36,Period.
フェナジンの都は、相変わらず活気に満ちている。 ルビィは界隈を見渡しながら、それがジェイドの作り出す幻だとは如何しても思えなかった。擦れ違う人々のざわめきも、瑞々しい作物も、外界からの刺激を受け取る全ての器官が、それが現実だと訴えている。――けれど、それは幻なのだろう。 嘗ての繁栄を寸分足らず再現出来るまでに、ジェイドは過去へしがみ付いている。現実味を帯びたこの幻の存在こそが、彼の町への執着を感じさせた。彼が語った昔話。魔王軍でありながら人に介抱され絆されたという青年は、ジェイド本人だろう。人が死しても尚、恩に報いたいと願うジェイドは魔族というよりも、愚かで空しい人間のようだった。 トパーズはジェイドの手を引き、町を見渡せる教会の上へと上り詰めた。ルビィに見えるのは繁栄した人間と魔族が共存する都だ。 「ダイヤ!」 トパーズは、欄干から身を乗り出して声を上げた。呼び掛ける先、小高い住居の屋根にダイヤが立っている。 傍では風見鶏が強風に身を震わせている。強固な外壁の為に街路は殆ど無風だが、実際、町の外は冷たい風が吹き付けていた。教会の鐘突き場も同様だった。ルビィは風に泳ぐ髪を片手で抑え、町を見下ろすダイヤを見た。 呼び掛けられてもダイヤは見向きもしない。聞こえていないのか、無視しているのかは判別出来ない。広げられた白亜の翼が、日光を反射して眩しく光る。久方ぶりの日光に眩暈を起こしたジェイドが欄干に手を突き、ダイヤを訝しげに見ていた。 「白い翼……。まさか、あいつ、アレキサンドライト様の……」 「そうだ」 聞き覚えの無い名前に、ルビィが眉を寄せる。 「アレキサンドライト様?」 「ルビィには――否、人間には関係の無いことだ」 軽口を叩くように、トパーズが悪戯っぽく笑う。 信じられないというようにジェイドが驚愕に目を見開いた。ダイヤは町をじっと見下ろしている。 「何をするつもりだろう……?」 「決まっている。この町を、本来の姿に戻すのさ」 トパーズが声を上げた。 「やっちまえよ、ダイヤ!」 その声に、漸くダイヤが振り向く。相変わらずの無表情で、青い瞳からは感情等読み取れない。 けれど、大きく広げられた翼が一度、羽ばたいた。 「ジェイド」 決して大きな声では無かったけれど、それは確かにジェイドの元へと届いていた。 「これは俺の自己満足だ。だから、恨んでいい。憎んでいい」 ばさり、ばさり。強風を物ともせず、ダイヤは羽ばたく。 何をするつもりなのか、ルビィには見当が付いていた。 強固な壁に囲まれたこの町は、地下室に閉じ籠っていたジェイドと同じだ。変化に怯え過去の幻想にしがみ付き、其処から歩みを止めてしまった。そして、終わりの無い時をただ空虚に存在している。それは果たして、生きていると言えるのだろうか? ダイヤが羽ばたく度、空気が流れそれは大きな塊を生み出して行く。唸るような強風は嵐のようだった。欄干を握り締め、ジェイドが泣き出しそうに表情を歪めている。 「止めてくれ……!」 絞り出すようなそれは懇願だった。けれど、今更聞き入れる気も無いだろうダイヤは、賑わう街並みをじっと見詰めている。 風が獣のように唸り、牙を向く。それは此処で生活する人や魔族を蹂躙する強大な自然災害のようだった。ダイヤの放った空気の塊は町に墜落し、有象無象を容赦なく吹き飛ばす。 「止めろおお!」 ジェイドの悲鳴が響き渡った。それを嘲笑うように、風は全てを呑み込んで行く。 高台にいる筈のルビィですら吸い込まれそうな強烈な引力だった。強風は賑わっていた界隈を翔け抜け、機械仕掛けの門扉を強引に抉じ開けた。長い間風の吹き溜まりであった町は腐った空気が蔓延していたのだ。それまで賑わっていた筈の人や魔族は強風に驚く事無く、正しくそれは幻想のように消え失せた。 吹き付ける風の中で、ルビィは確かに見た。整備された住居は雨風を凌げぬ程にボロボロで、生物の気配も食物の臭いも何処にも無い、既に死に絶えたフェナジンの都の本当の姿を――。 「これ、が……」 吹き付けていた風が静かに消えて行く。残されたのは、廃墟と呼ぶに相応しい街の亡骸だった。 人も魔族も存在しない。其処此処へ無秩序に建てられた無数の墓、崩れた家屋の残骸、乱れた街路、腐り枯れた植物の死体。ダイヤとトパーズには、初めからこの姿が見えていたのだ。ダイヤの称した地獄絵図の意味を理解する。 「う、うう……」 ぽたり、ぽたり。 ジェイドの緑色の瞳から、透明な滴が零れて行く。人間と変わらぬ涙だ。 こうした魔族の姿を見る度に、ルビィは疑問に思うのだ。誰かの為に血を流すダイヤ、涙を零すジェイド。人間と、一体何が違うのだろう。 町に蔓延する毒の残骸と共に幻想を吹き飛ばしたダイヤは、死に絶えた街並みを静かに見下ろしていた。幻覚は視覚や聴覚、嗅覚等へ働き掛けて作り出される。風によって打ち消したその行為はきっと、ダイヤにしか出来なかった。 ジェイドの行為は不毛だった。けれど、それを誰が否定出来るのか。町が死に絶えてから、ジェイドは長い時をこの町で過ごして来た。町民の墓を其処此処へ建て、供養し、――過去へ縋った。それが自身を蝕む毒だと知っていても、そうしなければ生きられなかった。 ふわりと、風が優しくルビィの頬を撫でた。欄干に着地したダイヤが、咽び泣くジェイドを見下ろしていた。 「そうやって、何時までも泣いていろ」 侮蔑するような冷たい物言いに、恐らくきっと意図は無い。ダイヤは思うことをくちにするだけだ。 「現実逃避も大概にしろよ。始まりが在れば、終わりも在る。この町の生きた証を、自己満足の薄っぺらい嘘で誤魔化すな」 確かに悲劇があったのだろう。それは長い時を生きたジェイドが、過去に縋り閉じ籠ってしまう程に。 けれど、此処にあったのは悲劇だけではない筈だ。どんな終わりがあったとしても、生きた証すら消し去ってしまうのでは、余りに空しい。 黙ったジェイドに背を向け、ダイヤは翼を丁寧に畳み込む。白亜の翼は忽然と消え失せ、ダイヤは何事も無かったように上衣を翻して階段を下って行った。 残され、トパーズがやれやれと悪態吐く。 「遣り方は強引だが、間違ってはいない。あいつは正しい」 「……でも、正論が正解とは限らない」 ルビィの思わぬ返答に、トパーズが目を丸くした。 顔を伏せるジェイドの傍で、ルビィは言った。 「私の故郷も滅んだの」 ジェイドが、僅かに顔を上げた。ルビィは感情の無い目で続ける。 「ダイヤを追う魔王軍の侵攻によって、一夜で滅ぼされた。両親も同胞も皆無残に殺された」 「……ダイヤが、憎くないのか?」 「魔王軍の侵攻を避ける為に離れようとしたダイヤを、理不尽に拘束したのは村の人だったもの。人間だけの村だから、異物を受け入れらなかったんだね」 丸腰のダイヤを拘束したのは、村人だった。それでも、あの強靭な翼があれば逃走も殺戮も可能だったダイヤがそうしなかった訳を、恐らくきっとルビィは知っている。 ダイヤは、知りたかったのだ。百五十年の孤独の中で見た人間と魔族を、自らが傷付くことも厭わず深く知ろうとした。結果、ガーネットの率いる魔王軍が侵攻し、村は滅ぼされたのだ。 「それに、魔王軍の侵攻を食い止め、生き残った村人を逃がす為に独りで戦ってくれたのも、ダイヤだった」 当時はダイヤの抱える事情等知らなかった。けれど、あの頃のダイヤは対峙したくないガーネットに、恨みこそすれ守る義理も無い人間の為に剣を向けた。 「私、その時に思ったんだ。人間と魔族。一体何が違うんだろうって。……目の前にある命を、守りたいと思う気持ちはきっと同じだって。誰かの為に傷付くことも厭わず、自分のことのように涙を流す。それは、人間も魔族も同じだよね?」 問い掛ける口調でありながら、ルビィは答えを求めていなかった。思想の違いは、個々の違いだ。それを押し付け合った結果が戦争だろう。 それまで黙って聞いていたジェイドが、問い掛けた。 「何故、旅を?」 「知りたかったの。人間とは何か、魔族とは何か。世界とは何か、生きるとは何か、知りたかったし、見てみたかった」 単純で幼稚な理由だった。けれど、それは事実だ。 何かを考えるように逡巡するジェイドに、トパーズが言った。 「どうせ、行く当ても無いだろう? 一緒に来いよ、ジェイド」 「……そうだな。俺も、見たみたくなったよ」 涙を拭い、ジェイドが不敵に笑った。 「アレキサンドライト様の忘れ形見の行く末をな」 視線の先、爽やかな風に吹き抜ける街路を歩く背中が見える。振り返らないが、牛歩で進むダイヤだった。 ルビィは聞き慣れないその名を胸に刻む。アレキサンドライトと呼ばれる物が何者なのかは知らないけれど、恐らくダイヤにとっては深い縁の者なのだろう。ルビィは少しずつ小さくなるダイヤを追い掛け、勢いよく階段を駆け下りた。 |
2013.12.8