25,Daybreak.
花弁が舞い落ちるように、雪が降り注ぐように視界は浸食されていく。やがて、ルビィの目の前には見慣れたダイヤが現れた。 「ダイヤ」 人形のように死んだ面で、ダイヤは青い双眸をまっすぐに向けている。その視線は合わない。何を見ているのだろうと、ダイヤの視線の先を探るが其処には何も無かった。 真一文字に結ばれていた口が開かれ、言葉を吐き出す。 「ガーネット」 これまで幾度と無く聞いて来た、彼の親友の名前だった。けれど、視線の先は闇に包まれ何も見えはしない。 其処で、ルビィは理解する。ダイヤの願いはたった一つだった。けれど、その願いを訴える相手はもう何処にも存在しないのだ。それでも祈らずにいられないダイヤを、誰が笑うだろう。誰が責めるだろう。縫い付けられたように、直立不動のダイヤは何を思うのだろう。 腕を切り取られても、何十年にも及ぶ暴行の中でも、親友に刃を向けられても、居場所を失い飛び続けることになっても、ダイヤは弱音一つ吐かなかった。彼が弱さを見せられる場所はもう、何処にも無いのだ。 「――おい、何してんだ」 たった今気が付いたというように、ダイヤはルビィを見た。其れは何時もと変わらない仏頂面だった。 ダイヤはつまらなそうに周囲をぐるりと見回し、問い掛ける。 「此処は何処だ?」 「貴方の、夢の中よ」 「ふうん。水中庭園にでも嵌ったか」 瞬時に状況を正確に把握し、ダイヤが顔を上げた。 「悪かったな、引き込んじまって」 何でもないように吐き捨て、ダイヤはそっぽを向いた。 あのダイヤが、謝罪した? ルビィは目を丸くする。けれど、ダイヤは気にした風も無く言った。 「もう十分休んだ。起きる時間だ」 「ダイヤ……」 「俺の夢で何を見たかは知らないが、夢は夢だ。さっさと忘れちまえ」 あれが全て夢だったとダイヤは主張するのだろうか。ルビィは訝しげに見る。 「ねえ、ダイヤ」 「何だよ」 「――苦しかった?」 ルビィは平静を保ちながら、問い掛けたつもりだった。けれど、声は震えていた。 本当に泣きたいだろうダイヤの心中を想像し、ルビィの双眸からは涙が溢れ出る。ダイヤは無表情でそれを眺め、答えた。 「解らない。考えたことも無かった」 過去を振り返り、涙を流す余裕等無かったのだ。何時だって神経を張り詰め、迫り来る魔王軍から逃れ、一か所に留まり休むことも出来なかった。剣を抱えて蹲るように眠るダイヤは、どんな夢を見ていたのだろう。翼を広げ飛び立つダイヤに、何が見えていたのだろう。ルビィには解らない。解らないから、解りたいと切に思った。 「私、馬鹿だから、貴方のこと、何も解ってあげられなかったね……」 ルビィの目から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。ダイヤは何時だってその身を挺して守ってくれたし、人間のことを解ろうとしてくれた。それに対して、自分は一体何をしてやれただろう。 その様をじっと観察していたダイヤが、静かに動き出す。呆れられても、怒鳴られても、手を上げられても当然だと思った。ダイヤに人間の心なんて解る筈も無い。けれど、ダイヤは右手をそっと差し出し、ルビィの頬を伝う涙を掬った。 「お前が泣く必要は無い。俺は解って欲しいとは思わなかったし、解ってもらおうと行動も起こさなかった」 安っぽい労りではなく、ダイヤは事実のみを述べている。けれど、無視することも可能だったダイヤが立ち止まり、涙を掬い取る理由をルビィは解っていた。 つまり、ダイヤは優しいのだ。本能のままに生きる魔族でありながら、その衝動を押し留めるだけの心の強さを持ち合わせている。 「夢でも事実でも、もう過去のことだ。同情も懺悔も、結局は自己満足だろう。余所でやれ」 突き放す物言いなのに、ダイヤはそのまま立ち去ることは無い。 その冷たい言葉の奥には、ルビィへの気遣いが隠れているような気がした。これまでも、ダイヤは歯に衣を着せぬ物言いで、冷たく突き放すばかりだった。けれど、それは相手を傷付ける為では無い。もしかすると、彼なりの労りだったのかも知れない。 「さあ、夜が明ける。夢はお終いだ」 ダイヤが言うと同時に、闇に包まれていた世界は静かに白み始める。夜明けの清々しい空気が肺に満ちて行く。ダイヤは背を向け、何処か遠くをじっと見詰めていた。 夢の世界が終わる。ルビィの意識が途切れる刹那、ダイヤの声がした。其れは幾度と無く聞き続けた、彼の親友の名前だった。 * 「――ダイヤ様」 声に反応し、ルビィが身を起こす。其処はあの白い部屋だった。 ベッドに沈むダイヤを、オパールが覗き込んでいる。立ち眩みを起こしながら、ダイヤの顔を見ようと近付く。ダイヤは既に覚醒して天井をじっと見詰めていた。其処にあの包帯は存在せず、宝石のような美しい双眸があった。 「オパールか……」 「はい。お久しゅう御座います」 「世話に、なったな」 「とんでも御座いません。それよりも、出過ぎた真似を致しました。申し訳御座いません」 オパールはその場に跪き、許しを乞うた。ダイヤはそれを片手で制す。 「いい。俺の失態だ。顔を上げてくれ」 言葉に従うように、オパールが顔を上げる。ダイヤは魔王の末子、オパールは魔王四将軍の一人。見慣れぬ遣り取りではあるが、これが本来の姿なのだ。 ダイヤはゆっくりと身を起こした。 「水中庭園に流れ着いたのか。幸運だったな」 「はい。此処なら、通常の魔王軍は入れません。如何か、十分に身体を休めて下さい」 「そうしたいところだが、嫌な予感がするんだ。オパール、遠視は健在か?」 「はい」 会話に入れないルビィはシトリンに目配せする。けれど、シトリンはダイヤをじっと見詰め、僅かに頬を紅潮させていた。 その様に呆れ、ルビィは肘で小突く。 「何、見惚れてんのよ」 「だって、あのダイヤ様よ。顔も、声も、振る舞いも、全てが完璧だわ」 そうだろうか。ルビィは眉を寄せる。 二人がこそこそと耳打ちし合っている間に、オパールは目を閉じ、言った。 「ダイヤ様。ガーネットは、あの場所にいます」 「……何故だ」 「理由は解りません。ですが、血塗れで、身動き一つしません。息はあるようですが……」 ダイヤが、ぎゅっと拳を握った。そして、身を起こし立ち上がった。 身体の傷は全て痕すら残さず癒えている。けれど、あのような夢を見ながらして十分な休息を取れているとは、ルビィには思えなかった。 「行くのですか?」 「ああ」 「貴方の知るガーネットはもう、いないかも知れません」 「それでもいい。俺は、あいつに生きていて欲しいから」 その青い目は、既に覚悟を決めたように前を見詰めている。状況を理解出来ないまま、ルビィが慌てて問い掛ける。 「ダイヤ、何処に行くの」 「お前は知らなくていい。知らなくていいし、付いて来なくていい」 「如何して!」 「死ぬからだよ」 びしりと言い放ったダイヤに、迷いは無かった。 それまで黙っていたシトリンが、小首を傾げ問い掛けた。 「ダイヤ様は、如何して人間と旅をしているのですか?」 出立の仕度を始めていたダイヤは、虚を衝かれたように目を丸くした。 そして、――笑った。それはルビィが初めて見る、ダイヤの現実の笑顔だった。 「誰かと旅をするのが、俺の夢だったんだ」 その『誰か』が指すものをルビィは知っている。ダイヤが言った。 「こいつ、此処で預かっていてくれないか?」 「人間を、ですか?」 「そうだよ。人間と魔族、相容れないことは多い。共存なんて、平和呆けした馬鹿の理想論だ」 ダイヤははルビィへ一瞬視線を投げ、訝しげなオパールを真っ直ぐに見詰めた。 「そうして否定し拒絶することは容易い。でも、一度それを受け入れてみろ。価値観が引っ繰り返るぜ?」 そう言って、ダイヤが悪戯っぽく笑う。こんな顔も出来たのかと、ルビィは感心する。 仕度を終えたダイヤに、オパールが申し出た。 「海面まで送ります」 「ああ、助かる」 自分抜きで進んで行く遣り取りに、ルビィは慌てて抗議した。 「ねえ、勝手に進めないで! 私一人で如何しろって言うのよ!」 「俺がいなきゃ、自分の未来一つ択べないのか?」 心底不思議そうに、ダイヤが言った。 「俺が死ねって言ったら、死ぬのかよ。違うだろ? 答えを誰かに求めるな。自分で考え、自分で責を負い、自分で判断し、自分で生きて行くんだ。そうじゃなきゃ、何の為に存在しているのか解らないじゃないか」 ダイヤの言葉は何時だって真っ直ぐで、道標のようにルビィを導いてくれる。 何時でも心に火を灯してねと、エメロードは言った。――ダイヤこそが、光だった。 「じゃあ、行こうか」 ダイヤは迷いの無い足取りで、部屋を出て行こうと歩き出す。従うようにオパールがそっと後を追う。 このまま消えていなくなってしまうような気がして、ルビィは叫んだ。 「ダイヤ、必ず帰って来なさいよ!」 振り返り、ダイヤが微笑んだ。消えてしまいそうに儚い笑みに、ルビィは胸が軋むような痛みを覚える。 何も答えることなく、ダイヤは出て行った。扉の閉まる音が、尾を引いて響き渡った。 |
2013.11.10