48,Magic.










 酷い重低音が、耳鳴りのように鼓膜を侵して行く。
 曇天の下、魔王城へ続く道程は進むに連れて薄暗くなる。命を産むことも育むことも無い死の世界は、砂漠と化して周囲の空気を乾燥させていく。魔王城から流れ出るという高濃度の瘴気は下方に漂い、魔族にとって命の水とも等しいが、人間にとっては毒でしか無い。
 気球に揺られる追走は一見すれば長閑だが、周囲は異常とも言うべき状態だった。
 細く伸びた炭のような枯れ木が帯のように群生している。黒い森と化した砂漠を見下ろし、ガーネットとジェイドが揃って息を呑む。彼等の相貌は驚愕に染まっていた。枯れ木は一方からの強烈な風に当てられたのか奇妙に歪んでいる。通り過ぎ様、ジェイドが手折った緑の無い細木の内部は空洞だった。


「……まるで、道標だな」


 吐き捨てるように、ガーネットが言った。
 おどろおどろしい森沿いに気球は進む。酸素が薄く、ルビィは運動後のように呼吸が荒くなっていた。
 砂漠は黒岩を砕いたかのような鈍色から、血のように不気味に紅く染まって行く。何処からか吹き付ける強風が枝先を震わせ、悲鳴のような音を響かせていた。
 次第に空気は鉄の臭いを帯びて行く。其処此処に死骸が溢れ返っていても不思議でない程の血腥さに、ルビィは顔を顰めた。


「何が、起きているの……?」


 不安に胸が押し潰されそうだった。ルビィは助けを求めるように問い掛ける。
 ジェイドが何かを答えようと口を開いたその瞬間、真正面から強烈な風が吹き付けた。煽られた気球は、ガーネットの操作も虚しく大きく揺られ、木の葉のように墜落した。地面に到着する寸前、ジェイドに抱えられルビィは籠を脱出した。
 着地した砂漠は衝撃を吸収し、粒子を宙へ舞い起こす。
 血が染み込んだかのような生臭さとは裏腹に、粒子は干からびたように乾いていた。気球はぐしゃりと潰れ、ガーネットの放っていた炎によって燃え盛る。轟々と唸る紅蓮の炎と熱波によってルビィの黒髪が舞い起こった。
 ガーネットの安否を気遣うより早く、その姿が影となって浮かび上がる。


「ガーネット!」


 煤に汚れたガーネットが、小さく咳き込みながら現れた。
 汚れた顔を拭い、ガーネットは空を見上げる。時刻すら予測出来ない不気味な曇天は紫色に染まっていた。


「移動手段が、無くなっちまったな」


 保身よりも先行きを案じるガーネットの表情は冴えない。
 燻る気球の亡骸と、周囲の黒い木々の幹を見遣る。上空からは解らなかったが、幹には苦悶に歪んだ人間の顔のような模様が浮かんでいた。断末魔すら聞こえて来そうな人間の顔が、幹びっしりに犇めいている。


「何、これ」


 思わず、ルビィは口元を覆った。
 木々の隙間から漏れる空気の音が、悲鳴のようだ。地面は所々蟻地獄のような穴が空いている。


「だから、道標だよ」


 酷く素っ気無くガーネットが言った。言葉の意味が解らずルビィが見遣れば、代弁するようにジェイドが答えた。


「膨大な魔力が漏出して、影響を齎しているんだ」
「これが……?」


 ルビィの脳裏に浮かぶのはダイヤの横顔だった。
 突然、膨大な魔力を押し付けられたダイヤが、それを持て余すことは想像に難くない。そして、その結果がこの周囲への禍々しい影響だった。


「魔法って、何なの?」


 それはルビィにとって当然の、純粋な問いだった。
 人間には想像も付かないような万能の力でありながら、使用者を選び、自然界に恐ろしい影響を齎す。
 何の為に存在するのだろう。何故、そんなものが生まれたのだろう。全てに意味があるのなら、それは一体何の為なのだろう。
 ジェイドが、言った。


「突然変異だ」
「突然変異?」


 復唱するルビィに、ジェイドが頷く。足取りは、黒い森に躊躇無く突入したガーネットを追っている。


「同種族でも、個体差が生じるだろう。規模は異なるが、同様の存在だ」


 ルビィが怪訝に目を細める。
 個体差、という言葉に不満はあるが、この際追及することに意味は無い。
 ジェイドは歩きながら続けて言った。


「運動能力、思考能力、生まれ持った能力はそれぞれ違うだろう」
「それはそうだけど……」
「多分な」


 背を向け歩き続けていたガーネットが、言葉を挟んだ。


「人間と魔族は、同じなんじゃないか?」


 ガーネットが振り返る。言葉は疑問形ながら、その目には確信が浮かんでいた。


「人間と魔族は恐らく、同一線上の生物で、進化の途中なんだよ。どちらが劣等種族か如何かは解らないが」
「つまり、魔族と人間は同じ種族だって言っているの?」


 それなら、この長い戦乱は一体何だと言うのか。
 世界の価値観すら崩しかねない仮説は危険思想と言っても間違いではない。


「ダイヤが良い証拠じゃないか」


 ガーネットを援護するように、ジェイドが言う。


「翼を持つだけで、能力自体は人間と殆ど変らない。姿形は人間に比べれば異形かも知れないが、魔族と呼ぶには余りに人間に似過ぎている」
「そんなの、」


 彼の口振りがダイヤを貶めているようで、つい反論し掛けるが、ルビィは寸でのところで口を噤んだ。
 人間と魔族、何が違うだろう。青い瞳と銀色の髪が魔族である証拠だなんて、お粗末な話だ。特にダイヤは、その翼も魔法も後天性のものだった。
 ダイヤの存在こそが、進化の過程の凝縮された図なのだ。ジェイドは、そう言いたいのだろう。


「人間は、滅ぶべき劣等種族なの……?」


 ジェイドは否定も肯定もしなかった。
 ガーネットが代わって答える。


「解らない。それはきっと、時代が決めることだ」
「時代……」
「なあ、お前は如何思う?」


 横顔だけで振り返って、ガーネットが問い掛ける。


「人間に比べ、魔族の肉体は強靭であるし、能力も優れている。魔法の存在は、人間を滅ぼそうとする天の意思のようじゃないか?」


 ぐにゃりと歪む黒い幹。地の底を覗くような深い溝。擂鉢状に穿たれた砂漠。縦横無尽に駆け巡る強烈な寒風。
 世界そのものが悪意を持って襲い掛かって来るような恐ろしさを感じ、ルビィは肩を震わせた。この地獄を思わせる環境への影響が天の意思ならば、ダイヤは人間にとっての死神なのか。


「解らないよ――」


 何の養分も有りはしない砂漠に芽吹いた異質な木々が、強風に薙ぎ倒される。皮だけの死に絶えた筈の木が悲鳴を上げる。それを悼むように風が虚しく鳴く。
 立ち止まったルビィに、容赦無く風は吹き付ける。空は日が暮れるように暗くなり、何処か遠くで雷鳴が響いているようだった。
 ただただ、恐ろしいと思う。
 人間を滅ぼし得る力も、自然界にまで齎される影響も、――命すら創り出す存在も、恐ろしい。


「解らないけど、そんなの信じたくないよ」


 ルビィは俯いた。涙が零れそうだった。
 魔族が人間の進化した姿という仮説は、十分にあり得ることなのだろう。けれど、魔法という力が人間を滅ぼす為にあるなんて信じたくない。
 だって、それじゃあ。


「だって、それじゃあ、ダイヤが人間を滅ぼす為に生まれたみたいじゃない――」


 耳に蘇るダイヤの声は、今にも泣き出しそうだった。
 ルビィの言葉にガーネットが唇を噛んだ。否定も肯定も、感情論以外で今のガーネットには出来なかった。
 その時、正面から吹き付ける風が噎せ返るように濃厚な血液の臭いを運んだ。咄嗟に口元を覆ったルビィだが、縫い付けられたように立ち止まったガーネットの背中に目を大きく見開く。
 何事だと隣に並んだ先、前触れ無く途切れた黒い森。再び現れた荒涼たる血腥い砂漠にはどす黒い一筋の川が流れていた。ガーネットの足元には小さな池が出来上がっているが、生物等存在する筈も無い。
 粘性を持つ液体は、まるで、血液のようだ。視線は川を遡って行く。これが血液ならば、どれ程の生物からそれを搾り取ったのだろうか。想像も付かない。緩やかな流れの中、地中から正体不明のガスが噴き出しているのか音を立てて気泡が割れる。川上には、遠目にも解る程に巨大な岩の建築物が天を突くように聳えていた。


「あれが、魔王城――?」


 建築物の屋根は鋭く尖り、避雷針の役割を担っているのか絶え間なく落雷する。
 周囲は肌を突き刺すように冷たい風が吹き付けているのに、ルビィの頬には汗の滴が滑り落ちる。川のせいなのか息苦しい程に空気は湿気に満ちているのだ。
 川岸には、魔族と思われる異形の腕が打ち揚げられていた。二の腕から先は存在せず、常軌を逸した力で捩じり切られたとしか思えない乱雑な切り口だった。そして、その死骸は川を遡る程に増えて行く。


「まさか、ダイヤが殺したの?」


 トパーズを討ち取った時の情景が、ルビィの網膜には鮮明に焼き付いている。
 苦々しげに、ガーネットが言う。


「少なくとも、ダイヤの意思ではないだろう。剣による傷ではないからな」


 急ごう。
 顔色悪く、ガーネットが言った。無言でルビィもまた、頷く。
 川沿いを早足に、魔王城へ進む。瘴気の満ちた魔王城に人間は立ち入れない筈だった。だが、魔王城の傍まで到達すると共にルビィは自身の生存の理由を知る。
 魔王城は既に、廃墟と化している――。
 柱は、黒い森の木々と同様に歪んでいる。其処此処に巨大な穴が空き、巨人の鉄槌が下ったかのように拉げているところもあった。これが魔族の本拠地であり、それ等を統べる王の住まいだとは思えなかった。
 壁には打ち付けられ原型を失った魔族の死骸が、壁画のように張り付いている。血の滴る臓物から、それ程時間は立っていないと予想出来る。余りにグロデスクな映像が濁流の如く視界へ飛び込み続けた為か、非日常的な光景に対してルビィの感覚は既に麻痺していた。恐ろしいと心が感じるよりも、脳がダイヤを探せと本能へ訴え掛ける。
 血液が膜のように足元を埋め尽くしている。砂漠に血の川が出来上がる理由も納得出来た。魔王城にいた魔族全てが、文字通り血祭りに上げられたのだろう。
 ダイヤの意思とは関係無く、暴走した魔力が魔族を皆殺しにしたのだ。
 人間を殲滅する為に生まれたのが魔法という力ならば、この矛盾は一体何なのだろう。問い掛けたところで、ガーネットもジェイドも答えられる筈も無かった。
 ぽたん。ぽたん。
 魔族の死骸から零れ落ちる血液の滴が、床を染めて行く。既に地獄絵図だ。この先に何があったとしても驚きはしない。足元に波紋を広げながら先を急ぐガーネットを追い掛けるルビィの足が、ふと、止まる。
 ぽたん。ぽたん。
 等間隔な水音が聴覚を侵して行く。頭が狂いそうだ。
 ぽたん。ぽたん。


「あ、」


 吐き出そうとした言葉は、形にならない。
 悲鳴にすら、ならない。
 王の間だろう広間の奥、鎮座する玉座。その正面によく見知った細い背中があった。白く美しかった翼は紅く染まっている。両手もまた血塗れながら、剣は腰に差されたまま抜き放たれた気配すらない。
 血溜まりと化した床を突き破るように、めきめきと植物が伸びて行く。腕のように太い蔓は血を吸った為か変色し、毒々しいまでに鮮やかな花が場所を選ばず咲き乱れている。狂ったかのような花の臭いに自然を眉が寄る。
 ダイヤは、振り返らない。
 薄暗い室内を、外界の落雷が時折照らす。


「ダイヤ、」


 ガーネットの呼び掛けに、ゆっくりと、ダイヤが振り向く。
 返り血を浴びた、死んだように無表情のダイヤの横顔が稲妻に照らされる。死角になっていた彼の正面、玉座には魔族を統べる王――サファイヤが足を組んでいる。この状況が愉しくて仕方が無いと言うように、口元は弧を描き表情は愉悦に歪む。
 白い稲妻に照らされ、サファイヤと呼ばれる魔族の群青の双眸が光る。


「何で、此処に来たんだよ」


 抑揚の無い淡々とした声で、ダイヤが言った。
 弾かれるようにルビィが声を上げた。


「ダイヤを、独りにしたくないからだよ!」
「もう、遅い」


 すっ、とダイヤの目が細められる。


「此処へ来るまでに、世界にどんな影響が齎されたのか、見ただろう?」
「……見たよ。魔族が、」
「魔族だけじゃねーよ」


 吐き捨てるように、ダイヤが言った。


「人間もだ。俺が通り掛かっただけで、疫病が蔓延しているみたいにばたばたと倒れて行った。死体は炭になるか、魔族のような異形と化すかだった」


 なあ。
 ダイヤが、言う。


「もしも、もしも、」


 懇願するように、ダイヤの声が掠れた。
 ぐしゃりと歪んだその願いは、糸が断たれるようにぷつりと途切れた。
 白い稲妻に似た閃光が、一筋の槍のようにダイヤの胸に突き刺さった。ごぽり。ダイヤの口元から、臓物を溶かしたように紅く黒い血液が溢れた。ダイヤが、夢でも見ているかのようにゆっくりと膝を着き、崩れ落ちる。
 血溜まりの中へ、うつ伏せに倒れたダイヤを中心に輪が広がった。その奥で、掌を向けたサファイヤが嗤っていた。





2014.2.22