらけの細腕は胸の前で手を組み、下肢は毛布に隠されている。血の気の無い白い面には無数の傷と、深い隈と、血の沁みた銀髪が張り付いていた。
 思わずルビィは駆け寄るが、深い眠りに落ちているのかダイヤはぴくりとも動かない。一見、それは死んでいるようにも見えた――。


「ダイヤ……!」
「生きているわよ。この程度の怪我じゃ、死にはしないわ」


 さも当然のようにオパールが言った。


「怪我はやがて癒えるでしょう。ただ、夢を見ているのよ」
「夢?」
「そう。この水中庭園に掛かっている微弱な魔法が、ダイヤ様へ影響を与えてしまったみたいね」


 昏々と眠り続けるダイヤの額に掛かった銀髪を、オパールの細い指先が払った。
 聞き慣れない単語にルビィが目を向けると、オパールは言った。


「水中庭園は、棲む場所の異なる魔族が共生出来るように、意識共有の魔法が掛かっているの。きっと、ダイヤ様の中に大勢に意識が流れ込んでしまったんだわ」
「すると、如何なるの?」
「脳が情報を処理し切れなくなって、人格が破綻するか、脳に重篤な障害が残るか。……ダイヤ様のように、夢に囚われるか」


 傷ましそうに顔を歪めるオパールからは純粋な労りが滲んでいる。昏々と眠り続けるダイヤに対する素振りの一つ一つが、彼が大切だと、愛おしいと言っているようだった。
 彼女にとってダイヤは何者なのだろう。ルビィはまた、疑問を一つ覚える。そして、ふと思い出しルビィは問い掛けた。


「さっき、私も夢を見ました。子どもの頃のダイヤと、ガーネットさんがいました。ダイヤは牢屋に入れられて、ガーネットさんを庇おうとして、背中から翼が……」


 その瞬間、オパールが傷ましげに目を細めた。


「それは多分、ダイヤ様の過去の記憶でしょうね。意識共有の魔法が掛かったんだわ」


 夢の中で見たあの光景は、ただの夢ではなく嘗て起こった現実だった。
 ルビィが黙り込んでいると、オパールがそっと言った。


「ダイヤ様を、助けたい?」
「当たり前よ!」


 叫ぶように答えれば、オパールが口角を釣り上げて笑った。


「なら、やってみなさい。――ダイヤ様の夢の中へ、送り込んであげるわ」
「……如何して?」
「何?」
「如何して、人間の私を助けてくれるの?」


 問えば、オパールは目を伏せ微笑んだ。


「人間でも、魔族でもどっちだって良いの。私はダイヤ様を救いたいだけだから」


 言うと同時に、オパールはルビィの前に掌を翳した。白い掌から、何処か懐かしく温かい光が広がって行く。それはルビィを包み込み、ダイヤまでも浸食して行く。
 その光の眩しさに目を閉じた瞬間、周囲はそれまでの景色を失っていた。





2013.11.5