42,Snow.










 雪夜は静かだ。全ての音が吸い込まれて行く。
 周囲に光は存在しない。灯火のような焚火が音も無く燻るだけだ。
 上衣にすっぽりと身体を埋め、ルビィは考えていた。
 ダイヤを王へと推すトパーズとジェイド。だが、二人の目的は異なる。少なくとも、トパーズは戦乱を収める事を目的とはしていない。何故、ダイヤを王へ推すのだろう。育ての親の忘れ形見だから。それだけが理由とは思えない。トパーズは自己満足と言っていたが、本当にそれだけだろうか。
 恍惚と笑みを浮かべるトパーズを思い出す。今は先程の剣幕も消し去り、穏やかに眠りに入っている。
 ダイヤは、如何だろう。人間と魔族の共存は難しいが、不可能ではない。少なくとも、ダイヤはそう考えている。だからこそ、一方を滅ぼすだけの遣り方を愚かだと論じているのだ。
 一方的な虐殺は禍根を残す。だから、現状維持か。このまま争いを続けた先に、何があるのか。結局、何時かは勝敗が付き、一方は虐げられるのだろう。答えの出ない問い。いたちごっこ。ダイヤの言葉がぐるぐると頭の中で回る。
 何故、ダイヤは王となることを望まないのか。理想の実現には、それが一番手っ取り早い。水中庭園では、ダイヤも魔王を討つと宣告していた。それはつまり、自分が王となることではないのだろうか。


(ダイヤが、王様……)


 強靭な肉体、自由の翼、揺るぎない意思。
 ぶっきら棒で、冷たく、歯に衣を着せぬ物言いは相手を思い遣ることをしない。けれど、友達の為に身を挺し、涙を零すことの出来る優しい魔族だ。――ダイヤが王になるのなら、それは理想に最も近いのではないだろうか。
 一方的に人間を虐げはしないだろう。相手の思想を重んじるダイヤならば、人間と魔族の共存出来る世界を、実現出来るのではないか。
 考え込んでいる間に雪は降り積もり、木陰を輪のように避けながら周囲を白銀へと染めて行く。一向に睡魔は訪れず、答えの無い問答ばかりを延々と繰り返している。


「おい、ルビィ」


 積雪に掻き消されそうな声が、確かに、した。
 顔を上げた先で、赤い光に照らされたダイヤの白い面があった。


「俺は此処を発つ。お前は、如何する?」
「……如何して? 何処へ行くの?」
「気紛れだ。トパーズの思惑に興味が無い。とりあえず、水中庭園へ行って、ガーネットの顔でも見に行こうと思う」


 普段のぶっきら棒な物言いの影に、別の何かが隠れているような気がした。
 ルビィは問う。


「如何して、ダイヤは王様になりたくないの?」


 静かに問えば、ダイヤはばつが悪そうに目を逸らした。蒸し返されたくない話なのだろう。口を尖らせながら、言い捨てた。


「お前には関係無いだろう」
「あるよ。だって、この世界の問題なんでしょ?」


 言い返せば、ダイヤは逡巡するように少し黙った。


「ダイヤが王様になれば、理想も実現出来るんじゃない?」
「理想?」
「ガーネットと、一緒に生きられる世界」


 其処で、ダイヤが驚いたように目を丸めた。そして、――綻ぶように、微笑んだ。
 ルビィに向けられる美しい笑みに、心臓が大きく脈を打つ。ダイヤが言った。


「それは、俺が王様にならなきゃ、叶わないのか?」


 泣き出しそうだ、と、思った。
 もしかすると、ダイヤは自分が思う以上に魔族としては幼いのかも知れない。人間にしたら二十歳にも満たない年齢なのかも知れない。初めて、そんなことを思った。


「……翼が欲しかったんだ」


 唐突に、ダイヤが言った。訴え掛けるような、震えるような声だった。


「ガーネットを連れて、世界を見て回る為に、翼が欲しかった。でも、俺が翼を漸く得たのは、ガーネットを守る為だった。……光も届かない瘴気に満ちた魔王城の地下牢で、引き倒され傷付けられるガーネットを、守ろうとしたんだ。初めて、力が欲しいと願った。自分の居場所を守る為には、戦うしかない。そう、理解したから」


 水中庭園で見たダイヤの過去を、思い浮かべる。あの陰鬱な空間は、今もダイヤの中に、鮮明に残っているのだろう。
 懐かしむように静かに語るダイヤの横顔には、疲労が滲む。どんな大怪我もすぐに癒える程に治癒力の高いダイヤが、如何して、それ程に疲れているのだろう。


「戦った結果が、百五十年の孤独だ。……トパーズが、誰かを失った時のような思いは二度としたくないと言っただろう。俺だって、あんな日々はもう二度と過ごしたくない」


 これまで、ダイヤが百五十年の孤独を振り返って弱音を吐くことなんて一度もなかった。けれど、辛くなかった筈が無い。
 辛くて、苦しかった筈だ。戦い続けた日々を、もう二度と繰り返したくない。――そうだ。ダイヤはもう、戦いたくないのだ。


「俺は解らないんだ。ずっと、考えていた。人間と魔族が共存出来るかなんて、如何だっていいんだよ、本当は。……どいつもこいつも、自分の欲望の為に他者を傷付けることを厭わない。身勝手だと振り返りもしない。思考することさえ放棄して、命を消費するだけだ。愚かだと思った。下らないと思った。――でも、ずっと羨ましかったんだ」


 初めて吐露されたダイヤの本音に、ルビィは返す言葉を持たなかった。
 ダイヤのそれが、当たり前のことであると受け入れてやりたかった。間違ってなんていない。そう、言ってやりたかった。だけど、そんな無責任なことは言えない。ダイヤは魔王の末子で、世界の覇権を賭けたこの戦乱、時代の鍵だ。


「戦乱も何時か終わるだろう。一方を滅ぼすかも知れない。共存の為の協定を結ぶかも知れない。結末は解らないが、終わりはやがて来る。その時、俺は、如何したらガーネットと一緒にいられるだろう」


 本当に――。
 ルビィは、理解する。本当に、ダイヤはそれだけを考えて、生きて来たのだ。その為に人間と魔族を知ろうとした。その為だけに。
 何か一つを目的とする生き方は潔く美しい。けれど、その反面で酷く脆い。ガーネットを失えば、其処で終わりだ。
 答えの出ない問答を続けて来たのはルビィだけではない。ダイヤも同じだったのだ。けれど、それはルビィよりも遥かに長い、永い間、続けて来たことだ。そして、未だに答えが出ない。諦められないから、答えが出ない。


「仮に王様になって、人間と魔族が共存出来るようになっても、争いが無くなる訳ではない。規模が変わるだけで、争いは続いて行く」
「……そんなの、解らないよ。本当に争いが、無くなるかも知れない」
「無理だな。味方がいれば、敵もいる。当たり前だろう。誰もが皆、大切にしているものが違うからな」


 だから、飛び続けるのか。ルビィはトパーズの叫びを思い返す。争いから逃げ、飛び続けるのか。何時まで?
 きっと、ダイヤは何時までも飛び続けられるのだろう。ガーネットがいれば、それだけで十分なのだ。それは余りに無関心で、身勝手で、純粋な強い思いだった。


「答えが出ない以上、俺は探したい。トパーズの思惑には興味が無い。ジェイドの考えは理解出来るが、俺には関係の無いことだ」
「……私は、ダイヤに王様になって欲しい」


 その言葉を予想していたように、ダイヤが苦笑する。


「嫌だ」
「如何して。ダイヤになら、ガーネットと一緒にいられる世界を、作れるかも知れない」
「作れないかも知れない」
「ダイヤ!」
「仮定の話なんざ、意味が無い。最期は結局、自分が如何したいかだろう。違うか?」
「違わない……」


 自分に、ダイヤを論破出来る訳が無い。ルビィは諦観する。
 ダイヤは立ち上がった。青い目は凍て付く氷のようで、水中庭園を照らす光のようでもあった。降り積もる雪を眺める横顔に迷いは無い。意思は揺るがないのだろう。ダイヤが決めたことだ。自分にどうこう出来るものではない。
 やれやれと、ルビィも立ち上がる。ダイヤは翼を広げた。雪にも似た白亜の羽根が、ひらりと舞った。


「幸せって、雪みたいなものなんだって」
「雪?」


 舞い落ちた羽根を視線で追い掛け、ルビィは頷く。今は亡き母の受け売りだった。


「静かに降り積もって行くものなんだって」


 興味も無さそうに相槌を打ちながら、ダイヤは掌を翳す。空から零れた雪の結晶が、掌で溶けて、消えた。
 ダイヤは、何も言わなかった。人間の感情の機微なんて、解らないだろう。幸せを雪に例える感情も知らないだろう。けれど、ダイヤが何を思ったのかも、ルビィは知らない。


「解る気がするよ」


 翼を広げたダイヤが、蕩けるように微笑んだ。――その瞬間だった。
 闇を切り裂く黄金の閃光が走った。ダイヤが身を翻す。鉄を打つような高音が響いたと思った時には、背後から地響きのような轟音がした。咄嗟に振り向いた先、雨宿りしていた大樹が、まるで海面に沈み込むかのように雪原へ倒れて行くのが見えた。
 鋭利に切り裂かれた木の断面。否、切り裂かれたのではない。切り離されたのだ。
 腰の剣を掴むダイヤの前に、掌を翳す影が一つ。それが誰かなんて、目を凝らさなくとも解っていた。


「ダイヤ……」


 闇の中で、猛禽類を思わせる蜜色の瞳が光る。獲物を狙う獣の目だ。
 トパーズの翳された掌に、金色の光が蛍のように漂っている。ダイヤは身を低くしたまま、対峙する。紙一重で躱した一撃は、ダイヤの上衣を一部切り離している。魔族――それも魔王の末子とは思えぬ白い細腕が上位の隙間から覗く。


「如何して、解ってくれない?」


 嘆くように、トパーズが言った。それまで見て来た彼が道化の振りをしていたのだと思う程に、今のトパーズの目は狂気染みている。
 ダイヤが返す。


「お前だって、解ってはくれないだろうが」


 答えの出ない問答。無駄な討論。解り合えないことなんて、解っていた。
 それでも、解りたいからダイヤは訴えるのだ。


「戦乱を如何にかしたいなら、すればいい。如何して、お前の理想に俺を組み込む必要があるんだ」
「お前がアレキサンドライト様の子どもだからだよ」
「そんなこと、俺は知らない」
「知らないなら、理解しろ。お前には生まれた責任があるんだ!」


 蛍のような光は、一瞬にして線のようにダイヤへと走った。それぞれの点を繋ぐ薄い板状の光が無数に放たれる。
 転がるようにダイヤが躱せば、地面に光の板が突き刺さった。まるで、ギロチンのようだった。
 再び光を集めるトパーズへ、ダイヤが言葉で訴える。


「トパーズ! 俺は、」
「もう、お前の世迷いごとは聞き飽きた!」


 金色の閃光が闇夜を翔ける。広げた翼を消し去り、ダイヤが激しく転がりながら紙一重で躱す。降り積もった雪を巻き起こしながら、ダイヤの衣服は白く染まっていた。
 それでも、ダイヤが口を開く。それを塞ぐようにトパーズが光を放つ。


「ダイヤ!」


 ルビィの声は届かない。地面に突き刺さった光の板は、数秒と持たず、霞むように消えた。
 ダイヤは、柄を握りながらも剣を抜かない。理由も解っている。ダイヤは、戦いたくないのだ。


「トパーズ!」


 魔法を放ちながら、トパーズが口角を釣り上げる。翳された手とは異なるもう一方に、静かに光が集まって行く。
 二倍――。ルビィが驚愕する。けれど、違う。トパーズの浮かべる嫌な笑みの正体は、そんなものではない。


「お前の封じた記憶、戻してやるよ」


 光は、焼け落ちるように消えた。
 対峙していたダイヤが突如、悲鳴を上げた。雪にも解け込まない悲痛な叫びが木霊する。何が起こったのか理解出来ないまま、ルビィは崩れ落ちるダイヤに駆け寄った。周囲には霧が漂い始める。
 心臓の上を握り締めて蹲るダイヤに外傷は無い。治癒力の高いダイヤならば、傷等、大した障害でもないだろう。なら、この苦しみ方は一体何だ――?
 呻き声を上げるダイヤの目は見開かれ、透明な滴が止め処無く流れ落ちる。臓腑を焼かれているかのような異様な苦しみ方だ。
 涙を零しながら口元を覆うダイヤが、堪え切れなかったように顔を伏せた。瞬間、その喉の奥から吐瀉物が吐き出された。地面に流れ落ちる液体は、鼻を突くような刺激臭を伴う。胃液だ。
 噎せ返り、嘔吐し、呻き、蹲る。ダイヤが此処まで圧倒されることは初めてだった。霧の中、トパーズの高笑いが響き渡る。
 丸まったダイヤの背を撫で、ルビィは叫んだ。


「ダイヤに何をしたの!?」


 くつくつと、猫のように喉を鳴らしてトパーズが嗤っている。可笑しくて堪らないと、如何にか笑いを堪えるようにしてトパーズが言った。


「だから、封じていた記憶を、解き放ったんだよ」
「封じていた記憶……?」
「そうだ。俺が封じていたのは、ダイヤが魔王城の地下牢に囚われていた五十年の記憶だ」


 五十年。ルビィには想像も付かない程の時間だ。
 トパーズが嗤う。


「ルビィには想像出来ないだろうな。サファイヤ様の愛玩動物として、虐待の対象だったダイヤの過ごした五十年が、どんなものだったかなんて」


 足元から悪寒が込み上げるように、ぞっとした。何の躊躇も無く、腹違いとは言え実の弟の腕を斬り落とすような男だ。片腕を失い、ガーネットを人質に取られ、抵抗する術も無く閉じ込められたダイヤが、五十年もの間、何をされたのか。
 あのダイヤが泣き叫ぶような記憶だ。ルビィに想像出来る訳が無い。
 嘔吐し蹲るダイヤは動けない。トパーズの掌に光が集まって行く。止めを刺すつもりだ。直感したルビィは、咄嗟に庇うようにダイヤへ覆い被さる。トパーズは嗤っている。


「殺しはしない。お前には次期魔王様になって貰わなければならないからな」


 見開かれたダイヤの目に、金色の光が映り込む。
 トパーズなら、腕を落とすくらい、するだろう。否、四肢を切り落としても未だ足りないかも知れない。翼を持つダイヤの自由を奪う為に、死なない程度には傷付ける筈だ。


(いいの、これで?)


 過去の悪夢に囚われたまま、身動き一つ出来ないダイヤを、守ることも出来ない。
 トパーズと戦う術も、この場所から逃げ出す手段も無い。このまま嬲られるのを、見ているだけでいいのか。ルビィの目に、ダイヤの剣が映る。気付いた時にはもう、それを抜き放っていた。
 ギロチンのように頭上より落下する金色の刃。空気を裂く奇妙な音が響く。ルビィは、空を仰ぎ剣を構えた。
 トパーズが嘲笑うように言った。


「無駄だ! 剣なんかじゃ防げないぞ!」
「――やってみなければ、解らないわ!」


 戦わなければ、守れない。
 悪夢のような刃は、魔法で作られたものだ。只の鉄の塊が、太刀打ち出来る訳が無い。それでも、逃げる訳には行かない。
 迎え撃つように備えたルビィの腕は震えている。怖くない筈が無い。だが、その掌に、白い腕が伸ばされる。


「退け」


 死人のような白い面で、ダイヤが言った。平静とは明らかに異なる掠れた声で、震える腕でルビィを引っ掴むと遠心力を加えて、投げ飛ばした。ふわりと空中に飛ばされたルビィの目に、膝を着くダイヤが映る。俯いたまま、その口元は確かに弧を描く。


「ダイヤ――!」


 容赦なく落下する刃。ダイヤはだらりと両腕を投げ出していた。
 終わりだ。霧の中で、トパーズが確信の笑みを浮かべる。ルビィの目が絶望に染まる。――その瞬間。
 ピィィと、まるで鳥の鳴き声にも似た高音が何処かから聞こえた。それは風の中、空気の隙間を縫うように闇を翔け、落下する光の刃に突き刺さった。――矢だ。それは強烈な熱気と共に、青い火花を散らした。ビシリと、刃が罅割れる。
 落下する刃は空中で粉々に砕かれ、流星のように零れ落ちては闇の中へ溶けて行った。
 訝しげに、トパーズが濃霧の先を睨む。空気の流れが見える。やがて鮮明になる世界。蹲ったままのダイヤが、胡乱な眼差しでその影を見ていた。


「何で、こんなとこ、に、」


 消え入りそうな声で、ダイヤが問い掛ける。


「ガーネット……」


 真っ赤な弓を構えたガーネットが、闇の中に立っていた。





2014.1.12