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拒絶する壁ではなく、受容する扉。 そんな魔法がもしも存在するのなら、否、創り出せるのなら――? 天空より舞い落ちる雪は大粒でありながら、積雪は無く豊かな大地が広がっている。栄枯盛衰のこの世の理を覆すように、ベニバナの町は時間を止めてしまっている。主の不在を知らぬ館は、不可触の美しさを永遠に保ち続けるのだろうか。魔法によって守られた水中庭園のように。 ダイヤの訴える可能性は、夢物語だった。現実を知らぬ世間知らずの世迷いごとだった。けれど、それはダイヤが百五十年の末に導き出した結論で、唯一の可能性だった。ダイヤはガーネットとジェイドを連れ、ベニバナに遺された魔法に関する資料を読み漁っている。全ての物事に犠牲が付き物ならば、これから払う犠牲は一体何だろうか。ルビィには、想像も付かなかった。 一朝一夕で創り出せる魔法ならば、戦乱はこんなにも永く続かなかっただろう。ダイヤの言うところでは、これは戦乱ではなく平常な世なのだという。人間と魔族による覇権戦争、生存競争。言い方や捉え方は様々なれど、争いが其処此処で勃発していることに変わりは無かった。二つの種族の世界を隔てる扉があったところで、戦争は規模や形を変え続いて行く。ダイヤはそう言う。だが、扉があれば、望まぬ戦いは激減するだろう。 彼等が今していることは、果たして本当に意味があることなのだろうか。彼等の努力を否定するようなことは言いたくは無いが、疑問は残る。問えば、自分で考えろと一蹴されるに違いない。 と、その時だった。 幻想にも似た降雪の中、陽炎のように影が躍った。 蝋燭の灯が、風に揺れるような心許無い弱く細い影だった。見間違いかとルビィが目を擦ろうと腕を上げた瞬間、音も無く金色の閃光が一気に距離を詰めた。 何処かで金属が割れるような澄んだ音がしたと、思った。金色の光はルビィのすぐ傍を駆け抜け、地割れのように大地を切り裂いた。否、隔離したのだ。 この金色の光を、知っている。 ぞわりと肌が波打つ。それは状況を理解した故の反応ではなく、殆ど本能的な生存の危機に晒された生物の恐怖だった。 影は、此方に掌を見せ付けるようにして立っている。ばさりばさりと、風に揺れる上衣の衣擦れが聞こえるようだ。 襤褸布のようなフードが落ちる。煤けた金色の髪が風に揺れる。蜜色の瞳が、獲物を捉えた猛禽類のように光る。秀麗な相貌の口元が、確かに弧を描いていた。 「トパーズ……?」 あの雪原で、幻想の迷宮の中を彷徨っている筈だ。 だが、目の前にいるのは間違いなく魔王四将軍が一人、トパーズだった。 「ダイヤは何処だ」 答え等求めていない冷たい声が吐き捨てられる。 何時だって飄々として、頼り甲斐のあるトパーズ。それが偽りだったとは今も思わない。けれど、目の前にいるのは殺戮衝動と憎悪に囚われた魔族だった。 どれ程の間、あの迷宮を彷徨ったのだろう。表情豊かだった彼の頬は扱け、目の下には墨を塗ったような隈が深く刻み込まれている。 金色の光が掌に集められる。ルビィは咄嗟に腕を盾に身を守ろうとするが、無意味であることも悟っている。 空間隔離の魔法。それは正しく、拒絶する壁だった。金色の光は一枚の壁となり、ルビィを囲むように突き立てられた。 風も降雪も拒絶する壁は、ルビィの左右後方を塞ぐ。退路を失ったルビィは腕を下ろし、眼光鋭く正面のトパーズを睨むことしか出来ない。強がりであることは誰の目にも明白だった。 圧倒的武力、魔法の前で、人間はこんなにも無力だ。魔族が本気になれば人間等、赤子の手を捻るが如く殲滅されるのだろう。 蛇に睨まれた蛙のように身動ぎ一つ出来ぬまま、ルビィは静かに歩み寄るトパーズを見詰める。 「お前に出逢わなければ、ダイヤは、共存等という妄想に囚われることは無かった」 酷い八つ当たりだ。ルビィは思わず言い返す。 「私がいてもいなくても、ダイヤの考えは変わらなかったわ」 「違う。お前が」 その時、トパーズの瞳に映った昏い光を何と例えたら良かったのだろう。 憎悪、怨恨、殺意、恐怖、憤怒、悲哀――。そのどれもが正解で不正解だ。獲物を捕え巣穴に引き摺り込もうとする蟻地獄、嵌ったが最期二度と抜け出せない底無し沼。恐怖にルビィの双肩が震えた。 「お前が悪い。お前のせいで。お前がいなければ。お前なんて」 トパーズらしかぬ稚拙な呪いの言葉だった。けれど、言葉に収まらない巨大な殺意がびしびしと肌に突き刺さる。 再び、掌が翳される。逃げ場を失ったルビィに止めを刺す為に、光が集められていく。 「――トパーズ!」 ガーネットの声だった。招かれざる客に対する驚愕故か、言葉が掠れていた。 目を向ける余裕も無く、ルビィはトパーズと対峙する。 「ダイヤは、貴方の思い通りになんてならないわ。ううん。誰かの思い通りになんてならない」 時間稼ぎのつもりも、駆け引きのつもりも無かった。ルビィの本心だ。 「何が望みなの? ダイヤのお母さんはもう、いないのに」 「お前に、何が解る!」 金色の光が放たれたと思った。だが、それはルビィに到達する直前で、ガーネットの熱波を伴う鏃に破壊された。 金色の粒子が風に舞う。トパーズは邪魔が入ったことも気にならないのか、余裕が無いのか、鬼のような形相で声を上げる。 ガーネットが叫んだ。 「もう、止めろ! この人間を殺すことに何の意味がある!」 「邪魔するなよ、裏切り者!」 侮蔑するように言い捨てるトパーズの声は、旧友へ向けるものでは無かった。 トパーズが、解らない。 明るく陽気で、ダイヤの為にその身を危険に晒すことも厭わない。けれど、百五十年前の魔王城の地下牢ではダイヤを長きに渡って苦しめた。ガーネットを守る為に魔法を行使し、ダイヤの為に魔王軍を裏切る。 彼の本性が読めない。相反する行動の理由は一体何なのだろう。 本能的な殺戮衝動、闘争本能。己を制御する強靭な精神力、理性。強大な武力、知力。稚拙な呪いの言葉。全ての人間と魔族が解り合えないとは思わない。目の前の魔族と解り合えるとも思えない。けれど、解りたいと、願った。 「トパーズ!」 空気を裂くか細い音が、微かに聞こえた。 ガーネットの放った矢は高温の熱波により周囲の雪を溶解させ、一直線に突き進んで行く。トパーズは集めた光を引き延ばすようにして、矢を迎え撃った。 凄まじい爆風と共に、ルビィの身体は後方を塞ぐ金色の壁に打ち付けられた。 呼吸困難に咳き込みながら、ルビィは膝を着く。トパーズはガーネットを目標に定めたのか、その掌をルビィには向けない。 何を言えば良い。何をすれば良い。何をしたら救われる。如何したら、この手はトパーズに届く。 「ダイヤを出せ!」 この振り絞るような叫びを知っている。呪うように唸りを上げるトパーズの声は、まるで。 まるで。 人間のようだった。 「トパーズ!」 ルビィの声は、届かない。大地を握る手は届かない。 理解出来ない。解り合えないと、ガーネットはその弓を構える。同族間、旧友ですら解らない彼の心が、ルビィには何故だか透けて見えるような気がした。ちりちりと脳の奥が燻る。底に沈殿した記憶の中で蘇るのは、ガーネットを失った時のダイヤだった。 膝を着き、涙を零し、絞り出すように初めて零された弱音を、愛しいと思ったのだ。強靭な肉体と強大な武力を持った魔族が、まるで弱く儚い人間のように見えた。人間と魔族、何が違う? 解りたい。解り合いたい。解って欲しい。 罪人が神へ贖罪を求めるように、幼子が母へ縋るように、トパーズの声は此処にいないダイヤへ向けられている。 トパーズとガーネットが、人間には及ばぬ魔法という恐ろしい力で争っている。ルビィに間へ入る力は無い。それでも、この声が届くと信じたい。 弓を構えたガーネットが僅かに呻く。脇腹を押さえる所作と、額に浮かぶ脂汗が彼の怪我による不調を物語っている。それを好機とトパーズの目が光る。勝負は決したとばかりに光が放たれる――。 「トパーズ!」 ルビィが叫んだと同時に、トパーズが動きを止めた。 何かが、翔け抜けた。ルビィの目には、銀色の閃光にしか見えなかった。 視界を覆い隠すような雪の中、銀色の髪が風に踊る。ごぽりと、トパーズの口から夥しい量の赤黒い血液が溢れ出した。 「ダイ、ヤ」 銀色の髪に、鮮血が飛び散る。白い頬も返り血を浴びている。 ダイヤに表情は無い。トパーズが崩れ落ちた。 鈍色の剣が、トパーズの腹部を貫いている。膝を着いたトパーズを受け止め、ダイヤは目を瞑った。 「終わりにしよう、トパーズ」 最期の一撃、ありったけの力を放つように、トパーズの掌から金色の光が零れ落ちる。 天空には幾つもの光の粒子が浮かび、流星群のように降り注いだ。 目を覆いたくなるような惨状――。ガーネットが何かを叫ぶ。ダイヤは動かないトパーズを抱えたまま、静かに膝を着いた。 「すまない」 それが何に対する謝罪だったのか、ルビィには解らない。 ダイヤの周囲が、淡く光る。それは空気を侵食するようにじわじわと範囲を広げ、終には降り注ぐ光の雨を呑み込み、消し去ってしまった。 跡形も無く消えたトパーズの最期の一撃。光の壁は粉々に砕かれたのか吹雪の中に散って行った。 トパーズを地面に横たえ、ダイヤが振り返る。返り血を浴びた相貌は恐ろしく――、そして、美しかった。 「ダイヤ、今のは……」 ガーネットの問いには答えず、ダイヤは黙って剣の血を払う。 積雪の無い大地がトパーズの血を、何事も無かったように吸い取ってしまった。 「もういい。もう十分だ。もう解ったから」 ダイヤが苦悶に表情を歪め、訴える。 誰に何を訴えているのかは解らない。だが、ルビィの胸の内には行き場の無い怒りが燃え上がる。 「如何して!」 怒りは言葉となり、迸った。 「如何して、殺したの!」 ダイヤの足元には、トパーズの亡骸があった。トパーズだったもの。もう二度と動かないもの。永遠に取り戻せないもの。 ずっと、トパーズは叫んでいた。本心は解らない。もう誰にも解らないだろう。 俯いたダイヤが、静かに顔を上げる。青い目は氷のように冷たく、透き通って見えた。 「他に方法は無い」 「そんなこと、解らない。でも、あったかも知れない。死んでしまったら、可能性は零になってしまうのに……!」 「もう、終わったことだ」 淡々と言葉を述べるダイヤに、感情の機微は感じられない。 ダイヤが剣を腰に戻す。鞘走りの澄んだ音が空しく響いた。 「トパーズの声が、お前には聞こえなかったのか」 訝しげに目を細め、ダイヤが問い掛ける。白い世界で、ダイヤの受けた返り血だけが残酷な程に浮かび上がって見えた。 ルビィは答えた。 「聞こえてたよ。私には、助けてって、言っているように聞こえたよ……」 「見解の相違だな。俺には、殺してくれと、言っているようにしか聞こえなかった」 助けてくれ。殺してくれ。それもまた、相反する感情だ。 トパーズが何を願ったのかは解らない。もう永遠に解らない。今度はルビィが問い掛ける。 「殺してくれと言ったら、殺すの?」 「何が言いたい。お前が理想論を語るのは自由だし、咎める気も無い。だが、それを俺に押し付けるなよ」 無感情のがらんどうの瞳が、虚ろにルビィを見ていた。 「何が悪い。何が間違ってる。何が許されない。何を責める。行為か、理由か、過程か、結果か」 「ダイヤ?」 「もう、いい」 くるりと、ダイヤは背を向ける。 幾度と無く見て来た、自由の象徴――白亜の翼が広げられる。雪の溶けるその幻想的な美しさに一瞬、息を呑んだ。その遅れが全ての失敗だった。 「ダイヤ!」 叫んだのは、ガーネットだったのか、ジェイドだったのか、ルビィだったのか。 ダイヤは大きく羽ばたくと、空中へと浮かび上がっていた。そして、その身体は一直線に空の向こうへと突き進んで行く。 脇腹を押さえたガーネットが、小さくなって行く背中へ向けて手を伸ばす。届かない。届かない。もう目にも映らない。 肉眼では捉えられなくなったダイヤの姿に、誰もが言葉を失った。何が起こったのか、理解出来なかった。残されたトパーズの亡骸だけが、一連の出来事を現実と知らしめている。 「何があった」 普段冷静なガーネットが、感情を必死に押し殺しながら呻くように言った。 後方で立ち尽くしているジェイドが、悔しげに歯噛みしながら答えた。 「創造の魔法を、見付けたんだ」 拒絶する壁ではなく、受容する扉。ダイヤの求めた魔法だった。 それが何故、ダイヤが独りで離脱しなければならない理由になるのだろうか。ルビィはジェイドの言葉の続きを待つ。 「人柱だ」 嗚咽を噛み殺すように、ジェイドが言った。 |
2014.2.8