45,Possibility.










 大粒の雪が、まるで光の結晶のように眩く輝きながら舞い落ちて行く。
 この世界の無情さを儚むように、不条理を嘆くように、残酷さを贖うように降り注いでは消えて行く。絶え間なく落ちる雪の華は大地に到着すると共に、幻のように消えてしまう。ルビィは切り立った崖に囲まれた集落を見詰める。白い建物は外敵を拒否するように沈黙を守り、死んだようにひっそりとしている。
 ダイヤの母、アレキサンドライトの生まれ故郷。そして、ガーネット等にとっては懐かしき思い出の地だった。
 ベニバナと呼ばれるその地は、現実感を帯びない奇妙な空気が漂っていた。ルビィは振り返る。其処には目に見えない壁が存在するかのように吹雪が遮断されている。境界線の此方は春のように明るく暖かい。


「此処は、変わらないな」


 独白のように、贖罪のようにガーネットが言った。故郷を懐かしむようではなく、言葉は空虚に響いた。
 集落に生き物の気配は無い。だが、大地の其処此処では緑が芽吹き、色とりどりに花を咲かせている。ガーネットはそれが当たり前の風景の一部であるように目も向けず、目的地が予め決まっているように迷いなく真っ直ぐに進んで行く。


「綺麗なところね」
「不気味なところだな」


 ルビィの呟きに、ダイヤの吐き捨てられた言葉が重なった。ばつが悪そうにダイヤが目を逸らす。
 価値観が違うのだ。見えている世界が同じでも、感じ方は違うだろう。冷めた目で歩き出すダイヤを、ルビィは追い掛ける。


「フェナジンに似ている」


 ダイヤが言った。それは、ジェイドが嘗て暮らした町の名前だった。
 過去を投影し続けた幻想の町――。ダイヤの声は、何処か寂しげに聞こえた。
 振り返る事無く歩き続けるガーネットは、集落の中央に聳える教会にも似た塔へ進んで行く。切り取られたような両開きの木製の扉がある。窓には美しいステンドグラスが嵌め込まれ、光を反射して水面のようにきらきらと輝いていた。
 扉が、開け放たれる――。途端、草原のような清々しい空気が流れた。
 清涼な空気を胸一杯に吸い込み、ルビィは胸を撫で下ろす。これが幻だとは、思えない。
 塔の内部は光に満ち、細部にまで繊細な装飾が施されていた。何処の国の城にも劣らないだろう豪奢な造りだ。此処に住んでいる者の位の高さを感じさせる。
 柔らかな絨毯は鮮やかな紅でありながら、嫌味無く室内を飾っている。燭台に並んだ細長い蝋燭は内部を照らす為ではなく、その光自体が調度品であるように設置されていた。


「此処が、アレキサンドライト様の館だった」


 螺旋階段の下に立ち、ガーネットが言った。
 振り返ったガーネットの紅い瞳が、蝋燭のように煌々と揺れる。故郷に戻った喜びとも、戻れない過去への悔恨とも取れる何処か儚い光だった。
 ダイヤに表情は無い。否、どんな顔をしたらいいのか解らないようだった。周囲の美しい装飾へ目を向けることも無く、ガーネットを伏せ目がちに見ている。


「アレキサンドライト様は、俺達の育ての親だった。ダイヤの言う通り、全ての魔族が戦争を望んでいる訳では無いし、武力を持っている訳ではない。だが、闘争本能も武力も持ち合わせなかった魔族の子どもが平穏に生きられる程、世界は優しくない」
「そういう子どもを拾って、世話をしていたんだろう? ――己の、兵士として育てる為に」


 侮蔑するように、ダイヤが言った。
 ガーネットは何も言わなかった。随分と、穿った物の見方をするなと呆れたようでもあった。


「どんな思惑があったか等、俺達は知らん。今となっては、知る術も無い。だが、今の俺達がいるのは、アレキサンドライト様のお蔭だった」


 螺旋階段を、ガーネットが一つずつ登り始める。
 ユズリハのような、扇のような階段は天上へと伸びて行く。外観とは異なり、内部から見るとその階段の先は霞んで見えず、正に雲を突き抜け天界まで続いて行くようにも見えた。
 美しい金色の欄干に手を添わせ、ダイヤが後を追う。振り返らないガーネットは背中を向けたまま、言った。


「この町――ベニバナは、アレキサンドライト様の一族が暮らしていた。銀色の髪と、青い瞳、白亜の翼を持つ一族だ」


 それは正に、ダイヤと同じだった。
 けれど、然程驚く様子も無くダイヤは、他人事のように相槌を打つ。


「人間か魔族という分類ならば、魔族なのだろう。だが、闘争本能も殺戮衝動も、武力も持たない彼等は排他的ではあったが、人間のようだった」


 ガーネットは階段を上って行く。淀みない足取りだった。
 訝しげに目を細め、ダイヤが問い掛ける。


「そんな弱い種族を、何故、魔王は求めたんだ。気紛れか」
「気紛れ――というよりは、興味だろうな。他の魔族とは一線を引くその清廉な生き様や、美しい容姿、強靭な治癒力、加えて、アレキサンドライト様の持つ力は特殊だった」


 ルビィは、嘗てトパーズから聞いた話を思い出した。
 ダイヤの母、アレキサンドライトは特殊な魔法を使った。彼女が手を翳すとどんな傷も病もたちどころに癒される――。


「他者を癒す力か」


 代弁するように言うダイヤに、ガーネットは背を向けたまま首を振った。


「解らない。だが、あれはもしかすると、時間を操る力――もしくは、創造する力だったんじゃないだろうか」
「創造?」
「恐らくな。彼女は怪我や病を健常な状態へ戻す力を持っていたか、新たに創り出すことが出来たのだろうな」


 確証はないと言うガーネットだが、その口ぶりは確信を得ていた。
 夢物語を聞かされているように、酷くつまらなそうにダイヤが問い掛ける。


「よく解らないが、何故、魔王ともあろう者がそんなものを欲しがる」
「創造する力。解り易く言ったつもりだったが、伝わらなかったようだな」


 ダイヤを侮るような物言いで、ガーネットは目も向けずに言う。


「創造主――。そう言えば、解るか?」
「馬鹿な」


 彼等の言う意味が解らず、ルビィばかりが首を捻る。
 何を言っているのか解らない。置いてけ堀のルビィに、後ろでジェイドが内緒話をするように耳打ちした。


「アレキサンドライト様は、我々が神と呼ぶ力を持っていたんじゃないかと、思っているのさ」


 神――。
 ルビィは息を呑む。御伽噺だ。馬鹿げている。ダイヤの否定に、ガーネットは何も反論しない。確証は無いのだ。今では確かめる術も無い。


「魔王はアレキサンドライト様の力を求め、ベニバナを襲撃し、彼女一人を残して殲滅した。アレキサンドライト様を捕え、子を産ませた」
「それが、俺だって言うのか。子を生す理由が解らない」
「彼女の力を引き継いだ手駒が欲しかったのかも知れないし、気紛れかも知れない。そんなことはもう解らない」


 終わりの見えない螺旋階段は、それほど上った訳でもないのに呆気無く終わりを見せた。
 染み一つ無い白い壁に、嵌め込まれたような両開きの木製の扉があった。踊り場すら存在しない階段の終わりで、ガーネットは迷いなく扉を開く。
 あの、春の新緑にも似た清涼で生命力に満ちた空気が流れる。建物は密室であるのに、空気は淀む事無く流れ続けている。


「お前は、如何したんだ」


 扉の中へ足を踏み入れたガーネットの背中へ、ダイヤが問い掛ける。
 内部はやはり、昼間のように明るい。部屋自体が光り輝いているように眩かったが、優しい光だった。


「ベニバナが襲撃され、一族が皆殺しに遭い、アレキサンドライトが捕えられ、お前は如何したんだ」


 ガーネットが苦笑したのが、空気で解る。まるで、痛いところを突いてくれるな、と言っているようだった。


「餓鬼だったからな、アレキサンドライト様の召使いとして、魔王城で生きるしかなかった」


 弁解するようなガーネットに、ダイヤとてそれを責めはしなかった。
 扉の中に家具は無い。正面に聖母を讃えた大きなステンドグラスがあるだけで、四方を白い壁に囲まれた無の空間だった。窓から入る光が白い床に美しい絵画を投影しているようだ。乾いた足音を響かせ、ガーネットが進む。
 さて、とガーネットが振り返る。口元は微かな弧を描いていた。


「此処へ行くと言い出した理由を聞かせてくれ」


 ダイヤは無表情だった。
 ガーネットではないが、問い詰めたくなる程度には、ダイヤがこの場所へ行くと言い出した経緯は疑問だった。ダイヤは表情を崩さない。ガーネットは問いを重ねた。


「自己顕示欲も支配欲も、お前には無いだろう。武力も求めてはいないし、母親への興味も無い。なのに、何故此処?」
「……確かに、俺はこの世界の覇権なんて如何だっていい。戦いたくなかっただけだ」
「失うことが、怖いんだろう?」


 否定を許さないように、ガーネットが言った。だが、ダイヤは眉一つ動かさずそれを肯定する。


「そうだ。百五十年かけて取り戻したものを、好き好んで失いたいと思うか」


 当たり前だと、ダイヤが言い捨てる。
 ルビィも、静かに頷いた。ダイヤが戦いたくない理由はそれだけだった。否、それ以外に有り得なかった。
 ガーネットは、目を伏せ苦笑する。


「ルビィが前に、如何してダイヤが自分で思考するように育てたのか、問うただろう。何故、操り人形のようにしなかったのかと」


 流すように、ガーネットがルビィを見遣り、ダイヤへ戻す。


「そんなことは当然だ。俺は、お前が大切だったからな。お前以外に、大切なものなんて、無かったんだよ。自分の未来を自分の思うように生きて欲しかったんだ。幸せになって欲しかったんだから。だが、お前の中で俺の存在がそんなに大きくなるとは、思わなかった」


 予想外だと言葉は示しながらも、何処か嬉しそうでもあった。子どもの成長を喜ぶ親の顔だった。
 ガーネットは困ったように笑いながら、ジェイドへ目を向けた。


「ジェイド。悪いが、俺はダイヤの気持ちが痛い程に解るんだよ。俺だって、ダイヤを戦地へ送りたくは無い。傷付くと解っているからな。こいつが望まないなら、王になんて推したくも無い」
「ガーネット」
「だが、状況はそう言っていられないんだ」


 今度はダイヤに向き直り、ガーネットがはっきりと言う。


「お前は魔王とアレキサンドライト様の血を引いてしまった。魔王の後継者候補である以上、策略を巡らす魔族に利用されるだろう。アレキサンドライト様を崇拝する者に、祭り上げられるだろう。そして、サファイヤは異常な執着を持ってお前を追っている。逃亡している間に、サファイヤなら世界を滅ぼすだろう。そうなれば、もう逃げ場は無い」


 ぎゅ、とダイヤが唇を噛み締めるのが、見えた。
 反論の余地は無い。ダイヤとて、解っていただろう。そう思い至って、ルビィは、以前の彼等の問答の意味を知る。あれはガーネットが嘗て言った通り、ダイヤの駄々だったのかも知れない。
 正論も正解も解っていて、否定されることを知っていて、反抗したのだ。ダイヤの、ガーネットに対する甘えの一つだったのかも知れない。予定調和の遣り取りだったから、ダイヤはいとも簡単に掌を返したのだ。


「人間と魔族が相容れないとは、俺も思わん。だが、共存出来るとも思えない。同族間ですら不可能だろう」
「……解っている」
「けれど、お前は武力による支配を望まない。違うか」
「……違わない」


 叱られた子どものように、ダイヤは俯いている。ガーネットが相手でなければ、こんなダイヤは一生お目に掛かれなかっただろう。


「殲滅や支配以外の選択肢があると、お前は考えている。その可能性を、百五十年の中で見た。そして、その方法の手掛かりが此処にあると思っているんだろう?」


 ダイヤは答えなかった。だが、ばつの悪そうなその目が何よりも雄弁に肯定を示していた。
 青い目が、ゆっくりと上げられる。


「……トパーズの空間隔離の魔法を見て、思ったんだ。拒絶する壁ではなく、受容する扉――。そんな魔法があったら良いんじゃないかって」
「受容する、扉?」


 ルビィの問い掛けに、ダイヤは渋々頷いた。


「全ての人間と魔族が共存するのは無理だ。だが、共存を望む者もいる。ならば、棲み分けるしかないだろう。望む者が望む通りに生きたらいい」


 人間と魔族を切り離すことを壁とするなら、ダイヤの言うそれは正しく扉だった。
 ジェイドが、苦笑する。


「其処で洗脳を思い付かないところが、ダイヤの甘さだな」
「俺はもう、――あんな思いはしたくない」


 洗脳には、苦い思い出があるだろう。ダイヤは目を逸らす。
 可能性。希望。それを求めて、ダイヤは此処へ来た。ガーネットはそれを予想していたように笑っていた。





2014.2.2