春、河川敷での何時もの練習風景。橘シニアは最上級生になった兄達が仕切り、チーム一丸となって次の大会へと燃えていた。日が暮れるまで続くと言うのに皆は力を惜しまずに精一杯のプレーを見せる。どんなに苦しくても泣き言は言わない。皆、野球が心底好きだった。
 そんな隅で、緑色のネットに向き合う小さな少年が一人。左手にグラブ、右手はその中で白球を握っていた。ふう、と小さく息を吐いてワインドアップ。左足が上がったかと思えば、右手は投石器のように白球を放った。
 パスン、と手応えの無い音。それを見ていた監督は小さく溜息を吐いた。


「お前は祐輝の弟なのに、駄目だなぁ」


 その言葉に和輝は一瞬息を呑んだ。それでも、自然と俯いた顔を上げ、精一杯の真っ直ぐな目で「すみません」と返す。何に対して謝っているのかとは考えない。考えないようにしていた。
 監督が丸い背中を向けて行ってしまった後も和輝はしばらくそこに立ち尽していた。

 夕陽に染まった帰り道、和輝よりも少しだけ背の高い猫目の少年、白崎匠は困ったように眉を下げながら不機嫌そうな声で言った。


「お前、本当はピッチャーなんかやりたくないんだろ」


 和輝は何も言わなかったが、顔は俯いて肯定の意味を示す。それに対してなのか、それともあの監督になのか、はたまた彼の兄である祐輝になのか、苛立ちを感じていた。


「嫌なら嫌だって言えばいいじゃんか。俺は兄貴とは違うんだって」
「……でも」


 和輝は少し躊躇うような、気を使うような素振りで呟いた。


「でも、期待を裏切ってしまう」


 匠には、その意味がまったく解らなかった。
 勝手な期待を押し付けているのは向こうなのに、どうして自分が悪いみたいに考えるんだろう。
 それにもまた苛立って、無言で和輝の後頭部を叩いた。


アライブ


 思えば、和輝は多分大人だったんだと思う。人の事を尊重して、自分の事なんか二の次にして。『人に優しく、自分に厳しく』を地で行くその生き方は、清廉潔白で、何処か痛々しくもあった。
 もっと楽な生き方はあるのに、どうしてこんな道を選んでしまったんだろう。隣の道は平坦だと言うのに、あえて棘の道を選ぶのだ。その馬鹿らしさに呆れながら、俺はそれでも和輝の傍にいた。きっと、子供だった自分にとっての僅かな憧れだったんじゃないだろうか。
 同じ年に生まれ、家も近所と言う事で昔から家族ぐるみで蜂谷家と白崎家と北城家は仲が良かった。上の幼馴染である祐輝・浩太・涼也の兄貴三人組と、和輝・俺・奈々の弟三人組は何時でも一緒だった。色々なところに出掛けたし、時には旅行もした。アルバムには大抵その三家族が並んでいる。その為だろうか、母親のいない蜂谷家の異質さはすぐに目に付いた。家族が多い分、父親は毎日あくせく働いていて、しっかり者の兄や姉が代わりに家事を行うのだそうだ。(ちなみに蜂谷家は五人兄弟で、少子化って何? と言わんばかりだ)
 極普通の家に生まれて特に不自由な思いもしないで育った俺にはその大変さは解らなかったけども、その事に気を使ったり同情したりしなかった。彼等は家庭事情については余り話したがらないので触れずにいただけだが。
 そうして俺達は育ち、今年十三歳を迎えるピカピカの中学生になった。入学した阪野第一中学は地元の友達ばかりで小学校と然程変わらず、また何時もの日常が続く。私服だった毎日が制服に変わった事ぐらいだ。部活も野球部は無かった為にシニアを続けたから。
 何も変わらない筈の毎日、少し刺激を欲しがっていた。変わらない毎日に少しうんざりしていた。朝学校に行っていつもの顔ぶれを見て、大して進みもしない授業を受けて飯食って家に帰る。そうしたら今度は河川敷で監督やコーチに扱かれて。和輝のモテぶりを見せ付けられたり奈々の恋話を聞かされたり、そんな毎日。何時の間にか「ツマンネー」が口癖になっていた。
 そんな中、一陣の風が僅かに吹いた。それはカーテンを少し揺らす程度だったのだけども、すぐに台風が来て、あっという間にそれは竜巻へと変わってしまう事に俺は気付かなかった。


「和輝君のお母さんってどうしてるの?」


 赤いミニスカートをはいたその女の子は首を傾げてそう言った。和輝はと言うと机に座って昨日のテレビの話を面白おかしく話していたので、突然の質問にその大きな目を白黒させる。
 その少女は少し学区の違う小学校から来た子だったので、俺達の地元小学校組みに比べれば少数派だった為に四月の時点では殆ど話した事が無かった。地元組には『和輝にお母さんの事は訊かない』と暗黙のルールがあったのだけども彼女らにはそれが無い。和輝は困ったように笑った。


「死んだよ、俺が小さい頃」


 その笑顔が酷く儚げで、今にも消えてしまいそうだった事を覚えている。
 地元組が大半を占める教室は自然と静かになっていた。だが、その少女は気にも留めずに次の質問を切り出した。子供の純粋さとは、本当に罪だと思う。


「何で?」
「……病気、だって」


 和輝は短く答え、ぴょんと机から立った。
 俺は知っていた。彼の家のアルバムには綺麗な女の人が写っていて、その人は父親や兄や姉とはよく写っているのに和輝とだけは無かった。二人が一緒に写っている写真は何処にも存在しなかったのだ。その為か、和輝は余りそのアルバムを見ない。自分だけが囲いの外にいるような疎外感があったのだと思う。
 チャイムが鳴る中、俺はその小さな背中を少しだけ見つめていた。

 午後三時十五分。今日も大して変わらぬ一日が終わったと思った。少し傾いた太陽だったが、まだ夕陽と呼ぶには早い。シニアの定休日で何の予定も無いので、今日は家に帰って寝るか向こう隣の和輝の家に行ってゲームでもするかと考えていた。和輝は一番上の兄のお下がりである少し草臥れたカバンを背負って教室の入口から俺を呼んだ。
 部活に向かう友達とすれ違いながら俺達は校門を抜ける。他愛の無い話に馬鹿みたいに笑いながら、山を切り開いたような坂道の多い通学路を歩いた。次第に一軒家の多い静かな並びに入り、家が近くなる。一軒家と言っても豪邸ではなく、何処か心が安らぐような少し古い家である。とにかく、灰色のブロック塀とコンクリートが成す道を歩いて行くと近所の噂好きのおばさんが三人で楽しそうに世間話をしていた。
 旦那だとか、娘・息子だとか。今話題のニュースや芸能人のスキャンダル。そんな話を何となく聞きながら子供らしく元気一杯な気持ちのいい挨拶をして通り過ぎた。そこからニ、三メートルほど歩いた時に俺達を足を止めた。その世間話の中でその名が出たからだ。


「和輝君も立派に育ったわねぇ。学校で一番カッコイイって娘が言ってたわよォ」
「本当、お母さんもいないのに兄弟もしっかりして偉いわぁ。お父さんもいい人だものねぇ」
「そうそう、蜂谷さんトコの奥さん……和輝君産んで亡くなったのにね」


 俺はふっと隣りの和輝を見た。すると、そこには人形のような無表情でその話に耳を傾ける和輝、俺は動けなくなった。


「子宮癌でしたっけ。子供と自分の命天秤にかけて子供を選んだんだから母親の鏡よねぇ」
「それもあんないい子に育って、きっと天国から喜んでるわよ」


 俺達に気付かないまま、三人はその話題を少し続けた。それが変わってからも俺達は暫く動けなかったが、和輝はポツリと呟いたのだ。


「……俺のお母さん、俺産んで死んだんだ……」


 和輝の顔色は真っ青で、今にも倒れそうだった。今まで見た事も無いその顔にギクリとする。
 そういう話をこんな道端で大声で話していた事だとか、子供に聞かれた事に気付いていないだとかそんな事はもう些細な問題だった。一番は、和輝がその事実を知らなかったと言う事だ。
 和輝はもう一度その言葉を反芻して、走り出した。


「和輝!」


 名を呼んで俺もその背中を追い掛けたが、追い付ける訳が無かった。陸上で全国大会まで行ってしまうあの俊足に俺が適う訳も無く、あっという間にその背中を見失ってしまった。
 日が暮れて道がオレンジに染まるまで探したけども、和輝の姿は何処にも無かった。坂道をこれだけ走り回って、せっかくの定休日だと言うのに足は筋肉痛で悲鳴を上げる。それでも、放っては置けなかった。頭の中で蘇ったのはあの儚げな笑顔だ。このまま放っておいたら、明日の朝には冷たくなって発見されるんじゃないだろうか。白黒の横断幕の中、棺桶に縋り付いて泣く家族と遺影の中で笑う和輝――。そこまでのリアルな想像をした自分に嫌悪し、冷や汗を拭った。


「和輝ーッ!」


 幾ら呼んでも出て来る訳が無い。そうは思っても呼ばざるを得なかった。胸の中に溜まっていく不安を外に追い出したかったからだ。心臓がバクバクと音を立て、変な汗が出る。九回裏ツーアウトのバッターボックスに立たされているようだ。しかも、カウントはツーナッシングで追い詰められて、色んなプレッシャーに押し潰されそうな感じ。つまり、絶体絶命。とにかくいても立ってもいられなくて走り出した。
 午後五時。夕陽が沈もうとしていたが、和輝は見つからない。和輝の家や奈々の家の喫茶店、秘密基地に近所の駄菓子屋、河川敷。色々探したがあの小さな姿は何処にも無かった。走り続けて息が上がり、律見川の小さな橋で手摺に手を掛けて息を整えていると前から影が落ちた。


「よぉ、匠」


 聞き覚えのあるその声は、和輝の兄の祐輝だった。
 学ランを着崩しても何処か凛とした空気を持つ文句無しの美少年、彼は白い歯を見せて子供っぽく笑う。


「何してんの? 和輝は一緒じゃねぇんだ」
「探してんだよ!」


 切羽詰った様子に祐輝は首を傾げ、すぐに真剣な顔に変わった。


「……どうした?」
「和輝が……お母さんは自分を産んで死んだって聞いて走っていなくなったんだ」


 祐輝は大きな目を少しだけ鋭くさせ、低めの声を出す。


「探そう。嫌な予感がする」
「俺もそう思うけど……見つからなくって。殆ど探したよ」
「家、涼也んとこの喫茶、学校、河川敷……裏山」
「裏山はまだ行ってない!」


 俺が答えると祐輝はすぐさま走り出した。全国トップクラスの俊足を持つ彼はあっという間に小さくなって行く。俺は筋肉痛でガクガク震える足でそれを懸命に追った。
 裏山は家から二十分ほど歩けば着く小さな山だ。何とか緑地と遠くの人は呼ぶが、俺達地元の人間は皆ここを裏山と呼んで大切にしている。生い茂った緑に綺麗な黄緑の芝生、野生の動物もいるらしく誰かが前に狸を見たと言っていた。また、ここには律見川の元である小さな滝のような場所がある。そのせいか空気は湿っぽくで体に纏わりついて来た。遠くから川のせせらぎが聞こえたが、同時に何処からか祐輝の和輝を呼ぶ声が届いた。俺はその声を頼りにそこまで走った。
 祐輝は匠の姿を見つけ、駆け寄って来た。


「いたか!?」
「いない、あいつ本当何処に……」
「何か嫌な予感すんな」


 そう行って祐輝は走り出した。

 どれくらい探しただろう。夕陽はもう沈もうとしていた。最後の最後に、悪あがきのようにオレンジの光を輝かせる。夜にはどうやったって勝てやしないのに惨めだ。でも、俺はそのオレンジ色が好きだった。
 和輝はここにいないんじゃないかと言う思いが頭を掠めるが、ここにいなければもう思い当たる場所も無い。実はもう家に帰っているなんて楽な話でも無さそうだ。もう汗なのか湿気なのか解らない濡れた顔を乱暴に袖で拭い、少し掠れて来た声でまた和輝の声を呼んだ。当然、返事は無い。
 ザァザァと滝の音が聞こえる。何時の間にか奥の方まで踏み込んでいたらしい。少し遠くの祐輝の姿を確認し、その滝の方に少し走った。そこで、動きを止めた。
 崖の方に向かって立ち尽くす後姿が一つ。夕陽に向き合うように、俺から見てその姿は光を遮断し後ろに長い影を落としていた。


「和輝……」


 呼んでも、返事は返って来なかった。
 祐輝はそれに気付いてバタバタと走る。そこでようやく、和輝は振り向いた。オレンジ色の光に染まりながら、今にも消えそうな儚げなあの笑顔だった。


「兄ちゃん、俺が、お母さん殺したんだ」
「違う。そんな風に言うな」


 何を言うかと思えば、和輝は人形のように今度は笑顔を貼り付けてそんな事を言う。祐輝の否定も耳には届いていないようだった。


「俺さ、あの家すっげー好きだよ。親父も兄ちゃんや姉ちゃん達も何だかんだ優しいし。でもさ、お母さんいなくても大丈夫だって言う皆はちょっとだけ影落とすよね。だから俺、ちょっと嫌だった。大好きな皆にあんな哀しい顔させるお母さんが、少し嫌だった。俺達を置いてったお母さんが……好きじゃなかった」


 ツゥとオレンジに染まった頬を涙が一筋伝ったように見えた。それは恐らく気のせいだったが、悲しいのか悔しいのか、憎いのか恐いのかもう解らなかったが、見ている俺はとにかく痛かった。その貼り付けた笑顔を見ていたくなかった。その消えそうな声を聞いていたくなかった。
 和輝は震える声で、言葉をナイフにして自分を刺す。


「俺じゃん、全部悪いのは。オレがいなければ良かったんだ。何で、俺を選んだんだよ。そうしたら皆幸せだったのに!」
「おい、和輝!」
「俺なんか生まれなければよかったのに!」
「何言ってんだ!」


 祐輝の怒鳴るような大声が静かな山に響いた。和輝の額から流れた汗は頬を伝い、顎に達して雫となって落ちる。森の湿気かも解らなかったが、とにかくそれは涙にも見えた。二人の間に立ちながらも俺は何も言えないでただそのシーンを見つめていた。


「誰もそんな風に思ってない。お前は何も悪くないだろ。ただ、生まれただけだ」
「俺は、何で生まれたの?」
「知るかよ、俺は神様じゃないっつーの。でもな、命は皆生きる為に生まれて来てんだ」


 和輝は泣きもしないで、何かを必死に堪えているようだった。
 俺はいつも思う。本当はもっと楽な道があるのに、どうしてか辛い方を選んでしまう。それは堂々としていて綺麗な反面、痛々しい。子供らしく大声で迷惑なくらい泣き喚いて縋り付いてしまえば楽なのに、誰にも迷惑が掛からないように静かに自分を傷付けながら心の中だけで泣くなんて辛過ぎる。
 祐輝はいつもの真っ直ぐな目を和輝に向けて手を伸ばした。


「帰ろうぜ」


 その時だった。突然、突風が吹き付けた。山が怒ったのかと思うような突風、俺は咄嗟に目を閉じて当たって来る枯葉や砂利から身を守った。そして、まだ吹き付ける中僅かに目を開けて和輝を見た。
 和輝は、崖の向こう側に傾いていた。


「和輝ッ!」


 芝生の地面を蹴って和輝に向かって精一杯手を伸ばした。明らかに向こう側から助かろうという意志は無く、掴もうとした手は空を掴む。和輝に表情は無く、思考回路が真っ白になった。地面から離れた足、無表情。叫ぼうとしても声が出ない。その瞬間、すぐ横を風が吹き抜けた。
 崖を蹴って向こう側に祐輝は跳んだ。そうして和輝を捕まえ、守るように腕の中に仕舞い込んで落ちて行く先を見つめた。透き通るような水――深くは無いだろう。だが、その目は真っ直ぐなままである。匠の叫び声のような声を微かに聞いて、ドブンと水の中に落ちた。
 沢山の泡と共に川底へと沈み、意外と深かった事を知った。その腕の中に和輝は身動き一つしないで収まっている。祐輝はすぐさま上へと方向転換して浮かび上がって来た。
 バシャンと水音を立てて二人が顔を出した。そして、ピースサインを見て匠はへなへなと座り込む。張っていた緊張の糸が切れたようだった。
 祐輝は和輝を抱えながら泳ぎ川岸へと上がる。水を吸った制服が重かった。春の川はまだ冷たいが、腕の中で目を閉じて眠っている和輝を見たらそんな事はどうでもよくなっていた。


「馬鹿野郎……」


 こんな苦しい生き方しか出来ない不憫な弟だったが、それでも祐輝は和輝が好きだった。損な生き方ばかりして、人の為なら平気で自分を殺してしまうこの自己犠牲な性格も全部。精一杯の強がりだとか、困ったような、それでも無邪気な笑顔だとか。
 五人兄弟の末っ子、次男である祐輝にとっては唯一下の子である。自分にも守らなければいけないものがあると、そう知る事で辛い事を乗り越えられるようになった。落ち込んだ時不意に掛けてくれた言葉だとか、何でも無い日常の一言に救われる事もあった。
 だから、和輝に『いらない子』だなんて思って欲しくない。祐輝はその温もりを確かめるように小さな体を抱き締めた。


「無事で良かった――」


 夕陽は既に、遠くのビルの群れの中へと沈んでいた。



 その夜、一連の話を聞いた父、裕は目を覚ました和輝と話をした。
 スクールカウンセラーとして結構有名な彼は見た目こそ今時の優男で年相応に見られず大抵二十以上下に見られると言う随分と頼り無い大黒柱だが、近所でも羨ましがられる立派な父親である。
 ベッドで横になったままの和輝の横に腰を下ろし、困ったように笑った。


「黙ってた、訳じゃねぇんだ。ただ、何時言えばいいか解らなかった」


 心理カウンセラーが聞いて呆れるだろうか。自分の子供一人救えないなんて。
 裕は諭す訳でも怒る訳でも、同情でも謝罪でも無く独白のように話し始めた。


「お前を妊娠した時、同時に癌も見つけられた。癌の手術を受ければ子供は死ぬが自分の命は助かる。子供を産むなら死ぬだろう。そういう選択だった。でもさ、あいつに迷いは無かったよ。絶対、生むって笑われた」
「親父は……、嫌じゃなかったの?」
「嫌に決まってるだろうが。一生愛すと誓った女が死ぬっつってんだ。でも、反対は出来なかった」


 裕の脳裏には白い病院のベッドに横たわる彼女の姿が浮かんでいた。死を目の前にしても泣き言一つ言わなかった強い母親。失いたくなかったのに。


「あいつが死ぬのは絶対に嫌だった。でも、同時に胎ん中にいるお前の顔が見たかった」


 ニッと裕は笑う。祐輝がそっくりな子供っぽい笑顔である。


「この子はどんな人になるだろう。どんな人生歩くんだろう。どれくらい笑って、どうやって辛い事乗り越えて、どんな夢見て生きて行くんだろう――って」


 まるで唄うような軽やかな明るい口調で裕は言う。全然哀しい話には聞こえなかった。


「七月二十二日、午後一時。陣痛が始まった。運ばれて行くあいつに俺は『死ぬな』としか言えなかった。子供は見たいけど死なないで欲しい。神様はいつだって不条理なもんだよな。選べる訳ねぇのに。……長く時間が過ぎた。午後十一時頃、お前が生まれた訳だ」


 裕はくしゃりと和輝の頭を撫でた。


「俺はその後もあいつに声を掛け続けたが、あいつは逝っちまったよ。産んだ直後、お前の頭撫でて『子供の誕生日と命日を一緒になんかしない』って言葉だけ残して、さ」


 写真は残っていなくとも、和輝は母の温もりをちゃんと受けていたのだ。死ぬ間際に見た産まれたばかりの我が子を見て何を思っただろう。自分の代わりに生きるであろう命をどう感じただろうか。
 裕はふう、と小さく溜息を吐いた。


「お前に罪なんかねぇよ。あるなら俺の方だ。もっと早く気付けはよかったんだ」


 あの癌の発見がもう少し早ければ彼女は死ななかった。そうすれば、和輝はこんな思いしなかったし、他の兄弟達も淋しくなんか無かった。
 過去を悔やんで得られるものなど何も無いけども、そうやって自分の弱さを責めずにはいられない。そうしないと、何時かまた繰り返してしまうような気がするからだ。


「いつだって、気付いた時には遅過ぎる。俺は失わなきゃ大切なものだって気付けねぇのさ」


 それは裕自身の体験から来ている。中学最後の年、つまりは祐輝と同い年の時、両親を亡くした。近所で放火が頻繁に起きていてそれに巻き込まれたのだ。自分だけは偶然友人の家に泊まりに行っていて、その知らせを受けて裸足で夢中に走って帰れば家は猛火に包まれていた。もしかしたらもう逃げてんじゃないか、と願ったがそれは叶わなかった。両親と二つ下の弟は家の中に取り残され、地獄と化した家の中に飛び込んで救えたのは弟だけだった。
 肝心な時、自分はいつもいない。
 裕に表情は無かった。


「俺はもう、あんな事は繰り返さない。今、俺にとっての大切なもんはお前等だよ。もしも何かあったら、命に代えても守ってやる。だから、二度といらない子だなんて言うな」


 そう言うと、裕は優しく微笑んだ。若い外見とは言え、それは父親の何処か強い笑顔である。
 和輝は布団の中に顔を埋めて背中を丸くして震えいた。嗚咽を噛み殺しながらではあるが、確かに泣いた。母が自らの命と引き換えに産んだ自分の体を抱き締めて――。

 少しして裕は部屋を出た。和輝が再び眠ってしまったからである。そうして扉を開けると、壁に寄り掛かって膝を抱えて座り込んでいる祐輝と、胡座を掻く長男の大輝と目が合った。


「何してんだ、お前等」


 呆れたように裕が頬を掻いて問うと、祐輝はその手を握り締めた。眠いのか、単純に子供体温なのか温かい手だった。


「俺、ちゃんと守れたよな」


 どうやらそれは和輝の事を言っているらしく、裕は笑った。


「大丈夫だよ。もう寝てる」
「良かった」


 祐輝はほっとして手を離す。すると、今度は大輝が顔を上げた。


「強さって何だろうな。和輝のあれもある意味強さだと思うけど、痛々しいよ」
「……人間なんてそんなもんだよ」


 くしゃりと二人の頭を撫でて、裕はポケットに手を突っ込んだまま一階へと向かった。台所からは夕飯のいい匂いが漂い、大輝と祐輝は互いに顔を合わせてすぐに後を追う。
 裕は居間のローテーブルの傍に座ってぼんやりとテレビを見つめた。最近売れ始めたグラビアアイドルや芸人が楽しそうに笑い合っている声も耳を通り抜け、ただぼんやりと何処か遠くを見つめる。
 燃え盛る家だとか、泣きじゃくる弟だとか、妻の死に顔だとか、息子の涙だとか。きっと嫌なものなんか数えれば切りが無い。奪い合って傷付いて、惨めったらしく縋り付いて。職業柄、色んな人間を見て来てその度に苛立ちを抱えたりもするけど、誰もが皆強くなろうと必死だった。それが一体何かも知らないで。
 人の弱さは知っているけども、強さも知っている。強さとは、弱さと表裏一体なんじゃないだろうかと裕は思っていた。誰かにとっては目を背けたくなるような弱さも、誰かにとっては憧れる強さだ。所詮、隣りの糂汰味噌でしかないのに羨んで憎んで。人間はきっと地球上で最も愚かな生物だろうけども、裕はそんな人間が好きだった。自分もその中に生まれた事を誇りに思う。
 いつか、こんな話を子供達にする日が来るだろうか。そんな事を思いながら裕は笑った。