2,Human.










 上げたかった悲鳴は呑み込んだ。ただし、求めようとした助けは吐き出す前に阻止され、強い力で受け止められた。
 必ず守る。何の確証も無い言葉を鵜呑みにして、ルビィは今も走り出す。炎に巻かれた山村に生きている人間は極僅かだった。瓦礫に埋もれた母と、魔王軍の兵に串刺しにされた父の遺体に縋り付くことも出来ぬままにルビィは声を張り上げる。


「魔王軍が迫っています! 一刻も早く、この村から脱出して下さい!」


 傷だらけの女が足を引き摺りながら瓦礫から立ち上がる。母の遺体に縋り付く子どもが顔を上げる。絶望し座り込む男が、ぽつりと呟いた。


「何処に、行けと言うんだ?」


 轟々と燃え盛る炎に呑み込まれそうな呟きに、満身創痍に絶望する村人が口々に共感する。この村で生まれてこの村で死ぬのが、この村に住まう人々の人生だ。この村以外に居場所なんてある筈も無い。村の外には命の保証も出来ない戦乱が待っている。


「どうせ死ぬなら、この村と共に死ぬ」


 同意するように頷き合う人々は最早立ち上がることもしようとしない。
 その通りなのかも知れないと、ふと思った。どうせ、人は何時か死ぬのだ。生き方は選べなくても、死に方くらい選びたいだろう。生まれ育ったこの村で死にたいと願う気持ちがルビィには痛い程に解った。
 だけど。


「……死んでは、いけないよ……」


 ルビィは拳を握った。


「死んだら、終わりなんだよ! 何も残らない、何も得られない、何も成さぬまま、何も出来ぬまま滅びることが、あたし達の人生だったと言うの!?」


 ダイヤが戦っている。一人では到底太刀打ち出来ない筈の大軍を相手に、恨みこそすれ救う義理も無い村人の為に丸腰で戦っている。
 それは何の為?


「あたしはそんなの嫌だ! もっと世界を見て、もっと美味しいものを食べて、もっと楽しいことをしたい!」


 こんな狭くてさびれた村で、何も知らぬまま魔王軍に殺されて死ぬなんて嫌だ。誰にも逆らわず、誰にも恨まれないように必要最低限のことを行って生きて来た。殺し合う人と魔族を高いところから見下ろして愚かだと嘲笑って来た。だけど、生きるというのはそういうことなのだ。命じられるまま従っているのでは人形と同じだ。戦場で戦う者はただ傷付け合っているだけではない。己が信じるものを、己が信じるように、己で責任を負い、己で考え、己で決めて其処で剣を握ったのだ。
 死ぬことは逃げだ。戦場で散るよりも遥かに惨めで愚かしい行為だ。


「もっと生きたいよ!」


 目頭が熱い。鼻がつんと痛くなって、呼吸が酷く苦しかった。
 こんなことをしている場合じゃないと解っているのに、動き出せない。頬を伝う滴。とうとう降り出したのかと顔を上げれば、目の前に見覚えのある村人が立っていた。


「……俺も、生きたい……」
「死にたくないよ……!」


 小さな子どもが、縋り付くようにルビィの手を握る。少しずつ集まる人々は、口々に言った。
 生きたい。それこそが原動力。全てを動かし奮い立たせる力。頬を伝う滴を乱暴に拭い去り、ルビィは声を上げた。


「生きよう!」


 足を引き摺る女が、顔の半分をも火傷に覆われた青年が、母を失った幼子が、念仏を祈るばかりだった老人が、ルビィの後を追う。
 葬列のようだと、笑いたければ笑えばいい。それでも、此処にいる人間は皆生きようとしているのだ。振り返ることの出来ないままルビィは歩き出す。ただ一つ、食い止めると残ったダイヤのことだけが心残りだった。
 入り組んだ深い森は、村民にとっては最早庭も同然だった。魔王軍は幾ら人間とは異なる恐ろしい力を持っていようとも、簡単に抜けられる筈が無い。生まれ育った村を捨て、丸腰のまま未知の世界へと足を踏み入れる。この先、生きられるか如何かなんて解らないけれど、あの一瞬、生きたいと願ったことが全てなのだ。
 木々の間を抜けるルビィの後方から、後を追う魔王軍の咆哮が聞こえている。今も続く砲撃は村民の殲滅を目論んでのものなのだろう。逃げなくては。
 負傷した村人を支えながらルビィは横穴に入った。地元の者しか知らない隣の山に続く抜け穴だ。


「此処から、逃げて下さい」
「ルビィちゃんは……?」


 問い掛ける男の体は焼け、立っているのもやっとの状態だった。五体満足なのはルビィくらいのものだ。
 彼等は真っ直ぐの穴を抜ければ生きられる。ルビィもまた、その先頭に立って行くべきなのかも知れない。だけど、如何しても、如何しても気に掛かる。
 ただ一人残ったダイヤの存在が、頭にこびり付いて逃げ出そうとする足を引き留める。


「あたしは戻ります」
「如何して! 追手が来ているってのに!」
「ダイヤのことが、気になるから」


 すると、ざわりと人々が顔を見合わせる。


「あの魔族を……?」


 村人が難色を示すことは解っていた。彼等がどんな言葉を繋いだとしても、ルビィはその足を止めるつもりなど毛頭無かった。
 自分達を助ける為に単身、魔王軍に挑んだダイヤが無事だとは思えない。見捨てる程薄情にもなれない。縋り付き引き留める村人の懇願が、ルビィにはまるで遠い世界のもののように聞こえていた。


「止めましょう。魔族なんかに関わらない方がいいわ」
「そうだ。大体、魔族を相手に俺達に出来ることなんて何も無い」
「此処に隠れていましょう」


 鳩派の甘え切った考え方に、ルビィは違和感を覚えた。村の掟は絶対だった。彼等の意見に従うのが利口な遣り方だった。だけど、それでも、人間ばなれしたあの青い宝石のような瞳が脳裏を過る度にその考えを否定する。何故、自分で考えない?
 ルビィは走り出した。
 魔族というものが如何いうものなのかは解らない。人間と争い、村を滅ぼしに来た敵だ。なら、ダイヤは一体何なのだろう。化物だと罵られながら人間を守ろうとするあの魔族は一体何者なのだろう。上辺だけの情報では処理し切れない何かが此処にある。
 森を抜けた先は、何時も戦場を見下ろしていた崖だった。今日は戦いも無いけれど、魔王軍のテントが無数に張られている。恐らく、この戦場では魔王軍が勝利を勝ち取ったのだ。
 怖いと思う。恐ろしいと思う。けれど、それ以上に知りたかった。
 甲高い音が鳴り響いた。折れた剣は回転し、ルビィの足元に突き刺さる。あと僅かずれていたら串刺しだったかも知れない。反射的に顔を上げた先に、見覚えのある銀髪が風に舞っていた。
 全身を血に染めながら、ふらつく足取りで、傷だらけの腕で、罅割れた剣を振るっている。特異な能力を持つ筈の魔族が、まるで人間のように戦っている。人間の敵である筈の魔族が、人間を守る為にたった一人で抗っている。
 ダイヤの足元に転がる魔族の者は皆事切れているのだろう。ぴくりとも動かず血の池に浮かんでいる。その中でも悠々と。まるで死神のように立つ男は仲間の死に少しも動じる事無く無傷のまま微笑んでいる。


「良い様ですね」
「……うるせぇよ……!」


 絞り出すようにダイヤが言った。呼吸すら辛そうな満身創痍のまま、剣を杖に体を支えるダイヤの目はまだ死んでいない。
 呆れたようにガーネットが溜息を零した。


「もう止めましょう。この大人数を相手に素晴らしい働きをしたとは思いますが、此処までです」


 ガーネットの背後に、ぞろりと武装した魔族が並ぶ。圧倒的不利な状況でも、ダイヤの目に灯るのは消えることも揺らぐこともない強い光だ。


「大体、如何して人間なんかに拘るのですか? あんな脆弱で、狡猾な生き物の何処にそんな価値が?」
「ガーネット」


 その名を呼び、ダイヤは青い目で真っ直ぐ見据えた。


「俺はな、人間が死のうが、魔族が勝とうが如何だっていいんだよ。俺はただ、俺のやりたいようにするだけだ」
「その為に死んでもいいと?」
「当然だろう。それが、生きるということだ」


 ダイヤがゆっくりと剣を上げる。次の斬撃には持たないだろう大きな罅の入った刃に月光が反射する。
 ガーネットは背後に連れた配下を下がらせ、剣を抜いた。


「気紛れとは言え、貴方の考えることは解りません。魔族と人間は相容れぬ存在。食うか食われるかのどちらかだ」
「そんなこと、誰が決めた」
「神の意志です」
「なら、その神に伝えておけ。首を洗って待ってろってな」


 ダイヤが地面を蹴った。足音すら聞こえぬ軽やかな一歩を、ガーネットは防ぐべく剣を構える。
 だが、その時。大地震のように地面が激しく揺れ動いた。立っていることもままならない揺れに魔王軍共々ルビィは倒れ込み膝を着く。地震ではない。揺れの中、遠くを見遣れば砲口を此方へ向ける人間軍がずらりと並んでいた。こんな山村を助けに来た訳では無いだろう。魔王軍共々皆殺しか。
 ダイヤの背からふわりと純白の翼が広がる。大地の揺れから切り離られ悠々と浮遊し、砲撃を続ける人間軍を睨む。突っ伏したまま動けないガーネット。握り締めるように剣を掴むその手が震えている。その時、ぐらりと、崖が崩れ落ちた。
 切り離されたように落下した大きな岩に乗っていたガーネットの体は共に遥か下方へ向かっていく。悲鳴にならない声を上げてガーネットが手を伸ばす。舌打ち交じりの苦々しい顔でダイヤがその手を追う。間に合わない。――だが、ガーネットの体は下降を止めた。その手は確かに強く握られている。
 ルビィは、自分よりも遥かに大きなガーネットを支えながら呻いた。


「早く……上がって……!」
「お前、人間……?」


 信じられないものを見るような目で、ガーネットが言った。答える余裕など無いようにルビィは唇を噛み締める。
 羽ばたいていたダイヤがその手を共に支え、一気に引き上げた。反動で後ろに転げたダイヤとルビィは揃って腰を打ち付け、摩っている。


「如何して人間が、魔族の俺を助ける……?」


 きっと、ガーネットの問いは尤もなのだろう。ルビィはそう思いながらも、問い掛けずにはいられなかった。


「人間と魔族って、本当に解り合えないのかな。目の前にある命を救いたいと思う気持ちは同じと思うのは、あたしだけ……?」


 どちらも大切な命だと言うのは、戦争を知らぬ者のきれいごとだろうか。
 それでも、救える命を人間だから魔族だからと切り捨てるのは余りにも悲し過ぎる。茫然と、握られていた手を見詰めガーネットは俯いている。


「退けよ、ガーネット。お前が戦うべき場所は此処ではないぜ」


 暫しの沈黙。ガーネットは考え付いたように面を上げた。
 大幅に戦力は欠けてしまっただろうが、それでも強靭な力を持つ魔王軍にしてみれば大した違いも無いのだろう。


「皆の者、良く聞け! 敵は北西、人間軍だ!」


 ずらりと向けられた砲塔に怯えることなく、溢れ返るような大軍を恐れることなく、毅然としてガーネットは声を張り上げる。


「一人残らず、打ち取れ!」


 わっと活気付く魔王軍が、激しい傾斜などものともせずに駆けて行く。正面からぶつかって行くその様は武力に余程の自信があるのだろう。
 座り込んだまま立ち上がれないルビィを、ガーネットは見下ろしながら言った。


「人間の女。魔王軍である私にその問いは答えられぬ。だが一つ、礼を言わせて貰おう」


 傲慢な態度を崩さず、ガーネットが言い捨てる。言葉とは裏腹のぞんざいさに呆れながら、ルビィは苦笑を漏らす。ガーネットはすぐにダイヤに目を移した。


「お遊びが過ぎますと、何時か痛い目を見ますぞ」
「余計なお世話だ。自分の領分は弁えてる」
「ならば、結構」


 そう言って、ガーネットはマントを翻して颯爽を歩き出した。向かう先は押し寄せる人間の大軍だ。圧倒的不利なその状況でどちらに勝利の女神がほほ笑むのかなど解らないし、どちらが勝てばいいのかも解らない。
 ダイヤは疲れ切ったかのように大きく息を吐き出しながら倒れ込んだ。


「ああ、疲れたぜ」


 全身傷だらけで、最早自分のものか敵の返り血かも解らぬ程真っ赤に染まった衣服で、ダイヤは子どものように無邪気に笑う。
 手当しなくてはとルビィが近付くと、ダイヤは起き上った。酷い打ち身や切り傷が、見る見るうちに消えて行く。其処にはまるで何も無かったかのような新しい皮膚に目を疑うルビィに、ダイヤは可笑しそうに笑う。


「治癒能力も、人間の比ではないからな。気遣いは結構だ」


 血塗れの服のまま、気休めのように膝と尻の砂を叩いて落とすとダイヤは立ち上がった。その青い目は始まった人間と魔族の戦場をじっと眺めている。
 戦塵が、血の臭いが、風に乗って運ばれて来る。自分もその中に巻き込まれていたことが実感出来ぬままルビィは、ガーネットの手を握った掌を見詰めた。温かく、大きな掌だった。剣を振るって来たのだろう、肉刺や胼胝だらけの歪な掌だったが、それは人間のものと大差無い。


「魔族って、何なの……?」


 呟くように問い掛ければ、すぐにダイヤは切り返す。


「なら、人間とは何だ?」


 ルビィには答えられなかった。当然、ダイヤも答えられなかっただろう。
 自分のことすら解らないのに、他人のことまで理解出来るものか。そう言われているようでルビィは自然と俯いてしまった。その頭上に、凛としたダイヤの声が響く。


「だから、俺は世界を見るんだ」


 弾かれるようにルビィは顔を上げた。ダイヤは腰に手を当て、今も戦場で殺し合う人間と魔族を逸らすこそなく遠目に見ている。それが悲劇でも、絶望でも、狂気でもダイヤはきっと目を逸らさないだろう。そんな強さを感じた。


「これから、何処に行くの?」
「さあな。風の向くまま、気の向くままさ」


 何処か誇らしげに言うダイヤを羨ましく思った。小さな村が世界の全てで、掟が絶対である自分とはまるで違う生き方だ。何者にも縛られず、何者にも支配されない風のようなその魂を美しいと思う。ルビィは、言った。


「あたしも、連れて行って」
「はあ?」
「家族も村も無くなった此処に未練なんて無いもの。あたしも風の向くまま、気の向くまま世界を見てみたい」
「なら、お前は自分の足で歩くべきだ。違うか?」
「違うよ。あたしは、貴方と行きたいの。貴方の見る世界を、一緒に見たいの」


 するとダイヤは不満げに口籠ったが、わざとらしいくらい盛大な溜息を零した。


「死んでも知らないぞ」


 そう言って、ダイヤはルビィの腕を掴んだ。
 夜明けの空に純白の翼が広げられる。迎える朝日を反射するその様は幻想的で、現実味を帯びない。まるで夢の中のような心地でルビィは叫びたい衝動に駆られた。
 ルビィの両腕を掴んでぶら下げたまま、ダイヤは飛び立った。抜け落ちた白亜の羽根が戦場に消えて行く。朝日に向かって飛び立つダイヤの行く先などルビィには解らないが、それでも構わなかった。




2011.11.02