3,Utopia.










 荒れ果てた大地をただ只管に歩き続けるその様は、恐らくきっと葬列にも等しいのだろう。
 村の者は無事逃げ延び、近隣の村と合流することが出来、各々の怪我を癒していると聞いた。彼等が歩む道が決して平坦なものではないことだけは確かだった。魔族を恨む者もいるだろう。復讐を誓う者もいるだろう。悲哀に暮れて自ら死を選ぶ者もいるだろう。それでも前を見据えて生きて行こうとする者が如何程いるのかルビィには解らない。ただ、生きて欲しいと思う。村の掟が全てだった彼等が直面する新しい世界が、如何か優しいものであるようにと願うばかりだった。
 魔王軍と人間軍の戦を掻い潜って、ルビィとダイヤは草一本生えぬ砂漠を歩いていた。如何やら翼を持つダイヤも長時間の飛行は出来ないようで、足を取られる黄砂の上を慣れたように進み続けている。早足に進むダイヤを追うルビィは隣に並ぶどころか後姿を見失わぬようにするのが精一杯だった。ダイヤは休むことも振り返ることもしない。己が望むように己の思うまま歩いて行く。
 ふと、ダイヤの足が止まる。灼熱の太陽が照り付けるだだっ広い砂漠の中に一つ、まるで蜃気楼のような町があった。日に焼けた黄色の煉瓦を積み上げた建物と活気付く人々の声が遠く離れた場所にも届く。息を切らせて追い付いたルビィに、視線すら向けずにダイヤが言った。


「アリザリンの都だ」
「アリザリン?」
「そう。辺鄙な場所だが、貿易の栄えたオアシスのようなものだ。丁度いい。寄って行くとしよう」


 布を被り、再び歩き出すダイヤの足取りは淀みない。ルビィは気合いを入れるような心地で大きく深呼吸した。
 石畳の市中を闊歩するのはルビィと違わぬ人間だ。健康的に日に焼けた男が大きな魚を片手に売り捌く声が響いている。擦れ違う人間の姿は多種多様で、ダイヤの言う通り貿易都市であることから異国の人間との交流が盛んなのだろう。見たことも無い食べ物や、美しい宝玉、人々の明るい笑顔と賑やかな声が溢れている。外の戦争など知らぬように笑い合う人々の黒色の瞳は輝いていた。


「すごい! これが町なの?」


 村の外に出たことも無かったルビィにとっては見るもの全ては新鮮だった。深く被った布の影からダイヤはその様子を一瞥し、笑う。
 ダイヤも笑うのだな、と当たり前のことに関心する。
 大地を焼き、肌を焦がす太陽にも負けぬ明るい人々の活気に、自然とルビィの気持ちも明るくなる。胸の中で淀んでいた両親の死や村の滅亡による悲哀が俄かに和らいだような心地できょろきょろと周囲を見回していると、目の前にいた者に気付かずに衝突してしまった。
 壁のような大男だった。尻もちを着いて倒れ込むルビィの見上げた先に、じろりと見下ろす冷たい眼球が二つ並んでいる。漆黒の瞳に映る自分の姿と、岩のような顔面に浮かぶ憤怒の形相にルビィは動けなくなった。


「貴様、何処を見て歩いていやがる!」


 紅いマントを翻し、分厚い鉄の鎧を纏ったその様は兵隊のようだった。腰に差した剣に手が伸ばされ、周囲の賑わいが静まり返ったと同時に悲鳴が混ざる。
 ルビィは動けない。


「ご、ごめんなさ……」


 謝罪の言葉を告げようと、震える唇を動かす。男がその刃を抜き放とうとした瞬間、男の体は勢いよく市場の出店の中に吹き飛んで行った。悲鳴にも似たざわめきが周囲を包み込む。人々が距離を置いて凝視する先には深く布を被ったダイヤが凛と立っていた。


「悪かったな。余りにも愚鈍だから、石像かと思ったよ」


 布の下で浮かべる不敵な笑みに、果実の汁に塗れた男がよろよろと立ち上がる。
 だが。


「止しなさい」


 男の背後より、気配も無く現れた青年がその肩を掴んだ。穏やかな笑みを浮かべた人の良さそうな好青年を視認すると、男は雷に打たれたように体を固くした。


「クオーツ様……」
「市中で剣を抜くなど言語道断。アリザリン軍の恥ですよ」
「……! 失礼、した」


 苦々しげに男は零し、踵を返して行った。
 残されたダイヤも鼻を鳴らし、そのまま歩き出そうとするが、クオーツと呼ばれた男が呼び止める。


「待ってくれ。部下が粗相をしたな。侘びがしたい」
「結構だ」


 一言に切り捨てて歩き出そうとするダイヤを、クオーツは肩を掴んで止める。その耳元で、小さく、ルビィには辛うじて聞こえるくらいの声量で囁いた。


「お前、魔族の者だろう」


 ダイヤの足が止まる。だが、布を深く被ったままくるりと振り向き、不機嫌そうに口を尖らせた。


「それが何だ。俺を拘束するのか。見せしめに火炙りにでもするか、市中引き摺り回しか」
「まさか」


 ダイヤとて、そうされる気など更々ないだろう。クオーツは苦笑した。


「君達に興味が沸いたんだ。一緒に食事でもしないか」
「ハ、敵陣真っ只中で飯なんざ食えるかよ」


 そうダイヤが言い捨てたと同時、まるでタイミングを見計らったかのようにルビィの腹が鳴った。
 咄嗟に目を逸らす。羞恥に顔面に熱が集まるのが解ったが、クオーツは楽しげに笑った。


「御馳走しよう」


 ち、と舌打ち交じりに、体をすっぽりと覆う衣服を翻してダイヤはクオーツの後を追った。
 擦れ違う人々が親しげにクオーツに声を掛けている。先程の男とは違い鎧を纏ってはいないが、町民とは異なる雅やかな衣服は民間人とは思えない。それでも慕われている様がありありと解るその穏やかな微笑みと落ち着いた物腰に、見知らぬ他人であるにも関わらずルビィは警戒心を持てなかった。僅か先を歩くダイヤの足取りはやはり淀みない。
 賑わう都の中央には宮殿があった。高い城壁に囲まれてはいるが、街並みに溶け込んでいる。上げられた紅の旗が風の中で泳いでいた。
 大きな城門には武器を携えた兵士が二人並び、侵入者を阻む。だが、兵士はクオーツの姿を見るとすぐさま道を開け、大きな城門を開いた。途端に視界に広がる緑の庭園に目が奪われる。整えられた芝生と色とりどりの花々。荒涼の大地で生きて来たルビィにとっては天国にも等しい光景だった。
 迷いなく宮殿内に入ると、クオーツは擦れ違う兵や大臣等の敬礼に軽く応えながら客間へと案内してくれた。美しい山脈を描いた大きな絵画と、太陽の光を一杯に取り入れた大きな窓が印象的だった。中央の長方形の机にはダイヤの翼を彷彿とさせる穢れ一つ無い白亜のテーブルクロスが広がっている。真ん中に置かれた金色の花瓶には鮮やかな花が活けられていた。


「座ってくれ」


 促され、ルビィは手前の椅子に座った。沈み込むように柔らかい素材に驚きつつも、正面に座るクオーツに目を向ける。ダイヤはどっかりと腰かけると不満げにクオーツを睨んでいた。それすら可笑しいと言うように微笑みを浮かべたまま、クオーツは傍の者に食事を運ばせる。見たことも無い美しい料理、食材に目が奪われる。漂う香ばしい肉の匂い。艶やかな果実の数々。食欲をそそられる食物に釘付けになっていると、苦笑交じりにクオーツが言った。


「毒なんて入っていないから、どうぞ召し上がれ」


 遠慮がちに、ルビィは目の前のパンに手を伸ばす。
 村での主食は芋だった。それから痩せた土地でも育つ僅かな野菜と、僅かな燻製肉。蒸留した雨水で喉を潤し、日々の生活を営んでいく。戦乱の世に、飢餓に苦しむ場所もあるだろう。それに比べれば自分達は幸福だと言ったのは村で最も高齢な生き字引でもある村長だった。瓦礫の下で圧死した彼の長い人生の記録に、こんなにも豊かな食事があっただろうか。
 外は戦乱なのに、此処には食物が溢れ、笑顔に満たされている。この矛盾は何?
 口に運ばれたパンは表面香ばしく、柔らかかった。
 クオーツは未だ布を取らぬダイヤを見て言った。


「好い加減、顔を見せたら如何だい? それとも、人払いをしようか」
「余計な世話だ」


 不満そうに言って、ダイヤは襤褸布のようなフードを抜いた。日光を反射する銀髪と宝石のような青い瞳に周囲がざわめく。人間と明らかに異なるその色彩への驚愕、恐怖、畏敬の目が向けられる。そうした視線などまるで気にならないようにダイヤは目の前の肉に齧り付いた。
 食事を始めた二人を満足そうに眺め、クオーツは言った。


「俺の名はクオーツという。この地を治める者だ」


 名乗ったクオーツの威圧感が、ルビィにも伝わった。他者を圧倒する常人とは異なる覇気。穏やかな眼差しの奥に燃える紅蓮の炎。
 彼はこの町の、否、この国の王なのだ。圧倒されながら、ルビィはパンを置いて口を開いた。


「私は、ルビィ……です」
「ルビィ。良い名前だ。見た所、君は人間のようだが……?」


 ルビィは頷いた。


「私は人間です。此処から東の山奥の村の、田舎娘です。王様と食事することも許されないような……」
「そんなことはない。人間に上も下も無い」


 優しげに微笑むクオーツの人柄が、表れているようだった。それを面白く無さそうに一瞥し、ダイヤは構わず食事を続けている。


「此処も元々は何も無い砂漠の地だったんだ。其処に水を引き、緑を植え、町を作った。貿易が盛んになることで栄え、人々の暮らしが豊かになって行く」
「素晴らしい町だと思いました。私の村には……何も無かったから」


 羨ましいと思った。もしも、あの村にもこのクオーツのような指導者がいれば、何か変わったのだろうか。魔族に滅ぼされ虐殺された家族も友人も皆、生きていたのだろうか。
 彼がいれば、この世界はこの町のように豊かになるのだろうか。争いの無い平和で豊かな優しい世界が、出来るのだろうか。
 骨付き肉に齧り付いていたダイヤが、身を毟り取った骨を皿に投げ捨てる。クオーツはダイヤに目を向けた。


「さて、そろそろ君のことを訊かせてくれないか?」
「知って如何する」
「言っただろう。君達、魔族に興味があるんだ」


 ダイヤは鼻を鳴らした。仏頂面を崩さないダイヤに、クオーツもまた微笑みを崩さない。


「俺にも魔族の友人がいる。人と魔族の共存出来る世界を創ることが、俺の夢だ。その為に、君達の話が訊きたい」
「理想を持つことは良いことだ。確かにこの町は砂漠にありながら豊かで、穏やかで、活気に満ち、貧富の差も殆ど無い。だが、お前が魔族との共存を願うのなら、如何してこの町には魔族はいない?」


 この町にいるのは全て人間だ。人間だけの、人間による、人間の為の町。
 クオーツは苦笑した。


「人間と魔族の間には深い溝がある。今も世界の覇権を賭けて争っているし、偏見を持つ者も多い。だが決して、この町に魔族がいない訳では無いぞ」


 ついて来てくれと、食事もそのままにクオーツは席を立った。
 慌てて立ち上がったルビィに、ダイヤはふてぶてしい態度を崩さぬまま、フードを被り直すこともなく後を追う。宮殿内は光が満ちている。行き交う人々の表情は明るく、美しい衣服で着飾り、誇らしげに歩いて行く。擦れ違う人はダイヤに好奇の目を向け、或る者は何か囁き、或る者は早足に去って行く。この国の王の掲げる夢が魔族との共存であったとしても、これが現状なのだと痛い程に思い知る。それでも背筋を真っ直ぐ伸ばして歩いて行くダイヤの考えが知りたいと、ルビィは思う。
 クオーツは宮殿の中庭を抜け、木造の扉で閉ざされた離宮へ案内した。見張りの兵は城門と同様に二人。クオーツの姿を認めると恭しく礼をして門を開いた。
 入ってすぐの広間には紅い絨毯が敷かれている。足跡一つ無い美しいその布は今のルビィには手の届かない程高価なものなのだと一目で解る。足を踏み入れることに躊躇していると、クオーツが声を張り上げた。


「コーラル!」


 宮内に響き渡るような大声で叫ぶのは名前だろう。静かだった空間に慌ただしい乾いた足音が響いた。
 二階の欄干から此方を見下ろす人影が、嬉しそうに呼び掛けに応えた。


「クオーツ!」


 白い肌、紅い瞳、黒色の長髪。人のような出で立ちでありながら、有り得ない色彩を持ち、その頭部には獣のような耳があった。
 ぴんと張られた三角形の耳は周囲の物音を探るように震えるように忙しなく動いでいる。転がるように階段を駆け下り、クオーツに駆け寄るその様は慣れた飼い犬のようだ。可愛らしく笑う少女にルビィはふっと笑みを漏らした。
 クオーツはルビィとダイヤに向き直った。


「紹介しよう。彼女の名はコーラル。俺の幼馴染であり、親友だ」
「宜しく」


 コーラルはルビィに微笑み、ふとダイヤに目を止めた。


「君は魔族だね。名は?」
「ダイヤだ」
「そうか、君が……」


 合点いったようにクオーツとコーラルは顔を見合わせた。


「放浪する魔王の末子。君が噂のダイヤだね」


 魔王の、末子。人間と争う魔族の王、その息子。
 言葉を失ったルビィに、ダイヤは興味も無さそうに鼻を鳴らした。


「そんなことは如何だって良いことだ。問題なのは生まれではない。生き方だ」


 びしりと言い切ったダイヤに、コーラルは嬉しそうに笑った。


「その通りだ。君とは馬が合いそうだわ。……此処を案内してあげる、ついて来て!」


 子どものような無邪気な笑みを浮かべ、コーラルはダイヤの手を引いた。それは人間と変わらぬ温かい掌だった。
 半ば強引に駆けて行くコーラルに戸惑いながら、ダイヤはルビィを振り返った。何時でも先を歩いていたダイヤは振り返ることも立ち止まることも無かったけれど、と思い出し奇妙な違和感を覚えた。
 翼を持ち、一騎当千の剣技を持ち、人間と異なる銀髪と青い瞳の青年。けれど、人間と同じように笑い、驚く。
 二人の去った後の広間で、クオーツは困ったような笑みを浮かべた。


「行ってしまったね」
「はい……」
「そうだ。君には俺が案内しよう。是非、見て欲しいものがあるんだ」


 そう言って、クオーツは歩き出した。




2011.11.05