6,Borderline.










 噎せ返るような血の臭い。舞い上がる戦塵を吸い込まぬように口元を布で覆いながら、屍累々の戦場を歩いている。先を歩くダイヤはやはり振り返ることも立ち止まることもなく、足元の死体をまるで石ころか何かのように飛び越えて行く。砂に塗れる臓器に眩暈を禁じ得ないルビィは頭を抱えたくなった。村の外から出たことも無かったルビィにとって戦争とは遠い世界の物語で、一生関わる筈の無いことだった。
 蹲る者は誰一人起き上ることも、目を開けることもない。アリザリンの都を攻めた魔王軍との戦いで見た戦場は、世界に有り触れた出来事なのだと嫌でも思い知る。


「こうなってしまえば、魔族も人間も変わらないな」


 ぽつりと呟いたダイヤの言葉は砂嵐に吸い込まれながらも、確かにルビィの耳に届いた。
 世界の覇権を賭けて争い続ける人間と魔族。そして、魔族は人間の怒りや憎しみという負の感情から生まれた存在なのだと言う。それでも、今を生きている魔族に滅びろだなんて言えはしない。だからと言って、人間が滅びる訳にも行かない。
 本当に、それしか道が無いのだろうか。どちらかが滅びるまで争わなければならないだろうか。


「ダイヤは……如何思うの?」
「何が?」


 背を向けたままダイヤが言った。ルビィは足元の死体を踏まぬように避けながら後を追う。


「どちらかが勝つまで、戦争は終わらないの?」
「さあな。俺には解らないし、興味も無い。それより、次の目的地が見えたぞ」


 戦場を越えた先、砂漠と森の境界。寂しい風の吹き付ける時代に取り残されたかのような、遺跡にも似た古都。区画整理が行われ商業が盛んだったアリザリンとは異なる貧しい都は人間の住処なのだろう。綻びだらけの城壁が無いよりはマシだと訴えるように風を受けている。
 茶褐色に染まる都は木造建築が主なのだろう。中央に聳える大きな教会の屋根がまるで天を貫くかのように聳えたっていた。魔族が攻める価値も無いと捨て置かれたような都でも、門番は都に入ろうとする旅人に武器を向ける。


「モーブの都だ」


 何食わぬ顔で、ダイヤはフードを深く被ったいかにも怪しい姿のまま門を潜ろうとする。案の定、門番によって道を阻まれた。
 睨みを利かせる門番に一枚の書状を突き出した瞬間、さっと顔つきを変えた門番は武器を引いて恭しく礼をした。ダイヤはさも当然というように堂々を門を潜り、ルビィは慌てて後を追った。
 界隈は昼間ということを疑わせるように静まり返っている。擦れ違う襤褸布を纏った老婆は胡乱な目付きで当て所無く彷徨い、それを導く者は一人としていない。中天に差し掛かる太陽から目を背け酒を煽る男、着衣すら煩わしいと服を脱ぎ捨て寝転ぶ女。泥だらけの子どもが塵の中を漁ってはポケットに仕舞い込んでいく。
 アリザリンの都と比べ、此処はなんと醜悪な地獄なのだろう。塵溜めのような、風の吹き溜まりのような腐臭を漂わす街中で、ルビィは反射的に口元を布で覆った。すると、其方に顔を向けることもなくダイヤが言った。


「そうしていろ。此処は年中、訳の解らない疫病が蔓延しているからな」


 真っ直ぐに歩いて行くダイヤは、道端に転がる腐敗の進んだ死骸に見向きもしない。誰も弔うことなどせず、まるで其処に在るのが当たり前のようにただ時間が流れて行くのを待っている。都の中央には立派な教会があるというのに、都を守る衛兵だっているのに、如何して人々の目はがらんどうのまま虚無を見詰めているのだろう。
 黙って進むダイヤを追うと、前方に更なる紫の門があった。それは城壁などより遥かに強靭で美しい白亜の外壁だった。
 ルビィが問い掛ける間も無くダイヤは門を押し開けた。途端に行く手を阻むように振り下ろされた無数の刃にルビィは肩を跳ねさせる。銀色の美しい鎧に身を包んだ兵士は抑揚のない声で言った。


「貴様、何用だ」


 ダイヤはフードを深く被り、先程と同じく一枚の書状を突き付ける。兵士は剣を鞘に納め、黙って道を開けた。
 拓けた視界に広がる賑やかな町――。それは背後で閉じた門の向こうがただの悪夢であったかのような美しさだった。古い木造建築ながら、綿密に組まれた建物の全ては長い年月風雨に晒されながらも当時の美しさを残している。所々に在る出店の下には僅かながら食材が並び、擦れ違う人々の顔は明るく笑顔すら覗かせる。


「この町は二重構造になっている」


 フードの下、くぐもった声でダイヤが言った。


「この中心部こそがモーブの都。……他はまあ、差し詰め塵捨て場と言ったところか」


 人を人とも思わぬダイヤの言いように不快感は感じたが、正にその通りだった。
 疫病が蔓延し、飢餓に喘ぐ人々のことなど微塵も気に掛けぬように生活を送る中心部の住人。彼等を分け隔てるものは一体何なのだろう。ルビィは問い掛けた。


「如何して……?」
「今に解る」


 ダイヤは天高く聳える教会に目を遣った。
 鐘の音が響き渡った。途端に辺りは水を打ったように静まり返り、通行人は足を止め道を引き返す。家に居た者は硬い顔付きで扉を開け、ボールを抱えた子どもも皆揃ってぞろぞろと教会へと歩き出す。
 人々の群れに紛れ込むように歩くダイヤを追ってルビィもまた教会へと足を向けた。
 教会前の広場は町中の人々が集まり犇めき合っていた。荘厳で巨大な教会の扉の前に木製の舞台と一本の柱がある。これから何が起こるのだろうと、人々の隙間を縫って様子を窺うルビィの耳に、静寂を打ち破る悲鳴が届いた。
 狂ったように泣きじゃくる女の悲鳴と嗚咽。逃げ出そうとする女を人形のように甲冑の兵士が引き摺り、彼女の両手を拘束する鎖が石畳を打っては嘆くように鳴る。集まった人々は表情一つ変えず、その舞台をただ見詰めているだけだ。女は必死の形相で暴れ狂うが、兵士は有無を言わせぬまま舞台上の柱に荒縄で縛り付けられ、今も助けを求めて金切声を上げる。教会の扉が開いた。
 紫を基調とした雅やかな衣を纏った初老の男が、何人もの美しい若者を引き連れて舞台に上がる。犇めく人々が口々に言った。


「教皇様だ」
「教皇様がいらっしゃった」
「教皇様……」


 まるで呪文のように唱えられる言葉は、初老の神父らしき男を指しているのだと悟った。
 白髪混じり髪を帽子の下に隠し、神父は民衆の前に立つ。後ろで影のように歩いていた男が進み出て、声を張り上げた。


「――この女は人間でありながら、魔族に加担し、国家を破滅へと陥れようとした大罪人である! よって、この場で火炙りの刑に処す――」


 民衆がざわめく。溢れ出た馬事雑言は柱に縛られた女へと向けられ、薪が用意されるのを急かすように囃し立てる。
 広場中に溢れるもの憎悪と憤怒。矛先は身動き一つ出来ぬ程に縄で打たれたか細い女だ。異常な事態に混乱するルビィは、無意識にダイヤの袖を握り締めていた。
 男が炎を掲げる。ダイヤは身動き一つしない。


「――この聖なる炎が、不浄なる魂をも浄化するであろう」


 炎が、薪に放たれた。
 爆ぜる炎は瞬く間に大きくなり、女の足元を舐める。女の狂ったような悲鳴とは裏腹に、民衆からは笑みと拍手の乾いた音すら零れていた。
 肉の焼ける臭いが、女の呪いの言葉が、民衆の狂喜が、広場を埋め尽くす。教皇と呼ばれる初老の男は眉一つ動かすことなく燃え上がる炎を見物していた。ルビィは縋るようにダイヤの腕を掴んだ。


「な、何なの、これは!」
「――魔族狩りさ」


 フードの下で、凍るような冷たい声でダイヤが言った。
 人間と魔族は長きに渡って世界の覇権を廻って戦争を続けている。人は魔族を拒絶し、魔族は人を屠る。魔族は恐ろしいと思う。けれど、今も焼かれる女性が一体何をしたのか。否、何をすれば火炙りになどされなければならないと言うのだろうか。
 炎が柱もろとも女を焼き尽くし、黒焦げになった死骸だけが残ると呆気無く舞台は終了した。教皇は終に一声も発さぬまま、何事も無かったかのように教会へと戻って行く。教会の扉が閉まったと同時に民衆もぞろぞろとまた元の生活に戻って行く。悪夢から目覚めた心地で、それでも目の前の揺らぐことのない現実を怯える目で見ながらルビィはダイヤの腕を握る。
 ダイヤは言った。


「魔族を始めとして、それに加担した者を処刑する儀式だ。尤も、その多くは謂れなき罪を負わされた民間人で、人々を恐怖によって支配する為に行われているのだろうな」
「そんな……!」


 同じ人間でありながら、支配される者と支配する者がいる。殺すことを許される人間と、殺される義務を持つ人間がいる。
 歪な人々の感情の中で、ルビィはただその不条理をダイヤにぶつけることしか出来ない。


「こんなの、酷過ぎる!」
「だが、これがお前達、人間だろう」


 フードの下で、青い瞳が鋭く光った。
 それでも表情を変えないダイヤに、ルビィは噛み付くように言った。


「違う! こんなの、こんなのおかしい!」
「強者が弱者を従えるのは当然のことだ。俺に言わせれば、お前の方が余程おかしいぜ」


 呆れたような溜息を零し、ダイヤは目を細めた。先程までの鋭い光は消え失せ、まるで其処には何も存在しないかのような虚無感の奥に、決して拭い去ることの出来ない人間への諦観と侮蔑を見た気がした。


「種の繁栄の為に手段を問わないのは人間も魔族も同じだ。お前が否定する理由が、俺には解らない」
「種の繁栄とか、世界の摂理とか、そんなことは解らないよ……。ただ、人間には感情がある」


 ダイヤは子ども染みた動作で首を傾げた。恐らく見た目以上に年齢を重ね、ルビィよりも遥かに長く生きて来ただろう男とは思えない。


「感情とは何だ?」


 それはこれまで思うまま傍若無人に振る舞って来たダイヤから投げられる質問ではなかった。彼は何時だって自分の感情、延いては己の心に従って生きていたダイヤに解らぬ筈が無い。そう思うのに、幼子のように小首を傾げるダイヤの言葉には、ルビィを小馬鹿にするような様子もはぐらかすような響きも無い。ただ純粋な、疑問だ。
 咄嗟に言葉を繋げずルビィは黙り、弾かれるように顔を上げた。


「感情とは、心よ。誰かに優しくしてもらえたら嬉しかったり、馬鹿にされたら悔しかったり、大切な人がいたら抱き締めたいと思う心のことよ」
「ふうん」
「あなたにだって、あるでしょう」
「さあな。俺はただ、本能のままに生きるだけだ。――尤も、魔族は人間のように私利私欲の為だけに同族を虐殺したりしないがな……」


 燃え滓と化した檀上の女性の遺骸を眺め、ダイヤは呟くように言った。そのまま視線は扉の奥に消えた教皇を追うように虚空を彷徨った後、静かにルビィに向けられた。何処か陰を帯びた無表情に、青い瞳に昏い色を滲ませる。
 人間と魔族は解り合えないのかも知れない。僅かな問答の中に大きな溝を見たような絶望にも似た心地でルビィは問い掛けた。


「あなたには大切な誰かというものは、存在しないの?」


 ダイヤは――、答えなかった。それは否定であり、肯定であった。
 黙って背を向けたダイヤは、何時もの迷いの無い足取りで歩いて行く。僅か一枚の薄布で覆い隠された魔族の証に気付く者は誰一人としていない。数分前まで親の仇のように憎しみ罵倒した女性は魔族ですら無かったのに殺され、魔族の証を隠したダイヤは平然と街中を歩く。
 何が正しくて、何が間違っているのだろう。これが本当に正しい形なのだろうか。ルビィには解らない。比較するべきものを持たない、殆ど無知とも言えるルビィにとっては、小さな世界で培った独り善がりな価値観が全てだったからだ。
 黙って歩き続けたダイヤは一つの建物の前で足を止めた。ダイヤが先程『塵捨て場』と称した場所とを隔てる白亜の外壁に沿う古びた街並みの一角だった。固く閉ざされた扉は侵入者を拒むように沈黙している。ダイヤは扉を二度、爪先で打った。すると、扉は沈黙を保ったまま音も無く開き、二人を招き入れた。一見すると薄く脆そうな木造の扉の内側は金属で覆われ、二重構造のこの都のようだと思った。
 建物の中に入ると、ダイヤは平然とフードを脱いだ。布の下に追い遣られていた銀髪はダイヤの頭部に沿うように張り付いている。煩わしそうに肩の埃を払うダイヤは顔を上げて目の前の影に青い瞳を向ける。瞬きと同時に透き通るような銀色の長い睫が震えた。


「久しぶりだな、ダイヤ。元気そうで何よりだ」


 親しげにダイヤの名を呼んだ青年は、人懐っこい笑みを浮かべて言った。健康的に焼けた浅黒い肌と、黒色と呼ぶには聊か色素の抜け過ぎた栗色の瞳と髪。人間と魔族を判別する基準の曖昧さにルビィは黒曜石のような目を瞬かせる。ダイヤは少し、笑ったようだった。


「お前こそ。思っていたよりは、元気そうだな。――ルブライト」


 ルブライトと呼ばれた青年は擽ったそうに、屈託無く笑う。遠くの山々に沈もうとする夕日が締め切られたカーテンの僅かな隙間の向こうから血のように紅い光を零す。直に夜が訪れる。
 ルブライトはルビィに視線を向けた。


「ダイヤが人を連れて来るのは初めてだな。……初めまして、俺はルブライト。人間だ」


 ルビィが抱える疑問を察したように、ルブライトは笑った。ルビィは栗色の瞳の奥を覗きながら、会釈する。


「あたしは、ルビィ。宜しくお願いします」
「こちらこそ」


 人当たりの良い笑顔と快活な口調で、まるで歌うようにルブライトは言葉を紡ぐ。それが心地良くて、ルビィは先程の惨劇から抱えていた昏い気持ちが晴れて行くような気がした。
 ダイヤは勝手知ったる他人の家と言わんばかりに、部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けるとそれまで背負って来た荷物を足元に落とした。決して手放すことの無かった剣も腰から下ろし、立て掛ける。それまで張り詰めていたダイヤの警戒心は影を潜め、ルブライトへの信頼がその態度に滲み出ている。そんなダイヤを見たのは初めてだった。


「ルブライト、水くれ。あと、飯」
「はいはい。全くお前は相変わらずだな」


 少し困ったように笑いながら、ルブライトは調理場のような質素な流し台に立つ。決して広くは無いけれど、ルブライト一人で生活するには持て余しそうでもある。何より、中央の大きな円卓は無数の椅子で取り囲まれ、此処を訪れる人間がダイヤだけでないことを証明している。
 様子を探るルビィの存在すら気に掛けないように、ダイヤは手渡されたコップ一杯の水を飲み干した。音を立ててダイヤがコップを置くと、立ち尽くすばかりのルビィに視線を向けてルブライトが言った。


「何も無いけれど、寛いでくれ」


 ルビィは少し考え、遠慮がちに椅子に座った。ダイヤと空席を一つ挟んだ右隣りだった。
 ルブライトはルビィの前に一杯の水と、ダイヤに御代りを注ぐと再び調理場に立った。慣れた手付きで食事の用意を進めるルブライトの背中を眺めながら、ルビィは声を潜めてダイヤに問い掛けた。


「此処は一体何? あの人は何者?」


 ダイヤは欠伸を噛み殺しながら、面倒そうに視線も向けずに答えた。


「此処はルブライトの家で、あいつは俺の餌係だ」
「答えになっていないわ」
「――此処は所謂、地下組織の隠れ家だよ」


 はい、どうぞ。
 香ばしく焼けた肉と、新鮮な野菜の盛り合わせをダイヤとルビィの前に並べてルブライトは言った。興味も無さげに肉へと手を伸ばすダイヤの肩越しに、微笑みを崩さないルブライトへ視線を向ければ言葉は続けられた。


「俺達はリターナー。モーブの都を牛耳る教皇を亡き者とし、自由を勝ち取る為に立ち上がった革命組織だ」


 それまでの穏やかな物腰を忘れさせるような、凛とした目でルブライトは言った。





2011.12.29