28,慟哭










 突風のように螺旋階段を翔け上がって行く。舞い落ちる白亜の羽根と、滴る鮮血。追い掛ける大勢の魔族の兵を、翻るように躱して行く。
 ダイヤの脇には、ぐったりと力を抜いたガーネットが抱えられている。百五十年前とは逆の立場だった。重傷も気にならないように、進むダイヤの羽根は力強く空気を掻き分けて行く。右肩と左足を撃ち抜かれた傷は既に癒え始めている。ダイヤ自身の治癒力は魔族の中でも著しく高い。対照的にガーネットばかりが出血を押さえられずにいた。
 早く、早く、早く。
 速く、速く、速く。
 祈るように、縋るようにダイヤは前だけを見詰めて行く。放たれる矢は、翼によって生み出される風に吹き飛ばされる。何者も干渉出来ないような驚異的な速度で、ダイヤは進み続ける。今は一刻も早く、安全な場所へ避難し、ガーネットの手当をしなければならない。
 階段を抜けた先、薄暗く陰気な回廊へ辿り着いた。溢れ返る魔王軍を、羽ばたきによって一掃し、ダイヤは加速した。
 騒ぎに気付いたのか、脇に抱えたガーネットが僅かに反応を見せた。速度は緩めぬまま、ダイヤは中庭を横断し、侵入時に突破した城門を目指す。相変わらず厚い曇天は光を遮断し、瘴気が満ちている。ぐったりしていたガーネットが顔を上げ、ダイヤを見た。


「……ダイヤ?」
「もうちょっとで、魔王城から出られるよ」


 そう言ったダイヤの口元は、微かに弧を描いている。
 痩せ我慢でないそれは、自然とダイヤの表情に表れていた。けれど、ガーネットは口を開いた。


「俺を、」
「――置いて行けなんて言っても、俺は聞かないからな」


 ガーネットの吐き出すだろう言葉を予測し、ダイヤが口を尖らせる。
 前だけを見据える青い目に迷いは無い。ダイヤが言った。


「お前を連れて、飛ぶことが俺の夢だった」


 羽根が欲しいと願ったことがあった。地下牢ではなく、百五十年前のダイヤにとってはこの魔王城こそが牢獄だった。
 この場所から、逃げ出したかった。ガーネットを連れて、飛び立ちたかった。願うばかりの弱い子どもだった。でも、今はもう違う。親友を連れて飛び立つ力を得たのに、今更目の前の願いを捨てることなんて出来ない。
 ガーネットが口を噤んだのを幸いと、ダイヤは羽ばたき加速する。目の前にはあの城門が迫り、蟻のような魔王軍が犇めいている。


「俺の、邪魔をするな!」


 目にも留まらぬ速度で羽ばたかれた翼が生み出す風の波は、魔王軍を重なり合うようにして打ち倒して行った。
 ダイヤは滑り込むようにして城門を突破した。追い掛ける魔王軍の怒声等追い付きはしない。ただ、ダイヤの背に向って銀色の閃光が迫っていた。抱えられたガーネットが感付き、声を上げる。


「ダイヤ、後ろだ!」


 声に反応し、ダイヤが身を翻す。羽根を掠めた閃光は、先程見たサファイヤの魔弾だった。
 内心冷や汗を掻きながら、ダイヤは大空へ向かって翔け上げる。続け様に数発放たれた魔弾を、勢いよく回転しながらダイヤが紙一重で躱す。死を隣り合わせにした状況でありながら、ダイヤは鼓動が高鳴るのを感じた。全ての魔族が持つ強烈な闘争本能だった。
 交戦したいと、脳が訴える。けれど、脇に抱えた重さがそれを押し留めてくれる。


「あいつは、逃げられたんだろうな」


 サファイヤが追って来るということは、トパーズが彼を押さえられなくなったということだ。
 一瞬の隙を作った後は逃げると言っていたけれど、胸の中に嫌な予感が掠める。ダイヤの呟きを拾い上げて、ガーネットが答えた。


「まあ、あいつなら大丈夫だろ。要領良い奴だから」


 その言葉を信じるしかないダイヤは、曇天を突き抜けた。
 太陽は既に沈み、満月が大きく浮かび上がっていた。曇天の上に広がる幻想的な夜空は、地上の戦乱など知らないように美しく存在している。
 静まり返った周囲に、ダイヤの羽ばたきだけが聞こえていた。予想外に上がった息を整えながら、ダイヤが言った。


「ガーネット」


 脇に抱えたガーネットが、顔を上げる。
 ダイヤの白い面を、月光が照らしている。星を鏤めたような煌めく青い双眸に、ガーネットは目を奪われた。ダイヤが、くしゃりと顔を歪めて笑った。百五十年前と変わらない、親友の笑顔だった。
 百五十年。人間は勿論、弱い魔族ならば死に絶える程の長い月日だ。けれど、二人は時を経て再会することが出来た。
 羽ばたき続けるダイヤの翼は、何処かぎこちない。ガーネットに気付かれたと知ると同時に、ダイヤはゆっくりと高度を落とした。分厚い雲を突き抜け、再び現れた其処は魔王城から離れてはいるが、死の砂漠だった。
 足を取られる砂漠に脚を下ろし、ダイヤはガーネットを背負った。翼は既に消えている。
 先程のダイヤの突入による騒ぎの為か、それともトパーズが撹乱でもしているのか、魔王城からは火の手が上がったようで曇天が紅く染められている。湿った風が瘴気と灰を連れて来る。
 降り注ぐ灰は静かに降り積もり行く雪の華のようで、幻想的な景色は何処か廃退的で、世界の終焉を思わせた。ダイヤは歩き出す。
 薄い靴底から感じる砂や岩石の感触が、今にも閉ざされそうな瞼を、衰退して行くような愚鈍な神経を覚ましてくれる。魔王軍の追跡か、乱闘騒ぎか、地の底を揺らすような轟音が今も響き渡り、破壊と再生を齎す時代のうねりが感じられるような気がした。
 酷使した身体の彼方此方が軋み、傷は癒えた筈なのに足を踏み出す度に痺れるような疼痛が入った。ダイヤは、重力に従って落下しようとする落第者を背負い直し、一瞬で凍り付きそうな吐息を極寒の空気に吐き出した。
 魔族すら生存出来ない死の砂漠に、一人分の足跡が刻まれて行く。積雪すら望めない乾いた大地だ。命を生み出すことも、育むこともない死の世界。視線の先に映る世界は何処までも灰色で、曇天によって月光は完全に遮断されていた。


――酷く、冷たい。


 ダイヤは身震いする。翼を持つダイヤは、歩行には余り適していない。
 終わりの見えない砂漠。目的地すら見えない。重荷を背負って、当て所無く歩き続ける。
 百五十年前、魔王城から逃げ出した時をダイヤは思い出す。あの時も、酷く凍えていた。寒くて、冷たくて、怖かった。何かに縋り付きたいと願った。助けてくれと祈った。けれど、回帰し溶けて消えてしまいそうな自身の存在意義を、耳元に届く微かな息遣いが繋ぎ止めてくれる。
 背負い込んだ同胞の僅かな心音が、立ち止まりそうな足を急かすように動かしてくれる。ぐったりと体重を預ける様は死体のようだが、背中から伝わる温もりがその命の存在を示してくれる。
 ガーネットは、生きている。
 そんなことが、ダイヤには泣き出したくなる程、嬉しかった。


「ガーネット」


 目頭が、焼け付くように熱かった。そのまま眼球が溶け出してしまうような気がした。
 呼び掛ければ、背中でガーネットが返事をするように僅かに身じろいだ。呼び掛けても碌な返事を寄越さないその無愛想な態度は、何年、何十年、何百年経っても変わることがない。其処に冷たさしか残さないでいてくれたなら、自分は決してあの鳥籠の外に出たい等と願わなかった。ガーネットが存在しなければ、生きたいとは祈らなかっただろう。


「ダイヤ」


 その声が自分を呼ばなければ、手を伸ばしはしなかった。この命が尽きる其の時まで、牢獄のようなあの場所で蹲っていられた。
 人間程の自己治癒力しか持ち合わせなかったガーネットが、指一本動かせないだろう重傷を負いながら、葉を食いしばって言葉を繋ごうとしている。噛み殺された呻き声の間に、ガーネットの懐かしい声がする。


「何故、だ」
「何が」
「何故、俺を」


 ぽつぽつと、灰色に染められた世界を、劣る鮮血が紅蓮に汚して行く。ダイヤは、自分の治癒力を分け与えることが出来たらいいのに、と切に願う。一刻も早く手当をしたいと思いながらも、翼を広げる余力も無かった。
 ガーネットが、言った。


「何故、俺を、助ける」


 お前が大切なのだという答えでは納得出来ない、頭の固い親友だった。
 心底解らないと酷く悔しそうに吐き出された言葉に、ついダイヤは笑った。体中を包む倦怠感や酷使した翼の鈍痛を堪えながら、口元にだけ浮かべた笑みは、自分でもぞっとする程、穏やかなものだった。


「理由が、そんなに大事かよ」
「何」
「友達を助けるのに、そんなに理由が必要なのか」


 ガーネットが、息を呑む気配がした。
 ダイヤは顔を上げ、曇天に舞う灰をぼんやりと眺める。


「なあ、ガーネット。覚えているか。お前が俺を見付けてくれた日を、名前を呼んでくれた日を、伸ばした手を掴んでくれた日を、外の世界へ背中を押してくれた日を。……この百五十年、俺は一度だって忘れたことは、無かった」


 耳が痛い程に静かな世界で、微かに聞こえる息遣いと拍動。
 返事なんて無くていい。ただ、其処にいてくれるだけで良かった。願ったものは百五十年前から変わっていなかった。
 掠れる声や、弱々しい心音や、消えそうな声にダイヤは気付いていた。気付いていて、気付かない振りをして来た。絶え間なく流れ続ける血液も、不規則に途絶えがちな呼吸も、全ては一つの結論へ導かれている。


「お前が大切なんだよ。それ以上の理由なんて、俺には無いんだよ」


 其処で、ふつりとダイヤは立ち止まった。先の見えない荒涼たる砂漠で、羽ばたける翼を閉ざしたまま、ダイヤは俯いた。
 指先が震えていた。心臓がいやに騒ぎ立てる。ダイヤにはその意味が解らない。ガーネットが、言った。


「俺にとっては、お前が生きる意味で、――希望だった」


 頑固で、真面目で、融通が利かなくて、貧乏籤ばかりを引いている。
 不器用で、厳しくて、優しい、――ただ一人の、親友だった。


「ガーネット……」


 絞り出すように、縋るように、吐き出すように、願うように、ダイヤが言った。それが、届かない願いだと解っていても。


「頼むから、どうか、死なないでくれ……!」


 絞り出すようなその願いが叶うことは、無い。
 風が止むように活動を終えた心臓に、ダイヤは崩れ落ちた。不規則な呼吸は、吸い込むばかりで吐き出すことが出来なかった。肉体的でない痛みが体中を駆け巡る。


「ガーネット……」


 歩行も呼吸も止めてしまいたくなる。こんなことは初めてだった。
 背負い続けるガーネットの腕はだらりと垂れ下がっていた。それが再びダイヤに伸ばされることは、未来永劫無いのだろう。
 返事がないと解っていても、ダイヤはその名を呼び続ける。希望の無いこの世界で、呼び続けることしか、出来ないのだ。


「あ、ああああ、ああああ……」


 慟哭。天を突くような悲鳴が、曇天の下に響き渡った。
 陽の光が差さないこの悪夢ような世界。ずるりと背中から、ガーネットの死骸が滑り落ちた。ダイヤはそれだけが救いだと言うように、強く強く、抱き締めた。百五十年――否、ダイヤが生まれた時から傍にいてくれた、親友だった。


「ガーネット!」


 返事が無いと、解っている。理性では解っている。
 けれど、それでも縋り付いてしまう。何もかも無駄だと解っているのに、それでもダイヤは祈るように死骸を抱き締めていた。


「ガーネット!!」


 声にならない声が、喉を引き裂くように溢れた。
 悲鳴にも似ていた。怒号にも似ていた。泣き声にも似ていた。それ以外、ダイヤに胸の内を制御する方法は無かった。


「あああああああァッあああああああああああああああああああああああぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああァアアァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああァァアァああああああああああアアアあああああああああああああああああ!!!」


 その瞬間、ダイヤの意識はふつりと途切れた。生物の存在出来ない死の砂漠で、金色の魔族がダイヤを抱えていた。
 トパーズだった。人形のように頭を垂れたダイヤの頬を伝うものを、トパーズは呆然と見詰めている。


「……もう、いい」


 今は眠れ。届かないと解っていながら、トパーズは祈るように言った。





2013.11.17