11,A difference.










 吹き抜ける隙間風が、悲鳴のように空しく木霊している。
 人間が生活している筈の村には、夜半と言えど気配は愚か生活感すら感じられないというのは余りにも不自然だ。寂れた寒村に広がる畑に作物らしき影も、今にも崩れそうな家屋が立ち並ぶ中に灯りも一つも在りはしない。本当に此処に生物が居住しているのか、ルビィには甚だ疑問だった。
 それでも此処がオリーブの村だと主張したエメロードは、ダイヤに背負われたままとんと黙り込んでしまった。
 暗黙の掟に従い村人の理不尽な襲撃すら享受するというエメロードにとって、此処は立ち入ってはならぬ場所なのだろう。口を噤んだエメロードを横目に見ながら、何の迷いも無く村に足を踏み入れて行くダイヤを追った。


「なあ」


 耳が痛くなる程の静寂を打ち破り、ダイヤが言った。


「如何してお前は、あの場所に住んでいたんだ?」


 質問の意図が掴めずにルビィは困惑する。問い掛けられたエメロードは相変わらず口を噤んだまま目を背けていた。


「襲撃も初めてではなかっただろう。それでも何故、村から程近いあの場所に執着する」


 束縛を嫌い自由を求めるダイヤには心底解らないのだろう。一定の場所に居を構えたことも無い魔族であるダイヤには、帰る場所の無い不安など解らないに違いない。
 けれど、一方でダイヤの問いは至極当然のものだった。
 寒風に掻き消されそうな微かな声が届いた。それがエメロードのものと判別するのに、僅かに時間を必要とした。


「この村から、離れられなかったの」


 枯葉を踏むような乾いた音が、其処等中から聞こえた。息を殺して此方を窺う無数の気配が、ルビィにも感じられた。
 腰の剣に手を伸ばすことも、翼を広げることもしないダイヤはただ真っ直ぐに前を見据え、正面から歩み寄る人間の群れを睨んだ。
 人間達は通常では武器になる筈の無い工作具を構え、此方を呪い殺すような強い眼差しを向けていた。穏やかではない異常な状況で、エメロードだけが噛み殺すような、絞り出すような言葉を続ける。それはまるで懺悔のように、ルビィには聞こえた。


「此処には、私のただ一人の家族がいたから……!」


 エメロードの伏せられた碧眼から零れ落ちた一筋の滴が、ダイヤの背に染み込んだ。
 こつん、と。
 ルビィの足元に小石が転がった。


「出て行け!」


 剥き出しの殺意に、拒絶の言葉。放った声の幼さに驚くよりも、ルビィは此方を呪う少年の鋭過ぎる視線に声を失った。
 それが合図だったように、其処等中に潜んでいた気配は闇の中で姿を現し、拒絶の言葉を雨のように降らせた。


「出て行け!」
「化物!」
「悪魔!」


 一斉に放たれた言葉が誰に向けられているのか、ルビィには解らない。魔族であるダイヤか、人間でありながら共にいようとするルビィか、どちらにも属すことの許されないエメロードか。或いはその全てなのか。
 投げ掛けられる謂れの無い言葉と石を避けることもしないダイヤの心中などルビィに察することは出来ない。透き通るような青い瞳は、がらんどうのまま胡乱に人間達を見詰めていた。
 小石が、ダイヤの蟀谷に衝突し落下した。それでも敵意すら向けようとしないダイヤは、虚無に染まる青い瞳を不思議そうにルビィに向けた。


「なあ、ルビィ。こいつ等は、何を言っているんだ?」


 ダイヤの問いこそが、ルビィには疑問だった。
 それでも、ダイヤは言った。


「言われなくとも、俺達は何時までもこんなところにはいないし、こいつ等に危害を加えたことも無い。そうだろう?」


 その通りだった。けれど、この世界には暗黙の掟がある。
 魔族は人間に干渉してはならない。人間は魔族に干渉してはならない。混血にはどちらも干渉してはならない。その掟の意味など誰にも解りはしない。それでも破ることを恐れるのは、一体何故なのだろう。何を恐れているのだろう。


「泣くな、エメロード」


 背中のエメロードに届くように、はっきりとダイヤが言った。
 顔を上げることをしないエメロードに、群れを成す人間達の中央の老人が、憎しみに満ちた声を上げた。


「出て行け、化物! お前のような紛い物が此処に来る理由など在りはしない!」


 背負われたエメロードが、遠目にも解る程にびくりと震えた。
 続け様に叫んだ老人の嗄れ声に、世界に亀裂が入ったような気がした。


「お前の母親はもう、この世にはいない!」


 エメロードの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 それが、エメロードがこの村に執着する理由。例え理不尽な襲撃を受けても、謂れの無い冷たい態度を取られても、頑なにこの村の傍を離れなかったたった一つの答え。
 お母さん。
 震えるエメロードの声が、大勢の罵声の中でルビィの耳に届いた。


「化物! 死んでしまえ!」
「お前は村を不幸にする!」


 ぶつけられたのは石か言葉か。傷付けられたのは肌か心か。
 ダイヤが、言った。


「泣くな」


 繰り返されるダイヤの声は揺らぐことなく真っ直ぐエメロードへと向けられていた。


「泣いたらいけないぜ」
「ダイヤ……」


 微笑みすら浮かべて、ダイヤはエメロードを見た。


「こんな中身の無い薄っぺらな言葉に、傷付く必要なんて無い」


 青い瞳には、刃の切っ先にも似た鋭い光が宿っていた。人間達を見る目は酷く冷たい。
 反論する価値すら無いと、ダイヤは踵を返して歩き出した。


「なあ」


 村から出て行こうとするダイヤは不意に足を止め、未だ睨み続ける村人を一瞥した。


「エメロードの母親は、何故死んだんだ?」


 老人が言い淀んだと同時に、血気盛んな若い男が声を上げた。


「俺達が殺したに、決まっているだろう!」


 みしりと、ダイヤの握られた拳が軋んだ。それでも、普段の態を崩さずに短く相槌を打つと、ダイヤは再び歩き出した。
 普段、相手を思い遣ることも無く、自分の思うままに言葉を紡いで来たダイヤからは想像も付かない程に呆気無い去り際に、ルビィは口惜しく思った。恨み言一つ吐かずに、弁解も反論もしない。普段の口の悪さは何処へ行ったのだ。こんな時に言わずに、何時使うというのか。


「お前等、碌な死に方しないぜ」


 予言のようなはっきりとした声が、彼等に届いただろうか。
 行くぞ、と。ダイヤは歩き続ける。


「ダイヤ」


 ルビィの声に、ダイヤは胡乱な眼差しを向けた。


「如何して、何も言わないの? 如何して、何もしないの?」
「人間には人間の掟が、生活がある。殺す価値も無ェよ、あんな奴等」


 それが正論であることも、ルビィには解っている。けれど、理解出来ても納得は出来ない。所詮、心と脳は異なる器官なのだ。感情を持たぬ本能だけの魔族であるダイヤに、それが解る筈も無い。


「何時までも、ぐずぐず泣いてんじゃねぇよ」


 吐き捨てるダイヤに、先程までの気遣いなど欠片も無い。エメロードを鬱陶しそうに背負い直し、大して疲れてもいない筈なのにわざとらしく溜息を零す。
 村から離れた岩場にエメロードを下ろし、ダイヤは慣れた手付きで火を起こす。肩を回しながら座り込んだダイヤは弄ぶように薪をくべながら二人に背を向けた。時折吹き付ける乾いた冷たい風の音以外に、周囲に音は無い。ダイヤの手元で薪が爆ぜるが、気にした様子も無く胡坐を掻いていた。
 ルビィはエメロードの隣に座った。だが、掛ける言葉が見付けられなかった。
 どんな励ましも慰めも陳腐なものにしか思えず、かといってダイヤのように切り捨てられる程に冷徹にもなれない。結局、最も残酷なのは魔族ではなく人間なのだろうと、ルビィは思った。
 その時、風の音と聞き間違う程に微かな声がした。


「本当は――ってた」


 ルビィが顔を向けると、橙の光がエメロードの白い面を染め上げていた。
 エメロードは死んだような無表情で、自身を刻むように言葉を紡いでいく。


「本当は全部、解ってた……」


 くしゃりと、エメロードの顔が歪んだ。泣き出す寸前の幼子のようだと、ルビィは思った。


「村の人が嘘を吐いていることも、お母さんが殺されたことも、全部解ってた……!」


 それまで、だんまりを決め込んでいたダイヤが不意に口を挟んだ。


「なら、如何して何もしなかった?」


 エメロードは答えなかった。否、答えられる筈が無いとルビィは悟った。
 魔族よりも遥かに心も体も人間に近い彼女が、ダイヤと同じように割り切って考えられる訳ではない。彼女に何が出来たと言うのだろう。如何すれば、何が正解なのだろう。正論など言われなくとも解っているけれど、それでは切り捨てられない感情がある。


「復讐することも、逃げることもせず、変わる筈の無い現状にしがみ付いていたのは何故だ」


 それは純粋な問いなのだろう。自分の理解の及ばぬ相手を卑下することの無い態度は崇高たるものかも知れないけれど、受け取った人間は純粋に答えられる訳が無い。
 黙り込んだエメロードに代わって、ルビィが声を上げた。


「誰もが皆、ダイヤみたいに強い訳じゃない」
「何が言いたい」
「ダイヤみたいに割り切って考えられるなら、誰も苦しんだりしなかった!」
「お前、勘違いするなよ。俺が強いんじゃない。――お前等が、弱いんだ」


 ダイヤの冷たい物言いには、明らかな苛立ちが滲んでいる。
 堪らず、ルビィは叫んでいた。


「ダイヤには解らないよ! 人間の苦しみも辛さも!」
「そんなこと、当たり前だろう」


 それまでの苛立ちを消し去ったダイヤの瞳に映るのは、明らかな落胆だった。


「俺は魔族だからな、人間のことなど解る訳が無い。――ただ、知りたいから訊いている」


 そうだと、ルビィは悟る。
 ダイヤは人間のように、誰かを傷付けようとして言葉を放つ訳ではない。思ったことを思ったまま、自分の欲求を満たす為だけに言葉を綴る。


「相手の全てを解り合うなんて、同種族でも不可能だ。でも、だからこそ愛しいんだろ?」


 青い瞳に瞬く光が何なのか、ルビィには解らない。
 本能のまま生きる魔族には、感情など無いと嘗てダイヤは言った。でも、ダイヤは変わり始めている。人間への興味、世界への期待、自分の可能性を信じている。それはきっと、彼が出逢って来た人や魔族の影響なのだろう。
 ダイヤがふと顔を上げ、何かを嗅ぎ分けるように鼻を鳴らした。


「俺の予言が、当たりそうだ」


 そう吐き捨てたダイヤの真意は知れない。それきり興味を失ったように黙り込んだダイヤは、先程の問いを繰り返すことも無かった。





2012.3.5