31,生命の樹










 噎せ返るような湿気に、ルビィは眉間に皺を寄せる。周囲は湿気と、深い緑に包まれていた。
 水中庭園を後にし、ルビィは再びダイヤと共に旅立った。怪我の癒えぬガーネットを魔王の手の届かない水中庭園に残したダイヤは、柄にもなく後ろ髪引かれるような牛歩で翼を広げようともしなかった。百五十年の孤独の末に取り戻した居場所から、今度は自ら旅立つと決めたのはダイヤだ。それでも、離れてしまえば、再び失われるかも知れないという恐怖は拭えないのだろう。
 振り返りたいだろうダイヤが前だけを見て歩く理由は、自身の下した決断の為と言うだけでは無かった。


「息苦しいなー」


 間延びした暢気な声が、後ろで零される。
 魔王四将軍の一人、トパーズ。金色の短髪と蜜色の瞳をした魔族だ。結果的に魔王軍を裏切る形となった彼が空間隔離という魔法を使って、あの水中庭園を守っているという事実があり、旅を共にすることで何時でも異変に気付くことが出来ることから、ダイヤはトパーズを連れて再び旅立つことを決めたのだ。
 エメロード以来の仲間、それも協力的で戦力になる存在にルビィは頼もしさを感じる。だが、ダイヤはそうではないのだろう。
 百五十年前、ガーネットの記憶を封じたのはトパーズだった。恨みはしないが、何も感じない訳では無いとはダイヤの言葉だ。それはそうだろう。
 トパーズはまるで何も感じていないかのように、鼻唄交じりに歩いている。
 魔王城のある大陸から海を挟んだ小さな孤島を歩いていた。これまで見て来た痩せた大地とは全く異なる緑溢れる島だ。其処此処から生命の気配がし、色取り取りの草花が誘うように咲き乱れている。無数の果実が夢のように樹木にぶら下がっているが、得体の知れないものを口にする程、ルビィは不用心ではない。


「此処は豊かな島なのね」


 ルビィは、周囲を見回しながら言った。果実を啄む小鳥を見れば、それが毒を持っているとは思えない。
 空腹を感じるが、一向に手を伸ばそうとしないダイヤとトパーズに倣って歩いて行く。ダイヤが言った。


「何を持って豊かと称するかはそれぞれの価値観だ」
「だからさぁ」


 トパーズが言った。


「お前、固過ぎるよ。真面目か。そうだねーって言っておけばいいだろ」


 お気楽なトパーズに、ルビィは苦笑する。
 感情を面に出さないダイヤと旅を共にして来たから、魔族とはそういうものだと思っていた。けれど、ダイヤは魔族の中でも真面目で頭の固い優等生なのかも知れない。
 トパーズの言葉に気を悪くしたように、ダイヤが目を細める。


「お前の適当な言葉で、ルビィが何も考えず得体の知れない果実に手を出し、中毒死したら如何責任を取るんだ?」
「そんなの知ったこっちゃねーよ。旅は自己責任だろ」


 まるで、水と油だ。責任感の強い真面目なダイヤに比べ、トパーズはお気楽で無責任なのだ。
 ダイヤのそれは、百五十年の孤独で培って来たものだ。常に追われ、自衛し、安心して眠ることも出来なかったダイヤが、トパーズのような思考を出来る訳が無い。


「なら、お前が食え」
「何でだよ。俺は別に腹減ってねーよ」


 暖簾に腕押し、柳に風。浮雲のようにゆらゆらと姿を変え、飄々とトパーズが笑う。
 エメロードとは異なる賑やかさに、ルビィは笑みを浮かべる。ダイヤに対して、こんな風に軽々しく突っ掛って行く者は今までいなかった。


「大体、此処は何処なんだよ。ダイヤ、ちょっと飛んで見て来いよ」


 こんな風に、ダイヤを顎で使おうとする者も今までいなかった。
 ダイヤは苛立ったように眉を寄せる。


「生命の樹」


 ぽつりと、ダイヤが言った。


「この島には、生命の樹がある」
「何だよ、それ?」
「詳しくは知らないが、生命の樹は生物に繁栄を齎す存在だそうだ」


 ほら、とダイヤが前方を顎でしゃくる。
 突如、視界は拓けた。進路を塞ぐかのように群生していた木々は道を開け、正面には大木を囲むようにして広場がぽっかりと存在している。小鳥の囀りも遠ざかる広場の賑やかさに、ルビィは眩しそうに目を細めた。
 広場は、人間の活気に満ちている――。
 魔族であるトパーズは咄嗟に身を隠し、広場を見て感歎の声を上げる。けれど、ダイヤは何時ものフードを被って正体を隠すことなく、訝しげに広場を睨んでいた。


「如何したの?」
「……いや」


 ルビィへ短く言葉を返し、ダイヤは歩き出した。広場からは香ばしい食物の匂いが溢れている。
 嘗て、ルビィは魔族の集落に入ったことがあった。其処では人間を家畜のように屠殺し、奴隷として売り捌いていた。目を疑う地獄絵図だった。けれど、その広場は人間に溢れている。
 ダイヤはフードを被った。トパーズがそれに倣う。
 此方に気付いた青年が、目を見開き笑みを浮かべる。


「お、旅人か」


 畏怖し虐げるのではなく、まるで歓迎するような物言いで青年が笑う。その声に気付いた周囲の人間が、活気に満ちた顔で集まって行く。
 青年はフードの下をそっと覗き、言った。


「魔族の者か。珍しいなー」


 何でもないことのように青年が言う。周囲の人間も同様だった。その対応に毒気抜かれたように、ダイヤとトパーズはフードを抜いた。二人の出で立ちに恐怖する者は無く、女は黄色い声を上げる。
 歓迎する集落の人間は明るい。こんな風に、人間が魔族を当たり前に受け入れる様を見るのは初めてだった。


「良い時期に来たなー。今日から丁度、収穫祭が始まっているんだ」
「収穫祭?」


 ルビィの問い掛けに、青年が目を向ける。


「あんたは人間か。そうそう。一年の収穫を、生命の樹に感謝するんだ。酒も食べ物も無料だからな。たっぷりと楽しんで行くと良い」


 そう言って、青年は人込みに混ざって行った。
 どうやら、この活気は祭りによるものらしい。嘗て魔族の集落へ入った時を思い出し、身を固くしていたルビィは肩の力を抜く。トパーズは早速傍の机に並べられた果実を手に取り、口へ運んだ。


「……毒は無さそうだぞ?」


 トパーズの言葉に、ルビィも同じ果実に手を伸ばす。ダイヤは何も言わない。
 口に運べば、瑞々しい果実の触感と甘さが口の中に広がった。体に異変は、無い。


「美味しい……」
「なあ?」


 トパーズと共に咀嚼を続けるが、ダイヤの表情は何かを思案するように曇っている。トパーズは机上の果実を一つ取ってダイヤへ投げた。


「何、小難しい顔してんだ。食える時は食っておけばいいんだよ」


 安楽的だが、正論だ。
 ダイヤは訝しげに眉を寄せつつも、果実に噛み付いた。ダイヤが咀嚼する様をルビィはじっと見詰めていたが、異変は無かった。


「なあ、美味いだろ。いいじゃねーか、それで」


 そう言って、トパーズは空腹を満たすべく人込みの中へ迷いなく突き進んで行った。
 残されたダイヤは手中の果実を見詰めている。


「……毒でも、入ってるの?」
「いや」


 ダイヤが首を振る。こんな姿は初めてだった。
 ルビィに比べ遥かに博識なダイヤも、迷う時があるのかと密かに感心する。ダイヤの視線は果実から上がり、広場中央の大木を見ている。恐らくそれこそが、生命の樹なのだろう。常軌を逸した大木ではあるが、見掛けは普通の樹木だ。
 其処で、ぽつりとダイヤが言った。


「以前来た時は、魔族の集落だった」


 その言葉の意味が解らないまま、問い掛ける間も無くルビィは歩き出したダイヤを追った。
 広場は何処も彼処も祭りに浮かれ活気と賑わいに満ちていた。ダイヤの姿に驚く者はいるが、畏怖し避ける者はいない。既に人込みに溶けてしまったトパーズも同様なのだろう。
 此処には争いが無い。ダイヤは、何を持って豊かと称するかはそれぞれの価値観だと言った。けれど、飢餓に餓えることなく、寒さに凍えることなく、差別に怯えることのないこの場所は豊かで恵まれているとルビィは思う。
 広場を突き進み、ダイヤは大木の前に立った。見上げても天辺の見えない大木に、自然の強大さを思い知る。自然の前では、人間と魔族の諍いも実にちっぽけなものだ。
 ダイヤは幹に手を添え、問い掛ける。


「何が起こっているんだ……?」


 大木は何も答えはしない。けれど、その青々とした葉だけが風に揺れさざめいていた。
 祭りは夜も変わらず続いていた。周囲が闇に包まれると、幾つかの巨大な火が焚かれ、人々はそれを中心に輪を作って踊り始める。溢れる歌声と楽しげな笑い声に、ルビィは膨れた腹を撫でながら口元を綻ばせ見ていた。
 相変わらず小難しい顔をしているダイヤに、一つの果実が投げ寄越される。顔を上げた先には、それまで姿を見せなかったトパーズが立っていた。両腕一杯に抱えた果実や肉、酒の類に微笑ましく思う。此処にトパーズがいなかったら、ルビィはとても祭りを楽しく見物等出来なかっただろう。
 すっかり祭りを満喫しているトパーズに、ダイヤは苦言を呈す。


「気を抜き過ぎだ。何時何処で何が起こるか解らないんだぞ」
「お前は気を張り過ぎだよ。ちょっとくらい楽しんだって罰は当たらない。ガーネットは解放されて、お前は魔王軍から逃げるばかりでなく迎え撃てるようになったんだから」


 その通りだった。もう逃げるばかりではなく、襲い来る敵を容赦無く斃すことが出来る。
 けれど、ダイヤの表情は晴れない。


「何をそんなに小難しい顔してんだか」


 トパーズは溜息を零した。二人の性格は余りに違い過ぎる。
 ダイヤは言った。


「なあ、この収穫が何処から得られるか、お前は知っているか?」
「そんなの、周辺の森だろ。これだけ生い茂っているんだから」
「じゃあ、肉は? この集落には家畜がいないのに」


 その言葉に、ルビィはトパーズと共に周囲を見回した。トパーズは答えた。


「森にいる獣を狩ったんだろ」
「この集落には武器の類が存在しない。あっても、食物を切り分ける小さなナイフ程度だ」


 ダイヤに言われて初めて、その違和感に気付く。得体の知れない気味の悪さに、ルビィは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 トパーズは僅かに眉を寄せるが、気にした風も無く言った。


「そんなの、如何だっていいだろ。此処には美味い食べ物があって、腹いっぱい食ったところで誰も咎めない。餓えに苦しむ集落があれば、その逆だってあるさ」


 そんなものなのか、とルビィは肩の力を抜く。けれど、ダイヤは自衛するように腕を組んでいた。





2013.11.24