9.My friend.










 何かが起こったらしい。
 それまで沈黙を守っていた教会を遥か上空から見下ろしていたダイヤは、人の密集する広場の喧騒を耳にしながら、肉眼では捉えられぬ速度で町の片隅へと滑り込んだ。突き抜けるような青空に浮かぶ日輪は今日も今日とて変わることなく地上を照らし続けている。
 悲鳴、怒号、罵声が混じり合った広場は噎せ返るような熱気に包まれていた。姿を見られぬようにと深くフードを被ったダイヤは人垣を潜り抜けて騒ぎの元へと突き進んだ。それはまるで、先日の公開処刑こと火炙りの刑を彷彿とさせる人々の狂気だった。嫌な予感を胸にダイヤは踵を上げる。そして、その視線の先に見覚えのある少女がいた。
 縄を打たれるみすぼらしいその少女は、数人の男達に引き摺られるようにして教会へと連れ込まれていく。それがルビィであると気付くと同時にダイヤは舌打ちをした。僅かに口を開いた教会の門に吸い込まれる少女は必死に何かを叫んでいた。伸ばされた手は誰にも届かず、声を聞こうとする者など一人もいない。同じ人間でありながら、見て見ぬ振りをする人間達に辟易する。――酷く、苛立つ。
 ルビィが教会の中に消えると途端に、人々の狂気は霧散して漣のような囁き合いに変わった。ダイヤは気配も無くその場を立ち去ると拠点であったルブライトの自宅へと向かった。自分が離れていた数時間の間に一体何があったというのだろうか。
 町の彼方此方で囁き合う人々の話題は専らあの騒ぎだった。けれど、見向きもせずダイヤは真っ直ぐに歩き続ける。
 見慣れた木の扉を蹴り開ければ、反動で衝突した扉の金具が空しく鳴って響くだけだった。気配一つ無い室内は蹂躙され、整頓されていたものが落下し踏み躙られている。独り暮らしのルブライトの家には見合わない程の大人数が押し寄せたようだと、足元に落下したグラスの破片を見下ろしながらダイヤは溜息を零す。


「ルブライト」


 呼んでみるが、当然ながら声は返って来ない。期待などしていないつもりが、つい肩を落とした。
 壁に刻まれた幾筋もの切傷は間違いなく剣によるものだ。丸腰の人間を相手に、武装した大人数が襲い掛かったのだ。命があっただけで幸運なのだろうとルビィの姿を思い浮かべて苦笑した。
 背後の気配に、ダイヤは振り返った。深く被ったフードの下で、透き通るような青い瞳が煌めいた。それは相手を射殺す程に鋭い視線だった。短い悲鳴を上げた男が後ずさる。聞き覚えのある声だなとダイヤは思った。


「お前、昨日会合にいた奴だな。ルブライトは何処だ」
「ルブライトさんは――」


 其処で口籠った青年は目を伏せた。握り締めた拳が微かに震えている。
 大きな瞳に涙を滲ませながら、絞り出すように声を上げる。


「今朝、教皇派の奴等が乗り込んで来て――」


 ち、と零した舌打ち。ダイヤは青年の横を風のように擦り抜けた。
 向かった先は先刻の広場だった。既に人々は散り始めているようだ。――否、集まり始めているのかも知れない。目の前に設置された物々しい舞台と木の十字架が、運ばれる薪が、これから何が起こるかを物語っているようだ。ダイヤは胸の中に沸々と沸き立つ苛立ちを拭い去るように、その目立ち過ぎる容姿を覆い隠していた衣を脱ぎ捨てた。風に舞い上がる銀髪と、真っ直ぐ正面を見据えた青い瞳。人間とは明らかに異なる姿に周囲の人間がざわめき戦く。それにすら苛立ち、悲鳴を上げる人間を一瞥することなくダイヤは畳み込まれていた白亜の翼を広げた。
 人々の喧騒が遠くなる上空で、ダイヤは腰の剣を引き抜いた。色取り取りに飾られたステンドグラス。銀色の閃光が走った。
 悲鳴にも似た騒音の中で砕かれた硝子の破片が広場や教会内に落下する。ダイヤが見下ろす先に、縄を打たれ頭垂れるルビィの姿があった。今にも表に引き摺り出されようとする少女と、縄を握る無数の人間。音に驚いて人間達が顔を上げるよりも早く、一陣の風が通り抜けて行った。
 冷たい風の中で、鮮血が霧のように舞った。
 悲鳴を上げる間も、無い。
 一瞬にして沈黙の肉塊へと変貌した人間だったものに、ルビィは喉の奥から空気の抜けるような音を一つ発した。荘厳な教会の中に浮かぶ地獄絵図。一振りで剣の血を払うと、ダイヤは胡乱な眼差しでルビィを見た。


「お前、何してんの?」


 否、その目はルビィを見てはいない。その奥にずらりと並ぶ教皇派と呼ばれる武装した人間の群れを捉えていた。
 感情の読めない無表情で、青い瞳だけが必要以上に雄弁だった。ルビィはその鬼火にも似た青い瞳の中に燃え盛る憤怒を見たような気がした。


「魔族が、如何して此処に……!」
「お前等が余計なことをするからさ」


 剣を腰に構えたダイヤの目に浮かぶ燃え上がる炎。ルビィは身動き一つ出来ず、その惨劇を見届けることしか出来なかった。
 それは一瞬の出来事だった。


「これは俺のものだ。返してもらうぜ」


 血の池の中で、返り血一つ浴びることなくダイヤは言った。漸く消え去った憤怒の炎の奥で、再び凍り付くようながらんどうの瞳が浮かぶ。ルビィは動きを封じる縄が切り離されたことにも気付かぬまま座り込んでいた。
 子どものような所有欲で、大勢の人間の命を一瞬にして奪い去るダイヤ。魔族と呼ばれる生き物。誰かの為に動くことなど無い。ただ只管、何処までも自分の本能に従って生きている。
 ダイヤは人の亡骸を小石のように避けながら、ルビィの前に立った。


「面倒を掛けるんじゃねぇ」
「ダイヤ……」


 その時、教会の外がわっと騒がしくなった。何事だと顔を向けるダイヤに、ルビィは思い出したように叫んだ。


「ダイヤ! ルブライトが――!」


 突然、教皇派が押し寄せたルブライトの家。訳が解らないまま拉致されたルビィとルブライト。何者かの密告によってリターナーの存在が、リーダーの居場所が知れたのだ。抵抗したルブライトは多勢に無勢のまま連行され、ルビィはあらぬ疑いを掛けられて拷問される寸前だった。そして、ルブライトは今――。
 騒がしい広場の様子に、全てを悟ったらしいダイヤは無表情だった。微かに、ルブライトの声がするような気がした。
 何かを叫んでいる。何かを訴えている。


「――如何して」


 それが誰の声なのか、ルビィには解らなかった。ダイヤだったのか、ルブライトだったのか、それとも。
 命を削るように声を上げるのは。


「如何して、戦おうとしない!?」


 ルブライトの声だった。狂気の中でただ一人、伝わる筈の無い言葉を必死に訴えている。
 誰も助けてくれない。誰も共感してくれない。誰も信じてくれない。だけど、それでもルブライトが声を上げる。ダイヤは声の方向に目を向けたまま身動き一つしない。


「ダイヤ!」


 このままでは、ルブライトは殺されてしまう。今頃、あの悪趣味な舞台の上で処刑されようとする青年を思い浮かべてルビィは叫んだ。微動だにしないダイヤは、漸くゆっくりとルビィを見た。


「何だ?」


 何事も無かったかのように問うたその声に動揺は微塵も無い。ダイヤの中にあるのは野生動物と同じ生きる為の本能だけだ。己を突き動かす衝動に従って迷うことも無ければ、悩むことも無い。種族の確執を感じながら、それでもルビィは声を張り上げる。


「このままじゃ、ルブライトが殺されちゃうよ!」
「だから?」


 意味が解らないというようにダイヤは、子ども染みた仕草で首を傾げた。


「俺は魔族だぜ? 如何して、人間を助けなきゃならねぇんだ?」


 それは、至極尤もな言葉だった。世界の覇権を争う人間と魔族は相容れぬ敵同士。殺すことはあっても助けることなど有り得ない。
 ただ、それがただの魔族ならば。ルビィは奥歯を噛み締めた。


「魔族とか、人間とか、そんなの関係無いよ! 今助けを求めているのは、あなたの友達でしょ!」


 見間違いかと思う程の刹那、ダイヤの瞳が微かに揺れた。見える筈の無い処刑台を見詰めるダイヤの目は遠い。けれど、その時。
 カツン、と。静寂を破る硬質な靴底の音が鳴り響いた。


「見事な太刀筋だ」


 場違いな拍手の乾いた音が反響する。ダイヤは剣をぶら下げたまま、暗がりの奥にいる人影に目を細めた。
 ルビィは引き攣るような悲鳴を上げた。物々しい儀式用の衣服を纏う老人は、その年齢とは見合わないしっかりとした足取りで二人に近付いて行く。
 教皇と呼ばれる男は、その目に血のような紅い光を映して薄く笑っている。


「まさか、この町に私以外の魔族が紛れ込んでいるとは思わなんだ」


 くつくつと喉を鳴らす男の口元から、蛇のような長い二枚舌が顔を出す。黄色だった肌は死体のように蒼褪めている。それは明らかな異形、魔族の象徴だった。
 目の前の現実が信じられないとルビィは目を丸くした。


「嘘、でしょ? 教皇が……」


 魔族狩りを執り行う張本人が、魔族だなんて。否定の言葉を幾ら探しても目の前の現実は変わらない。
 全ては仕組まれていたのだ。ルビィどころか、ルブライトすら解らない頃からずっと、この町は魔族の掌で踊らされていた。魔族の口車に乗って人間は互いを殺し合っている。
 教皇は笑っている。


「人間とは実に愚かで面白い生き物だな。何十年にも渡り、簡単な口車に乗って自滅していることにすら気付かない」


 ルビィは拳を握った。
 なら、ルブライトは、ルブライトの父は、これまで処刑された大勢の人々は。
 握り締めた拳を軋ませるルビィを横目に見下ろしながら、ダイヤは胡乱に教皇に目を遣る。だが、教皇は未だ乾いた笑いを漏らしている。


「馬鹿馬鹿しいだろう。こんなにも脆弱で、愚鈍な生物が地上を統べろうと言うのだから、実に馬鹿馬鹿しい!」


 ぽつりと、何かが零れ落ちる音がしてダイヤは目を向けた。
 滑らかな肌を滑り落ちた一粒の滴。悔しそうに拳を握り締めて、ルビィは俯いている。その下に生まれる涙の跡に、ダイヤはゆるゆると顔を上げた。一瞬、皮肉そうに口角を釣り上げる。


「俺も魔族だ。同情なんて大層な感情は持ち合わせちゃいねぇ」


 その手が剣を握った次の瞬間、教皇の首が飛んだ。瞬きすら間に合わぬ一瞬に、ルビィは勿論、教皇すら何が起きたのか理解出来ないだろう。
 青緑の血液を吹き出して、頭部の切り離された胴体が仰け反って倒れる。目を丸くした教皇の生首が、驚愕を隠せずに頻りに瞬きを繰り返した。ゆらりと佇むダイヤの剣から滴り落ちる青緑の液体。未だ呼吸を続ける生首に、一歩一歩と距離を埋めながらダイヤは目を伏せていた。
 青白く変色した頭部が、無言で距離を埋めていくダイヤに必死に叫んでいる。それは余りに非現実的で異様な光景だった。


「貴様、何をする! 同じ魔族でありながら、血迷ったか!」
「血迷う? 俺が?」


 馬鹿馬鹿しい、と先刻の教皇の言葉を引用するようにダイヤは笑う。教皇は身動き一つ出来ず、近付く影にただ怯える。


「人間の味方をするつもりか!」


 音も無く近付くダイヤから表情が消えた。それまでの軽薄な笑みすら消えれば、其処に浮かぶのは寒気がする程の静けさだ。


「別に、人間の味方って訳じゃねぇさ。ただ」


 教皇の目の前に立ち、ダイヤは剣を構えた。


「お前のやり方は気に食わねぇ」


 青い瞳が硬質な光を放つ。それは刃の切っ先にも似た危なげな光だった。
 掌に力が籠められるその刹那、生首を化した教皇が大きく口を開いた。吐き出されたヘドロのような色をした霧に、ダイヤは思わず口元を覆って距離を取った。瞬く間に空間を占拠しようとする濃霧を避けるように、ダイヤは翼を広げてルビィを抱えて飛び立った。勢いよく侵入した先、割れたステンドグラスへ向かって羽ばたいた筈が、その体はぐらりと揺れた。
 足元からじわじわと迫る濃霧の中に、ダイヤはルビィを抱えたまま墜落した。反射的にルビィを庇ったダイヤは、強かに打ち付けた腰を摩りながら微かに呻く。胸を掻き毟りたくなるような不快感にルビィは首を抑えた。既に教皇の姿は見えない。起き上ったダイヤの舌打ちがした。
 濃霧の中に、確かな影が無数に浮かび上がる。それは羽虫の大群のように二人を取り囲んでいた。


「雑魚が、時間稼ぎのつもりか」


 薄暗い教会に差し込む光が、浮遊する影を鮮明にする。掌大の羽根を持つ夥しい数の深緑の蟲がさざめいていた。
 ダイヤの目は一瞬、脱出口を睨んだ。けれど、僅かな逡巡の後、青い瞳は覚悟を決めたように目の前の数え切れない蟲に向けられた。


「耳と目を塞いでいろ」


 背中にルビィを庇うように隠しながら、ダイヤははっきりと言った。


「俺から離れるな」


 剣を握り直したダイヤの目に何が映るのだろう。ルビィは、言われた通りに身を寄せた。
 蟲は一斉に襲い掛かった。無数の羽ばたきがまるで地鳴りのように響いた。たった一本の剣で迎え撃つのは余りにも無謀だ。けれど、それでも。


「退けぇえ!」


 塞いだ筈の耳を劈くようなダイヤの怒号が教会を揺らした。振り絞るように、その命を削るように叫ぶのは魔王の末子である筈の魔族だ。
 ダイヤは一見すれば無茶苦茶な太刀筋で、けれど確実に蟲を駆逐していく。それでも沸いて現れる蟲は数を減らすどころか前にも増して増殖しているかのように視界を覆っていく。教会の外では今もルブライトの処刑が執り行われようとしていて、その命の限りを告げるように民衆のざわめきが届く。
 ルビィは、目を開けた。こんなところで蹲っていてはいけない。これでは、誰も救えない。守れない。家族を失ったあの日のように、死地へと出向くコーラルを見送ったあの時のように、何も出来ずに指を咥えて見ているのはもう嫌だ。
 霞む視界に、全身に深緑の返り血を浴びたダイヤの姿が映る。
 待っていても助けは来ない。誰かを恨んでも呪っても、状況は変わらない。――戦わなければ、何も得られない。
 ルビィは、足元の刃を掴んでいた。


「ダイヤぁ!」


 濃霧のようにダイヤを取り囲もうとする蟲に向けて、ルビィは剣を振り下ろした。初めて握った刃は酷く重く、赤黒い血液に塗れていた。だが、刃に確かな手応えがある。落下する蟲は翼を失い足元で苦しげに蠢いていた。そして、蟲の紅い瞳がルビィを見た。
 巨大な生物のように蟲の大群は標的をルビィに変え、一気に襲い掛かった。ダイヤの悲鳴のような切羽詰まった声が響いた。

 其処で、視界は真っ白になった。

 目の前に広げられた白亜の翼は、襲い掛かる蟲から庇うように沈黙している。同様に両手を広げたダイヤの頬を、人間と変わらぬ紅い血液が伝う。咄嗟に上げた悲鳴は声にならなかった。ルビィはただ、目の前の生き物の名を呼ぶしかなかった。


「ダイヤ!」


 けれど、ダイヤの目は酷く冷静だった。元来の落ち着きを取り戻したかのように、傷だらけの体でダイヤは剣を握り締める。
 そして、次の瞬間。ダイヤは竜巻のように回転すると勢いよく翼を羽ばたかせた。突然の嵐のような強風に、身構えることも出来なかった蟲達は一直線に壁へと叩き付けられた。一瞬にして一掃された蟲にも、死亡した教皇の首にも目を向ける事無く、ダイヤは再び羽ばたいた。それは害する者を駆逐する為でもなく、自由を求めて飛び立つ為でもなく、ただ一人の人間の為だった。
 割れたステンドグラスから勢いよく飛び出したダイヤは、教会の前で十字架に張り付けられたルブライトに向けて手を伸ばした。


「ルブライト――!」


 薪をくべられ、今にも点火されようとするルブライトが顔を上げる。暴行を受けただろうその面は赤く腫れ上がり、ところどころに青痣が浮かぶ。血塗れのままルブライトは、予想だにしていなかった姿に目を見張る。
 突風が、舞台上の人間を吹き飛ばす。如何にか教会を脱出したルビィが見たのは、転げ落ちるように十字架を破壊するダイヤの姿だった。民衆の動揺がざわめきとなって広がる。
 落下したダイヤが、ルブライトの自由を奪う縄を切り落とす。血塗れで息を切らすその様は、魔王の末子と呼ぶには余りに惨めだった。白亜の翼は紅と深緑の血液に染まっている。ダイヤは叫んだ。


「てめぇ、ふざけんなよ!」


 青い瞳が揺れるのは、酸欠の息苦しさ故ではないだろう。ダイヤの起こした突風によって消えた『聖火』の松明が空しく転がっている。


「勝手に、死にそうになってんじゃねぇよ!」


 駆け寄ったルビィの目に映ったのは、握り締めた拳を震わすダイヤの姿だった。
 魔族でありながら、人間のように剣で戦い、人間の為に息を切らせている。
 急変した事態を呑み込めない民衆のどよめきの中、教皇派だろう初老の男が叫んだ。


「貴様、魔族の分際で余計なことを!」
「その男は罪人だ! そいつはこの聖なる炎で――」


 既に消えた松明に縋るように、男が叫ぶ。民衆の中にもまた、それを支持する声が上がる。
 けれど、それでもダイヤは揺るがない瞳で、張り詰めた声で懸命に叫んだ。


「何が罪だ!」


 片膝突いたまま、取り囲む民衆に向けて、処刑を強行しようとする教皇派に向けて、ダイヤが声を上げる 初老の男がびくりと肩を揺らした。


「この町に罪人がいるとするなら、それはお前等だ!」


 何を訴えるのだろう。それで何が変わるのだろう。何の為に叫ぶのだろう。――魔族で、ありながら。
 ダイヤは鋭い視線を周囲に巡らせ、忌々しげに言った。


「不平不満を零しながらも、自らの弱さを楯に声を上げることも、剣を取ることもしなかった。ありもしない救世主に縋って、変化することに怯えて、他人の不幸を願うその古臭く惨めで愚かな心こそが、この町の罪だろう!」


 誰も、何も言わなかった。否、言える筈が無かった。
 この町で罪無き人々を処刑し続けたのは魔族ではなく、他でもない仲間を疑い怯えた人間達だ。


「何故、戦わない! 何故、向き合わない! 何故、自分で考えない!」


 幾ら待っていても、幾ら願っても祈っても、戦わなければ本当の自由は得られない。傷だらけの体が、血塗れの剣が、喉を裂くような声がその全てを魂に訴えている。
 空気に亀裂が入ったような気がした。ダイヤの魂を揺さぶるような叫びが木霊する。と、その時。


「教皇が――!」


 叫んだのは名も知らぬ町民だ。
 教皇が魔族であったこと、全ては仕組まれていたこと。瞬く間に広まる声に民衆の表情が変わって行く。そして――、人々は声を上げた。それは天上を揺らすような歓声だった。
 長い教会の支配から解き放たれた民衆の歓喜が溢れる。或る者は涙を零し、在る者は隣人と抱き合い、或る者は救えなかった命を嘆いた。過去の栄華に縋ることも出来ぬ教皇派は崩れ落ち、水面下で活動を続けていたリターナーが教会の滅亡を知らしめるように十字架を叩き落した。
 舞台の片隅で、ぜいぜいと呼吸を繰り返すダイヤは急変する事態を茫然と見守るだけだ。ルビィはその傍に寄り添った。


「ダイヤ……」


 体中の傷は、恐らく数刻としない間に治癒するのだろう。染められた白亜の翼もまた、洗い流されるのだろう。それでも、他でも無い人間の為に訴えたあの叫びは決して消えない。
 ルビィは、ダイヤの手を握った。人間と変わらぬ細く温かい掌だった。


「くそ……」


 こんな筈じゃなかったと、悪態吐くダイヤにルビィは微笑んだ。
 傍若無人で、自分勝手で、歯に衣を着せることも誰かを思い遣ることもなく、ただ本能という衝動のままに生きているダイヤ。冷たくて恐ろしいと思うこともある。――けれど。
 ルビィの脳裏に過るのは、あの薄暗い教会で身を挺して自分を守ろうとしたダイヤの姿だった。
 ――けれど、ただ一人の友達の為に、意地も矜持もかなぐり捨てて走ったあの姿こそが、本当のダイヤの姿なのだろう。人間でも魔族でも関係無く、ただ大切なものを守る為に剣を握ったあの後姿こそが、彼の本質なのだろうと思った。


「――ダイヤ」


 仲間に支えられながら、歓喜に満ちた町の喧騒の中でルブライトが声を掛けた。ダイヤは恨めしげに睨み、舌打ちと同時に立ち上がった。
 ルビィに短く「行くぞ」と告げるダイヤの翼は既に治癒している。染み着いていた血液は珠のように滑り落ちて行った。


「待ってくれ、ダイヤ!」


 羽ばたこうとするダイヤに、ルブライトは追い縋る。面倒臭そうにダイヤは半身になって目を向けた。


「この町の結末はもう見届けた。俺が此処に留まる理由は無ェよ」
「ダイヤ……! 俺はまだ、聞いていない」


 それは遠い約束。ダイヤがこの町を訪れるただ一つの理由。
 けれど、ダイヤは無表情のまま吐き捨てるだけだ。


「それはもう、俺の役目じゃないだろう」


 ダイヤの目に映るのは、大勢の仲間に囲まれたルブライトの姿だった。両親の粗末な墓石の前で咽び泣いたあの子どもではない。
 翼を広げたダイヤは、ルビィの手を掴んだまま大空に飛び立った。浮雲にも似た白亜の翼は見る見る間に小さくなって行く。速度を上げたダイヤは振り返ることなど無く、そしてきっと、二度とこの町を訪れることはないだろう。
 届く筈の無い声を、ルブライトは零した。浮かべられた微笑みは、満身創痍であるにも関わらず力強かった。


「ありがとう、ダイヤ。――お前に逢えて、良かった」


 歓声に掻き消された声は、やがて空気に霧散して行った。





2012.1.27