43,Aid
「嘘だ」 嘆くように、ダイヤが言う。 周囲には霧が立ち込めている。此処にいないジェイドが、幻想を見せているのかも知れない。その存在を信じないかのように、ダイヤは目を伏せ蹲る。 此処にいる筈が無い。ガーネットは今、水中庭園で身体を癒しているのだ。こんな短期間に癒える傷では無い。 雪原に投げ出されたルビィは勢いよく身を起こし、弓を構えるガーネットを見る。目を凝らしても、これが幻想だとは思えなかった。 けれど、自分にはジェイドの幻影を見破れない。なんて、無力だろう。ダイヤに、今目に見えているものの真贋を伝えることも出来ない。 だが、ガーネットはきりきりと弦を引き、トパーズをしかと睨んでいた。その紅い目は嘗て見た彼と同じ、燃えるような命の色をしている。 「お前、ダイヤに何をしている」 ガーネットの声だった。ダイヤは、顔を上げない。肩で大きく息をしながら、心臓の上を握り締めている。 トパーズに表情は無かった。 「お前、よく追い付いたな」 「寄り道が多いお前等と違って、俺は真っ直ぐ此処へ来たからな」 臨戦態勢を解かぬまま、ガーネットが言う。沈み込むような重く硬い口調だった。 「ダイヤから離れろ。魔法を使う素振りを見せたら、すぐに殺す」 「……穏やかじゃねーなぁ、ガーネットは」 ガーネットの目が、睨むように細められた。 「穏やか? 当然だろう。自分が何をしているのか、解っているのか」 トパーズが吹き出すように笑った。 「魔王様の御子息様ってか? 裏切り者の癖に」 「裏切り者はお互い様だろうが」 ガーネットには、強い光があった。それは目の前の同胞を、旧友ではなく、敵と見做した確かな殺意だった。 意識が混濁しているのかダイヤの目は虚ろだった。それでも、弓を構えるガーネットを見極めようと面を上げる。その呼吸は酷く乱れ、今にも止まりそうだった。視線を向けぬまま、ガーネットが言った。 「ダイヤ。ゆっくりでいい、息をしろ」 「ガー、ネット」 「俺は此処だ」 ダイヤが、ゆっくりと、息を吐き出す。綿のように白い息が闇に浮かんだ。 濃霧にも混じる呼吸は静かに安定していく。ガーネットの言葉を信じたのか。縋るしかなかったのか。ルビィには判断が付かない。 「おい、人間! ダイヤを頼む」 ガーネットの呼び掛けが自分に向けられたものと、ルビィは一瞬迷った。しかし、拮抗するこの状況でダイヤに駆け寄らない訳にはいかなかった。膝まで埋まりそうな積雪を蹴り上げ、ルビィはダイヤの元へ走った。 ダイヤは真っ青だった。凍えるように双肩はがくがくと震えている。ルビィは必死に呼び掛けた。 「ダイヤ、ダイヤ!」 ぽたり、ぽたり。 大粒の冷や汗が頬を伝い、顎に到達する。滴は落下すると雪の上に消えて行った。 けれど、ダイヤが顔を上げる。荒い呼吸を繰り返しながら、眼差しは確かに平静のそれへと戻って行く。 「ガーネット」 ゆるゆると、ダイヤの手が剣へと伸ばされる。戦えるとは、到底思えなかった。 それでも、戦わなくてはならないのだ。幾らダイヤが、戦いたくないと願っても、争いは何時でも目の前に舞い降りる。その力が無くても、命は常に脅かされる。願いは踏み躙られ、誰かの首輪が追い掛ける。 「戦うの……?」 問い掛ければ、ダイヤが目を伏せた。 全ての魔族が持つ闘争本能。その苛烈な衝動を押し留めてでも、ダイヤは戦いたくないと願った。武力では守り切れないものを、知っているからだ。けれど、武力が無ければ守れないものも知っている。 「覚悟を決めろ」 叱り付けるように、諭すように、吐き捨てるように、言い聞かすように、その一言に全ての思いを込めて、ガーネットが言った。 二人の間に、目に見えない無数の糸が見えるような気がした。 そして、それを断ち切るかのように頭上には金色の刃が出現した。トパーズの口角が吊り上る。ガーネットの指先は弦を放っている。悲鳴のような音を上げ、空気を突き進む矢は強烈な熱気を放ち、周囲の雪を昇華して行く。 パリン。硝子の割れるような音が、した。巨大な刃に突き刺さった矢が、噎せ返るような熱気を生み出し、全てを溶かして行く。 炎の魔法――。ルビィは目を見張る。 膝を着くダイヤは、立ち上がらない。柄を握ったまま、抜き放つことも出来ない。それが一つの契約であるかのように、抜き放つことを躊躇している。 「覚悟なら、決まっている。俺は、ただ」 「自分の道を、誰かに委ねるな。目的があるなら、手段を選ぶな。もう道は、一つしかないんだよ」 その、道とは? ダイヤが、ぎゅっと目を閉ざす。目にも留まらぬ速さで弓を射ながら、ガーネットが言う。 「魔王が死んだ」 それは、状況を凍らせる程の言葉だった。ただ一人、ガーネットだけが言葉を放つ。 「お前の兄、サファイヤが魔王となることが決まった」 薄ら笑いすら浮かべていたトパーズの面が、さっと血の気を失う。 「馬鹿な。何故、今」 「詳しくは知らん。天命とも、暗殺とも言われている。だが、事実だ」 がくりと、トパーズが膝を着く。 あのサファイヤが、魔王に――? ならば、共存は有り得ない。これから始まるのは一方的な虐殺だ。逃げ場など無い。地獄が待っている。 「ダイヤ……」 虚ろとなった蜜色の瞳が、ダイヤへと向けられる。縋り付くような悲しい色だった。 ダイヤは目を閉ざしたまま、動けない。 「ダイヤあああ!」 目が眩むような、黄金の光が頭上より降り注ぐ。 天の川すら連想させる無数の刃。ガーネットが弓を向けながら、苦い顔をする。全てを撃ち落とすことは難しいだろう。 絶体絶命の状況だった。だが、その時、周囲に漂っていた濃霧が静かに形を作り始めた。霧は確かな意思を持ち、構成されて行く。ルビィの横には、白く冷たい壁が立っていた。否、横だけではない。後ろにも壁がある。けれど、道が無い訳では無い。これは。 「迷宮――」 ジェイドの声がした。 「お前の空間隔離は厄介だからな。広範囲まで術を施すのに、随分と時間が掛かったよ」 ジェイドが、不敵に笑う。ガーネットは弓を肩に担ぎ、ダイヤの元へ駆け寄った。 壁に阻まれトパーズの姿は見えない。声も無い。頭上に光った無数の刃は、ジェイドの作り出す幻影の壁に掻き消された。 「この中なら、狙いも定まらない。……この迷宮を抜けるには骨が折れるぞ」 せいぜい頑張れ、トパーズ。 吐き捨てるように言って、ジェイドが嗤った。 立ち上がらないダイヤに肩を貸し、半ば引き摺るようにしてガーネットが歩き出す。幻影を作り出した本人であるジェイドが道を示してくれる。ルビィは目を閉ざしたままのダイヤを覗く。 呼吸はしている。意識があるのかは解らない。 「ダイヤ……」 呼び掛けへ返事は無い。 ガーネットはジェイドの先導する道を一心不乱に進む。白い壁は氷のように冷たい。相変わらず、幻術とは思えない出来栄えだった。 「ガーネット」 薄目を開けたダイヤが、言った。早足に進むガーネットは唸るように返事をする。 虚ろな目には、何が映るのだろう。突然、呼び起こされた空白の記憶。其処に何があったのか等、誰も知らない。 ダイヤが、言った。それは泣き出しそうな、問い掛けだった。 「お前は、俺を憎んでいるか……?」 ルビィにとっては想像もし得ない問い掛けだった。だが、ガーネットは解っていたかのように、表情を崩さず答えた。 「憎んだことが無かったとは、言わない。お前に嘘は吐きたくないからな」 雪を蹴飛ばしながら、ガーネットは止まらない。 ジェイドの作り出す光が道を照らすだけで、周囲は変わらず夜の深い闇に支配されていた。 「アレキサンドライト様――、お前の産みの親は、俺の育ての親だった。俺にとって最大の恩師だ。生きる力を、希望を与えてくれた」 表情の無いガーネットは、黙ったままのダイヤに語り掛ける。 「あの方が、命と引き換えに生かしたのが、お前だ。泣き叫ぶばかりで無力な赤子だった」 複雑に入り組んだ道は、進んでも進んでも白い壁ばかりだ。出口があるのかどうかすら解らない。 ガーネットが言う。 「何でこんなガキの為に、アレキサンドライト様が死ななければいけないんだ。そう思ったこともあった。でも、お前の成長を傍で見ている内に、憎しみなんて無くなっちまったんだよ。お前は覚えていないだろうけど、俺は全部覚えているよ。お前が俺の手を握った日、笑い掛けた日、立ち上がった日、名前を呼んだ日。……生意気に反抗して来た時は、ぶん殴ってたけど」 「覚えてるよ……」 「憎しみなんて、長くは続かないんだよ。過去を思い出して何を考えているか知らないが、お前が疑うなら俺は何度だって言ってやる。お前が大切なんだ。魔王の末子だからじゃなく、アレキサンドライト様の忘れ形見だからじゃなく、ダイヤだから、大切なんだ」 一言一句、聞き間違うことのないようにガーネットが、はっきりと言う。 「だから、俺はお前が窮地なら何時でも駆け付けるし、蹲るなら何度でも引き上げてやる。ダイヤ、お前は俺の希望だったんだ。そして、これからもだ」 ガーネットの歩行は揺るがない。それは彼の持つ意思の強さによく似ていた。 ダイヤは黙っている。目を伏せたままだ。その頬に涙が伝っていたことも、滴がガーネットの肩を濡らしていたことも、冷たいだろう彼が黙っていたことも、ルビィは隣で見ていた。 |
2014.1.12