38,Child.










 吹き付ける寒風が物悲しく鳴いている。草原を抜けた先、森に囲まれた寂れた小さな町は、タートラジンと呼ばれている。魔族の存在しない純粋な人間だけの町だった。
 魔族に対して排他的な町を知るトパーズとジェイドは進入を避け、薄い壁の外で待機している。怖いもの知らずか、高を括っているのか、ダイヤは何時ものフードを深く被り、人間の群れに紛れ込んでいる。
 タートラジンの街路は人間が僅かに行き来する。これまで見て来た都と呼ばれる町に比べ、寂れているとルビィは感じた。けれど、故郷に比べれば遥かに恵まれている。貧富の差は少なく、寒さに凍えることも、餓えに喘ぐことも無いのだ。人間同士の差別も無い。けれど、其処此処を闊歩する鎧を纏った兵隊が際立っていた。
 民間人は兵隊を恐れることは無い。けれど、兵隊は壁の外を警戒し武器を携えている。物々しい雰囲気を感じ、ルビィはダイヤの傍に身を寄せ声を潜めた。


「何かを、警戒しているみたいね」
「今更なことを言うな。人間が警戒するものなんて、一つしかないだろう」


 至極尤もな言葉に、ルビィは返す言葉を持たなかった。
 時代は戦乱だ。浮雲のように自由に旅をするダイヤと共にいると忘れてしまうが、人間と魔族は世界の覇権を賭けた戦争を何百年も続けている。魔族は、人間にとって天敵だった。
 街路を進むと、疎らだった人がどっと増えた。所謂商店街なのだろう。人々の顔も明るい。
 その手前、ダイヤは足を止めた。


「……この先には入れないな」


 そう言って顎をしゃくる先、出入口では兵士が一人一人の顔を確認している。旅人らしき風体の者も多いことから、町民以外も入ることは可能の筈だ。それが、魔族で無ければ。
 顎に手を添え、何かを逡巡するようにダイヤは俯く。そして、言った。


「お前、行って来いよ」
「はあ?」


 フードの下で、青い目が細められた気がした。


「審査が厳しいからな。俺は入れない」
「何で、私が!」
「別に行かなくても、俺は困らない。お前が飢え死にするだけだ」


 そうだったと、ルビィは息を吐く。
 魔族であるダイヤもトパーズもジェイドも、空腹はそれ程感じない。人間であるルビィだけが定期的な食糧を欲し、休息を必要とするのだ。
 ほら、とダイヤが手を伸ばす。反射的にルビィは、それを受け取った。
 小さな小袋に纏められたそれは、人間の銀貨だった。


「俺は此処で待っていてやるから、さっさと必要な物を買って来い」
「……解ったよ」
「釣り銭、誤魔化されるなよ。無駄遣いもするな」
「解ったってば!」


 まるで子どものお使いだ。ダイヤに悪意が無いことは解っている。
 ルビィは渋々といった調子で歩き出した。振り返る先で、ダイヤがフードを被ったまま壁に凭れ掛かっている。此方を見ようともしないが、意識は向いているようだった。
 タートラジンの商店街は賑わっている。森で得ただろう果物や獣の肉が店先に積まれている。売り捌く威勢の良い声が其処此処から響き、界隈をより賑わわせていた。
 さて、とルビィは小袋の中を覗く。銀貨が数枚。ルビィの故郷では通貨が存在しなかった。けれど、これまでのダイヤの遣り取りを見て覚えている。
 必要な物は、当面の食糧だ。ダイヤに手渡された銀貨で買えるだけの食糧を買えば良いのだ。
 ふと、足を止める。独りきりになったのは、随分と久しぶりだった。
 周囲は人間しかいない。武器を携える兵士はいるが、彼等は人間を守る為に存在しているのだ。魔族でない自分は守られるべき存在で、命を脅かす者もいない。
 足を止めてじっくりと見ると、人々はそれぞれに異なった動きをしていることに気付く。商品を売る者がいれば、買うものもいる。兵士もいる。手紙を配る者もいる。子どもの手を引く女もいる。煉瓦を積む男もいる。それぞれが自分の役割を理解し、全うしている。こうして、この町は、世界は回って行く。
 自分の役割は、何だろう。ルビィは考えた。
 ――その時だった。
 どん、と鈍い音。ルビィの腰程の小さな子どもが衝突し、勢いよく通り過ぎて行った。あ、と気付いた時には手の中の小袋が無くなっていた。


「――だ、誰かその子、捕まえて!」


 叫び声に、人々が好奇の目を向ける。けれど、子どもは人々の間を縫うように擦り抜け、あっという間に消えて行った。ルビィもまた、必死にそれを追い掛ける。だが、既に子どもの姿は無い。
 辿り付いた商店街の路地裏で、ルビィは膝に手を突いて息を整えていた。


(……如何しよう)


 一度、ダイヤの元へ戻るか?
 否、戻っても、ダイヤはこの商店街へ入れない。幾ら魔族であるダイヤでも、出来ないことがあるだろう。
 嫌味の一つくらい言われるだろう。嫌だな、と目を伏せた先、壁に穴が空いていることに気付いた。子ども一人くらいなら十分に通れそうな穴は、古びた空箱によって巧みにカモフラージュされている。
 膝を着き、穴を覗き込む。薄暗い奥は見えない。
 ごくりと、生唾を呑み込む。この先に、何があるのだろう。丸腰の自分に何が出来るか解らない。でも――。
 ルビィは、身を屈めた。穴は細身のルビィですらぎりぎり通れる程度のものだった。薄暗いトンネルを四つ這いで進んで行く。賑わう商店街の傍とは思えぬ静寂な空間だった。
 トンネルは、唐突に終わった。


「あっ」


 声が、した。
 光に慣れない目に、小さな影が映る。其処にいたのは、みすぼらしい小さな子どもだった。けれど、その少年は間違いなく小袋を持ち去ったあの子どもだった。


「貴方は――?」
「おい、ジルコン!」


 子どもが、慌てたように声を上げた。まるで追われた野鼠のように、子どもはあっという間に物陰へ逃げ込んで行った。
 周囲は張りぼてのようなあばら家が乱立している。整備などされないそれらは風が吹けば崩れてしまいそうだった。
 呆然と周囲を見回すルビィの前に、一つの影が躍り出た。


「てめぇ、何者だ!」


 棒切れを構えた少年が、此方を睨んでいた。
 ボロボロの衣服、汚れた帽子、傷付いた面。痩せっぽちながら、その相貌は強い眼光を放っている。
 この目を知っていると、ルビィは思った。不意に、声が脳裏を過った。


――何故、自分で考えない!


 出会った頃の、ダイヤの叫びだった。
 そうだ、この少年は、ダイヤに似ている。目も髪も、顔付きも体型も、何もかもが違うのに。そのやけに鋭い眼光だけが似ている。まるで餓えた獣のようだ。
 少年は自分に敵意を剥き出しにして、棒切れを此方へ向けている。臨戦態勢の少年に対して丸腰ながら、ルビィは怖いとは微塵も思わなかった。その少年に、今では見ることのないダイヤの噛み付くような敵意を見た。
 ルビィは、自分が酷く落ち着いていることに気付いた。目の前の少年が、ちっとも怖くなかった。


「私は、ルビィ。さっき、あの子にお金を盗られて――」


 あばら家に隠れて此方を窺う少年を指差す。すると、棒切れを持った少年ははっとしたように目を向けた。
 そのままいきり立って少年を掴み上げると、強く怒鳴り付けた。


「お前! 好い加減にスリは辞めろと言っただろう!」
「う、うえええん!」


 叱られた子どもが、声を上げて泣き出す。少年は溜息を零し、子どもが隠し持っていた小袋を取り上げた。
 それまでの剣幕を消し去った少年が、ルビィの元へ歩み寄った。


「……悪かったな。これ、」


 そう言って手渡されたのは、失った筈の小袋だった。ダイヤから預かった銀貨はそのままだった。
 ばつが悪そうに棒切れを下げ、少年が言った。


「俺はジルコン。こいつの、こいつ等の親だ」


 そう言ったジルコンの後ろには、ぞろりと子どもの群れがあった。
 大して年も変わらないだろう彼等が親子だとは、到底思えない。ルビィの怪訝な眼差しに気付いたジルコンが、言った。


「本当の親じゃねーよ。親代わりだ」


 ルビィは其処に、ダイヤとガーネットの姿を重ね見た。
 彼等は、似ている。
 ジルコンは棒切れを肩に担ぎ、言った。


「こいつのことはしっかりと叱って置くから、兵隊に突き出すのは勘弁してくれ。見た所、お前は町の人間じゃないんだろ?」


 ルビィは頷き、問い掛けた。


「貴方達、子どもだけで生活しているの? 大人は?」


 その問い掛けに、ジルコンは舌打ちした。まるで、当たり前のことを訊くなというような態度に、ルビィは一瞬たじろぐ。
 ジルコンが言った。


「大人なんていねーよ。いらねーし。俺達は、親に捨てられた孤児の集まりだからな」


 背を向けたジルコンに、ルビィは声を掛けられなかった。
 失言――。気付いた時には、もう遅い。追い掛ける権利すら、ルビィには無かった。
 どれ程、その場に立ち尽くしていたのかルビィには解らない。気付けば日は落ち、周囲はオレンジ色の光に包まれていた。我に戻ったルビィは、ダイヤのことを思い出す。今も、検問の傍で自分の帰りを待っている筈だ。
 抜け穴を通り、薄暗い路地裏の先。商店街が変わらず賑わっている。彼等は、知っているのか。この抜け穴の奥で、親に捨てられた子どもが大人の助けを借りず、彼等だけで身を寄せ合い生きていることを、彼等は知っているのだろうか。
 疑問を抱えながら、ルビィは必要な物資を補給して行く。パン、果物、肉、衣類。魔族であるダイヤ等に必要でない物だ。けれど、人間であるルビィには必要不可欠だった。これ等を手に入れることが出来たのは、ダイヤのお蔭だ。彼の収入源が何かは知らないが、自分一人では決して手に入れることは出来なかっただろう。ジルコンのように、自力で生きることも出来ない。
 大荷物を抱えて戻れば、ダイヤがフードの下で口を尖らせて「遅い」と文句を零した。重い荷物を代わって持とうとはしない。当然だ。この荷物は、ルビィだけが必要な物資だ。


「……ねえ、ダイヤ」


 少し先を歩くダイヤを追いながら、ルビィは問い掛けた。頭には先程の子ども――ジルコン達が過る。


「ダイヤは今まで、如何やって生きて来たの?」


 質問の意図が解らないというように、ダイヤは少しだけ首を傾げた。顔の殆どを覆うフードの下の表情は読み取れない。
 ルビィは補足するように付け加える。


「城から出た後、貴方は独りきりだったでしょう」
「ああ」


 合点行ったようにダイヤが相槌を打つ。周囲の人は疎らで、旅人の風体である二人には見向きもしない。
 ダイヤは答えた。


「始めは人間の群れの中で、素性を隠して生きていたよ。通貨さえあれば、人間の集落は遣り易かったからな」
「通貨を如何やって手に入れたの?」
「如何だったかな……。奪ったこともあるし、盗んだこともあるし、簡単な仕事で稼いだこともある」


 珍しく考えながら、ダイヤが言った。
 ルビィには想像も出来なかった。このダイヤが、人間の中に混じって生きて来たのだ。けれど、それも当然だとルビィは気付く。魔王城から逃げ出して、当時のダイヤにとっては魔族そのものが敵だった。人間の群れで素性を隠して生きるしか、他に道は無かった。
 幾ら長命で頑強な魔族と言えど、空腹も疲労も感じる。それが例え人間程ではないにしろ、物資を得る必要があった。
 ルビィは問い掛けた。


「今、持っているお金は?」
「覚えてない。盗賊から奪ったような気もするが」


 興味も無さそうに、ダイヤが言う。一般論では、それは間違った行為なのだろう。
 人のものを盗ってはいけない。けれど、それを口にする権利はルビィに無い。黙ったルビィに、ダイヤが言う。


「汗水流して手に入れた金も、血で血を洗い得た金も、金は金だ」
「……うん、そうだね」
「金が何処からか沸いて来る訳ではないし、誰かが養ってくれる訳でも無いからな」


 真理だと、ルビィは思う。きっと、此処には境界線がある。ダイヤとジルコンは、向こう側の人間だ。誰かに頼ることをせず、自力で生きて来た。自分の信じるものを、自分の信じるように、自分の力で掴み生きて来た。
 黙ったルビィに、ダイヤが振り返ろうとした。――その、一瞬だった。
 振り向いたダイヤの喉元を、銀色の刃が通過した。それを間一髪、後方へ交わしたダイヤが猫のように飛び退いて距離を置く。
 疎らだった通行人は漣が引くように消えて行く。二人の間に割って入った黒い影は、剣を携えダイヤを睨んでいた。


「お前、人間ではないな」


 否定を許さない強い口調だった。避けた拍子に、ダイヤの被っていたフードが落ちる。
 夕陽に照らされるのは、魔族の証である銀色の髪と青い瞳だった。


「何だ、お前」


 敵意を剥き出しに、ダイヤが腰を低くする。片手は既に剣を掴んでいる。
 黒い影に従うように、大勢の気配が押し寄せる。それは全て武装した軍隊だった。囲まれたとルビィが気付いた時には、ダイヤは既に剣を抜き放ち、影と切り結んでいた。
 高音が、穏やかな街並みに反響する。現実味を帯びない状況を、民衆が互いの顔色を窺いながら傍観している。
 影が言った。それは切れ長な目で睨む、壮年の男だった。


「魔族がこの町に紛れ込むとは……!」


 仇であるように言い放つ男に、ダイヤが口角を釣り上げる。


「もう、出て行くよ。邪魔したな」
「そうはいかぬ!」


 言い放つと同時に、男の剣が振り抜かれた。ダイヤが剣を受け止める。
 軋み合う剣。屈強な男と、痩身のダイヤ。傍目には勝負は明らかだが、ダイヤは明らかに余力を残している。目の前の男を殺すつもりは無いのだろう。
 男が剣を滑らせた。それがダイヤの肩を撫でるように振り抜かれたと同時、ダイヤは翼を広げた。大きく飛び退いたダイヤは片膝を着き、男の様子を見ている。
 その時、男が指笛を鳴らした。甲高く響いた音と同時に、周囲からは金属音が響き渡った。鎖を引き摺るような音が其処此処へ響くと同時、夕空は牢獄のような網に覆われていた。


「何のつもりだ」


 苛立ったダイヤの口調に、男が嘲笑う。


「この町に侵入した魔族は、決して逃がさぬ!」


 距離を置いたダイヤに、男が飛び掛かる。舌打ちでも零したいだろうダイヤが、苦々しくその剣戟を受け止めようと低く構える。
 受け止めた――、筈だった。
 嫌な音がした。軋むような音だ。ダイヤの剣が悲鳴を上げ、崩れ落ちる。予期しなかった事態に、ダイヤの反応が一瞬遅れた。その隙を見逃さず男がダイヤに痛烈な一撃を食らわせた。腹部を裂くような横薙ぎの一撃は、ダイヤの衣服と共に肉を先、街路を鮮血に染めた。
 咄嗟にルビィが悲鳴を上げそうになった。けれど、ダイヤが鋭い視線でそれを制す。


(逃げろ)



 青い瞳が、確かにそう訴える。
 このままダイヤを置いて行く訳にはいかない。――だが、此処に残って何になる?
 壊れガラクタと化した剣を投げ捨て、ダイヤは切り裂かれた腹部を押さえる。高い治癒力を持つダイヤならば、やがて癒える傷だろう。けれど、それでも流れる血液が一瞬で塞がる訳では無い。


「その程度か、化物め」


 この男には、ダイヤがどのように見えているのだろう。ルビィは抗議したい心地だった。
 ダイヤが何をした。危害を加えたか。人心を惑わしたか。ただ、歩いていただけだ。
 ダイヤは口角を釣り上げ余裕の態度を崩さない。空は塞がれ飛ぶことも出来ない。剣は折れ戦うことも出来ない。それでも、何故笑うのか。
 その瞬間だった。
 ダイヤの翼が大きく羽ばたいた。生まれた風は暴風をなり、周囲を一掃する。巻き起こる砂塵の中で、ダイヤは一瞬にして状況を把握していた。街路を打つ大勢の軍隊の足音。きりがない。そして、判断は一瞬だった。


「走れ!」


 砂塵の中、ダイヤの声がした。ルビィは殆ど反射的に、ダイヤの元へ駆け寄ることを諦めて走り出した。
 暴風の中で動けない軍隊。ダイヤは翼をその背に納めると、ルビィとは反対方向へと駆け出して行った。





2014.1.2