29,そして君は夢から覚めた










 ダイヤが瞼を押し明けた其処は、百五十年前と同じ地下牢だった。
 点在する灯火、冷たい石畳、強固な格子。全てが記憶の通りだった。けれど、ふと顔を上げた先、牢の中に誰かがいることに気付く。
 水中庭園の意思共有魔法の影響を受けているのだろう。ならば、これは一体誰の記憶なのだろうか。ダイヤには解らない。語り手無く進む物語はダイヤの興味も干渉も必要としない。それは偏に時代の流れにも似ていた。
 橙の灯りに照らされる影は、細く、消えてしまいそうに儚い。透き通るような銀色の髪を川のように流し、此方に背中を向ける様は女性のようだった。かつんかつん、と。ダイヤは背後からの足音に振り返る。闇の中から現れたのは、ダイヤの知らない少年だった。否、ダイヤが知らなかった頃の少年だった。


「ガーネット」


 届かないと理解していながら、思わずダイヤは呼び掛けた。
 ダイヤの知らないガーネットの幼少期。小柄で痩せっぽちで弱々しい。けれど、その紅い眼光だけは変わらず、貫くように鋭い。ガーネットは牢の前に立つと、言った。


「アレキサンドライト様」


 呼ばれたのは、牢の奥に座る女性だった。銀糸の髪を梳きながら振り返るその相貌は、目を疑う程に、美しかった。
 何より美しいのは、その宝石のような青い瞳だった。水中庭園の奥底を思わせる澄んだ美しい青は、其処に何の感情も見せず、ただ純粋に煌めいている。触れれば消えてしまいそうな儚い美しさだった。ダイヤは過去の映像を凝視しながら、胸に覚える奇妙な感覚に気付く。
 女性は、何かを大切に抱えていた。それは人形のようだった。けれど、よくよく見ればそれは生きた赤子だった。女性は形の良い口元に弧を描き、赤子をガーネットへ見えるように抱え直す。
 すっと目を細めたガーネットは、すぐさま其処へ跪いた。


「此度は、御出産、おめでとう御座います」
「……顔を上げて、ガーネット」


 言葉に従うように、ガーネットは顔を上げた。紅い瞳に映る女性は赤子をじっと見詰めていた。


「他人行儀な祝辞等、いらないわ。……身籠ってから、私は何度、この子を殺そうとしたことか」


 言葉の端々に滲むのは、隠しようもない憎悪だった。けれど、その赤子を抱く腕からは微塵も感じられない。まるで、その子が唯一無二の存在で、愛おしいと言っているようだった。
 ガーネットはすっと目を細め、問い掛けた。


「何故、そう為さらなかったのですか。……憎き魔王様の、末子でしょう」


 聞き覚えのある言葉に、ダイヤは耳を疑う。女性は答えた。


「それも良かった。けど、不思議なの。あの怨めしい魔王の血を引いていると知っているのに、この子が愛しくて堪らないの……」


 まるで、それが許されないことであるように、女性は赤子を掻き抱いた。ガーネットばかりが苦く顔を歪めている。


「予言を授かりました。――その子は、時代を替える歯車の一つである。全てを滅ぼす絶望と、全てを再生する希望を背負っている。……魔王様は、その子を殺すよう指示するでしょう」
「……ガーネット」


 女性は立ち上がり、格子の前まで歩み寄った。その両足は鋼鉄の枷に絡め取られていた。
 その牢がまるで鳥籠のように思え、ダイヤは唇を噛み締める。女性は言った。


「剣を貸して」
「……殺されるくらいなら、いっそ、母君であるアレキサンドライト様が……」


 絞り出すように、ガーネットが言った。


「その子も恨みはしないでしょう」


 ガーネットが目を伏せたその瞬間だった。女性は自らの腹に刃を突き立てた。
 夥しい程の鮮血が、まるで噴水のように噴き出した。赤い血液は牢を沈め、ガーネットを赤く染め、赤子を濡らした。女性は震える手で、赤子をガーネットへと手渡す。騒ぎに気付いた赤子が激しく泣き喚いた。
 見たことも無い程に蒼白となったガーネットが、言葉を失くし人形のように棒立ちとなっていた。女性は鮮血に塗れながら、噛み締めるように言った。


「……これで、我が一族の血を引くのは、その子だけになった。ならば、魔王も容易くその子を殺せまい」
「アレキサンドライト様……?」


 この世の終わりだと言うように泣き喚く赤子を、女性は愛おしむように撫でた。その手もまた血塗れだった。
 状況を理解し切れていないだろうガーネットに、女性は言った。


「その子の名前を考えたの。……ダイヤモンド。世界で最も強く美しい石の名前」


 女性が、笑った。


「ダイヤモンド……。いえ、ダイヤ。どうか、生きて。生き抜いて。貴方は私の、希望だから――……」


 ぷかり、ぷかり。
 水泡が視界を埋め尽くし、鮮血を消し去って行く。どれだけ苛烈な出来事も過ぎ去ってしまえば、こんなにも簡単に消える幻想にも等しいのだ。ダイヤはその場に膝を着き、両手で額を押さえた。
 アレキサンドライトと呼ばれたあの女性は、恐らくきっと、否、間違いなく、ダイヤの母親だった――。
 ダイヤの知らないガーネットの記憶。ダイヤの知らない母の記憶。消えて行くだけの水泡。もう二度と戻らない過去。それはきっと、走馬灯と呼ばれるものだ――。




「――ガーネット!!」


 勢いよく身を起こしたダイヤが居たのは、水中庭園だった。穏やかに流れる空気と、静かな空間。けれど、ダイヤは気を失う前の記憶を寸分足らず忘れてはいなかった。
 慌てて見回す其処に、意識を失う前と同じく血塗れのガーネットが倒れている。


「ガーネット……」


 そっと伸ばした指先が震えている。触れた先は氷のように冷たかった。
 いない。もういない。何処にもいない。返事も無い。伸ばされる手も無い。それは未来永劫、変わることは無い。
 気が触れたようにその名を呼び続けるダイヤの傍に、ルビィがいた。傷だらけ、血塗れで現れたダイヤの身に何が起こったのか等何も知らない。けれど、行先すら見失った迷子のようなダイヤの傍から離れることが出来なかった。
 返事が無いと解っていても、ダイヤはその名を呼び続ける。希望の無いこの世界で、呼び続けることしか、出来ないのだ。


「ああああ、あ、あ……」


 俯いたダイヤの頬を、大粒の涙が伝った。ルビィは目を疑う。――泣いている。あの、ダイヤが。
 縋るように、祈るように、願うように咽び泣いて、二度と目を開くことのない友達を呼び続けている。
 人間よりも遥かに強靭で長命な魔族。大いなる武力と揺るぎない強い意志を持った生まれながらの王が、ただ一人の友達の為に泣き叫んでいる。


「如何して、」


 ぽつりと零された問い掛けに答える者は無い。


「こんなことなら、何も望まなければ良かった……!」


 身を引き裂くような悲哀、悔恨、憎悪、憤怒。人が魔族を生み出したとされるあらゆる負の感情が、本能しか持たないという魔族のダイヤの中で溢れ、混沌と掻き混ぜられていく。
 何が、違うのだろう。
 人間と魔族は、何が違うのだろう。
 蚯蚓のように這いずりながら、ダイヤは、酷使され言うことを聞かない両足に引き摺られ転倒する。膝を着いたダイヤが、動かないガーネットを離すまいと必死に抱き締めた。己の内に猛り狂う衝動を抑え込むかのように、その掌の皮膚を破く程に強く拳を握った。紅い、血液だった。
 傲慢で、冷酷で、残虐な一面を持ちながら、友達の為に奔走し、信念の為に傷付いて、同胞の為に涙を流す――。


「ダイヤ……」


 ルビィが伸ばした手に、ダイヤが縋ることはない。ダイヤは未だ、動かないガーネットを抱き締めている。
 ダイヤの青い瞳から、溶けてしまいそうに止め処無く、透明な滴が流れ落ちる。嘗て彼がそうしたように、ルビィが指先で掬い取ったそれは熱を持っていた。


「貴方は、何を望んだの?」


 傍に膝を着き、諭すように、呼び掛けるように、ダイヤの嗚咽を掻き消さないように静かに問い掛ける。
 俯いたダイヤの青白い頬には無数の涙の粒が張り付いていた。


「ずっと、外に行きたかったんだ」


 掠れるような声で告げたダイヤは、血塗れガーネットの亡骸を握り締め離さない。


「世界を見てみたかったんだ。……鉄格子の間に見える大空を、吹き抜ける風を、照り付ける光を、舞い落ちる花を、降り注ぐ雪を、ずっと……」


 紅く染まった銀髪は輝きを失って、その面を覆い隠すように垂らされている。
 ルビィがダイヤの記憶の中で見た、あの凍えるような鳥籠の中から、ダイヤが憧れたもの。人は当たり前にあるその存在の価値に気付けない。


「貴方にとって、世界って何だった?」


 問い掛ければ、ダイヤは顔を上げぬままに言った。


「……醜悪で、不条理で、無慈悲で、冷酷……。それが、世界だった。そんなものの為にこいつを失うくらいなら、ずっとあの鳥籠の中にいるべきだったのかもな……」


 百五十年の時の中で、ダイヤが出会ったもの。
 傷付けばすぐに治癒するその掌を再度引き裂き、ダイヤが懺悔するように言葉を紡いで行く。


「そうすれば、何も失わず、何も知らず、ただ憧れていられた」


 たった独りきりの鳥籠で、与えられるもの全てを享受して、何も望まず呼吸を繰り返すだけの存在。
 連れ出したのはガーネットだった。その手を取ってくれたのは、世界を教えてくれたのはガーネットだった。けれど、ダイヤが本当に望んだのはきっと知識なんかじゃなくて、伸ばした手を掴んでくれる、傍にいてくれるだった一人の友達だった。


「私も、外に行きたかった」


 ルビィは、俯いたダイヤの頭を抱えるように抱き締める。子どものようだと思った。


「私が見た世界は残酷で、恐ろしくて、……哀しかった」


 滅ぼされた故郷も、人と魔族の共存を願い死んでいったコーラルも、疑心暗鬼の末に同胞を殺し続けた人間達も、人間と魔族の間に生まれ蔑まれたエメロードも、次第に生かされ時代に殺されたラピス・ラズリも。
 でもね。ルビィは言った。


「でもね、本当は温かくて、優しくて、美しかった。……それを、貴方が、ダイヤが教えてくれた」


 傲慢で冷徹で、ぶっきら棒で無愛想で。
 けれど、――温かかった。


「貴方が、私の世界だった」


 目を伏せたルビィの目から、涙が零れ落ちた。貰い泣きだなんて、子どものようだと自嘲した。けれど、涙は止まらなかった。
 祈っても縋っても願っても変わらない世界だ。子どものように泣きじゃくるダイヤは、ルビィに比べれば遥かに長い年月を生きて来た。けれど、そんな彼が世界を冷たいと称する理由をルビィはほんの少しだけ解ったような気がした。
 ダイヤは、優し過ぎる。でも、そういうダイヤでなければ、ルビィは此処にいなかった。
 こんな時、どんな言葉を掛けたら良いのだろう。ルビィには解らない。泣かないで、なんて言えない。この百五十年耐え続けて来た涙を止める権利なんて無かった。けれど、その姿は余りに辛かった。


「ダイヤ様」


 透明に輝く気泡を纏いながら、足音一つ立てず、日輪のような美しい金髪を後ろに靡かせ歩く。前を見据え逸らされない水色の瞳には強い意志が浮かんでいた。オパールは、衣服が汚れることも厭わずダイヤの傍に膝を着いた。


「ダイヤ様、良くぞお戻りになられました」


 恭しく頭を下げ、オパールが微笑む。けれど、ダイヤはガーネットを抱えたまま微動だにしない。
 オパールはガーネットの死骸をそっと撫でる。


「ガーネット、間に合わなかったのね……」


 固く閉ざされた瞼も、滴り落ちる血液も、冷たく固まるその身体も、全てが一つの結論に結び付いている。
 ガーネットは死んだのだ。もう二度と目を覚まさない。その事実は永遠に変わらない。だが、ダイヤだけがそれを受け入れられないのだ。
 オパールが言った。其処には慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。


「ダイヤ様、貴方は私の願いを叶えて下さいました。今度は、私の番。……貴方の願いを、教えて下さい」
「――一緒に、いたかったんだ」


 誰と、だなんて問うまでも無い。
 答えないまま俯いたダイヤを愛おしむように撫で、オパールは掌をガーネットに翳した。其処から溢れ出る金色の光は粒子となって蛍ように舞い上がる。
 それは太陽というよりも、流星に似ていた。
 ダイヤはゆるゆると顔を上げ、感情の籠らない目でオパールを凝視する。


「オパール?」
「……ありがとう、ダイヤ。私の息子……」


 美しい水色の瞳から、蕩けるように透明な滴が零れ落ちた。
 糸が切れた人形のように、ぱたりと翳されていた掌が落下する。力無く投げ出されたそれを、ダイヤは呆然と見ていた。思わず手を伸ばした先、オパールは静かに熱を失い始めていた。それは、肉体の死だった。
 死んだ?
 夢か現実か判別も付かない世界で、ダイヤはただその掌を見詰めている。
 何が、起こっている。何故、オパールが、死ぬのだ。
 解らない、解らない。ダイヤにとってガーネットは唯一無二の親友だった。そして、オパールは母親にも等しかった。如何して自分は、己の肉親とも呼ぶべき同胞の死骸に囲まれている?


「――ッ」


 喉の奥から何かが漏れそうになり、ダイヤは思わず喉を押さえようとした。その強張った指先を、誰かが弱々しく握った――。


「……ダイヤ……」


 それは、永遠に届かない筈の声だった。
 恐る恐るダイヤが目を向けた先、血のように紅い瞳に驚愕に染まった顔が映っていた。





2013.11.19