30,Hope.
この世は等価交換。何かを得る為には何かを失わなければならない。 生きて行く中では常に選択を強いられる。悩み抜いて決断を下しても、最期に残るのは結局後悔しかないのかも知れない。 ルビィは、ただ見ていた。 透明な棺に納められたオパールの遺体と、それをただただ見詰めるダイヤの伏せられた横顔。傷だらけのガーネットは、その様を無表情で眺めているばかりだった。ルビィは、起き上ることも儘ならないガーネットの隣で、ただそれ等をぼんやりと見ている。 この世には不思議なことが溢れている。魔法等と言う想像も付かない程に強大な力も存在する。その原理等、ルビィは知らない。けれど、結局その魔法すら等価交換なのだ。オパールが最期に放ったのは、そういう魔法だった。 「おい」 視線すら此方に向けぬまま、ガーネットが言った。周囲にいるのはルビィだけだった。 ガーネットはルビィの反応等気にすることなく、問い掛けた。 「俺を、恨むか?」 同じような問いを、以前も受けた。その時はダイヤだった。 ガーネットの口調には、憎悪も悔恨も無い。ただ、触れれば壊れてしまいそうに儚い、何処か寂しく悲しい迷子の泣き言のように聞こえた。 ルビィは、答えた。 「如何して、私が貴方を恨むの?」 「――ダイヤは」 ルビィは目を伏せ、言った。 「如何して? ダイヤが願ったのはたった一つだった。貴方と、一緒にいたかったって……」 「その為にあいつが負って来た代償に、それは見合うものなのか」 ダイヤが負って来た代償――。 百五十年の孤独。母と呼ぶに等しいオパールの死。それ等全てがガーネットの存在一つで帳消しになるのだろうか。それが彼の問いで、迷いで、悲しみだった。その苦痛を、ガーネットは共に背負って遣ることは出来ないのだ。 ルビィは言う。 「私には解らない。ダイヤと旅をして来て、私も幾つも疑問を抱いたけれど、その答えを出すのは今である必要は無いんじゃないかな」 即答出来る問いばかりではない。長い年月苦しみ抜いて出る結論もある。死ぬ時に悟る答えもあるだろう。 ガーネットは力無く「そうか」と言い、黙った。 周囲は、深海とは思えぬ程に温かい光に満ちている。オパールが造り上げた水中庭園は、その名に恥じない程に幻想的で美しい世界だった。目に見えぬ膜に隔てられた空間は、生息地の異なる魔族が共に生きられるよう、意思共有の魔法が掛けられている。それは言葉に依存しない綺麗な世界だった。 膜の向こう側では、名も知らぬ魚群が横切って行く。美しい珊瑚礁が世界を彩っている。争いの無い世界。 ガーネットは、再び問い掛けた。 「お前は何故、魔族と旅をしている?」 人間と魔族は相容れない生き物だ。二つの種族が世界の覇権を賭けて争う戦乱で、今も殺し合いは続いている。 疑問は当然だった。けれど、ルビィは何でも無いことのように答えた。 「私は世界を見てみたかった」 小さな寂れた山村が世界の全てだったルビィが、旅立った理由はそれだけだった。 明晰な頭脳も無い。自衛出来る力も無い。強力な異能も無い。ダイヤのように羽ばたく翼も無い。けれど、それでも、ルビィは世界を見てみたかった。純粋な好奇心だった。 「ダイヤに問われるまで、私は考えたことも無かったの。魔族とは、人間とは何か。生きるとは如何いうことか」 「その答えは、何時か出るのか」 ルビィは首を振った。 「解らない。でも、一つ思ったことがある」 其処で漸く、ガーネットがルビィを見た。美しい紅い瞳は血の色、命の色だった。 ルビィは紅い相貌をじっと見詰め、言った。 「人間と魔族が解り合えないなんて、私は思わない。ダイヤは、魔族に感情なんて無いと言ったけど、そうは思わない。だって――」 ルビィは、顔を上げた。視線の先には、憔悴し切ったダイヤがいる。 「ダイヤは、優しい」 感情のない生き物だったなら、ダイヤは百五十年も苦しみはしなかった。 ただの一度も羽根を休める事無く飛び続け、傷付くことも厭わず腕を広げ、独り膝を抱えて蹲る。ダイヤがもしも、何も感じない氷のような生き物だったなら、こんな思いはしなかったし、あんな顔をすることも無かった筈だった。 ガーネットが言った。 「そうだな……。あいつは優し過ぎる」 肯定を示し、ガーネットが問い掛ける。 「この戦乱の始まりを、お前は知っているか?」 唐突な問いに戸惑いつつも、ルビィは答えた。 「世界の覇権を賭けて、争っているんでしょ?」 「そうだ。だが、これは、二つの異なる種族の生存競争なんだよ」 ガーネットが言う。 「魔族は人間の負の感情から生まれた存在だ。だから、種によっては人を襲うし、喰らう」 「……ダイヤから、聞いたことがあるわ」 「人間から見れば、この争いは当然の防衛なのだろう。だが、魔族からも見てもそれは同様だ。……手前等の都合で勝手に生み出されて、持って当然の衝動を責められて、虐殺の対象にされたんだ」 強い憎悪の念や、嗜虐性から生まれた魔族が、人間を襲うのは当然だった。けれど、それを弾圧しようとする人間の何と因業なことだろう。 人間は魔族を一辺倒に悪者と言うけれど、その殺戮衝動を持ち合わせない魔族だっている。 「ダイヤが言っていただろう。強さが罪なることはない。その使い方を知らないことが、罪になると――」 ガーネットが、噛み締めるように言う。 本能のままに生きたラピス・ラズリを殺したのはガーネットだった。人間も魔族も関係無く殺戮し続けた彼等にも、殺す以外の選択肢があったのかも知れない。そうして、ガーネットは失われた命を悔いているようだった。 「俺は魔族、魔王軍の者だったからな。人間は皆等しく敵であるし、殺戮の対象で、それ以外の何者でも無い。どちらかが滅びるまでこの戦乱は終わらないと信じていた。だが、そうではないのかも知れない」 静かに、ガーネットが言った。 「滅ぼし合う以外の選択肢が、もしかすると存在するのかも知れない。……お前達を見ていると、そう思う」 其処で、ガーネットが僅かに目を見開いた。ダイヤが能面のような無表情で、此方へ向かって歩いて来ていた。 ガーネットとは異なる圧倒的な治癒力により、ダイヤの傷は一つ残らず癒えている。それでも、その相貌に滲む疲労感は拭えない。ダイヤは青い目を真っ直ぐ向け、言った。 「ガーネット」 その名を呼び、目の前まで歩み寄るとダイヤは強い光を目に宿して言った。 「俺は、魔王を討つ」 「……正気か?」 「如何だろうな……。もう、解らなくなっちまった」 肩を竦め、悪戯っぽくダイヤが笑う。 「敵討ちをしようとは思わない。後悔しても、失われたものは戻らないからな。後悔はあっても、俺は今あるものを犠牲に出来る程、割り切って生きることは出来ない」 オパールのように。 ダイヤが言った。 「過去が戻らないなら、俺は前だけを見ることにするよ。閉じ籠って苦悶するよりは、全力疾走の末に行き倒れた方が生産的だ」 強い目だと、ルビィは思った。同時に、優しい目だとも思った。 過去を捨てるのではない。過去を背負う為に、前を向くのだ。それが出来るから、ダイヤの優しさは弱さではなく、強さでいられるのだろう。 其処で漸く、ガーネットが強張った表情を崩した。 「お前らしいな。いいさ、行くと良い。その先にどんな答えがあるのか、見届けてやる」 「……一緒に、来てはくれないのか?」 その問いに込められた縋るような祈りに、気付かないガーネットではないだろう。けれど、ガーネットが言った。 「今の俺では、お前の重荷にしかなれない」 「その重荷こそが、生きる意味ではないのか?」 「或いはそうなのだろう。だが、お前は何かに縛られるのは嫌いだろう?」 不敵な笑みを浮かべるガーネットに、ダイヤはくすりと笑った。 「そうだな。縛られるのも、閉じ込められるのも嫌いだ」 「そうだろう。百五十年も背負って来たんだ。もういい加減、自由になれ。お前はお前の為に、生きるべきだ」 其処でダイヤが不思議そうに首を傾げる。 「俺は何時だって、自分の為に生きて来た。お前の隣が、俺の居場所だったんだよ」 当たり前のことのように、ダイヤは迷いの無い目で言う。ガーネットが言った。 「それだけで十分だ。飛び疲れた時には、此処に帰って来い。帰る場所さえ見失わなければ、それで十分だから」 渡り鳥だって、飛びっ放しではないだろう。止まり木だって必要だ。 これまでのダイヤに無かったその帰る場所があることが、どれ程の救いになるのか彼は知らない。ダイヤが笑う。 「帰る場所があるというのは、幸せだな」 たった一つでも縋るものがあれば、生きて行ける。それは人も魔族も同じだとルビィは思う。 何かを分け合うように、与え合うように二人が笑う。そういう関係性を羨ましいとルビィは純粋に感じた。 その時、ダイヤの背後より一つの影が現れた。 「――よう。すっかり、元気になったみたいだな」 金色の短髪と蜜色の瞳を持つ魔族が、口を尖らせて面白く無さそうに言った。 トパーズ。二人がその魔族の名を呼ぶ。ガーネットが言った。 「世話になったな、トパーズ」 「ああ。お蔭で、当分は隠居生活だな」 「好きだろう?」 軽口を叩き合う二人を、ダイヤとルビィは見ているばかりだった。 トパーズが言った。 「何だ、まだ、俺のこと思い出せないのか」 「……俺の知り合いか?」 ダイヤの言葉に、トパーズががっくりと肩を落とす。 「まあ、百五十年前だからな」 ダイヤが魔王城を飛び立った百五十年前。その言葉にダイヤが訝しげに目を細める。ガーネットが言った。 「こいつは空間隔離の魔法を使う魔王四将軍の一人だ。俺の記憶を封じたのも、蘇らせたのもこいつだよ」 その言葉に、ダイヤの目が細められる。 「お前が?」 「おいおい、感謝なら兎も角、そんな風に睨まれる謂れは無いぜ。俺だってサファイヤ様の命令に従っただけなんだからな」 ダイヤは鼻を鳴らす。 「命令をしたのが誰であれ、決行したのはお前だろう。その件に関して恨みはしないが、何も感じない訳では無い」 「百五十年前、もしも俺の魔法が存在しなかったなら、ガーネットは地下牢へ半永久的に閉じ込められることになっていたんだぞ?」 さらりとトパーズが言った。ダイヤは興味も無さそうに目を細める。 「もう終わったことだ」 「その通りだな」 ガーネットが共感を示す。 「百五十年前、俺は地下牢へ幽閉されることになっていたなら、すぐにでも自害していた。そうすれば、ダイヤの重荷になんてならなかった」 「……だから、もう終わったことだろう。これ以上の議論は不要だ」 はい、解散。 軽口を叩くようにダイヤが笑う。こんなにも表情豊かなダイヤを、ルビィは微笑ましく見ていた。百五十年もの孤独の中で張り詰めた糸が、漸く解かれたのだ。浮かれもするだろう。 ダイヤは頭上を見上げた。下半身を魚類の尾へ変化させたシトリンが、此方を何処か嬉しそうに見下ろしている。 「行くの?」 「ああ。……オパールのことは」 気まずそうに言葉を選ぶダイヤに、シトリンは楽しげな声を返す。 「オパール様は、常々仰っていたわ。自分が死ぬ時は、きっとダイヤ様の為だと。それから、死は終わりではない。其処から始まる何かが必ずあるって」 「そうか……」 「この場所は、トパーズ様の魔法で、オパール様の亡き後も守られ続けるでしょう」 シトリンが尾びれを揺らし、目に見えない膜の奥で微笑む。 「伝言よ、ダイヤ様。……生きなさい。そして、貴方の望む答えを見付けなさい。貴方は、私の希望だった」 そうして、シトリンは美しい微笑みを浮かべ泳ぎ去って行く。尾びれの輝きが鏤められた星のように揺らぎ、消えて行った。 |
2013.11.24