Cherish.


 祐輝は部活帰りの重い体で自転車を漕ぎながら家を目指していた。この辺りは坂が多い地形ではあるが、駅から離れていて車の通れないような狭い道が多い為に自転車は重宝する。
 秋季大会も終わり、嵐のような忙しさと厳しさだった練習をふと思い出せば昼に食べたものなど、腹の中のものを全て吐き戻しそうになった。今年が高校初であるが、さすが天下の私立翔央大学附属高校だと思う。あれだけの練習を真面目にすれば上手くなる訳だと心の中で納得出来た。

 夕暮れの町は非常に穏やかで、たまに道端ですれ違う近所の人に挨拶をするくらいで他に人の姿は無かった。遠くで聞こえるカラスの鳴き声なんかに混じって聞き慣れたバットがボールにぶつかって行く音がする。何処かで誰かが野球をしているんだろうと、ぼんやり思いながら家へ向かう。そこでふと思い出す。


(そういえば今日、全国大会の三回戦だっけ)


 弟の和輝の楽しそうな顔が過る。とは言っても、ここ数ヶ月和輝の楽しそうでない顔など見た覚えが無い。一体誰に似たのか何時見ても馬鹿みたいに楽しそうだ。見てて呆れる反面で元気付けられる事がある。
 今日はそんな和輝の所属する橘シニアチームの全国大会三回戦の日。かつて祐輝も所属していたチームだが、今に比べれば遥かにレベルが低かったと思い知る。確かにブロックでは常に一位をマークしていたし、関東大会なんて常連だったからこの神奈川で名門を名乗るに相応しかったけども、全国大会は初出場だった筈だ。自分の超えられなかった壁を弟が越えて行くのは悔しさもあるが誇らしくもあった。

 しばらく自転車を走らせ、古い街並みの中で紺色の屋根をした比較的綺麗な(痛んでいないと言うべきか。)家に止めてポケットから鍵を取り出す。姉が冗談半分で買って来た外国のお土産の不気味なキーホルダーが揺れた。
 鍵穴に指し込もうとした時、庭から何か音が聞こえた。風を切るような音。


(帰ってたのか)


 祐輝は鍵をポケットに戻すと庭に向かって歩き出した。
 聞き慣れた音は、この家では習慣。馬鹿みたいに真っ直ぐな弟が今日も馬鹿みたいに真っ直ぐバットを振ってるのだ。毎日の日課だと言ってサボった事は無い。以前、向かいの家に住む幼馴染の匠に負けたくないからだと話していた事を思い出す。
 だがしかし、今日は随分と早いようだ。この素振りの時間も帰宅も。


「和輝」


 庭では予想した通りに和輝がバットを振っていた。銀色のバットが夕陽の光を浴びてオレンジ色に染まり光っている。和輝は泥だらけのまま、いつもの黒いジャージで無言でいる。


「おい、聞いてんのか」
「お帰り」


 和輝は振り返らず、それだけ言って何かに取りつかれたようにバットを振り続ける。言葉はまるで社交辞令。そのおかしな様子に祐輝は大体予想が付いていた。おそらく、今日の試合……。


「今日の試合、どうだった?」


 祐輝が言うと、和輝はようやく手を止めてバットの頭を地面に置く。しばらくの沈黙が流れ、和輝はきっぱりと言った。


「負けた」


 やっぱりな、と祐輝は心の中で思った。どうやら、今日の試合が人生でも思い出に残る試合になったのだろう。コールド負けか惜敗か。


「相手何処? 何点だった?」


 祐輝は縁側に腰を下ろして大きな黒いエナメルバッグのチャックを開いた。使用後のアンダーシャツやらタオルやらの中を掻き分けて残しておいた大きなオニギリを取り出す。それを大きく頬張れば、ほのかに塩の味がした。
 長い沈黙の後でようやく和輝は口を開く。


「滋賀のチーム。一対ニだった」


 感情が無いナレーターのように口調は酷く淡々としている。祐輝は軽く相槌を打つともう一口オニギリを頬張った。
 それ以上、和輝は話す気は無いのかなと思って祐輝は追求するのを止めるが、和輝は大きく息を吸い込んで言葉を続けた。


「……俺のバット、一度もボールに当たらなかった」


 祐輝はオニギリを食べようとして口を開けたまま静止し、危うく落としそうになる。再び沈黙が流れたが、今度それを破ったのは祐輝だった。


「ええッ!? 全打席三振? 馬鹿じゃねーの!?」


 余りの驚きに言葉を選んでいる余裕など無かった。自慢じゃないが前回の試合では打率六割四分を記録したほどの男が全打席三振かと思うと動揺も仕方が無い事だと思う。
 しかし、和輝の言う試合内容はその程度のものではなかった。


「……全打席、敬遠だった」


 祐輝は再び動きを止めた。


「最後の打席、九回裏ツーアウトフルベース。俺が全部敬遠されてたから皆で塁を埋めてくれた。勝負、と思って俺はバッターボックスに立った。そしたら……、キャッチャー立った」


 和輝の話を聞きながらその情景を想像する。
 今日は夏なんてとっくの昔に過ぎた筈の秋の終わりなのに、それを彷彿とさせる季節を無視した暑い日だった。まるで、夏の甲子園の時のような。


「……ボールが三つになって、最後の球が投げられた。こんなところで、こんな風に終わりたくなかった。だから……、俺はフルスイングした」
「当たったか?」


 その問いの答えなど訊かなくても解っていたけども、訊かずにはいられなかった。


「まさか。ストライク、掠りもしない。でも、次も振った。……皆の声聞こえてた。振るなって、匠の俺が帰してやるからって声も」


 匠は確か五番だったな、とぼんやり思い出す。


「だから、振らなかった。結局フォアボールで押し出し一点の一対ニで、匠の打席は審判の明らかなジャッジミス」
「……試合終了ってか」


 祐輝は奥歯を噛み締めた。自分の事では無いが、悔しかった。
 皆が勝ちたいと思ってるのは解る。だからと言って、こんなえげつない勝ち方で。誰も救われない勝ち方で。


「悔しかった。俺、すっげーかっこ悪かった。惨めだった。無力だった。一人じゃ何も出来ないんだって思い知らされた。……情けなかった」


 その時和輝の横顔が見えたが、その頬に涙は流れていなかった。ただ、遠くを見る大きな目が夕陽を映しながら揺れているだけで。


「俺が皆を勝たせなきゃいけないのに、俺のせいで負けた。俺が打てなかったから……」
「和輝、落ち着け」


 和輝はそれでも止まらない。


「自分の力じゃ何も出来ないんだ。皆の為に何も出来なかった。……一体、何の為にいたんだよ……!」


 大きな目から、大粒の涙が一つ落ちた。
 それを皮切りに涙が溢れて行く。頬には川のように筋が出来ていた。それを見て祐輝は慌てて傍に駆け寄るが涙は一向に止まる気配を見せない。拭おうともしない和輝は、自分が泣いている事にすら気付いていないようだった。
 そんな余りの号泣っぷりに祐輝の頭の中では1つの考えが浮かび上がった。そして、考えはすぐ確信へと変わる。


(コイツ、皆の前では泣かなかったな……)


 負けた後、皆が泣いている中で一人泣かずに堪えていたんだろうか。たった一人で責任感じて、泣く事を許されないみたいに。まるで罪を償うみたいに。
 無言で、無表情で、涙だけを流す和輝は何処か不気味だ。笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣いていたあの和輝じゃない。ただ、ひたすら皆の為に犠牲になろうとして。それはキャプテンとして、また、四番としての責任なのだろうがこんな形で償おうとするなんて本当に馬鹿な弟だと祐輝は溜息を吐いた。

 祐輝は無言で涙を流し続ける和輝の頭を左手でグイと胸に抱き寄せた。こんな真似をするのは何年ぶりだろうか。


(不器用なのは知ってたけど、ここまで不器用だったとは思わなかった)


 しばらくすると、和輝は大声を張り上げて泣き出した。まるで夜泣きをする赤ちゃんのようにわんわんと周りもはばからずに。
 自分のYシャツを握り締めて泣く和輝の頭をポンポンと叩きながら祐輝は遠くを見つめる。今まで試合で悔しい負け方をした事は沢山あるだろうけど、全打席敬遠と言うのは和輝には相当堪えた筈だ。打撃においては要になる筈の四番が一人だけ蚊帳の外に追い出されていたのだから。
 敬遠と言うのは名誉なのだろうけども、ここまで極端では辛さが残るだけだ。こんな冷たくて逃げられない現実をいきなり叩き付けられてしまえば、トラウマにもなりうるだろう。一人だけ弾かれて進む試合、自分の存在する意味が否定され続けた和輝はもちろん、自分の力では抑えられないと判断された相手のピッチャーにも。


(こんな試合されたら、どうしたらいいか解んないよな。野球やめたくなっても仕方ないかもな)


 泣き続ける和輝を抱きながら祐輝は思った。
 でも、和輝にはここで逃げて欲しくない。こんな現実ならば恐くて当然。誰だってそうだ。苦しいからこそ、悔しいからこそ和輝には野球を続けて欲しいと思う。酷なようだけども、逃げるんじゃなくて受け止めて欲しいから。


「お前が悔しいの解るよ。だから、逃げんな。ここで逃げたら本当の負け犬だ」


 祐輝は言った。その言葉が泣き止まない和輝に届いたかどうかは解らないが。
 兄の大輝も姉のひかりもひかるも、末っ子の和輝に甘いのは見て取れたが自分も人の事は言えないな、と思って声も無く笑う。
 その時、玄関から鍵を開ける音が聞こえた。


「ただいまー」


 帰って来た声は二つ。姉のひかりとひかるだ。厄介な事になった。
 面倒臭いと思いながら祐輝は人知れず覚悟を決める。


「何ー? 和輝帰ってるのー?」


 声を頼りに足音が近付く。そして、少しするとひょいと下の姉のひかるが顔を覗かせた。


「祐輝も帰ってたのー? あんた玄関から帰りなさいよー……って、和輝!?」


 目をまん丸にしてひかるが慌てる。予想した通りの結果になりそうだな、と祐輝は溜息を吐いた。だが、和輝はそんな事は何処吹く風で泣き続ける。


「ちょっ……、祐輝! あんた何したのよー! ひかりー、祐輝が和輝泣かしたー!」
「泣かしてねぇよ!」


 その叫びと同時にまた扉の開く音がした。ただいま、と玄関から声が二つ。どうやら兄と父の帰宅のようだ。
 ますますややこしくなったとげんなりしながら祐輝はこれからの状況説明の内容を必死に考え始めていた。