41,Dispute.










 雨が降っていた。
 しとしとと、泣けない誰かの為に空が涙を零しているようだ。ルビィは隣のダイヤを盗み見る。青い瞳は鉛色の空をぼんやりと眺め、此方へは決して向けられない。彼の思考は解らない。
 砂漠を越え、海を渡り、荒野を抜ける。やがて空気は乾き、身を震わす寒風が吹き始めた。止まない雨に、一休みとばかりにルビィ達は大樹の元で雨宿りを始めた。
 トパーズの空間隔離の魔法を使えば、雨に濡れることも無く歩き出せただろう。けれど、トパーズは雨が珍しいかのように掌で雨粒を受け、笑っているばかりだった。先を急ぐ旅ではないのだから、そういうこともあるだろう。傍でジェイドは膝を抱え、行儀良く座っている。
 それまで黙っていたダイヤが、唐突に口を開いた。


「そろそろ、お前の目的を話せ」


 それが誰へ向けられた言葉なのか、ルビィには解らなかった。
 ダイヤは変わらず曇天を見詰めている。それまで関心を示さなかったトパーズが、振り向くことも無く言った。


「目的地に着いたら、話すさ」


 歌うような軽やかな口ぶりだった。まるで、この先に楽園が待ち受けているかのような希望を孕んでいる。
 けれど、ダイヤは青い目をすっと細め、口調を尖らせた。


「俺の行先を、お前が決めるな」
「どうせ、行く当ても無い旅なんだろ?」
「それはお前が行先を決める理由にはならない。その場所に俺を連れて行きたいなら、目的を話せ」


 其処で漸く、ダイヤはトパーズに目を移す。
 トパーズは笑っている。子どもの悪戯を許容するかのような、慈愛に満ちた微笑みだ。それすら癇に障るようでダイヤは睨み付けた。


「お前、何か勘違いしていないか。俺は、お前を信用していない」
「ガキの頃、散々遊んでやっただろ」
「知らない。もしもそれが事実なら、俺が覚えていないのではなくて、お前が記憶を封じたんだろう」


 確信めいたダイヤの言葉に、ルビィも黙って頷いた。その可能性は、ルビィも感じていた。実際に問い掛けたこともある。
 はぐらかすか、騙し通すか。トパーズが困ったように笑う裏に、得体の知れない思惑が蠢いているようで不気味だった。だんまりを決め込んだジェイドは、我関せずといった調子で目も向けない。それでも、耳は傾けているようだった。


「なあ、人間の脳には、自分の心を守る為に過去の記憶を忘れさせる機能があるらしいぜ」
「俺は人間じゃない」
「ああ、お前は魔族。それも魔王様の末子だ」


 要領を得ない言葉に、ダイヤの苛立ちが手に取るように解る。
 それでも、トパーズの笑みは崩れない。全てが予定調和であるかのような余裕だった。
 ダイヤが言った。


「過去に興味は無い。封じたなら、もうそのままでいい。何も困らないからな」


 捨て鉢のような言葉だが、ダイヤの本心だろう。


「だが、目的がはっきりしないのは、如何にも落ち着かない」
「怖いからだろう?」


 挑発するように、トパーズが返す。ダイヤは目を細めるだけで、答えなかった。
 何が怖いのだろう。ルビィは思う。ダイヤの怖いものとは、何だろう。そう考えて、行き着く答えは一つだった。


「ガーネットを奪われるのが、怖いからだろう?」


 ぴくりと、ダイヤの眉が跳ねる。
 ガーネット。ダイヤにとって唯一無二の友人で、育ての親でもある。ダイヤにとっては帰る場所であり、居場所だ。
 一度は命を失ったが、今は水中庭園で重傷の身体を休めている。そして、現在、その水中庭園を守っているのはトパーズの魔法だった。
 これは人質だ。優しげな微笑みの裏に隠れている何かが垣間見えたような気がして、ルビィは身震いする。


「あいつはそんなに弱くない」
「でも、今は大怪我をしているからな。俺が魔法を解いた先に、魔王軍が攻め込んで来たら一溜りも無いだろう?」
「……」


 ダイヤが、黙った。弱味を真っ直ぐに突いたトパーズの言葉に、何も返せなかったのだ。
 そして、言葉を放棄したダイヤは立ち上がり、腰の剣に手を伸ばした。今にも斬り掛かりそうに身を低くする。臨戦態勢のダイヤに、ルビィはぎょっとしつつ距離を取る。


「ガーネットを引き合いに出すということは、宣戦布告と取っていいんだな」
「いやいや! 冗談だよ、冗談」
「笑えない冗談だ。その首、掻っ切ってやる」


 ダイヤが剣を抜き放とうとする寸前、黙っていたジェイドが口を挟んだ。


「言っていい冗談と、言ってはいけない冗談があるぞ。お前のは後者だ。性質が悪過ぎる」


 その場を収めるように、ジェイドは間に立った。


「ダイヤも、剣をしまえ。安い挑発に乗るな」


 ダイヤが大きな舌打ちをして、その場に胡坐を掻いた。
 機嫌を損ねたらしくダイヤは大樹に背を預け、そっぽを向いている。トパーズは苦笑いしながら「あちゃー」と呟く。


「悪かったよ、ダイヤ」


 多少は反省しているのだろう。トパーズは眉を下げて謝罪を口にする。それでも臍を曲げたダイヤは見向きもしない。
 ずっと、不安だったのかな。ルビィは思った。水中庭園を出た後も、ずっとガーネットの身を案じていたのだろうか。自分が傍にいられないこと、守ってやれないこと。ずっと、それを考えていたのだろうか。
 向けられたダイヤの後頭部、銀色の髪がさらりと揺れた。振り返ることも、謝罪を受け入れることもしない。


「俺が悪かったよ。機嫌直せよ、ダイヤ」


 ダイヤは、何も言わない。
 子どものようだな、とルビィは思う。百五十年以上も生きているダイヤが、人間にしたらどれ程の年齢になるのか解らない。けれど、いじけたその後ろ姿は子どものようだった。
 ジェイドが言った。


「そっとして置いてやれ」


 流石に、トパーズもばつが悪そうに息を漏らす。
 ぽつりと、言った。


「……アレキサンドライト様の故郷へ、連れて行きたいんだ」


 振り返らないダイヤの背中へ、トパーズが吐き出すように言った。
 度々耳にするその名前が、誰を示すものなのかルビィは知らない。


「誰?」


 声を潜め、ルビィはジェイドに問い掛ける。
 ジェイドは息を漏らすように答えた。


「ダイヤの母親だ」


 瞬間、耳を疑う。ダイヤは以前、母親のことなど知らないと言っていた。
 あれは嘘だったのか。触れられたくないことなのか。ルビィは黙り込む。けれど、漸く振り向いたダイヤがぶっきら棒に言った。


「母親のことなんて俺は知らない。余計な世話だ」
「お前の為にする訳じゃない。俺の自己満足だ」
「……何故?」


 ダイヤが訝しむように問い掛ける。トパーズは笑った。


「アレキサンドライト様は、俺の――、否、俺達の育ての親だ」


 達、が誰を示すのかルビィは解らない。ダイヤも同様だろう。
 ジェイドが言った。


「俺とトパーズ、ガーネット。他にもいるが……、アレキサンドライト様は弱い魔族の子どもを守ってくれていたんだ」


 懐かしむように語るトパーズの目に、何が映っているのかルビィは知らない。
 トパーズが言う。


「アレキサンドライト様は、ある特殊な魔法を使うことの出来る一族の長だった」
「特殊な魔法?」
「多くは知らん。だが、あの方が手を翳すと病も怪我もたちどころに消えてしまった。あれは、癒しの魔法だったんだろう」


 魔法。ルビィには想像も付かない異能だ。
 だが、トパーズの空間隔離、ジェイドの幻術、そう言った魔法を実際に見て来たことから、それは夢物語ではない現実であることを知っている。
 トパーズは、退屈そうなダイヤの横顔へ向けて訴える。


「お前はアレキサンドライト様の血を引く、一族最後の生き残りだ」


 その言葉に、ダイヤが訝しげに目を細める。


「……で?」


 ただ一つの音に、目に見えない筈の感情が無数に込められていた。
 不信感、不快感、嫌悪感。胡乱な眼差しは、旧友に向けるそれではない。間違ってもガーネットには向けないだろう剥き出しの敵意に、トパーズが僅かにたじろぐ。ダイヤが言った。


「それが、何だ。俺に魔法が使えると?」


 ダイヤが魔法を使ったことはない。使えないのだ。
 白亜の翼、驚異的な運動能力、圧倒的な治癒力。他の魔族に比べ、どの程度かは解らないが、人間に比べれば遥かに強靭な肉体を持っている。それがルビィの知る、魔族としてのダイヤだった。
 もしも魔法が使えたのなら、今頃、此処にはいなかっただろう。
 癒しの魔法――。そんなものが使えるのなら、ダイヤは何より先にガーネットを癒した筈だった。
 溜息を呑み込んで、諭すようにトパーズが訴える。


「可能性がある、ということだ。アレキサンドライト様の故郷へ行けば、お前も魔法が使えるようになるかも知れない」
「必要無い」
「如何してだ。癒しの魔法があれば、ガーネットも……」


 其処でダイヤが、目を伏せる。長い睫が影を落とす頬には、僅かに疲労が滲んでいるような気さえした。


「傷はやがて癒える。それに、大き過ぎる力は争いを呼ぶだけだ」
「それが如何した。この世は戦乱だぞ。力を制すには、――力しかない!」


 勢いよくトパーズが、立ち上がった。
 雨脚が強くなり、厳しい寒風が金色の髪を揺らす。その蜜色の瞳に、青白い炎を見たような気が、した。


「生きる為には戦わなくてはならない! 守る為には力が必要だ! 俺はもう二度と……、アレキサンドライト様を失った時のような思いをしたくない!」


 何時だって、飄々として本音を読ませないトパーズの本性が、こんなにも激しいものだったと誰が予想出来ただろうか。
 怒鳴り付けるように叫ぶトパーズの面は険しく、今にもダイヤへ噛み付きそうだった。それでも、ダイヤは目を伏せたまま態度を崩さない。


「お前はこのまま逃亡を続けるだけか? 何時まで!? サファイヤ様が本気になったら、お前もガーネットも、今のままでは皆殺しだ!」


 それでもいいのか!
 必死に訴え掛けるトパーズの言葉に、ルビィは胸が軋むように痛んだ。
 彼の言葉は真理だった。力が無くては大切なものを守れない。けれど。


「毒を以て毒を制す遣り方は、新たな毒を齎す」
「この世は弱肉強食だ。世界の摂理だ。この百五十年、お前は一体何を見て来たんだ。まるで、世間知らずの甘言じゃないか」
「いたちごっこだろうが、それは」
「何が悪い。世界はそうして回って来た」
「俺は、それじゃ嫌なんだよ」


 青い瞳が、真っ直ぐにトパーズを見詰めていた。
 揺るがない、嘘偽りの無い強い口調だった。


「時代は巡る。歴史は繰り返す。――本当に? 本当に、それだけか? 他の選択肢は、道は有り得ないのか?」


 不意に、ダイヤの目がルビィへ向けられ、逸らされた。
 一瞬に巡らされた視線の意味は解らない。だが、ダイヤは問い掛ける。


「争いしか有り得ないのか? 滅ぼし合う以外の選択肢は無いのか? 共存を願う人間がいる。争いを求めない魔族がいる。それが一つの可能性だと思うのは、俺だけか?」


 トパーズが、黙る。尚もダイヤが言った。


「世間知らずは認めよう。俺は何も知らなかった。だから、この百五十年、ずっと魔族と人間を見て来たんだ」
「見て来た結果が、人間と魔族の共存か? お前、正気か?」


 睨むような鋭い視線で、トパーズが問う。
 ルビィにとっては、ダイヤの言葉は十分理解に足るものだ。短い旅ではあったが、そう強く想う。
 だが、トパーズ――否、魔族にとってはそうではないのだろう。人間もまた、同様の筈だ。長く争い続ける人間と魔族が共存出来るのではないかなんて、御伽噺だ。世間知らずの甘言なのかも知れない。――それでも。


「何故、自分で考えない?」


 ダイヤが、幾度と無く問い掛け続けて来たことだった。


「……ずっと、それが不思議だった。何も考えず、目先の欲を満たすことだけを願い、命を消費し続ける。人間と魔族、何が違う。思考を放棄した生き物なんて、家畜と一緒じゃないか」
「そういう考えが無かった訳ではない。実現出来ない思想だから、廃れたんだ。ジェイドのいた町と、同じように」


 トパーズの鋭い口調に、ジェイドが目を伏せる。


「お前が人間と魔族の共存を願うのは構わない。だが、実現には力が必要だろう。違うか?」
「違う。方法論の話だ」
「人間と魔族が議論して協定を結ぶか? それこそ夢物語だろう! 人間と魔族の間にある溝は、お前が想像する以上に深い。魔族は人間の負の感情から生み出され、奴等に好き勝手に蹂躙されて来た。虐殺の歴史だ。それを今更、許せと? 誰が賛成する! 同胞の仇が、丸腰で目の前にいる。手には切れ味の良い刃。如何する? 答えは簡単だ!」


 捲し立てるトパーズに、ダイヤが言い返す。


「俺も解り合えるとは思わない。だが、争うことに意味を感じない。お前は敵討ちが目的なのか? 何が望みだ。人間を滅ぼした後、次は魔族の中で争いが起こるぞ。そうして全てを滅ぼして……、一体何になる?」
「魔族は滅ばない。優れた指導者がいればな」
「サファイヤが頂点となれば、間違いなく恐怖支配だ。悪意の目は其処此処で芽吹き、それを蹂躙し、大地を血で汚すか?」


 皮肉そうに、ダイヤが鼻を鳴らす。


「それとも、お前が指導者になるのか? それがお前の望みか?」
「違う。俺は指導者の器ではない」


 トパーズの真意が見えず、ダイヤが目を細める。それでも、彼の言葉を一言一句聞き逃すことの無いように、理解しようと耳を傾け続けている。
 トパーズが、言った。


「俺は――、ダイヤ、お前を王にしたい」


 今度こそ、ダイヤは理解出来ないものを見るように目を見開いた。
 こいつは、何を言っている? ダイヤの目が揺れる。
 歌うような軽やかな口ぶりで、トパーズが高らかに語る。


「アレキサンドライト様と魔王の血を引くお前なら、王に相応しい。否、お前以外に誰がいる」
「……俺に、人間を滅ぼせと言うのか?」


 ダイヤの形の良い眉が寄せられ、眉間には皺が刻まれる。だが、気にもしないトパーズが笑みすら浮かべていた。


「滅ぼせとは言わない。だが、統治は必要だろう」
「統治? 支配の、間違いだろう」


 まるで、敵に遭遇したかのようにダイヤが距離を取る。
 剣を抜きはしない。けれど、その目は恐ろしいものを見るかのようだった。


「ダイヤの理想があるのなら、それを叶えたら良い。俺も尽力しよう。その為に、俺はお前を王に推す」
「馬鹿な」
「何故?」


 自分の言葉を信じて疑わないトパーズは、恍惚と笑みを浮かべている。
 怖いと、ルビィは率直に感じた。人間と魔族が解り合えないとは思わない。だが、全ての魔族と人間が解り合えるとも、思わない。ただ、この魔族――トパーズとはきっと、解り合えない。それは水中庭園で、サファイヤを見た時と同じ感情だった。
 対峙するダイヤの目は険しい。何かを必死に考え、――つい、と、視線をジェイドへ向けた。


「ジェイド。如何、思う?」


 普段なら決して見せないだろうダイヤの姿に、ジェイドも困ったように眉を寄せる。
 此処にガーネットがいたなら、後ろにでも隠れたかも知れない。ジェイドが言った。


「……狡い言い方だが、俺はどちらの意見も解るし、共感出来る。だからこそ、それが今此処で答えの出る問いとは思わない」
「先延ばしにして、如何する」
「結論が欲しいなら、答えよう。俺もダイヤ、お前を王に推す。お前が言うように、サファイヤ様が王となれば、それは正しく地獄を見るだろう。だからこそ、俺はお前に、王となって欲しい」


 ガーネット。独り言にも似たダイヤの声が、ルビィの耳へと確かに届いた。
 ガーネット。ダイヤが縋る先は、それしかない。


「……ルビィ」


 視線を向けず、ダイヤが言った。
 そして、すぐにその言葉を自身で打ち消す。


「否、何でも無い。忘れてくれ」


 そうして目を逸らし、ダイヤは黙り込んだ。
 何かを深く考え込んでいるのかも知れない。全てを放棄したのかも知れない。ルビィには解らない。
 雨脚はやがて衰え、滴は雪へと変わった。周囲の音を吸い込みながら降り積もる雪の中、トパーズばかりが意味深に笑みを浮かべていた。





2014.1.12