24,The prayer.










 そして、場面は移り変わって行く。それは水泡に包まれるように、烏の羽根が舞い起こるように。
 次に現れたのは、あの時の群青の魔族と、ダイヤの姿だった。
 ダイヤは縄に打たれ、起き上れないように地に伏せている。何が起きたのか解らないルビィは、その光景を凝視するしか出来ない。
 群青の魔族は愉悦に口元を歪ませる。


「お前は、可愛いな」


 その口振りに、ルビィは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 ダイヤは地に伏したまま、群青の魔族を睨んでいる。


「縄を解け! 俺を、ガーネットの元へ帰せ!」
「帰せ? 如何いう意味だ?」
「俺の居場所はガーネットのところなんだ!」


 声を上げたダイヤは、自分の言葉に何の迷いも疑いも無い。それこそが真実で、揺るぎない事実だと信じている。
 群青の魔族は、三日月のように口を歪めた。其処に得体の知れない、恐ろしさを感じた。何を言っても理解されない、理解出来ないような絶望的な壁があるようだ。ダイヤが表情を強張らせる。群青の魔族は、その腕を伸ばし、ダイヤの胸倉を掴み上げた。


「お前の居場所? ある筈、無いだろう。お前は俺に管理され、飼育され、屠殺される為に生きているんだ」


 其処にもまた、何の迷いも疑いも無かった。
 至近距離で視線を合わせ、群青の魔族が愉しそうに微笑む。同じ魔族であるダイヤすら理解の出来ないものを、人間のルビィが理解出来る筈も無い。其処にあるのは純粋な嗜虐性のみだった。
 それでも、ダイヤは声を上げる。


「違う! 俺は、ガーネットの傍にいるんだ!」
「なら、お前に教えてやろう」


 群青の魔族が掌を翳した。その瞬間、ダイヤの右腕がぶつりと、切り離された。ぼたぼたと零れ落ちる血液に、ダイヤは声を上げることすら出来なかった。思わずルビィは口元を覆う。次の瞬間、ダイヤが声にならない声を上げた。
 止め処無く流れ落ちる血液は、宙吊りになったダイヤの足元に血の湖を作って行く。人間と何も変わらない紅い血液だ。群青の魔族は、それすら愉しくて仕方が無いというように高らかに声を上げ嗤っている。
 明らかな体格差、実力差。絶望的な状況、未来。それでも、群青の魔族を睨むダイヤの視線が強かった。絶望の無い強い意志の籠った目だった。
 強い視線を向けられ、群青の魔族から表情が消える。ダイヤが叫んだ。


「お前なんか、怖くない!」


 息も絶え絶えなのに、その言葉に嘘は無かった。其処で初めて、群青の魔族はつまらなそうに眉を寄せた。
 再び掌を翳した瞬間、ダイヤが地面に叩き付けられた。出血の止まらない腕を押さえ、ダイヤが呻き声を上げる。それすら興味が無いように、群青の魔族はダイヤの首根っこを掴んで引き摺って行く。


「離せ!」


 群青の魔族は振り返らない。痛みに喘ぎながら、ダイヤが必死に叫んでいる。


「――ガーネット! ガーネット!!」


 姿の見えないガーネットを探すように、ダイヤが必死に手を伸ばす。けれど、其処にガーネットはいない。
 ガーネット。引き摺られながら、ダイヤは叫び続けていた。
 其処で、場面は転換する。浮かび上がる無数の水泡、吹雪のような花弁の嵐。変わって行く場面の中で、ダイヤのガーネットを呼ぶ悲痛な声だけが響き続けていた。
 次に現れたのは、目も覆いたくなるような惨状だった。切り取られた腕の止血すらされぬまま、ダイヤは血を流し続けている。其処は強固な牢獄だった。格子の奥でダイヤが呻き、そして、悲痛に叫んでいる。
 ダイヤは傷だらけだった。人間なら、疾うにこと切れていただろう。翼の無い背は切り付けられ、傷口は抉られ、見たことも無い醜悪な魔族が愉悦に表情を歪ませ、ダイヤを嬲っている。ダイヤはただ、手を伸ばすだけだ。


「ガーネット」


 掠れた声に、それまでの力強さは無い。ただ、名を呼ぶことだけが救いであるように、壊れた人形のように手を伸ばし続けている。
 助けてと、そんな言葉すら知らぬようにダイヤが呻く。その姿は、前回の場面に比べ成長していた。それはつまり、この惨状は一日二日のことではなく、恐らく人間にすれば何十年という間続けられたということだった。
 一体、どれ程の間、この場所で暴行を受けて来たのだろう。それでも傷跡一つ残らない程に、ダイヤの治癒力は高い。切り離された腕以外の古傷は存在しなかった。
 それでも、痛みは感じるし、苦しさは残る。誰もそれを理解しない。


「ガーネット」


 そうして、ダイヤは闇に向って呼び掛ける。その時だった。


「――ダイヤ!」


 その声が響き渡ったと同時に、ダイヤの青い目に確かな光が宿った。暗闇の奥で、真紅の双眸が輝いている。


「……ガーネット?」


 掠れた声で、ダイヤが呼び掛ける。青い瞳には、確かに待ち続けた相手が映っている。
 一体、どれ程の長い間、彼を呼び、待ち続けたのだろう。強固な格子の奥から、ダイヤが手を伸ばした。


「ガーネット!」


 喉から血を吐くような叫びだった。それだけが救いだというように手を伸ばすダイヤに、ガーネットは近付かない。――否、動けないのだ。
 それは以前見た、ダイヤの夢のままだった。縄に打たれたガーネットは身動き一つ出来ない。そして、傷だらけの身体は見れば瀕死と呼ぶに相応しかった。


「ガーネット!」
「ダイヤ!」


 呼び合う二人の間には、越えられない牢獄の格子がある。それでも手を伸ばすダイヤを、声を上げ続けるガーネットを、一体誰が笑えるだろうか。
 後は以前のままだった。暗闇の中、得体の知れない触手に引き摺られるダイヤ。魔族に刃を向けられ、恫喝されるガーネット。そして――、ダイヤの背からはあの白亜の翼が現れ、周囲の魔族を吹き飛ばし、打ち付けた。ダイヤは他の魔族のように、鋭い爪や牙、強力な毒や鱗を持たない。唯一あるのは穢れ一つ無い白亜の翼だけだった。けれど、その翼は、空を飛ぶ為でなく、自由を求める為でなく、友達を救う為に広げられたのだ。ただ、それだけの為に。
 かつん、かつん。硬質な地面を打つ乾いた音が反響する。暗闇から現れたのは、あの群青の魔族だった。


「素晴らしい」


 格子の奥のダイヤを眺め、群青の魔族は恍惚に呟く。ダイヤは地に伏したまま、青い目で鋭く睨み付けている。
 群青の魔族は、格子を握り言った。


「お前は、美しいな」


 うっとりと囁いた瞬間、ダイヤやガーネットは勿論、ルビィは全身に鳥膚が立った。
 群青の魔族が掌を翳す。そして、其処から放たれた閃光は一瞬にしてダイヤを吹き飛ばし、壁に叩き付けた。耳を塞ぎたくような轟音の中で、白亜の羽根だけが静かに舞っている。
 意識を手放したのか、ダイヤは打ち付けられ身動き一つしない。縄を打たれたまま、ガーネットが声を上げる。


「ダイヤ!」


 群青の魔族が、凍り付くような眼差しでガーネットを見下ろしていた。
 其処で、場面暗転。記憶を持つダイヤ自身の意識が途切れた為だろう。闇の中に灯火が光るように、仄明るく浮かぶのはガーネットの姿だった。
 強固な牢獄の中、ダイヤの目の前にはガーネットが倒れている。血溜まりの中に沈むその様は、一見すると死んでいるかのようだった。顔色を変えたダイヤが、泣き出しそうに顔を歪ませ、掠れるような声で叫んだ。


「ガーネット!!」


 ガーネットは起き上がらない。反応すら見せない。その傍には返り血を浴びた群青の魔族は、愉悦に口元歪ませ立っている。
 襤褸雑巾のようなガーネットを、群青の魔族はまるで路傍の石でも扱うように蹴り付けた。


「止めろ! ガーネットに、手を出すな!」


 ダイヤが縋り付くように叫ぶのも、意に介さないように群青の魔族が嗤う。嗤う。嗤う。


「さて、ダイヤ。此処で問題だ」


 瀕死のガーネットも、絶望に染まるダイヤも、群青の魔族には何の問題でも無いようだった。
 平然と問い掛ける群青の魔族。ダイヤは唇を噛み締め、言葉を待つ以外に方法は無い。


「この男はお前を此処から出す為、俺に抗議して来たんだ」
「ガーネット……!」


 群青の魔族が、言った。


「如何する、ダイヤ?」


 問い掛ける群青の魔族。ダイヤは俯き、振り絞るように言った。


「ガーネットを……、ガーネットだけは、助けてくれ」


 ダイヤの表情は見えない。けれど、笑っている筈も無かった。
 群青の魔族が、満足そうに微笑む。


「ならば、選べ。お前にとって、この男は大切なんだろう?」
「そうだ」
「お前をその牢獄から解放し、この男を救う方法がある。……今此処で、この男を殺すか、記憶を消すか」
「記憶……?」


 ダイヤが訝しげに眉を寄せる。


「お前と過ごした日々、全ての記憶をこの男から消す。そういうことだ。記憶を失ったこいつが、その後、生きていたいと思うか如何かは別の話だがな」


 群青の魔族の提案は、余りにも非道だった。
 それでも、ダイヤは択ばなけれなならなかった。この場所に監禁されるよりも、ダイヤにとっては大切なものがあった。だからこそ、ダイヤは俯き、奥歯を噛み締める。
 群青の魔族が、愉悦交じりに言った。


「選べ。過去か、未来か」


 ガーネットを今此処で殺すか、ダイヤと過ごした記憶を消すか。
 その選択は、ダイヤにとってはこれ以上に無い程に難しいものに違いなかった。ガーネット以外に居場所を持たないダイヤにとって、その記憶を消されることは居場所を、生きる意味を失うことに等しかった。けれど、ガーネットが生きられる未来を捨てることも出来ない。
 ガーネットが此処で死ぬか、自分の生きる意味が此処で死ぬか。非道な選択を、ダイヤは此処で下さなくてはならない。ダイヤの選ぶ答えが、ルビィには解るような気がした。


「俺は、未来を選ぶ」


 嗚呼、とルビィは思う。
 ダイヤは、賭けたのだ。この場所でガーネットが消えることよりも、長命な魔族が生きて何時かその記憶を取り戻してくれることを。終わることは容易いけれど、続きを選ぶ困難の中で、絶望が希望に変わることを願ったのだ。
 それが例えどんなに辛く苦しい道だとしても。


「俺は、ガーネットに生きていて欲しい。それを例え、ガーネットが望まなくても」


 青い目は、何の迷いも無い。その覚悟が痛い程にルビィには伝わって来た。
 自分の命か、ガーネットの命か。そういう選択肢だったなら、ダイヤには迷う理由すらなかっただろう。ダイヤの願いはただ一つだった筈だ。
 富も名声も何も求めてはいなかった。ダイヤが、ガーネットが願ったものはただ一つだった。


――俺達、ずっと一緒にいられるかな?

――お前は探さなくていいんだよ。俺が、お前を必ず見付けてやるんだから



 一緒に、いたかっただけだった。
 ぼろりと、ルビィの目から涙が零れ落ちた。何十年にも及ぶ暴行でも、唯一の居場所を失う悲しみでも、非道な選択を強いられた中でも、涙一つ、泣き言一つ零さないダイヤの代わりに、ルビィは涙を零す。
 願ったものは、誰かに否定されるような間違ったものだったのだろうか。嗤われるような馬鹿げたものだったのだろうか。彼等の願いを、誰が否定出来るのか、誰が嗤えるのか。


「いいだろう」


 群青の魔族が、嗤った。それはダイヤの覚悟も、ガーネットの思いも理解しようとしない冷たい微笑みだった。


「お前の愚かな選択に免じて、その腕を戻してやろう」


 そうして掌を向けられた瞬間、失われた腕が現れた。ダイヤはそれを何の感慨も無く見詰めている。
 軋むように、牢の扉が開かれる。群青の魔族が言った。


「さあ、逃げるが良い。俺を楽しませてくれよ?」


 そして、今度はガーネットに向けられた翳された掌が、禍々しく光る。記憶を失ってしまうだろうガーネットに、ダイヤが言った。


「ガーネット。また、逢おう」


 其処で、暗転。
 何一つ見えない闇の中、ダイヤの声だけが響いていた。
 次に浮かび上がったのは、魔王城ではなかった。荒涼たる岩砂漠。見上げる程に大きな岩山の天辺で、満月を背に翼を広げたダイヤが立っている。その視線の先にいるのは、やはりガーネットだった。現在の姿に程近い二人の姿に、ルビィはその時系列を理解する。


「お前が、魔王様の末子、ダイヤか」


 弓を構えるガーネットの目には、あの頃のような温もりは無い。ただ、目の前の魔族を敵と見做している。
 ダイヤもまた、無表情にそれを見下ろしていた。


「そうだ。……お前の、名前、俺は知っているぞ」
「それが如何した。俺は魔王四将軍が一人、ガーネットだ!」


 武装したガーネットが吼える。


「サファイヤ様の命で、お前を連れ戻しに来た!」
「連れ戻す? ――何処へ」


 俺の居場所は、お前の隣なんだよ。
 声にせず、ダイヤが呟く。ガーネットは気付かない。
 矢が放たれた。それは恐ろしい速さで空気を切り裂き、ダイヤへと一直線に向かって行く。けれど、ダイヤは一太刀で切り落とし、不敵に笑った。


「相変わらず、馬鹿正直だな。動かない的ばかりを相手にしているからだ」
「ちィ……」
「腰の剣は飾りか? 来いよ」


 静かに、二人が構える。それは、在りし日の二人に良く似ていた。
 剣が交わされる度に、ガーネットが訝しげに眉を寄せる。記憶が無くとも、体が覚えている筈だった。ダイヤに剣を教えたのは、ガーネットなのだから。


「俺はもう、あそこには戻らない」
「時間の問題だ。全部、無駄な抵抗なんだよ!」
「無駄じゃない。――約束したんだ」


 銀色の刃を真横に翳し、ダイヤが鋭くガーネットを睨んだ。今まで一度として、向けたことのない視線だ。
 込められたのは憎悪ではない。一つの、覚悟だった。


「本当に欲しい物は、自分の手で掴み取るしかない」


 青い目が、刃の切っ先のように光った。
 静かに構え直したダイヤに表情はない。翼は広げられ、次の一撃に備えている。対峙するのは、ダイヤの望んだあの頃のガーネットではない。
 二人が切り結んだ瞬間、まるで雨粒ように覚えのある声が上空より降り注いだ。


――憎め


 ガーネットが、ビクリと肩を震わせる。


――憎め、恨め、呪え
――逃がすな、捕えろ、引き倒せ、縛り付けろ


 姿の見えない何者かが、強い口調で命令する。ガーネットは表情を強張らせ、剣を足元に落とした。
 状況を理解出来ないまま、ダイヤは思わず駆け寄った。


「ガーネット!?」


 その肩に触れるが、ガーネットは膝を着き顔を上げない。
 声は止むこと無く降り続いている。そして、静かにガーネットが顔を上げる。その紅い双眸に光は無く、まるで地の底を覗くようだった。


「ガーネット、」


 呼び掛けた瞬間、ガーネットの持つ剣が横薙ぎに振り切られた。防御も出来ず、斬撃を受けたダイヤが後方に吹き飛ばされた。腕を切り付けられたのだろう、鮮血が滴となって零れ落ちている。
 虚ろな眼差しを向けるガーネットが、正気であるとは思えなかった。ダイヤは、姿の見えない声の主に向って叫んだ。


「出て来い、サファイヤ!!」


 途端、降り注ぐ声は愉悦交じりの笑い声に変わった。それは聞き間違う筈の無い、あの群青の魔族の声だった。
 頭を押さえながら、剣を携えるガーネットは立っていることすら辛そうだった。忌々しげに、ダイヤが訴える。


「ガーネットに、何をした!?」


 くつくつと喉を鳴らし、群青の魔族――サファイヤが答えた。


「俺は命令しただけだよ。命を懸けて、ダイヤを捕えろと」
「命を、懸けて?」


 ダイヤは目を見開いた。
 目の前にいるのは、自分との記憶を持たないガーネットだ。そして、彼はサファイヤによって人形のように操られている。
 如何して?
 声にはせず、ダイヤが呟いた。
 如何して?
 如何して?
 如何して?


「ガーネット!!」


 青い目が、泣き出しそうに歪む。ダイヤは、人形のようなガーネットを縋るように見詰めていた。


「俺はただ、お前に笑っていて欲しかっただけなんだよ……!」


 それはまるで、贖罪のようで、祈りのようだった。
 サファイヤの声が、容赦無くダイヤの上に降り注ぐ。


「俺が憎いか? 殺したいか? 恨め、もっと呪え! それが、俺の力になる!」


 ダイヤの拳が、軋むように握り締められた。


「お前に自由等無い! 思考すら拘束され、俺の手元で飼い殺しだ!」


 ダイヤが――、顔を上げた。青い双眸には依然として、揺るぎない覚悟が浮かんでいる。
 次の瞬間、ダイヤは翼を広げた。ふわりと浮かび上がったダイヤは、姿の見えないサファイヤに向けて言った。


「あの時、俺は未来を選んだ。その未来を守る為なら、俺は何だってやる」
「また逃亡生活か?」


 命懸けで追って来るガーネットを守る為に、救う為に、終わりの無い逃亡をダイヤは選択した。


「やってみろ。ただし、お前を追うのはガーネットと、数百もの軍勢だ。一か所に留まることは出来ないだろう」
「いいさ、飛び続けてやるよ。――渡り鳥のようにな」


 白亜の翼が羽ばたかれ、抜け落ちた羽根は雪のようにガーネットの頭上へ降り注ぐ。
 上空を睨むガーネットの視線は鋭く、まるで親の仇だとでも言うようだった。それでも、ダイヤは願ったのだ。


「約束だ」


 そうして、ダイヤが拳を向ける。当然、二人のそれが重なり合うことは無い。
 それでも、ダイヤは笑って見せた。強がりであることは誰の目にも明白だった。満月に向けて羽ばたくダイヤを追える者がいる筈も無い。剣を杖にしたガーネットだけが、忌々しげに睨んでいた。





2013.11.9