47,Blue sky.
「付いて来い!」 何時になく切羽詰まったガーネットの声に、ルビィは自分が呆然と立ち尽くしていたことを知る。 上位を翻したガーネットが駆け出す。降雪の続く空は鈍色の雲に覆われ、既にダイヤの姿は何処にも見付けることが出来ない。翼を持ち、大空を翔るダイヤに、追い付けるもの等ありはしない。 翼を持たぬ私達は、地べたを駆けて行くしかない。 姿も見えぬダイヤに、ガーネットは文字通り必死に追い縋る。ルビィは後を追おうとして、後方で縫い付けられたように動かないジェイドに気付く。 顔面蒼白となったジェイドが、虚ろな目で暗い空を見ている。否、その目には何も映っていないのかも知れない。 「人柱って……?」 ガーネットを追うことを諦め、ルビィが問い掛ける。呆然自失状態だったジェイドは、胡乱な目を向けた。 「小さな、箱だった」 「箱?」 ジェイドが静かに頷いた。 「白い木箱だ。アレキサンドライト様の館の、書斎で見付けた」 「何が入っていたの?」 「真っ白いハードカバーの本だった。開いた瞬間、白い光が霧みたいにダイヤを包み込んで、消えた。……恐らく、アレキサンドライト様が遺したのだろう」 ダイヤの母親である魔族の女性。 顔も知らない彼女が遺したものが何と無く解るような気がした。 「創造の魔法……」 ルビィの呟きに、ジェイドは神妙に頷く。 「そうだ。望むものを作り出す、アレキサンドライト様だけの魔法」 ジェイドの言うことが真実なら、それ程に恐ろしい魔法は無いだろう。 想像した分だけ創造する魔法。使い手次第で絶望にも希望にもなり得る。正しく、それは創造主、延いては神の領分だ。 「ただ、力には代償が伴う。……以前、ダイヤが言っていたのは、この事だったんだな」 大き過ぎる力は、争いを呼ぶ――。 悔しげにジェイドが言った。 「創造の魔法は、命を削って行使される。脳への負担、精神の摩耗。大いなる力は使い手の中で膨張を続け、浸食して行く。この町に降り注ぐ雪は、アレキサンドライト様の苦肉の策だったんだ」 ジェイドが、天を仰ぐ。絶え間なく降り注ぐ大粒の雪は、大地に到達すると跡形も無く消え失せる。 これは全て、アレキサンドライトの遺した魔法。膨張を続ける魔法を消費する為に、永遠にも思える降雪を齎した。 幻想的に見えた降雪が、真実を知ると酷く儚いものに見えた。暴走する力を少しでも消費し、自身を守ろうとしたのだ。けれど、アレキサンドライトは死に、彼女の亡き後も魔法は途切れる事無く雪として降り注いでいる。 ルビィは、口を結んだ。そして、意を決して問い掛ける。 「その魔法が、ダイヤに……?」 「恐らく、そういうことだろう」 なんてことだ。ルビィは口元を覆う。 ダイヤの中に、膨張し続ける魔法が引き継がれた。行使しなければ使用者を摩耗させる毒。 何故、ダイヤがこの場を離脱したのか、ルビィには解らない。 「望むものを作り出す魔法……」 望むもの。アレキサンドライトが、望んだもの。 ふと頭を過ったのは銀色の髪、青い瞳、白い翼を持つ魔族――ダイヤの横顔。 まさか、ダイヤは。 「ダイヤは、魔法によって作り出された……?」 背筋に冷たいものが走った。 創り出された一つの命。何の為に、創り出されたのか。 ――もういい。もう十分だ。もう解ったから 絞り出すようなダイヤの弱音、泣き言。 全てを、理解したのだ。自分が何の為に生み出されたのか、創り出されたのか、理解した。アレキサンドライトの魔法によって創り出されたダイヤは、果たして、魔族と呼べるのだろうか。 人間でもない、魔族でもない。誰かの思惑の為に、歯車の一つとして創り出された命。 「酷い……!」 既にダイヤも、ガーネットもいない。 けれど、ルビィは見えない筈の背中を探し求める。 アレキサンドライトの魔法によって創り出された命。魔王の血も、彼女の血も引いてはいない。何の責任も義務も無く、ただ利用されるだけの存在。そんなダイヤに――何を求める? 誰を憎めば、誰を呪えば、誰を責めれば救われる。呆然と立ち尽くすばかりのルビィには、吐き出す言葉さえ選択出来なかった。 どれ程の時間が経ったのか。 ダイヤの消えた空の下、小走りにガーネットが駆けて来るのが見えた。額に汗を張り付けたガーネットが、息も絶え絶えに呻く。ジェイドが蒼白のままに問い掛けた。 「ダイヤは……」 「追い付けなかった……」 当たり前だ。翼を持つダイヤに、追い付ける筈が無い。 だが、ガーネットはその紅い目に確かな希望を浮かべて顔を上げた。 「あれを、取りに来たんだ」 「あれ?」 ガーネットの言葉を復唱し、ルビィが問う。ガーネットは頷いた。 「ダイヤに追い付けるとは思わないが、追い掛けることの出来る乗り物だ」 上衣を翻し、ガーネットが駆けて行く。ジェイドと顔を見合わせ、どちらともなくルビィは駆け出した。 ガーネットの向かった先は、アレキサンドライトの館だった。白亜の壁に囲まれたその建物は、彼女の持つ強大な魔法を知った後ではまるで牢獄のように見えた。 世界の端、ベニバナと呼ばれる街に閉じ込められたアレキサンドライト。 魔王の末子として、魔王城の地下、牢獄に閉じ込められたダイヤ。 憐れだと、不憫だと、空虚だと、ルビィは思う。何者にも捕えられない自由の翼と、強大な武力と、人間以上に優しく豊かな心を持ちながら、誰かに利用されるばかりの彼等が、酷く可哀想だと、ルビィは思う。 勢い良く駆けて行くガーネットが、唐突に立ち止まる。正面にあるのは何の変哲も無い白い壁だった。だが、ガーネットは腰に差した矢筒から一本の矢を取り出すと、それを壁に向かって構えた。 引き絞られた弦より放たれた矢は、高温の熱波と共に壁へ突き刺さる。壁は、見掛けの頑丈さとは裏腹に呆気無く崩れ落ちた。壁の奥は大きな空洞が、怪物の口腔のように広がっている。薄暗い洞穴の中には、大人数人が乗れる程の籠に括り付けられた布袋があった。それが一体何なのか、ルビィは解らない。 「気球だ」 ジェイドが言った。 迷い無く仕度を始めたガーネットの背中を見詰める。大きな布袋は数本の頑丈そうなロープで籠へ繋がれている。 ガーネットは頭上へ向け、再び弓を構えた。 放たれた矢は天井を熱波によって溶解させ、轟音と共に突き進む。矢が駆け抜けた先、天井には大穴が空き、青空が覗かせていた。そのまま布袋を広げ、ガーネットは掌を翳す。 トパーズが魔法を放つ時と同じ構えに、ルビィは一瞬身体を固める。ガーネットが掌を翳すと、布袋は生き物のようにむくむくと触れ上がった。籠が、ふわりと浮かぶ。 空を飛ぶ乗り物だ。ガーネットが、視線で促す。 「乗れ。――行くぞ」 不安を拭えぬまま、ルビィは促されるまま籠へ乗り込む。 内部は外見に寄らず、広く乗り心地が良かった。ガーネットが掌を翳すことで浮上し、進行する。青空へ浮かび上がる。それはまるで、ダイヤに連れられて大空を翔けた時に似ていた。 「本当は」 絶え間なく熱波を放出しながら、独り言のようにガーネットが言った。 「本当は、ダイヤと一緒に飛ぶ為のものだった」 目を伏せ、ガーネットが言う。 それが、全てを物語っているとルビィは思う。 他の誰でも無い、ダイヤが大切だとガーネットは言った。その言葉に嘘偽りは全く無い。 ダイヤが、ガーネットと一緒にいたいと願った。その為に百五十年――否、二百年もの苦痛を耐え続けた。 一緒にいたかったのだ。それだけが、彼等の願いだ。 「飛べるよ、必ず」 ルビィの言葉に、一瞬、ガーネットが視線を向けた。 すぐに逸らされた目はダイヤの消えた青空を睨んでいる。 気球という乗り物の構造上、ダイヤに追い付く程の速度は出ないようだった。だが、それでもガーネットは可能な限りの最高速度で空を行く。ダイヤの姿は、依然として見えない。 気球内は、ガーネットの放出する熱波以外の音は無く、重苦しい沈黙が支配している。ルビィは籠に背を預け、景色に目も向けず、沈黙を守る彼等に問い掛ける。 「ダイヤは、創られた命だったの?」 懇願にも似た問い掛けに、答えたのはガーネットだった。 「解らない」 正直な言葉だっただろう。ガーネットは続けた。 「アレキサンドライト様が、自らの膨張する魔力を消費する為に、創り出した存在かも知れない。魔王とアレキサンドライト様の血を引いて生まれた子どもかも知れない。事実は解らない。もう、確かめる術も無い」 空を見詰めたままだったガーネットが、ルビィに目を向けた。その紅い瞳は、燃え盛る紅蓮の炎のようでありながら、崩れ落ちる氷山の一角にも見えた。 「人間と魔族、どちらも同じ命だと、お前は言ったな。――なら、ダイヤは?」 質問の意味するものが解らず、ルビィは沈黙する。 ガーネットは問いを重ねた。 「もしも、ダイヤが創られた命だったなら、如何する。誰かの身勝手な理由で創り出された、人間でも魔族でもないダイヤを、お前は同じ命だと言えるか?」 命は平等ではない。掛け替えの無いものではなく、代替出来る代物だ。立場一つでその価値は大きく変わる。 けれど。 「ダイヤが人間でも魔族でも、それ以外でも構わない。ダイヤだから、大切なの。……貴方もそうでしょう?」 問い返されても、ガーネットは答えなかった。答える必要すら、無かった。 解り切った問いだった。それでも、口にせざるを得ない程に、追い詰められている。 再び口を結ぼうとするガーネットに、ジェイドが変わって問い掛けた。 「ダイヤの行先が解るのか?」 「もう、あいつには行き場が無い。追い詰められた末に行き着く場所は、――魔王城以外に、有り得ない」 魔王城――。 ダイヤが絶望の辛苦を味わい、百五十年の孤独が始まった場所。 確信を持って、ガーネットが言う。 「膨張する魔力を持て余して、行き場も失ったダイヤが如何するのかなんて、解り切ったことだ」 その意味も、ルビィには解っていた。 「前に、ダイヤに訊いたことがあったの。これまで、辛かったかって……」 「ダイヤは、何て?」 「解らない、考えたことも無かったって、言ってた」 それは否定よりも肯定よりも、悲しい答えだとルビィは思う。 本当の悲劇は、それを悲劇と受け入れられないことだ。魂の内側で死ぬことだ。五十年の投獄生活、百五十年の孤独な逃亡生活。たった一つの微かな希望に縋り生き続けたダイヤが、漸く救われた筈なのに。 「辛かったのかな。泣きたかったのかな。逃げたかったのかな。――死にたかったのかな」 解らない。同族ですら、全てを解り合うことは出来ない。それでも、解りたいと切に願う。 「ねえ、如何思う? ダイヤは本当に――」 「もういい」 ガーネットが、掠れるような声で、言った。 消えそうに儚い、絞り出すような呻き声だった。 「もういい……!」 伏せた紅い瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。 泣いている。ガーネットも、涙を流すのだ。人間と同じように。 「生きたかったんだよ……!」 嗚咽雑じりに、ガーネットが言う。 「ただ、生きたかったんだ。何で、何でそれが許されない! 如何してだ!」 零れた涙が、頬を伝い落下する。 慟哭にも似た叫びが、残酷な程に青い空へ反響するようだ。 「人間も魔族も自分勝手に生きているのに、何で、ダイヤだけが、許されないんだ! 何が悪い! 何が間違っている!」 この叫びを、知っている。 同じだ。ダイヤとガーネットは、同じなのだ。 「ダイヤのところへ、行こう」 青空を睨むガーネットに、ルビィは言う。 「行ったところで如何なるとも、思えないがな」 諦念にも似たガーネットの言葉は事実だった。 膨張する魔力に呑み込まれるダイヤは、それを行使する手段を持たない。アレキサンドライトすら魔力を持て余し、終には命すら放棄するに至っている。 「それでも、行かなければならないよ。ダイヤを独りにはしたくない」 もう、二度と。 何かを察知したようにガーネットが顔を上げた。頬に涙の粒を貼り付けたまま、静かに、頷いた。 |
2014.2.10