26,Dash.










 もしも、この世が戦乱でなかったら、一緒にいられたかな?

 気泡に包まれ海面へ着いたと同時に、ダイヤはその薄い膜を破って羽ばたいた。羽根を休める場所も無い大海原には、水生の生き物が身を隠し生活しているのだろう。地上で生きられない魔族は、水中や地中に逃れる他無かったのだ。
 水面に顔だけを覗かせたオパールが、心配そうに此方を窺っていた。ダイヤはゆっくりと羽ばたきながら言った。


「なあ、オパール。百五十年前のこと、覚えているか?」


 問えば、オパールが苦々しく表情を歪めた。
 百五十年前、ダイヤが魔王城から逃げ出した時のことだった。ガーネットを失ったダイヤに行く当て等、何処にも無かった。ただ、逃げなければならなかった。羽を休める場所も方法も知らず、どれ程の間飛び続けたのかダイヤにはもう解らない。疲弊したダイヤが海へ転落した時、救ってくれたのはオパールだった。
 魔王四将軍の一人だったオパールは、ダイヤの状況を知りながらも安全な水中へ匿ってくれた。微温湯のような其処でダイヤは身体を休め、傷を癒し、また羽ばたく為の方法を教えてくれた。


「勿論、覚えています。あの頃のダイヤ様は、ボロボロでしたから……」


 当時のダイヤを、オパールは思い返す。
 広げられたばかりの翼は無理な飛行で、所々羽根が抜け落ちボロボロだった。そして、その目に光は無く、そのまま消えてしまいそうだった。
 休息も食事も、当時のダイヤには有り得なかった。心を許す場所も存在しなかったのだ。だからこそ、オパールは無理にでも食事をさせた。ダイヤの身体は食物を受け付けなかった。けれど、人間の成長過程を辿る離乳食のように、ダイヤは消化と嘔吐を繰り返しながら回復して行った。


「お前には、何時も助けられているな」
「そんなことは御座いません。私にとっては、ダイヤ様が生きておられるということが、何よりの救いでした」


 ダイヤが水中へ転落した頃、オパールは実の息子を戦乱によって失った。魔王軍の幹部であった息子は、些細な失言で魔王の逆鱗に触れ、処刑されたのだ。その悲報を受け、悲しみに暮れたオパールは水中に引き籠っていた。そんな時に、ダイヤが現れたのだ。
 死んだ息子の代わりというように接している内に、情が芽生えた。裏切り行為と知りながら、ダイヤを渡す気にはなれなかった。


「貴方が、私の生きる希望でした」


 羽ばたき続けるダイヤに向け、オパールは切に訴える。死地に向かう嘗ての息子のように、ダイヤを行かせることは胸が張り裂けるような苦しみだった。もう同じ悲しみを味わいたくは無い。
 ダイヤは微笑んだ。


「ありがとう。俺は、此処に辿り付けなければ死んでいただろうな」


 他意も無く、純粋にダイヤは言った。その自分の命を軽んじるような言葉は、間違いなくダイヤの本音だった。
 だからこそ、オパールは伝えなければならなかった。


「ダイヤ様、生きて下さい。死んではいけません」


 ダイヤは目を伏せた。答えられる訳も無かった。
 死にたいとは思わない。けれど、死んでも構わないと思う。――命を懸けてでも、手に入れ得たいと思うものがある。取り戻したいものがある。


「私に、二度も息子を失う悲しみを、味わわせないで下さい」
「息子、か」


 ダイヤに母親の記憶は無い。考えたことも無かった。ダイヤの育ての親はガーネットだ。物心付いた頃から傍にいて、守って、育ててくれた。
 けれど、もしも、母親と呼ぶのならば。


「俺にとっての母親は、きっとあんただったよ」


 そうして微笑むダイヤの言葉に、嘘は無かった。オパールは俯いた。涙が、溢れている。
 平和な時代ならば、共に過ごせただろう。けれど、戦乱でなければ出会えなかった。何を恨む、何を憎む。時代は坂道を転がり落ちるように戦乱へと嵌り込んでしまったけれど、それ以外の道が有り得るのかも知れない。


「じゃあな」


 ダイヤは大きく羽ばたいた。餞別だとでも言うように、水面には無数の白亜の羽根が浮かんでいる。
 オパールはその姿が見えなくなるまで見送っていた。
 荒涼たる大地、痩せた岩砂漠、大海原、天を突く山々。ダイヤはこれまで、多くの景色を独りで見て来た。姿を隠し、同胞から逃れ、親友を人質に取られ、休む間も無く飛び続けた。けれど、今は違う。親友を助けに行くのだ。
 腰に剣は差してある。体力は万全と言えないけれど、十分だ。
 魔王城に近付くに連れて、瘴気と呼ばれる腐った空気の臭いが強くなる。嘗てはダイヤもこの中で生きていた筈なのに、外界を知り、日光や吹き抜ける風を知れば二度と戻りたいとは思えなかった。通常の生物は瘴気に耐え切れず死ぬだろう。魔王城は光の差さない死の砂漠の中心にある。魔族でさえ無傷で砂漠を越えることは出来ない。翼を持たなかった当時のダイヤが、魔王城を脱出出来なかった要因の一つだった。
 まるで岩山のような強固な砦だ。内部は迷宮のように入り組んでおり、主である魔王の元へ辿り付くことは容易では無い。実の息子であるダイヤすら、魔王の顔すら見たことが無かった。魔王軍の大半は、同じだろう。顔すら知らぬ相手に従う理由が、ダイヤには解らない。
 その魔王軍は、魔王城を護衛するように周囲を固めている。
 蟻の巣に似ていると、ダイヤは思う。突けば溢れる兵隊蟻だ。三下の雑魚に構う暇は無い。


「な、あれは!」


 上空を翔けるダイヤに気付いた魔族が、指差し声を上げる。ダイヤは剣を抜き放った。
 曇天の下に、鋭い鞘走りの音が響き渡る。瞬時に放たれた矢は視界を黒く埋め尽くして行く。
 此処を脱出した当時ならば、撃ち落とされる他なっただろう。けれど、今は違う。立ち向かうことが出来る。自衛することが出来る。
 空中で、ダイヤは見えない床を踏むように片足を起点に勢い良く旋回する。生み出される風は円を描き、襲い来る矢を一本残らず空中へ巻き取って行く。気流に呑まれた矢が静かに向きを変え、吹き飛ばされた。それは弓を構える魔王軍へ向け放たれていた。
 悲鳴。自らの放った矢を受けた魔王軍がばたばたと倒れて行く。それでも第二波、第三波と続く矢の雨。切りが無いとダイヤは更に翼を羽ばたかせる。白亜の羽根を舞い落しながら、生み出される竜巻は矢だけでなく魔王軍さえも呑み込み吹き飛ばして行く。それは一つの自然災害に似ていた。


「邪魔をするなあああ!」


 ダイヤが吼える。青い目には百五十年前から変わらない一つの覚悟がある。
 雑魚と称する魔王軍を蹴散らし、固く閉ざされた城門に切り掛かる。金属製である巨大な扉は、ダイヤの生み出す強大な気流を持ってしても開かない。


「無駄だ!」


 斬撃を弾かれたダイヤに、魔族が叫んだ。揶揄するような響きを持っている。
 けれど、ダイヤは距離を置き、剣を構え直す。


「無駄か如何か、やってみなきゃ解らないだろう!」


 ガーネットに教わった構えで、ダイヤは再度剣を振り上げる。
 当然のように弾かれた剣を、魔族が嘲笑う。


「その扉は、これまで一度として破られたことはない!」


 そんなことは、知っている。百五十年前のダイヤは、内側から逃げ出したのだ。この砦にも似た城は、外界より現れる敵に備え建てられている。魔族の本拠地だ。自分一人で破れる程、脆くはないだろう。
 けれど。


「一度も破られたことがないから、何だ。三下は黙っていやがれ。俺は、絶対に諦めない」


 脳裏に浮かぶのは、何時だって親友の笑顔だ。自分を導いてくれた掌だ。
 ダイヤは構える。大勢の敵に背を向けながら、見詰める先は強固な扉だけだった。


「本当に欲しいものは、自分の手で掴み取るしかないんだよ!!」


 悲鳴にも似た絶叫で、ダイヤは剣を振り上げた。銀色の光が一閃したと同時に、地を揺らすような轟音が鳴り響いた。
 これまで一度として破られなかった強固な城門が、ただ一人の魔族によって切り倒された。城内から漏れる僅かな明かりが、ダイヤの相貌を照らし出す。光を反射する銀髪は、まるで夜明けを告げる朝日にも似ていた。


「馬鹿な!」
「城門が破られたぞ!」
「早く、魔王様に報告を――」


 雑音のように騒ぐ魔王軍には一瞥もくれず、ダイヤは翔けて行く。
 嘗て暮らした魔王城は、百五十年の時を経て、何も変わりはしない。薄暗く、陰湿で、瘴気に満ちている。当時はそれでも構わなかった。たった一人の親友がいたからだ。
 覚えのある道を翔け抜けても、懐かしい等と間違っても感じたりしない。点在する灯火を頼りに、地下へ進むダイヤに魔王軍は化物でも見るかのように指を差し、逃げ惑う。
 地下へ向かう程、瘴気は濃く満ちて行く。肌が泡立つのは、純粋な寒さだけではない。百五十年前、サファイヤに吹き飛ばされた右腕が痛むような気がして、自分の弱さに嫌気が差す。
 滑り込むように角を曲がった瞬間、気配を感じてダイヤは動きを止めた。


「よう、ダイヤ様」


 日輪にも似た金髪、蕩けるような蜜色の瞳。
 見覚えのある魔族の青年。通常ならば敵である筈なのに、悪意を感じない。ダイヤは剣の切っ先を向けた。


「お前は……」
「忘れちまった? しゃあないか。百五十年前だもんな」


 誰だっただろうか。脳を急回転させて記憶を辿るが、思い出せなかった。純粋に、興味が無かったのだ。
 青年は苦笑交じりに、肩を竦めて見せた。そして、演技掛かった動作で恭しく頭を下げ、名乗った。


「魔王四将軍の一人、トパーズと申します。王子様」
「そのトパーズが、俺に何の用だ。邪魔するなら、お前も殺す」


 剣を向けるダイヤにも、眉一つ動かさずトパーズが言った。


「百五十年の時を経て、随分と物騒なことを口にするようになったな。嘆かわしいことだ」


 何も答えないダイヤに、トパーズは溜息を一つ零して道を空けた。


「あの可愛らしかったダイヤ様は、もういないのか。残念だ」
「気色悪いこと、言ってんじゃねーよ」
「まあいいさ。邪魔するつもりは無いから」


 呆気無く道を譲るトパーズを訝しげに見遣りながら、ダイヤは翼を広げた。
 敵じゃないなら、邪魔をしないならそれでいい。羽ばたき疾走するダイヤの背中に、トパーズの声が突き刺さる。


「頑張れよ、ダイヤ」


 遠い記憶の中で、確かに聞き覚えのある声だった。振り返る余裕等無い。ダイヤは地下へ急いだ。





2013.11.10