一回戦の相手が決まった。
市立飯田高校。高校野球では全くの無名、所謂弱小高校だった。
高槻がその旨を部員の前で発表した時、籤を引いた和輝をもみくちゃにして皆は喜んだ。そう、二回戦の相手を言うまでは。
「二回戦は、三鷹学園だ」
沈黙が流れた。微風の音すら聞こえる程の静寂に寒気さえした。和輝はそのまま皆と距離を取ろうとして、失敗した。二年の千葉佳樹に捕まり、そのまま皆にタコ殴りにされた。
高槻はその悲鳴を聞きながら、部日誌を確認する。大会まで日が無い。今出来る事は、果たして練習だけだろうか。そう思った時、ある事が脳裏を掠めた。
「じゃあ、皆は練習を始めておいてくれ」
それだけ言って、高槻は背中を向けた。皆は返事をして各々歩き出したけれど、和輝だけは未だに捕まったまま引き摺られて行く。
今日の練習はきつそうだ。
そんな事を思った。
そして、同時に、向けられた高槻の背中は何処か不吉に感じられた。彼は今、一体何を考えているのだろう。その目には何が映っているのだろう。その答えは、トレーニング後の休憩で知ることになった。
疲弊し切った皆の前に立つ高槻は、いつもの無表情ながらも何処か楽しげだった。そして、萩原や桜橋など付き合いの長い者は、そんな時は碌な事が無いと悟っている。勿論、それは予想通りとなるのだけども。
「練習試合を入れた」
突然、高槻はそう言った。
こんな時期に練習試合を入れるなど、相手は何処だろう。何を考えているのだろう。皆がそう思い、高槻の次の言葉を待った。
「北里工業高校」
誰もが首を傾げた。そんな高校、神奈川県内にあっただろうか。
暫しの沈黙の後、藤が恐る恐る手を上げた。
「もしかして、あの北里工業ですか?」
「どの北里工業スか?」
箕輪が問い掛ける。だが、大半ははっとしたようだった。高槻はすうっと息を吸い込み、答えた。
「大阪府、北里工業高校だ」
「お、大阪!?」
妙な声を上げ、藤は目を丸くする。
大阪府にある北里工業と言えば、関西では有名な野球学校だ。大阪の王者、四年連続甲子園出場を果たす超強豪校ではないだろうか。
高槻はそっと答える。
「まあ、二軍だけどな」
それでも十分だろう。
藤はその言葉を呑み込む。
「北里のキャプテンとは知り合いなんだ。……晴海に、あの蜂谷祐輝の弟がいるって言ったら、是非練習試合がしたいって言われてな」
ダシに使われたというのに、和輝は暢気な顔で「へぇ」と答えた。それ以上に、高槻の顔の広さに驚いていたからだ。
高槻はこう見えて顔が広い。三鷹学園のキャプテンである速水とも知り合いだった事も、その北里工業のキャプテンにしても。
すると、隣で桜橋がそっと答えた。
「高槻の中学は東広陵だったんだ」
「東広陵……」
隣で聞いていた夏川が呟いた。
「東広陵は何十年と続く野球の名門だ。そこからプロになった選手も多い」
そこであの身長で三年間ピッチャーを続けたなら、上手いのも当たり前だ。
夏川は「どうりで」と一人ごちる。高槻は手を叩いた。
「……さぁ! 練習試合に向けて練習するぞ!」
半ば無理矢理皆を練習へを促す高槻は、今まで見た中で一番楽しそうに見えた。萩原や桜橋は慣れた調子で「やれやれ」と歩き出す。
皆をグラウンドへ向けて歩き出させたところで、高槻は和輝を呼び止めた。
「和輝!」
和輝は振り返る。
「北里には青樹大和というキャッチャーがいる」
「青樹大和……」
聞き覚えのある名前だと思った。だが、それが一体誰だったのか思い出せない。思い出せないまま、答えられないまま沈黙を守ると高槻が怪訝そうな顔をした。
「知り合いだろ? お前の代の橘シニアの、レギュラーキャッチャーだろ」
「……?」
言われてみて考えるが、和輝には思い出せなかった。橘シニアの練習風景が、思い出せない。靄が掛かったように浮かんでは消える。唯一思い出せるのは、兄や幼馴染の白崎兄弟くらいだった。
試合中、ピッチャーの球を受けていたのは誰だっただろうか。いや、最早ピッチャーすら思い出せない。
「……まあ、いいか。知り合いなら、挨拶でもしておけよ」
それだけ言って、高槻も歩き出した。
和輝は思い出せないまま首を傾げ、歩き出す。そんな和輝を高槻は振り返って見た。まだ、首を傾げて考え込むその小さな背中に違和感を覚えた。
汚名・2
見えない傷は、手当ても施されず膿み続ける
From:匠
Sub:no title
>お前、大和の学校と練習試合するって本当?
練習が終わり、着替えつつ携帯を開くとメールが来ていた。幼馴染の匠からだった。
絵文字一つ無いいつもの簡素なメールには、随分と早い情報が記載されている。一体何処から聞いたのだろうかと思い、和輝は返信する。
From:和輝
Sub:Re:
>情報早ぇな!
返信し、携帯電話を閉じるとすぐに低いバイブレーションの音がした。
部室に響く不快な音に皆が目を細め、和輝は気付かないふりをして携帯電話を開く。
From:匠
Sub:Re:Re:
>大和が言ってた
和輝はメールを読み、眉を寄せる。だから、その『大和』とは誰なのだ。
返信を諦め、携帯電話を閉じると、隣で箕輪が訊いた。
「誰?」
「幼馴染。ほら、前来ただろ?」
「ああ」
箕輪は手を打った。頭の中にはぼんやりと、真ん丸猫目の少年が浮かんだ。
「北里と練習試合するんだろって、言うからさ」
「情報早ぇな」
「うん、そう思って訊いたんだけどさ」
和輝は首を傾げた。
「大和から聞いたって言うんだけどさ、俺、その大和って誰だったか思い出せないんだよな」
「お前の知り合いなの?」
「シニアのチームメイトらしい。レギュラーだったって言うから、同じグラウンドに立ってたはずなのにな」
「はぁ? お前、チームメイトくらい覚えておけよ」
「うーん……」
納得行かないように和輝は腕を組み、考え込む。どうして、こんなにも記憶に無いのだろう。三年間も同じグラウンドでプレーした仲間の筈ではないか。
箕輪は溜息を吐いた。
「チームで撮った写真くらいあるだろ。それに、チームメイトなら連絡先くらい知ってるだろ」
「いや……」
写真は、押入れの奥にダンボールに突っ込んでしまってある。連絡先と言っても、中学の頃、携帯電話は川の中に投げ捨ててしまった。
困ったように眉を下げる和輝を見て、隣で夏川が言った。
「人間は、自分に都合の悪い記憶を無意識に抑制する事があるらしい」
「ヨクセイって何?」
問い返した和輝を見て、夏川は盛大な溜息を吐いた。
「馬鹿と話すと疲れるぜ」
そう吐き捨てて、夏川は黙ってしまった。
和輝は一層困ったように周囲を見回す。哀れに思った雨宮がそっと答えた。
「思い出したくない思い出を、無かったように思い込む事があるんだってよ」
その言葉を聞き、和輝は黙った。
思い出したくない記憶というのは、何の事だろうか。橘シニアでの経験はとても貴重で、思い出はどれも輝いていた筈だ。忘れたくない大切な過去だった筈。
だが、思い出せないのもまた、事実だ。
「青樹……大和」
再び和輝が考え込んでいると、早々に着替え終えた高槻がいつものように一人先に帰って行った。「お疲れ様です」と声が響く。
それを見て和輝は慌てて着替え始めた。
その帰り道、校門で皆と別れ、和輝は一人帰路を辿る。見慣れた河川敷には橘シニアで使っていたグラウンドがあるのに、そこで一緒にプレーした仲間の顔が思い出せない。
なんて薄情なんだ、と自分を罵るけれど思い出は甦らない。
答えの出ない疑問を一人でぐるぐると考えていると、ポケットに突っ込んであった携帯電話が再び低く唸った。慌てて取り出すと、サブディスプレイには『着信』と表示されている。
「もしもし」
『よう、和輝』
聞き慣れた声は、匠だった。そういえば、メールの返信をしていなかった事を思い出す。
「ああ、メール忘れてた」
『別にいいよ』
「あのさ、」
『んだよ』
此方の言葉を聞かずに話す匠はいつものようにせっかちだった。
「青樹大和って、誰だっけ」
『はぁ?』
間の抜けた声が、返って来た。
『覚えてないのかよ、キャッチャーやってただろ。大和だよ、大和』
「大和……」
『お前、仲良かったじゃん。しょっちゅう帰り道、二人で寄り道して帰ってただろ』
「俺が?」
沈黙が流れた。
『お前、本当に覚えてないの? あの、大和だよ』
「……解んねぇ」
和輝の答えを聞き、匠は言葉を失っていた。
自分の幼馴染は何を言っているのだろうか。確かに馬鹿だったが、友達を忘れるほど薄情ではなかった筈だ。だが、冗談を言っているようでもない。
匠は、ふと中学の頃を思い出した。
和輝が、晴海高校に行くと言った時の事だった。彼が何を言っているのか解らなかった。それまで誰にも何も言わず、確かに少し元気は無かったけれど、一言も相談せずにチームの誰とも違う高校へ行くと言った時、匠は言いようのない怒りを覚えた。
そんな殆ど無名の高校に何があるというのか。てっきり、彼は自分と同じエトワス学院か、青樹大和のいる北里工業に行くものだと思っていた。事実、様々な学校からの誘いもあったのだ。
だから、和輝がそう言った時、裏切られたと思った。そして、自分は彼に言ったのだ。
――裏切り者、と。
その後、彼の兄から、和輝が買ったばかりの携帯電話を川に捨てたという事を聞いた。それは和輝が自分達に対して怒りを感じ、縁を切ったのだと思った。
学校に行っても、和輝とは話をしなかった。チームメイトも皆、和輝を遠ざけた。自然と和輝は、野球以外の友達とばかり一緒にいるようになり、距離はどんどん離れて行った。
けれど、本当は知っていた。
それは偶然だったが、和輝が庭で一人中学のアルバムをダンボールにしまっている姿を見た。一緒に何十枚もの写真を丁寧にダンボールにしまうその手が、微かに震えていた。ダンボールを閉じるガムテープを貼る手が、何度も目を擦っていた事も知っていた。
彼が裏切ったのではないという事も、知っていたのに。
もしかすると、あの時に言った『裏切り者』という言葉は、想像以上に彼を傷付けていたのではないだろうか。記憶さえ失わせてしまうほど、苦しめていたのではないだろうか。
『……でも、大和は』
匠は突然、ポツリとそう言った。和輝は問い返す。
「でもって?」
『……いや、何でもない』
普段の彼らしくない様子に和輝は疑問を感じたが、深くは追求しなかった。
匠はそっと一言言った。
『練習試合、お前に会えるって、大和は楽しみにしてたぜ』
それだけ言うと、匠は自分勝手に電話を切ってしまった。突然切られた和輝は携帯電話を離し、暫し瞠目した。どうも、いつもの調子ではなかったようだったが、何かあったのだろうか。
和輝は携帯電話を閉じ、溜息を零す。
青樹大和とは、誰だっただろうか。
シニアリーグでの思い出を一生懸命に思い出そうとするけれど、浮かび上がるのは匠ばかりだ。それから、その匠と一緒に並んでいた少年。
裏切り者、と言ったあれは誰だっただろうか。
(久しぶりに、アルバムでも探してみるか)
そんな事を考えたが、恐らくは探さないだろう。
和輝は携帯電話を再びポケットに突っ込み、歩き出した。知らぬ間に河川敷のグラウンドは通り過ぎていた。
一方、電話を切った匠は寮の自室でごろりと横になり、ぼんやり中学時代を思い浮かべた。
(……何があっても、お前は大和の事だけは忘れないと思っていたけどな)
グラウンドにいつも響いていた、喧しいくらいよく通る声。チームメイトと帰ると和輝と大和はいつも並んで、馬鹿笑いしながら歩いていた気がする。
その彼の事さえ、和輝は覚えていないというのだろうか。
憂鬱な気分でいると、ドアの向こうから友人が夕食の時間だと、喧しくノックしながら呼んでいた。

2009.7.25
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