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「晴海高校に伝わる七不思議を知っているか?」 我らがキャプテン、蜂谷和輝が語る嬉しそうな横顔を殴りたいと思ったのは一度や二度では無い。 葬列のような仲間の最後尾で項垂れながら醍醐は溜息を零す。何が嬉しくて、わざわざ練習を早めに切り上げてまで肝試しをしなくてはならないのだろうか。 実力至上主義を謳いながらも、体育会系の根柢理念である年功序列は歴然と存在する。普段は誰にでも分け隔てなく接する癖に、こんなところでキャプテン命令を施行する先頭の小さな少年は中々に鬼畜だ。 反応を示さない仲間も意に介さず嬉々として言うキャプテンに、果敢にも疑問をぶつけるのは野球部最後の良心、副キャプテンの箕輪先輩だった。 「七不思議って……、新築の校舎だぞ?」 「校舎はな。学校自体は創立三十八年だ」 改築された校舎は美しく、耐震整備もしっかりと行われている。更に、運動部系の設備も完備されて言うこと無しだった。 まだ綺麗な校舎も、夜になると昼間の騒がしさも消え失せ、何処か寂しげで不気味な印象を与える。学校とは不思議なものだ。昼と夜で印象ががらりと変わる。 「俺の親父がOBでね。色々聞いたんだ」 余計なことを、と思ったのは俺だけじゃない筈だ。 俺達のキャプテンの頭脳は致命的で救いようのない馬鹿だと称され教師陣の目下の悩みの種だ。こんな時こそ忘れちまえよと思うのに、キャプテンは弾む足取りで闇に沈む校舎を目指す。 「七不思議ねえ……」 非科学的なものを一切信じない、俺の幼馴染である蓮見が呟いた。明らかに胡散臭い噂を真に受ける訳も無いだろう。蓮見に恐怖は無く、ただ只管に面倒臭そうだった。 七不思議なんて下らない。昼間ならそう思った。でも、闇に沈むこの不気味な校舎を前に笑えるか。 「さあ、まず一つ」 昇降口の前で立ち止まって、キャプテンが言った。 両開きの大きな扉は固く閉ざされている。鏡のような硝子の向こうは闇に沈んでいた。毎日使う其処を恐ろしいと思ったのは初めてだった。 「昇降口ですか?」 「いや、ちげー」 俺の問いに答えたのは、唯一キャプテンの共犯者である匠先輩だった。 この人が共犯になるのは珍しい。普段は暴走しがちなキャプテンのストッパーだった。 「昇降口の横、排水溝」 匠先輩が指差す先、一辺30cm程の黒い格子の蓋がされた排水溝があった。 何の変哲も無い雨水を排水する為のものだ。キャプテンが歩き出す。 「排水溝ってのは、最終的に下水道に繋がってる。……この学校が出来たばかりの頃の話だ」 排水溝の傍にしゃがみ込んで、キャプテンが此方を振り向いて笑う。白い外灯に照らされた整った横顔は何処か作り物めいていた。 「水泳の授業で、一人の男子生徒が溺死した。プールの排水溝の蓋が空いていて、其処に脚を取られたらしい」 そう言って排水溝を覗き込む瞳は昏く、焦点が合っていないような気さえした。 「全員が水から上がって、人数確認で一人足りないと気付いた時にはもう手遅れだった。彼が水泳部員だったことも発見の遅れの要因の一つだった。大人三人がかりでやっと引き上げたんだそうだ。運動部って言ったってたかが高校生一人、自力で脱出するなんて不可能だった」 そりゃ、そうだろう。 小さく零した相槌に、キャプテンが微笑む。 「発見が早ければ、助かったかも知れない。点呼をもっと早くしていれば。水泳部員でなければ。……誰かが、それに気付いてくれれば」 助かったかも知れない。 吐き出されたキャプテンの声は、普段の日溜りのような温かさは無く、感情の死んだ機械のようだった。ぞわりと肌が泡立った。 「それから水泳授業での点呼は執拗に行われるようになった。お前等も授業で、せっかく入水してもすぐに上がらされて点呼されるだろ。全部、その事故のせいだ」 確かに、水泳の授業での点呼は異常だ。必ず二人か三人組になって誰かが陸上から見張っている。徹底した管理状態を不審には思わなかったけれど。 「でも、不思議なことに、幾ら点呼しても人数を確認しても合わないことが稀にある。足りないんじゃない。……一人、多いんだ」 振り向いたキャプテンの血の気の失せた面に表情は無い。 「このことに興味を持った生徒達が、肝試しをしたんだ。点呼、人数確認。数えるとやっぱり一人多いのに、それが誰なのか解らない。怖くなった主催者が、叫んだ。お前は誰だ。……声が返って来た」 キャプテンが、男子高生にしては白く細い指を排水溝に向けた。 「助けてくれ」 其処で、血の気が引いた。まさか、この人、それを此処でやる気なのか。 排水溝に背を向け、キャプテンが俺達を一列に並ばせる。本気か、本気なのか? 「じゃあ、点呼するぞ」 一人、二人、三人、四人……。 数え間違えることの無いように、一人一人の前に立って指を差す。俺達は総勢十人。解り易い数だ。間違える筈が無い。怪談なんて、所詮は作り話に決まってる。 五人、六人、七人、八人、九人……。 其処まで数えて、キャプテンが足を止めた。 「あれ?」 もういい、もう止めてくれ! 叫び出したい衝動を呑み込みながら、俺の視線はあの排水溝から離れない。声が聞こえる。助けてくれ。叫んでいるのは、誰だ。 キャプテンが言った。 「一人足りないな」 足 り な い。 そんな筈無い。嘘だと横に目を向けると、あの蓮見が目を見開いて棒立ちしていた。 けれど、息の詰まりそうなその空気は彼の共犯者によって、一瞬で粉砕された。 「……お前、自分を数え忘れてんだよ」 「え、ああ」 キャプテンは自分を指差した。 「十人。何だ、全員いるな」 さあ、次に行こうか。 何でも無かったように、呆気無くキャプテンは背中を向けて歩き出した。 Ding dong bell.(3) 耳が痛くなる程の静寂の中で、湿気を帯びた不快な空気が纏わり付く。何か運動をした訳でも無いのに、蟀谷から流れ落ちる汗の滴は一つ、また一つと拭っても拭っても引っ切り無しに浮かび上がった。 無数の足音が薄暗い廊下に反響している。この足音が多くても少なくても気付くことは出来ないだろう。そう思った自分に罪悪感を感じ、背筋が寒くなる。 肝試しは夏場の恒例行事だ。経験したことが無い訳では無い。仲の良い同級生数人で夏休みの夜に集まって、近所の墓場を回ったこともある。夜の非日常的な空間に何故か異常な程に興奮して、肝試しということも忘れて馬鹿笑いしながら歩き回ったのは良い思い出だ。 野球部十人で、ただの施錠確認だ。三十分も掛からないだろうその作業に怯えるなんて情けない。そう自分に言い聞かせる。隣を歩く幼馴染の蓮見に気付かれれば馬鹿にされると思って目を遣れば、感情を読ませない無表情で只管歩行を続けていた。非常灯の緑色の光がその横顔を不気味に照らしている。 上履きに履き替え、職員室の当直の職員に声を掛けたキャプテンが口元に笑みすら浮かべて「行くぞ」と試合中宛らに、力強く言った。 校舎端の北階段で最上階まで登り、一階ずつ降りて施錠確認するという経路だ。昼間も碌に光の差し込まない湿っぽい階段を上りながら、黙っていた匠先輩が言った。 「魔の十三階段って知っているか?」 次の語り部は、匠先輩らしい。 普段から暴走しがちなキャプテンの手綱を握るしっかり者の先輩だ。俺達の中では常識人という共通認識だった。 「普段は十二段の階段が、一つ増えるっていう話ですよね。良く聞きますよね」 軽口を叩くように星原が言った。キャプテンを崇拝する同級生は、曲者と称するのが相応しい。野球での実力は勿論、頭脳、容姿ともに揃った少年だった。腹の底を読ませない姿に、俺は苦手意識を持っている。 匠先輩は横顔で星原を見遣り、頷いた。 「十三階段っていうのは、元々絞首台が十三だったことに起因すると言われてる。他にもキリストの最後の晩餐に参加した使徒の数とも言われているけど、まあ、関係無いことだな」 割愛するくらいなら、そんな不気味な豆知識を口にしないでくれ。 俺の内心の懇願など気付く筈も無く、匠先輩は先頭を歩くキャプテンの背中を見詰めながらつらつらと語り始めた。 「屋上へ続く階段が何段あるか知っているか、醍醐」 突然、話を振られて言葉に詰まった。基本的に屋上への進入は禁止されているけれど、扉に掛けられた鍵が壊れていることを知っている人間は少ない筈だ。以前、試合で失態を犯した俺が落ち込んでいたのも屋上で、そんな俺をキャプテンは迎えに来た。 「数えたこと、無いですけど……」 「まあ、普通はそうだよな」 さらりと答えて、キャプテンは屋上へ続く階段の下に立った。 「じゃあ、醍醐。今日はこの階段を、数えながら登ってくれないか」 否定を許さないような強い口調で、キャプテンが言った。浮かべられた微笑みは美しいのに、歪められた目は欠片も笑っていない。 拒否出来ない状況で、俺に視線が集まる。意を決した俺が階段の間に立つと、キャプテンが道を開けた。 「手摺、ちゃんと掴んでおけよ。万一落ちても、受け止めてやるから安心しろ」 何処から突っ込めばいいのか解らない。 一段。俺が右足を上げる。 「一段」 二段目。三段目。四段目。五段目。 作業的に上り続ける階段を、十八個の瞳がじっと見詰める。 六段目。七段目。八段目。九段目。 ただ階段を上るだけの作業にも関わらず、何故だか息が上がり肩で呼吸をする。 十段目。十一段目。十二段目。自分の目の前を確認する。目の前にあるのは屋上前の踊り場だった。 「十二段、です」 苦しい呼吸の合間に、掠れるような声で零せば誰かが下方で息を零した。 十二段の階段が増える筈が無い。当たり前の事実に如何しようも無く安心する。 噂は噂だな。キャプテンが言った。下りて来てくれと告げたキャプテンの言葉に頷いて階段を下る。仲間の間は安堵に満ちた他愛の無い遣り取りが交わされる。 一段一段と間違うことの無いように踏み締める俺の姿は既に興味が無いように笑い合う仲間を見遣り、行きとは打って変わって軽やかな足取りで皆の元へ向かう。 ――けれど。 階段の中腹程まで下った時、俺は戦慄した。 八段目、九段目、十段目。微笑み合う仲間を凝視しながら、俺は呼吸が止まりそうになった。 足が、止まらない。 十一段目、十二段目。勝手に動き続ける足を、誰が止めてくれるだろう。自分ではない誰かが俺の足を動かしている。息が出来ない。言葉に出来ない。――目の前にある、十三段目。 「か、ずき、せん、ぱい」 突然、凍り付いたように関節が固まった。 不自然な体勢で傾いた俺の姿を見ていたキャプテンが、助けを求められるより早く気付き声を上げた。 「醍醐!」 助けて。 ぐらりと傾いた先に見えるリノリウムの床。金縛りに遭ったように体が動かない。 十三段、目。 嘘だ。あんなの噂だ。何度も言い聞かせるのに、俺の足は勝手にある筈の無い十三段目を踏み締めようとする。キャプテンの伸ばされた手がスローモーションのようだった。斜め後ろに立った匠先輩が気付き声を上げる。 ぐにゃり。 嫌な感触が上履きの底に残る。傾いた身体が勢いよく地面に叩き付けられる――瞬間。俺は小さな体に抱き留められた。 「――!」 声にならない声を上げた俺を受け止めたのは、キャプテンだった。 崩れるように倒れ込んだ俺に皆が硬直する。ふっと体が軽くなり、漸く動き出せるようになった上半身で振り返った。見上げる十二段の階段。耳元にあるキャプテンの心臓がやけに静かに拍動していて、俺だけが取り残されたように激しく呼吸を繰り返す。 何だ、とか。如何した、とか。状況を理解し切れていない仲間の声を背中に、階段を見上げる俺は動けなかった。 耳元に声が届いた。 後ちょっとだったのに。 聞き覚えの無い声は、まるで地の底から響くように重く耳に残った。 |
2013.2.23