緑が濃くなった。
風が熱を孕み、日差しは日々強くなる。アスファルトからは仄かに陽炎が上りだした。頭皮か発した汗は頬を伝って顎から滴り落ちる。
和輝はふ、と息を吐いた。
晴海高校野球部はいつものように、まるで秘密基地のようなグラウンドで練習を行っている。グラウンドの場所は、日々の練習に少々不便だが、マスコミへの対応と考えると非常に都合が良い。
「休憩ー」
守備練習が終わり、日差しの強さに負け、高槻は休憩を挟んだ。本来なら休憩など入れずに練習するくらいでなければ、とても夏の大会では通用しないだろう。そう思ってはいても、部員ギリギリの中で欠場者が出ては困る。
日々、練習がきつくなる。少しずつ、確実に重く、厳しいものになるが、誰一人文句は言わないし、休まない。
最近の練習は、夏の日差しがあると言っても、和輝でさえも苦しいものとなりつつあった。
恐らくは、過去の練習量で和輝に敵う者はいない。名門橘シニアと自主練習で培った体力は県内でもトップクラスだろう。だからこそ、現在の晴海高校の練習ではとても足りないと、高槻は考えていた。結果が現在の練習量で、休憩になれば皆、水分補給へ向かうことも出来ずにまず、その場に倒れ込む。少し呼吸を整えてからようやく水を飲める状況だった。
和輝は膝に手を突き、一呼吸置いてから歩き出した。真っ直ぐマネージャーの下へ向かい、ドリンクを二本貰い、一つを飲みながら、木陰でぐったりと倒れている箕輪の顔の横に置いた。
箕輪は空ろな目で和輝の姿を確認すると、普段の彼からは想像も出来ないような掠れた小さな声で「サンキュ」と言った。
「……大丈夫?」
問い掛けても、箕輪は答えなかった。荒い呼吸のまま、目元にはタオルを掛けている。大の字に体を広げ、汗の量も夥しい。
限界だな、と和輝は思った。
中学と高校の部活は違う。二・三年も今の練習はきついだろうが、高校の部活を知っているのだから大丈夫だろう。夏川は元々名門中学のエースだった男。このくらいの練習でへばるとは思えない。
だが、箕輪は違う。普通中学の普通練習を行って来た、普通の野球部員なのだ。別の高校に行って野球を続けても、目指せ甲子園と言いながらも、心の何処かで行けない事を理解しているような一般の少年なのだろう。そんな少年に、本気で甲子園を目指すこの練習は酷だと思うのだ。
「あと五分で練習再開だぜ」
ドリンクを貰って来た夏川が隣に座った。流石に疲れた顔をしてはいるが、箕輪のように顔色まで悪くはない。
「おい、箕輪」
夏川が、箕輪を起こそうと手を伸ばす。和輝はその手を掴んだ。
「もう、ちょっと」
休ませてやろう。
和輝は声に出さず言った。夏川は溜息を吐いた。
「……」
そんな事で、夏の大会を勝ち進めると思っているのか、とか。言おうとした文句は飲み込み、夏川は代わりにドリンクを喉の奥に流し込む。
名門で練習をして来た夏川にとって、ついて来れないやつは置いて行け、というのが当たり前だった。悔しければその分練習すればいいのだ。けれど、部員ギリギリのこの野球部ではそんな事は言えない。
だからといって、甘やかす気は更々ない。
「箕輪、お前、自分がお荷物だって気付いてるだろうな」
和輝は目を丸くした。夏川がそこまで言うとは、思わなかった。
咄嗟に何のフォローも出来なかった。丁度、遠くで高槻が休憩の終わりを告げた。夏川は膝に手を突いて立ち上がると、そのまま黙って歩いて行った。
和輝は箕輪を見た。顔はタオルで見えなかったが、その拳は強く、強く握り締めていた。
宣戦布告・3
俺達の宣戦布告
その日、箕輪は誰とも一言も会話をしなかった。
練習後、片付けをしていても、着替えをしても、帰り道も、一言も発しなかった。皆疲れ切っていたから、殆ど会話などないのだが、いつも喧しいくらいに喋っているムードメーカーの箕輪が黙っている部室は静寂が支配していた。
帰り道は、明日の練習についてなどの業務連絡ばかりで会話らしい会話も殆ど無かった。
和輝は校門で早々に別れ、一人暗い道を歩く。誰もよりも家は近くにある。律見川のせせらぎを聞きながら歩く夜道も中々いいものだな、なんて思いながら今日一日を振り返る。
確かに体は疲れている。けれど、今日も自主練習は欠かさない。自分で選んだ道なのだから、尻拭いは自分でしなければならない。練習が足りなくて、周りに合わせていたせいで体力が落ちて負けましたなんて、言い訳にならないのだ。
暫く歩くと、見慣れた川原のグラウンドが見えた。橘シニアの練習で使った懐かしい場所だった。
練習内容は実際、今とは比べものにならない。余りの厳しさに入り立ての頃は泣いたし、吐いたし、辞めたいとも思った。倒れたらグラウンドの端に運ばれ、必要な手当ては受けるが、労われることなんてない。当たり前だ、彼らは勝つ為に練習をしているのだから、荷物は置いて行く。
夏川の言葉は、よく解るのだ。
和輝だってお荷物に構っている時間なんてないと解っている。ついて来れないものは置いて行く。それが当たり前だった。部員がギリギリだからなんて理由で甘くしては、他の部員にも、箕輪にとっても良くない。けれど、それだけでいいのか、疑問に思っていた。
勝つ事が全てだ。負ければ終わり。けれど、それだけではない筈だと思う。敗北にだって意味はある。報われなかった努力にも価値がある。そう思うのは甘過ぎるのだろうか。
夏川にとって、箕輪はただのお荷物なのだろう。彼の学校は実際、そうして弱者を置いて来た。その環境で育ったから、何の疑問も無いし、今の状況には納得いかず苛立つのだろう。
それは間違っていない。弱肉強食はこの世の摂理だ。だが、和輝は、違う。
夏川のように初めから何でも出来た訳じゃない。確かに人よりは呑み込みが早かったかもしれない。けれど、何キロも走るマラソンで始めは付いて行けず、道の途中で倒れたところをゴールした後の兄に何度も迎えに来てもらった。泣きながら走った。何度も嘔吐した。だからこそ、初めて自力でゴールした瞬間の喜びを忘れない。――夏川には、それが解らない。
今はただ、箕輪の成長を待つしかない。それまでに夏川は箕輪に対して不信感を抱くだろう。そうして生まれた確執はチームワークにも影響すると思う。
どうしたらいいのか。そんなことをぼんやりと考えながらのんびり帰路を辿る。
家の前に着くと、玄関に黒い塊があることに気付いた。
「……よ」
何所か気まずそうに、伏せ目がちに箕輪は言った。
「箕輪……」
校門で別れた筈の箕輪が、玄関でどうして蹲っているのだ。和輝は眉を寄せる。
「お前、何でここに」
俺の家、教えたっけ?
そう聞こうとして、止めた。そんな事はどうでもいい。
「あのさ」
箕輪はゆっくりと立ち上がった。
「自主練、俺もやらせてくれないか」
和輝は瞠目したが、息を吐いた。
「……夏川に言われたこと、か?」
「……そんなんじゃない……訳でもないけど……」
箕輪にしては歯切れの悪い口調に和輝は苦笑した。
「俺は別に構わねぇよ。でも、ついて来れなきゃ置いて行くぞ」
「ああ、よろしく」
和輝は扉を開け、玄関に荷物を放り投げる。家の中は暗く、まだ誰も帰宅していなかった。
「家の人は?」
「まだ帰ってない」
物置から金属バットを二本と、硬球を一つ取り出して扉を閉める。鍵の落ちる音が響いた。
行き先も告げず、和輝は歩き出した。箕輪は慌てて自転車を押しながら、追い駆ける。
「兄ちゃんはまだ学校。親父は仕事」
「……お母さんは?」
訊いていいことかは解らないが、箕輪はそっと問う。
和輝は困ったような顔で答えた。
「いない。ずっと昔、死んじゃったよ」
「そっか……」
箕輪は目を伏せた。
家に帰れば温かい食事があり、お帰りと言う声がある箕輪にとって、和輝の家は酷く冷たく感じた。和輝はそれが不幸だとは思っていないとも、解っているけれど。
顔も良くて、性格も良くて、運動神経も良くて、才能にも恵まれていて。
いつだって羨望の対象でいるけれど、その裏に隠したものは誰も気付かないのだろうなと思った。気付かせないのだろうし、同情されるのが目に見えているから気付いてほしくないのだろう。
「なあ、和輝」
和輝は荷物を方に担いで、空を仰いでいる。箕輪の声にも振り返らない。
「お前も、俺の事、お荷物だと思うか?」
星が綺麗だった。川沿いの道はとても静かで、ポツポツと存在する外灯が眩しい。
和輝は顔だけ振り返った。
「別に」
僅かに笑っていた。
「人のこと言えないさ。キャプテンにも、怒られたばかりだ」
箕輪は苦笑した。
「お前はお荷物じゃねーよ。皆、お前の事が好きだって解る」
「ははは」
和輝は笑いながら、道を外れて草生す斜面を下り出した。
「俺はただの数合わせだって、ちゃんと解ってるよ。でも、あんなにはっきり言われると……な」
自転車をゆっくりと押しながら、箕輪は言う。
「確かに夏川の言葉はきついよなぁ」
箕輪の到着を確認し、和輝は荷物を下ろす。着いた先は、橘シニアの練習場のグラウンドだった。
すっかり均された地面には足跡一つない。自分達の意思を継いだ後輩が変わらず、大切にしてくれているのだろう。
和輝は箕輪を見た。
「なあ、箕輪。お前は、どうなりたいの?」
「どうって……」
「俺達は、本気で甲子園へ行く為に練習してる。心の何処かで無理だろうな、なんて思ってるんじゃきついぜ」
箕輪は黙った。
「強制はしない。お前は、お荷物って言われたから、練習するのか?」
暫しの沈黙が流れた。電車の通過するけたたましい音がした。
箕輪は俯いていたが、顔を上げた。
「それも、ある。……夏川に言われたことが悔しいから、やってやろうと思った。でも、それだけじゃない」
箕輪の頭には、夏川の入部が決まった日が思い出された。
一見、火を見るより明らかな体格差での勝負だった。けれど、その勝負を制したのは、誰もが負けるだろうと思った小さな和輝だった。不条理な条件を突き付けられて、それでも真っ直ぐ向かい合ったその姿をきっと永遠に忘れないだろう。
マウンドで、拳をぶつけ合った二人の姿を、忘れないだろう。
二人に並びたいと思ったのだ。実力差は大きい。けれど、彼らと並んで野球したい。彼らと同じ夢を追い駆けたい。心から、そう思った。
「俺は甲子園に行くなんて、大きなこと言える程の実力持ってねぇ。でも……」
箕輪は和輝を見た。あの日と変わらない真っ直ぐな目。
「俺は、お前等と本気の野球がしたいんだ」
和輝は黙った。箕輪の言葉は本気だと、すぐに解った。
彼は全て解っているのだろう。普通中学で普通の部活をして来た自分が、強豪チームで吐くような厳しい練習を積んで来た自分達と並ぶのが、どれ程困難なのか。
今の部活で同じ練習をしていたって差は埋まらない。差を埋めるには、血が滲むような努力が必要だ。
「お前の言葉、信じるよ」
和輝はニッと笑って、硬球を投げて渡した。
キャッチボールしようぜ。
グラブを嵌めながらそう言って、何の躊躇いも無くグラウンドに足を踏み入れる。箕輪も自転車を止め、グラブを嵌めて歩き出す。小さな背中は三塁近くで振り返った。
「来い!」
それは、ここまでという意味?
箕輪は苦笑し、振り被った。
「なあ!」
乾いた音が川原に響いた。和輝は箕輪のボールをキャッチし、素早く投げ返す。
箕輪の声は電車の車輪に掻き消されたが、それでも続けた。
「お前は、俺に出来ると思うか!?」
箕輪が振り被る。
和輝はボールを受け止め、笑った。
「知るかよ、そんなこと!」
笑いながら投げたせいか、ボールは箕輪のグラブから少し外れた。
箕輪はそのボールを掬い上げるようにしてキャッチし、口元に微かな笑みを浮かべる。
「お前が本気なら、出来るんじゃねぇの?」
「俺に才能が、無くってもか!?」
段々、箕輪の声はいつもの良く通る声に戻って来ている。それが何だか嬉しくて、和輝は笑いながら返事をした。
「ああ!」
和輝は言った。
「俺は、才能が全てだなんて思ってないよ!」
綺麗事だな、と箕輪は思う。和輝の言葉が本音かどうかは解らないけれど、それは、箕輪の為に言った優しい嘘とも取れるのだ。
和輝はそれを察して、続ける。
「どうして俺が、晴海高校に来たのか解るか!」
箕輪は首を振った。和輝はボールをキャッチし、腕を下ろした。
「才能云々の世界で生きて行きたくなかったんだ」
声は少し、掠れていた。
「勝つか負けるか、そのギリギリの緊張感の中で最高のプレーをするってことが、スポーツを楽しむってことだろう。勝負の世界は結局、弱肉強食だけど、何かに怯えたり、恨んだり、蹴落としたり、踏み躙ったりして勝つ……、俺は、そんなの間違ってると思うんだ」
和輝は目を伏せた。
「仲間を蹴落として、相手を踏み躙って……、そんなの、俺は嫌なんだ。それが才能の世界だって言うなら、俺はそんなのいらない」
練習について行けなくて、去って行った仲間の背中を知っている。仲間に蹴落とされて、そのまま立ち上がれずに消えて行った思いを知っている。
誰かが楽しむ為に、誰かが犠牲になる。そんなの、嫌だった。
「もう無理だ、諦めよう、そんな風に思いながらも、自分の背中を何度も押して、必死の思いで掴んだものにこそ、価値があると思うんだ。結果の無い努力は努力だなんて言えないかもしれない。でも、例え結果を出せなくても、本気で頑張った自分のこと、仲間のこと、俺は、認めてやりたいんだ!」
去って行った仲間の背中に向かって、罵声を浴びせたくない。疲れ切ったその背中に、お疲れ、と言いたいのだ。
「だから、勝負は才能だけじゃないって、言いたいのか」
箕輪は静かに言った。和輝の言葉は綺麗事だろう、理想論だろう。
「なあ、箕輪!」
和輝は顔を上げた。
「お前が、証明してくれよ! 才能なんて関係無い。努力は裏切らない。そう言って、証明してくれよ!」
箕輪は瞠目した。和輝が何を言っているのか、少し、解らなかった。
「才能だけの世界なんて、つまんねぇよ! 俺は、俺自身と向き合う為に、世間のしみったれた下らないシナリオぶっ壊す為に、甲子園に行く! お前は」
「俺は、黴臭い才能の世界を塗り替える為に、甲子園を目指すよ」
箕輪はそう言って、笑った。そして、大きく振り被る。
放たれた硬球をキャッチし、和輝もまた、笑った。

2009.7.12
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