49,Answer.










 声を上げる間も無い。
 目を閉ざしたダイヤは、倒れ込んだまま起き上る素振りも無い。胸に空いた穴は塞がらず、絶え間なく血液が流れ続けている。
 ダイヤにとって、その程度の傷が致命傷になる筈が無い。そう思うのに、一向にダイヤは起き上がらない。


「うわあああああッ」


 喉を引き裂くような絶叫と共に、ガーネットが弦を引き絞る。放たれた矢は緩い放物線を描き、サファイヤへと突き進む。
 けれど、矢は見えない壁に阻まれたようにその足元へ落下した。弓を投げ捨てたガーネットが無防備にダイヤへ縋り付く。だらりと腕は力無く下がり、今も血液が止め処無く流れる。胸に空いた穴は大きく、臓器すら血と共に流れ落ちてしまいそうだった。
 一心不乱にダイヤを呼び掛けるガーネットへ、サファイヤが掌を向ける。
 脳が思考するより早く、ルビィは動き出していた。
 丸腰のまま、サファイヤの前へ両手を広げて躍り出る。盾どころか衝立にすらならないだろう。それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。
 掌が淡く光る。その光に照らされたサファイヤの愉悦に歪んだ相貌が、ぞっとする程に美しいことを知る。そして、ルビィはその美しさを、知っていた。
 瞬きすら間に合わない一瞬で、ルビィの身体は跡形も無く吹き飛ぶ筈だった。だが、その魔法は強烈な風圧によって吹き飛ばされた。
 魔法でも、武力でも無い。他の誰でも無いダイヤが、親友と共に生きる為に得た、ダイヤだけの力だった。
 風圧に消し飛ばされた魔法と、真正面からの風を受けたサファイヤが腕を盾にする。視線は真っ直ぐ、潰えた筈の命に向けられていた。


「この程度で、死ぬ筈も無いな」


 嘲笑するように吐き出されたサファイヤの言葉に、ルビィは振り返る。
 薄暗い広間で、酷く澄んだ青い瞳が光っている。広げられた翼は元の白さを取り戻しているが、胸に空いた穴からは今も血が流れている。
 表情は無い。けれど、青い瞳に浮かぶ光は確かに強く輝いていた。


「言っただろう、サファイヤ。もう、お終いなんだよ」


 ごぽり。
 足元が巨大な生物の呼吸器であるかのように、気泡が浮かび上がる。地震のような揺れにルビィは膝を着いた。
 廃墟と化した魔王城が軋むように揺れ、天井から瓦礫が音を立てて落下する。
 ごぽり。
 浮かんだ気泡が割れると同時に、床が地中へ引き摺り込まれる。擂鉢状に歪んで行く床に大量の血液が吸い込まれる。


「ダイヤ、何を!?」


 ルビィが叫ぶ。ダイヤが、笑った。何故だかルビィにとってその微笑みは、胸が軋むような痛みを覚えさせた。


「なあ、人間と魔族って、何が違うんだろうな」


 弱々しい声で、ダイヤが問い掛ける。
 ダイヤの身体が淡く発光し、結界を作るように周囲を照らし出して行く。白い光は春の日差しのように温かかった。それがまるで、ダイヤそのものを表しているようだった。
 サファイヤの掌から、幾筋もの魔弾が放たれる。けれど、それは淡い光の中で燃え尽きるように消えて行く。
 驚愕に目を見開くサファイヤへ、今度はダイヤが掌を向けた。魔法が使える筈が無い。だが、其処から放たれたのは鏡に映したようなサファイヤと同様の魔弾だった。
 サファイヤの身体を突き抜けた魔弾は、玉座を貫き、魔王城そのものを揺るがす。愉悦に歪んでいたサファイヤの口から、血液が零れた。


「なあ、如何思う」


 答えを、求めていないだろう。
 ダイヤの頬に、透明な滴が伝った。
 傍に跪いていたガーネットの肩を押し、光の外へ追い遣る。成す術無く、ガーネットが尻餅を着いた。


「ダイヤ、」
「ごめんな、ガーネット」


 くしゃりと笑うダイヤの頬に、涙がまた一つ落ちる。
 玉座で、サファイヤは奇妙な形で鎮座している。人間でいう心臓を貫かれても、強靭な肉体を持つ魔族は容易く死にはしない。
 だが、もしも、サファイヤの肉体にすらダイヤの持つ魔力が影響を齎していたとしたら――?
 殆ど反射的に、ルビィは自身の両手を見た。何の変化も無い、愚かで、小さく、弱く、醜い人間の掌だった。
 光の中心で微笑むダイヤへ手を延ばそうとも、ガーネットの腕は届かない。もう、届かないのだ。ダイヤの青い目は全てを理解し悟ったように、穏やかな光を映している。
 ルビィは、両手で拳を作り、問い掛けた。


「ダイヤは、如何思う?」


 それはダイヤとは異なる、答えを求める問いだった。
 ダイヤは逡巡する間も無く、簡単に答えた。


「同じ命だよ」


 種族の壁も、強さによる格差も無い。
 弱肉強食という世界の理に淘汰される、平等で残酷な時代に生きる同じ命。それが、長い旅の末に行き着いたダイヤの、本当の答えなのだろう。
 ルビィは言った。


「私も、そう思う。人間も、魔族も、――ダイヤも、同じ命だよ」


 如何か、この言葉がダイヤに届くようにと願う。
 この腕が届かなくとも、この想いが通じなくとも、如何か、知って欲しい。
 ダイヤが魔族か人間か、創られた命か否か。そんなことは知らないし、もう真実は永遠に解らない。けれど、ルビィには何と無く、解るような気がした。ダイヤが、全てを受け入れるよう穏やかに微笑むからだ。


「貴方は魔族――アレキサンドライトと、サファイヤの、実子ね?」


 殆ど否定を許さない口調で、ルビィは問い掛ける。
 言葉を失ったガーネットとジェイドの顔が驚愕に染まる。当然だ。これまで彼――サファイヤが、ダイヤへして来た仕打ちを鑑みれば到底信じられることではない。
 だが、サファイヤとダイヤは、似過ぎている。
 もしもアレキサンドライトが魔法によってダイヤを創り出したというのなら、憎き魔王の血を引くサファイヤに似せる必要は無かった。魔法で創り出せるのならば、自らの胎を痛める意味も無かった。真実は解らないけれど、ルビィには何故か確信があった。
 ダイヤが、乾いた笑いを漏らす。虚しい、自嘲めいた笑いだった。


「そうだよ。多分、な」


 ルビィは、水中庭園で見たダイヤの記憶の中のサファイヤを思い出す。
 ダイヤへの異常な執着――。それは、トパーズと同じだ。
 突き放す愛があるように、縛り付ける愛もあっただろう。強靭な肉体と武力を持ちながらも、心は酷く歪なその不完全さこそが、魔族が魔族たる所以なのではないか。ルビィは、思う。


「如何して、一緒にいられないんだろう?」


 ぽつりと、ルビィの瞳から涙が零れた。
 ダイヤが願ったのは、それだけだった。ルビィが願ったのも、同じだった。


「ダイヤ……」


 地面が溶解するように、ぐずぐずと音を立てる。
 周囲が、ダイヤを中心地として液体状に吸い込まれて行く。崩壊する魔王城の中で、ダイヤだけが切り取られたように美しかった。


「創造の魔法を、使うんでしょう?」


 空間隔離の魔法が施されたかのように、ダイヤを取り囲むのは光の壁だ。
 もう、誰の手も届かない。ルビィは縋るようにその壁へ手を添えた。叩けば割れてしまいそうに薄いのに、届かない。


「ごめんな」


 宥めるように、諭すようにダイヤが謝罪する。
 酷く申し訳なさそうに眉を寄せるその表情は、魔族とは思えぬ程に、――人間らしかった。
 ルビィは首を振った。


「ダイヤが謝ることなんて、何一つ無いじゃない」
「約束を、守ってやれなかった」
「約束?」
「タートラジンの町で、言っただろう。もう二度と、置いて行こうとしないでって」


 あんな一方的な口約束を覚えているダイヤの意外な律義さに、ルビィは、思わず笑った。
 透明な壁によって隔絶されたダイヤに、それまで黙っていたジェイドが問い掛ける。


「これが、お前の結末か?」
「ああ。――不満か?」
「当たり前だろう!」


 ジェイドの拳が、壁を叩く。壊れる筈の無い壁へ向けられた力はそのままジェイドの拳へと返る。それでも、ジェイドは叩くことを止めない。


「俺は、こんな結末を望んだ訳じゃない!」


 人間と魔族の共存を願ったジェイドの希望が、ダイヤだった。
 何も成さぬまま消えることが、ダイヤの結末なのか。怒鳴るようにジェイドが声を上げる。ダイヤが答えた。


「まだ、終わりじゃない。言っただろう」


 言葉の意味を掴み兼ねたジェイドが訝しげに眉を寄せる横で、ガーネットがするりと壁を越える。
 ダイヤの隣に並び立った紅目の魔族は、ジェイドとルビィを真っ直ぐに見ていた。


「拒絶する壁ではなく、受容する扉……」


 理解したように、ジェイドが言った。
 ダイヤが、頷いた。


「お前は、此方側には来られないよ。もう択んだんだろう」


 壁の向こうは、魔族の世界だ。
 人間の世界とは異なり、力が支配する酷く単純で残酷で、平等な世界。ジェイドは人間との共存を択び、ガーネットはダイヤを択んだ。
 そして、ルビィには其方側へ行くことが出来ない。ダイヤの創るその世界で生きる力が無いからだ。淘汰される弱者にとっては扉ではなく、強固な壁でしか有り得ない。


「それでいいの?」


 戦いを求めなかったダイヤへ、ルビィは問い掛ける。既に傷口からの出血も止まり、傷口も癒えてしまったダイヤが言った。


「いいよ。多くは望まない。なあ?」


 ダイヤは、ガーネットへ笑い掛けた。ガーネットもまた、それを肯定するように頷く。
 その親友の為に、育ての親の為に、ダイヤは長い間苦しんで来たのだ。魔族だけの世界で、戦いだけの日々で、ガーネットがいればそれで十分だとダイヤが笑う。それでいい。もう十分だ。何も望まないとダイヤが訴える。


「さあ、お別れの時間だぜ」


 ダイヤの言葉を合図に、光の壁が広がって行く。魔王城すら光の中に取り込まれ、壁はルビィを避けるように全てを包み込んで行く。


「ダイヤは、ダイヤは如何なるの? このままでは、増大する魔力に呑み込まれてしまうんでしょう?」
「解らない。だが、自分の始末は自分で付けるよ。――じゃあな」


 一瞬。苛烈な光がルビィの視界を白く染めた。




 眩しさに目を閉ざしたルビィが、再度目を開けた時、其処にはもう、何も無かった。





2014.2.23