7,The cold heart.










 そして、太陽は死に絶えた。


 夜風が揺らすカーテンの隙間から、天高く聳える教会の刃の切っ先にも似た鋭い屋根の影、何かに怯えるような卑小さで白い月が周囲の雲を暈しているのが見える。死んだように静まり返る夜の街には衛兵以外に人は無く、定時を知らせる教会の鐘の音が水面の波紋のように静かに染み渡るばかりだった。ルブライトは珍客の来訪に、僅かに配給されるばかりの食材で料理に腕を振るい、その痩躯からは想像も付かない大食漢であるダイヤは泥のようにベッドに横たわって眠っている。寝返りを打つダイヤと共に白亜の翼が動き、ふわりと小さな羽毛が一つ舞った。
 白木のサイドテーブルを挟んだ一方のベッドには、世界の悲劇など何一つ知らないような穏やかな寝顔の少女がいる。魔族と旅をする少女の背負っているものが何かなど知りはしないが、ルブライトは少しだけ笑った。酷く卑屈な自嘲に程近かった。
 手元に置かれたグラスを呷ると、微かにベッドの軋む音がした。


「――行くのか?」


 何時の間に目を覚ましたのか、声の主はベッドに腰掛けたまま己の剣を引き寄せていた。寝惚け眼とは思えない鋭い光を放つ青い瞳はルブライトを捉えて離さない。苦笑しつつ、ルブライトは頷く。ダイヤは鼻を鳴らして勢いよくベッドから立ち上がると、剣を腰に差した。
 ふと横に目を遣り、ダイヤは溜息を零す。


「おい、起きろ」


 荒っぽくベッドを蹴ると、寝惚け眼のルビィがゆるゆると上半身を起こした。目を擦る仕草は幼い子どものようだった。


「……ダイヤ、何処に行くの?」
「来れば解る。いいから仕度しろ」


 窓辺の椅子の背凭れに掛かった、御決まりの上着を頭まですっぽりと被ると、ダイヤは早々に背を向けた。寝起きの愚鈍な脳に、深呼吸で酸素を送り込みながらルビィもまた、すっかり色褪せた上着を被る。
 黙って扉を開けるルブライトもまた、その姿を隠すように深くフードを被っていた。夜風が冷たく吹き付ける街路に人影は無い。それでも尚、人目を凌ぐように裏路地を進むルブライトは黙ったまま背中を向けている。
 やがて、一行は国家を二分する白亜の壁に行き当たった。何の変哲も無い石の壁だが、翼を持たないルビィにとってそれは越えることの出来ないものだ。塵溜めと称される町に取り囲まれたこの町は、彼等より遥かに水準の高い生活を送っている筈なのに、ルビィには牢獄のように感じられた。ルブライトは振り返らぬまま、しゃがみ込んで壁を見詰める。そして、カチリと錠の落ちる音がした。


(隠し扉――)


 ただの壁であった場所に、ぽっかりと穴が空く。漂う腐臭に口元を覆い、ルビィは隣のダイヤを見た。だが、ダイヤは顔色一つ変える事無く小さな扉を潜るルブライトの後を追う。
 以前、来たことがあるのだろう。ダイヤの後を追いながらルビィは考える。扉の向こうは、塵溜めと称するに相応しいこの世の地獄のようだった。路上に横たわる人間が寝ているのか、死んでいるのかも解らない。静まり返る貧民街は昼間以上の不気味さを漂わせていた。
 ルブライトが何処へ向かおうとしているのかなど解らない。微かに感じる無数の気配にルビィは自然とダイヤの傍に身を寄せていた。それでも、ダイヤは視線も寄越さずにルブライトの後を追う。その青い瞳には何が見えるのだろう。
 人気の無い貧民街の傍ら、煤けた変哲のない家屋の薄汚れた扉を押し開ける。闇に沈む町の中で微かな明かりが漏れていた。


「――ルブライト!」


 彼がその姿を現した瞬間、家屋の中から無数の視線が集まった。ルブライトは微かに口角を釣り上げて笑う。
 仄かな明かりの中に浮かぶ壮年の男が歩み寄る。襤褸布を纏うだけの貧民街の住民に比べ、整った身なりは恐らく中心街の人間なのだろう。ルビィらには一瞥もくれぬまま、ルブライトの傍に向かうと興奮したように顔を紅潮させてその手を取った。


「待っていたよ、ルブライト」
「ああ、遅れてすまない」
「……其方は?」


 男はルブライトの後ろに続く二人を怪訝そうに見る。ダイヤは興味も無さそうにそっぽを向き、ルビィはフードを下ろすと小さく会釈をした。
 ルブライトは口元に僅かな笑みを残し、誇らしげに言った。


「此方の女の子はルビィ。それから、」
「俺のことはいないものと思ってくれて構わない。無関係の第三者だ」


 未だフードを深く被ったまま、凛と背筋を伸ばしてダイヤは言った。彼等にはダイヤの青い瞳も銀髪も見えはしないだろう。だが、奥で椅子に座っていた一人の若者が声を上げた。


「そうはいかない。此処に素性の知れない者を招き入れる訳にはいかない」


 周囲の人々が揺れるように同意する。囁き合いの中、ダイヤは隠す気もない舌打ちを一つすると勢いよくフードを下ろした。途端に、蝋燭の灯に透ける月光のような銀髪が静かに揺れた。
 面を上げたダイヤの宝石のような青い瞳が真っ直ぐに前を見据える。不可触の輝きに、人々は悲鳴にも似た声で驚嘆し、恐怖した。だが、ダイヤはそんな人々の反応など気にもせずに言った。


「見ての通り、俺は魔を司る者だ。だが、これだけは言っておこう。俺はお前等の敵ではないし、味方でもない。ただ、この町の結末を見届けに来ただけだ」


 部屋の中は水を打ったような静寂が支配した。魔族と敵対し、畏怖して来た人間がそう簡単に受け入れられる筈も無い。
 ルブライトはわざとらしく乾いた咳払いをし、室内にいる全ての者に届くようはっきりと言った。


「こいつの身元は俺が保障する。教皇派の回し者ではないし、魔王軍とも関わりを持たない」
「リーダーがそう言うなら……」


 渋々と言った調子で先程声を上げた若者がルブライトをリーダーと呼ぶ。壮年を越えただろう逞しい男達を差し置いて、自分と然程変わらないだろう年齢のルブライトを、ルビィは尊敬にも似た眼差しで見詰めた。真っ直ぐに背筋を伸ばすルブライトからは自信が溢れ、向けられる信頼にも納得がいく。
 一方で、話題の張本人であるダイヤは自身が弁解することもなく、不機嫌そうにそっぽを向いて鼻を鳴らすだけだ。そんなダイヤとルビィを無視して男達は中央の大きなテーブルを囲んで頭を突き合わせた。潜めた声からその内容が穏やかではないことは容易に想像が付く。
 蚊帳の外となったルビィが退屈そうに壁に背を預けると、勝手気ままに傍にあった椅子を引き寄せ立膝で座るダイヤが意地悪そうに口角を釣り上げて言った。


「昔話をしてやろうか」


 ルビィの向けた視線を肯定と取り、ダイヤは人々の会談などまるで興味が無いように話し始めた。


「このモーブは今から十年程前に一度、魔族によって滅ぼされた都だ。中央街を取り囲む塵溜めのような廃墟はその名残だ」


 潜めようともしない堂々としたダイヤの声に、何人かの若者が憎々しげな目を向ける。だが、何処吹く風とダイヤは口を動かし続ける。


「運良く生き残った住民は絶望の中、僅かに残された希望に縋るようにして都の復興に努めた。その希望というのが、この町の連中が崇拝する光を唯一絶対の神とする宗教だ」
「光……」


 ルビィの呟きに、ダイヤは無表情に頷いた。


「まず初めに、人々の心の拠所として教会が再建され、教皇等が組織された。だが、光在る処に闇は生まれる。復興が進み、町が再び機能し始めた頃、一人の男が訴えた。何時までも光などという神の偶像に縋っていてはいけない。自分達は光から自立し、自身等が希望の光となり生きて行かなければならないと」


 其処で、ダイヤはくつりと皮肉っぽく嗤った。青白い面を蝋燭の紅い光が妖しく照らす。


「人間ってのは訳が解らねぇ。自分の都合で勝手に生み出した神を、今度は自ら滅ぼそうってんだ。ちゃんちゃら可笑しいぜ」


 隠しもせず人間を卑下し嘲笑うダイヤには、本当に解らないのだろう。だが、ルビィはとても笑う気になどなれない。
 それまで輪の中心となっていたルブライトが、振り返って言った。


「それを面白く思わない教皇派は、その男を魔族に加担した反逆者だとして、人々の前で火炙りにして処刑した。――俺の、父だった」


 ルビィは押し黙った。会談していた面々が苦い顔で俯き、或いは二人を忌々しげに睨む。
 口を挟んだルブライトを一瞥し、ダイヤは笑っていた。突き刺さる無数の憎悪の視線が居た堪れず、ルビィは目を伏せて問い掛けた。


「誰も、止めなかったの?」


 其処で初めて、ルブライトはふいっと視線を外した。


「皆、怖かったのさ。父の言葉に賛同する者もいたが、表立って頷くには教皇派の権力は強過ぎたし、神に縋らず生きるには魔族への恐怖が余りにも深過ぎた」

 それを一層可笑しそうにダイヤが嬉々として聞いている。魔族であるダイヤは人間の複雑に入り混じる感情など理解出来ないし、するつもりも無いのだろう。だから、愚かだと、ただの寓話のように嗤っていられるのだとルビィは思った。
 ルブライトは節目だらけの煤けた天井に目を向けたまま続けた。


「その処刑を切欠に、人々は教皇派により脅威を感じ、平伏すようになった。教皇派は人々の反応に味を占め、罪無き者を魔族に加担した反逆者として処刑し、自分等の力を誇示し、支配するようになった」
「酷い……!」


 ルビィの絞り出すような声を余所に、終にダイヤは吹き出した。
 場違いな程に声高々に大笑いするダイヤに、一人の若者が堪らず叫んだ。


「何が可笑しい!」
「何が、って」


 可笑しく堪らないとダイヤは目尻に涙すら浮かべながら、腹を抱えている。激昂する若者を周囲の男が諌めるが、その怒りは収まりそうにない。若者は今にも殴り掛かりそうに、噛み付くように声を荒げた。


「魔族には解らないだろう! 所詮、心を持たぬ化物だ。自由を勝ち取ろうとする我々の戦いも、ルブライトの辛苦も……!」


 ルブライトは視線を足元に落とした。嗤い続けるダイヤに、若者は尚も続けた。


「命を張って真の自由を訴え続けたルブライトの親父さんを、魔族のお前が嗤うな!」


 ダイヤは目尻の涙を拭いながら、その面に笑みを浮かべたまま言った。


「俺に言わせて貰えば、お前等が英雄視するルブライトの親父こそが、この町で続く悪魔の所業の切欠じゃねぇか。ルブライトの親父がいなけりゃ、こんなことは起こらなかったんじゃねぇか?」


 途端に、誰もが閉口した。ダイヤの言葉に言い包められたのではない。自らを無関係の第三者と名乗ったダイヤの酷い言い様に、言葉を失ったのだ。静まり返る室内で、ダイヤだけが可笑しそうに喉を鳴らす。其処で、漸くルブライトが顔を上げた。


「――そう、かも知れない」
「リーダー!」
「だが、だからと言って現状を放置する訳にはいかない。父のしたことがもし、過ちだったのなら、それを正すのは息子である俺の仕事だ」


 ダイヤが、くつりと笑う。


「立派だな、罪人の息子」
「――ダイヤ!」


 叫んだのはルビィだった。それでも続ける言葉を持たないのは、どんな言葉もダイヤに響かないと解っているからだ。
 静寂が降り立った室内で、ダイヤはふつりとそれまでの笑みを嘘のように消し去って窓の外に目を向けた。


「もうじき夜が明ける。帰ろうぜ、ルブライト」


 自分の放ち続けた刃のように残酷な言葉の数々を忘れたように、平然とダイヤは言う。
 ルビィには、解らない。魔族が、ダイヤが解らなかった。ルブライトを呼ぶダイヤは酷く親しげに微笑んでいる。ルビィの脳裏に過るのは、魔族でありながら人間を愛し、守る為戦って死んでいったコーラルの横顔だった。
 魔族が皆、冷たいとは思わない。そして――、ダイヤが冷たいだけの生き物だとも、ルビィには思えなかった。
 ルブライトは大きな溜息を吐いて、顔を上げた。その面には清々しい程の笑みが浮かんでいる。


「……そうだな。今日は、此処で解散しよう。教皇派に気付かれれば全てが水の泡だ」


 そうして隠れ家を後にするルブライトの後を追うルビィの耳に、人々の蔑むような囁きが聞こえた。


「所詮、天から見下ろす鳥に、地べたを這いずる蟻の気持ちなど解らない」


 その例えは的を得ていると、内心で同意し掛けたルビィの耳に、微かな声がした。


「解るさ、お前等なんかよりもずっと」


 聞き間違いかと顔を向けた先、ダイヤは既に背中を向けていた。
 ただ、夜明けの迫る空に羽根を広げた無数の鳥の影が確かに浮かんでいた。





2012.1.15