R.I.P.










1、ガーネットとダイヤモンド


 ダイヤが産まれた時から、周囲には敵しか存在しなかった。

 アレキサンドライト様が逝去された後、その一族の血を引く唯一の子どもを狙う輩は多かった。赤子のダイヤは、生きることが不幸であるかのように泣き叫ぶばかりで、俺は大変手に余していた。こいつさえいなければ、と思うことは一度や二度ではなかった。
 食事、排泄、睡眠。当たり前のことが何一つ出来ない。不平不満を言葉に出来ず、全て泣き喚いて訴える。正直、煩わしかったのだ。それでも、アレキサンドライト様の忘れ形見だと言い聞かせて、俺にしては随分と辛抱強く関わったと思う。けれど、彼が自己主張を繰り返す内に、――放り出してしまった。
 もういい。面倒臭い。何で俺が面倒見なければいけないんだ。勝手にしろ。お前なんて知らない。
 そんな言葉を吐き捨てて、魔王城の一角、ダイヤを放り出した。ダイヤは相変わらず泣き喚くばかりで、俺に何一つ言葉で訴えようとしなかった。所詮、この世は弱肉強食だ。赤子と言えど、弱い存在は生きる価値すら存在しないのだ。そう自分に言い聞かせて、泣き喚くダイヤの声を背中に受けながら俺は立ち去った。
 背後に、無数の気配を感じていた。ダイヤを狙う複数の魔族が、傍に歩み寄ったのだろう。火が点いたように泣き喚くダイヤも放って置いて、俺はその場を離れようと思った。
 ダイヤの引いた血は強大だった。魔王様とアレキサンドライト様の血を引くダイヤは、赤子の末子と言えど魔族にとっては喉から手が出る程に欲するものだっただろう。俺はそれも解っていて放って置こうとした。もう、うんざりだ。如何して俺が子守なんてしなければいけないんだろう。俺は魔王軍の一員として、人間を殲滅する為に武器を手にする必要があった。俺の腕は赤子を抱く為では無く、人間を屠る為の武器を握る為にあるのだ。
 ダイヤが泣き喚く。それでも、群がる魔族は引かないだろう。それだけの、価値がダイヤにはある。
 俺がいなくともダイヤは育つ。アレキサンドライト様をダイヤが覚えていないように、ダイヤも成長するのだろう。そう、言い訳をした。けれど。


「――と」


 声が、した。


「がー、と」


 泣き叫びながら、幼い子どもが何かを必死に訴えている。
 様々な策略の為に伸ばされた手の中で、ダイヤが必死に訴えている。青い目が縋るように、俺へと向けられていた。小さな手が、剣も握れないような弱い掌が俺へと伸ばされている。他の誰でも無い俺へと訴え掛ける。


「がー、とぉ」


 ダイヤの呼ぶそれが、俺の名前だと気付いたのは少ししてからだった。
 置いて行かないで。此処にいて。お前が必要なんだ。御前じゃないと駄目なんだ。助けて。一緒にいたいんだよ。
 そう言った思いを全て詰め込んで、縋るようにダイヤが、俺の名を呼ぶ。





「がー、とぉ……!」





 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、透き通るようだった。

 紫色の鱗を持つ魚類のような魔族が、ダイヤを抱き上げる。いよいよダイヤは火が点いたように泣き喚いた。

 嗚呼、と心の中で感嘆する。

 ダイヤモンドと、アレキサンドライト様は名付けた。この世で最も強く、美しい鉱石の名前だ。


「がーとぉ……」


 此処に来て。
 それは脳から直接下された命令のように、俺を突き動かした。
 気付いた時、俺は剣を抜き放ち、ダイヤを抱きかかえていた。ダイヤに手を伸ばした魔族の者は全て戦き逃げて行った。その程度の覚悟で、この子に手を伸ばすなと言ってやりたかった。けれど、腕に抱えたダイヤが俺の服を握り締めて、文字通り必死に叫ぶ。


「がーとぉ……」


 お前は、本当に魔王様とアレキサンドライト様の子どもなのか?
 そんな疑問を抱く程に、ダイヤは弱い存在だった。けれど、それでもいいと、思った。


「何だよ、それ」


 名前くらい、言ってくれよ。
 そんな願いを込めながら、ダイヤを抱き締めていた。――小さかった。武力に対して何の抵抗手段も持たない弱い存在だった。けれど、その身に見合わず俺へと伸ばされた手は強かった。崖から落ちる手前のような強い力に俺は俄かに驚いた。
 泣き喚くばかりのダイヤが、俺の名前を知っていたこと。守られるだけだったダイヤが、思いの外、俺を強い力で掴むこと。策略を巡らす魔族を泣き喚いて警戒すること。俺は何も知らなかった。ダイヤが面倒臭い生き物だったとばかりに、蹲って放り投げていただけだった。


「俺の名前は、ガーネットだよ」


 そんなこと、言っても解る筈が無いのに。
 それでも、ダイヤが泣きながら必死に俺の名前を呼ぼうとする。
 俺は、その時になって漸く気付いた。縋る母も亡く、父も無く、自分で生きる術も無いダイヤが縋る先は俺しか存在しないのだ。だから、必死に訴えるのだ。置いて行かないで、と。此処にいて欲しいと。
 俺は、ダイヤを抱き締めていた。零れるダイヤの涙もそのままに、抱き締めることしか出来なかった。
 お前しかいないんだ。お前が居てくれないと困るんだ。お前が、大切だから。
 全ての言葉を泣き声の中で訴えるダイヤを、初めて、愛しいと思った。アレキサンドライト様や魔王様の存在なんて関係無く、愛しかった。他の誰でも無く。代替できる誰かでなく、俺が大切だと全身で訴えるこの弱い子どもが、如何しても愛しかった。
 ダイヤが、訴える。


「がーっとぉ……」


 俺の服を縋るように掴む弱い存在だ。けれど、――。
 ダイヤが、愛しかった。守ってやりたかった。それを他の誰にも譲りたくない。俺はダイヤの一番で居たかった。親を持たない彼が縋る唯一の居場所であるように、俺はダイヤを抱き締めていた。小さかった。剣も握れない。自分の身も守れない。そんな存在を守るように、俺は抱き締めていた。
 お前が大切なんだよ、他の誰でも無く、お前だけが。そう訴え掛ける存在を、誰が蔑ろに出来るだろうか?


「うるせーんだよ……」


 苦し紛れの言い訳のように、俺は口にしていた。


「呼ばれなくたって、解ってるよ」


 お前が、俺を必要としていることくらい。
 解っていたんだ。お前が、俺がいないと生きられない存在だってこと。


「ごめんな……」


 縋り付くダイヤを抱き上げ、腕の中にしまい込む。この弱い存在が、誰にも傷付けられないようにと願った。
 守ろう。この子を、何に換えても守ろう。
 きっとこの子は、将来、魔王の後継者として様々な策略に巻き込まれ、利用されようとするだろう。でも、俺はこの子が望む未来を望むように生きられるよう、この子を守る。その為に強くなろう。――そう、誓った。


★garnet(生命力、活力、秘めた情)



2、トパーズとガーネット


アレキサンドライト様が、御逝去された――。

 訃報を告げる鐘の音の中、その言葉は刃のように俺の心臓を貫いて行った。周囲が悲哀に包まれ涙を零し俯く中で、俺はそれが現実だとは如何しても思えなかった。今、目に見えている世界が全て夢だったんじゃないかと思った。否、思いたかったのだ。
 呆然と立ち尽くしたまま、俺は途方に暮れていた。羅針盤を失った帆船のように、目的も無く波間を漂うだけの無力な存在だった。
 かつん、かつん。
 聞き慣れた硬質な音が、啜り泣きのように俺の耳に届いた。やがてそれは、床を嘗めるような摺り足へと変わる。
 ガーネットが立っていた。人形のような無表情で、血の気の無い青い面で、体中に真っ赤な返り血を浴びて立っている。その片腕には、小さな命が収まっていた。
 銀色の髪、長い睫、白い面。涙を睫に留めて、静かに寝息を立てている。それが誰か等、問うまでも無く解っていた。隕石のように引き寄せられ、俺はその小さな顔を覗き込んだ。目を覚ます素振りも無く等間隔の穏やかな寝息を立てている様は、まるで呑気な人間の赤子のようだ。けれど、その顔立ちは、何の確証が無くともアレキサンドライト様を連想させた。


「この子は……?」


 問えば、ガーネットが答える。


「ダイヤモンド。アレキサンドライト様の、忘れ形見だ」


 感情の籠らない硬い声で、ガーネットが言う。こいつが今、何を考えているのかなんて解らない。
 忘れ形見。アレキサンドライト様は、亡くなった。――この子どもを、守る為に!


「トパーズ!」


 ガーネットの悲鳴にも似た声が、鼓膜を刺すように揺らす。伸ばされた掌が、俺の腕を掴んでいた。
 爪を立てるように俺の手は赤子の顔へ伸びていた。無意識だった。ガーネットの声にはっとして、自分の手を呆然と見詰める。俺は今、何をしようとしたんだろう。
 まるで白昼夢のようだ。訳の解らない状況だと思った。だが、俺は明確な殺意を持って、この子どもを、殺そうとしていた――。


「止めろ、トパーズ……」


 ガーネットらしかぬ懇願するような声に、圧倒される。


「如何して?」


 理解出来なかった。だって、この子が、アレキサンドライト様を殺したんだ。こいつがいなければ、アレキサンドライト様は生きていた。
 こいつさえ、いなければ!
 消え失せた筈の殺意が、炎のようにめらめらと燃え盛る。ガーネットは、赤子をしかと抱きかかえたまま訴えた。


「この子は、アレキサンドライト様の残された、ただ一つの希望なんだ」
「希望? こいつがいることで、生まれる争いが幾つあると思っているんだ。予言を聞いただろう。破壊と再生を背負う歯車の一つだ。こいつさえ、いなければ――」
「トパーズ!」


 ガーネットが声を上げた。


「この子の前で、そんな話をするな……」
「黙れ!」
「この子に何の罪がある? 子どもに生まれる場所は択べない。産むことを選んだのはアレキサンドライト様だ。魔王様の末子として、これから様々な策略に巻き込まれ、利用され、或るいは道具として扱われることだろう。それでも、アレキサンドライト様は、この子を希望と言った。俺はその言葉を、信じたい!」


 憔悴し切った力の無い面で、ガーネットが必死に訴える。
 信じたい。信じられるのか?
 魔王様の末子だぞ。サファイヤ様の弟だぞ。破壊と再生の歯車と予言を受けた不吉な子どもだぞ。この世を壊し、創り変える程の力を持つかも知れない赤子なんだぞ。それでも、信じたいと言うのか?
 馬鹿らしい。理解出来ない。


「この子は希望なんだ。俺にとっても――」


 ガーネットが、赤子――ダイヤモンドを抱き締める。
 信じたい? 違うだろう。信じることしか、出来ないんだろう。
 アレキサンドライト様の遺したこの子に、縋ることでしか自分を保てないんだろう。なんて脆弱な男だ。だけど、それは俺も同じだった。赤子に全ての罪を擦り付けて、自分を保とうとしている。


「なあ、ガーネット……」


 涙を頬に張り付けて、静かに眠るばかりのダイヤモンド。
 守られるばかりの、弱い存在。けれど、その小さな掌は、ガーネットの服を強く握り締めて離さない。


「この子は、希望となり得るのか? 全てを滅ぼす絶望になるかも知れない」
「解らない。だが、絶望になんて、絶対にしない」
「お前が育てるのか?」
「そうだ」


 強く頷いたガーネットの意思は固く、どんな言葉でも覆すことは出来ないだろうと確信した。それを裏付けるように、ダイヤモンドの掌も解かれることはない。この子は、生まれながらに解っている。その手を伸ばす先を、意味を、理解している。
 魔王様の末子。アレキサンドライト様の忘れ形見。この子どもの進む未来がどんなものであるのか、俺には解らない。


「……ならば、しかと見届けよう。この子の、行く先を」
「トパーズ……」
「だが、この子どもが道を違えるのなら、俺はそれを何としてでも阻もう」


 強く睨み付ければ、ガーネットが息を吐くように笑った。


「そんなことには、ならないよ」


 掠れるように吐き出された言葉に含まれる意味に、気付かない程、浅い間柄ではない。
 道を違えさせはしない。お前に殺させはしない。お前の手を染めさせはしない。そう言った彼らしい強過ぎる責任感で、吐き出された言葉だ。
 声に目を覚ましたのか、ダイヤモンドが薄目を開ける。それは、魔王城では決して拝むことの出来ない、突き抜けるような蒼穹と同じ色をしていた。

★topaz(希望、知性、繁栄)








2012.1.25