44,Doubt.










 追手の気配は無い。
 キノンと呼ばれる人間の町は、舞い落ちる白雪の下で死んだように静まり返っている。ダイヤは上衣で身体を覆い隠し、引き摺られるように町へ進入する。ルビィは、俯き顔の見えないダイヤへ視線を投げながら雪原を踏み締めて行く。
 両足が鉛のように重かった。力無く歩行する一行は、まるで死に場所を求める屍の群れだった。一行の周囲を包む霧は月光を弾き輝いている。ジェイドの魔法、空気を媒体をした幻術だった。彼の話では、光や匂いを用いて刺激を受け取る生物全てに働き掛け、ジェイドの想像した物を見せる。魔法自体は微弱なものであり、他者を攻撃するものではない。だが、トパーズを撒いたあの時のように使い方次第では十分な戦力となるだろう。
 ジェイドは周囲に働き掛け、一行の姿を掻き消している。否、旅人に見せているのかも知れない。どのみち、人気の無い周囲には関係無いことだろう。


「ガーネット」


 掠れるような疲れ切った声で、ダイヤが親友の名を呼ぶ。
 ぼろぼろのフードの下、微かな月光を浴びたダイヤの青い瞳が蝋燭の灯りのように煌めく。


「見えるか、これが世界の現状だぞ」


 何を訴えるのか、ルビィには解らない。
 ダイヤは噛み締めるように、吐き出すように、訴え掛けるように言う。


「魔族と人間が世界の覇権を争っているなんて、一部の武力を持つ魔族や兵隊が勝手にほざいているだけだ」


 血の気の無い白い面で、更に白い息を吐き出しながらダイヤは口を開く。


「人間の大多数は、武器を持つことも出来ない民間人だ。脆弱な人間共が戦う相手は魔族では無く、己の生活を脅かす貧困や飢餓だ。暗黙の掟となった魔族への非干渉へ従順に守ることで、異論を許さない排他的な群れの中、自分の立場を守っているんだ。そして、一部の力を持った人間が、自らの懐を潤す為に根も葉もない誇張表現で魔族を恐ろしいものだと認識させ、戦争へ焚き付けている」


 表情を変えないガーネットへ、ダイヤの言葉は届いているのか。
 今にも崩れ落ちそうな疲弊し切った身体で、ダイヤは足を止める事無く、言葉を続ける。


「魔族の大半は、己の衝動を制御することも出来ない愚かな獣だ。空腹を満たす為に喰らい、喉の渇きを潤す為に飲み干し、殺人衝動に従って脆弱な人間を蹂躙している。知性を持った魔族は、彼等に己を制御することは教えない。馬鹿は扱い易いからな。だが、その知能も己の支配欲、嗜虐欲を満たす為だけに揮われる。自分を顧みることは無い。如何に手下を従え、人間を屠殺出来るか思考するだけだ」


 ふと、ダイヤは足を止めた。身体を起こした反動で、フードが静かに落ちる。
 粉雪の舞う中、月光を浴びたダイヤの銀髪が宝石のように輝いていた。完成された絵画のような不可触の美しさで、ダイヤは酷くつまらなそうに言った。


「何が間違っている? 何が許されない? これは、世界のあるべき姿だ」


 前髪に貼り付いた雪を払い、ダイヤが言う。


「貧困に喘ぐのも、暴力に怯えるのも、衝動に支配されるのも、欲求へ従うのも、全て自然の姿だ。この世が戦乱というなら、尚更だ。勝者がいれば敗者が生まれる。いずれ、そんな世界を統治しようとする強者が現れるだろう。地獄のような日々が始まれば、生物は結託して革命を起こす。やがて王を討ち、国家を形成する為に法を作り出す。町は栄え、貿易が始まり、生活は豊かになり、欲求が生まれる。足りない、もっと欲しい――奪ってでも!」


 鋭い視線が向けられる。誰も、何も言わない。


「また、戦争が始まる。勝者と敗者が生み出され、弱者は迫害され世界を呪って更なる争いを起こす。これが、世界だ!」
「その流れを絶ち切る為に、優れた指導者が必要なんだろうが!」
「何故、断ち切る? これは自然の摂理だ。食物連鎖が生物の均衡を保つように、人間と魔族の均衡を保つものが戦争なんだよ」


 ルビィは静かに目を閉ざす。今、目に見えているものがジェイドの幻想であっても見破ることが出来ない。ならば、彼の言葉を聞き逃すことの無いように目を閉じよう。吐き出されているのは、無責任に王へと推すガーネット等への、百五十年の旅路で到達したダイヤの反論だ。


「指導者なんて、都合の良い藁人形だ。保身の為に媚び諂い、不利になれば切り捨てる。俺を王へ推すということは、身勝手で愚かで醜く救いようのない世界の摂理の元へ巻き込むということだぞ。世界の為、俺に犠牲になれと言うことだぞ」


 泣いているのかも知れないと、ルビィは静かに思う。否、ダイヤは泣いたりしない。
 ダイヤはもう、戦いたくない。大切な親友と穏やかに生きて行きたい。彼の言う戦乱の世で、それは如何しようも無く甘く現実味の無い理想だった。けれど、夢見て、何がいけないのだろう?
 祈って何が悪い? 願って何を責める? 訴えて何が許されない?
 味方をしたいと、ルビィは思う。けれど、既に現状はダイヤの理想を叶えられるような平穏な世界ではないのだ。
 それまで黙っていたジェイドが、諭すように言った。


「否定はしない。巻き込もうとしていることも、犠牲にしようとしていることも、結果を見れば事実だろう。歴史は繰り返し、戦争は終わらない。それは事実だ。だが、それを運命と、人は呼ぶんだよ」


 それは罪を許す聖職者のようだった。
 断罪されるかのように、ダイヤが忌々しげに目を細める。


「運命だから、仕方が無い? 運命だから、諦めろ? 如何して! まるで思考を放棄した家畜じゃないか!」
「好い加減にしろ。お前の駄々に付き合っている時間は無いんだ」


 溜息交じりに、ガーネットが言う。
 ほら、と肩を貸すように腕を伸ばすが、ダイヤはそれを取らなかった。
 理解されないことが悲しいのではない。理解しようとしないことが、悔しいのだ。ルビィは言った。


「何処が、駄々なの? ガーネット達は難しい言葉を並べているけれど、結局は都合良くダイヤを使おうとしてるだけじゃない」


 ルビィの反論を意図していなかったのか、ジェイドが僅かに目を見開いた。


「大勢の為の犠牲として、ダイヤを祭り上げるの? 戦争だから仕方無いって? この為に、貴方達はダイヤと一緒にいたの?」


 否定の言葉を祈りながらも、ルビィには解っていた。
 ダイヤが魔王の末子でなければ、今此処にはいなかっただろう。ガーネットも育てはしなかっただろうし、トパーズも守りはしなかった。
 ガーネットはダイヤが何者でも構わない、ダイヤだから大切だと言った。本心だろう。否、本心であって欲しい。そうでなければ、ダイヤの百五十年は無意味で、彼の心の行き場が無くなってしまう。
 彼等の思想を変える為でなく、ダイヤの心を守る為にルビィは訴える。


「如何して、願うことすら許されないの? 如何して、貴方達の都合をダイヤへ押し付けるの? 貴方達にとって、ダイヤって何なの?」


 畳み掛けるような詰問に、ジェイドは黙った。圧倒されたとも、返す言葉が無かったとも、馬鹿らしいと呆れたようにも見えた。
 重く苦しい沈黙が、凍える寒風と共に胸へ突き刺さる。唇が凍り付き、言葉を吐き出せなくなる前にと、背を焼かれるような焦燥感でルビィは問い掛ける。


「王にする為にダイヤと共に過ごしたなら、如何して、思考することを教えたの?」


 己の衝動のままに生きる大勢の魔族のように、欲望を制御する理性等、与えなければ良かった。思考する力を奪い、自在に操ることの出来る人形のように育てたら良かった。情等、移さなければ良かった。彼が固執するような関係性等、築かなければ良かった。
 けれど、ガーネットはそうしなかった。ダイヤが正誤を判断出来るような思考力を養い、意思を貫くだけの心を育て、己の思うように生きる為の力を与えた。それは、何の為だ。


「――もう、いい」


 沈黙を打ち破るように、ダイヤが呟いた。風に掻き消される声は、道端に倒れる屍のようだった。


「始めから、俺は歯車の一つだったんだろ」


 何かを悟ったように、ダイヤの面から感情は消え失せている。正しく、血の通わない人形のようだった。


「全部、思い出したよ。魔王城に囚われた五十年、陰気な牢の中で俺を散々可愛がってくれたのは、トパーズだった」


 静かに、ダイヤは目を閉じた。
 あのダイヤが、膝を着き、嘔吐し、咽び泣くような過去の記憶だ。ルビィには想像も付かない凄惨な時間が、ダイヤにはあった。そして、それは先程まで隣にいたトパーズによって与えられたものだった。
 ガキの頃、散々遊んでやったろ。
 何でもないように笑ったトパーズを思い出し、肌が粟立った。害意や悪意は無かった。彼にとって、それは純粋な遊びの一つだったのだ。


「産まれ落ちたその瞬間から、否、胎に宿ったその時から、俺は歯車の一つだった。只の道具だった。憎悪や羨望、期待や憤怒を向ける都合の良い捌け口だ。世界を導くなんて仰々しいことを言って、都合の良いように操る為の人形だった。とっくに解っていたんだ。でも、可能性に縋りたかった。なあ、ガーネット」


 薄く目を開けたダイヤが、憐れむようにガーネットを見た。青い瞳が煌めき、何処かそれは泣いているようにも見えた。


「やっぱり、お前は優し過ぎるよ」


 風が強くなっていく。目の前にいる筈のダイヤの姿が、霞む。


「俺は、お前とずっと一緒にいたかったんだ。お前と広い世界を見てみたかった。その為の方法をずっと探していた。だけど、独りで飛び続ける間、世界の摂理に気付いた。歴史は繰り返す。時代は歯車であり、摩耗すれば捨てられる。俺はその、歯車だった」


 姿が見えない。表情が見えない。それでも確かに声は届いている。


「情を移すべきではなかったな、俺も、お前も、トパーズも。道具だと、割り切って生きていけたら、一番楽だったのにな」


 語り掛けるように、諭すように、染み込ませるよう殊更丁寧にダイヤは言葉を紡いでいく。
 理解も共感も求めてはいない、独白のようだった。


「ルビィ。お前にとって、魔族とは、人間とは何だ?」
「……同じ、命だよ」
「そっか」


 吹雪の中、ダイヤの姿が確かに見えた。それは雲間に差し込む光のように、鮮烈な青い瞳を浮かび上がらせる。


「魔族とか人間とか、世界とか時代とか、俺は知らん。思想や種族の違いも対立も戦争も、俺は興味無い。でも、俺は人間を信じてみたい」


 何故、とジェイドの口元が声にならない言葉を吐き出す。
 その動作も目聡く察していただろうダイヤは、問いには答えず薄く微笑むだけだった。


「アレキサンドライト――母の、故郷へ行こう」


 さらりと吐き出された言葉の意味を正しく理解した者は、恐らく、此処にいなかった。
 誰もが困惑し、その言葉の真意を探ろうと思考する。問い掛ける術を端から鋭利な刃で切り落とすように、ダイヤは全ての言葉を絶対零度の微笑みを以って遮断した。
 猛吹雪の中、風前の灯火の如くダイヤの姿が霞む。これまでの議論を忘れたかのようなダイヤの言葉の変わりように疑念は尽きない。それでも、問い掛ける言葉等ありはしなかった。





2014.1.31