北城奈々はとにかくカワイイ。これは中学の人なら誰でも知っている事で、奈々は学年……いや、学校。むしろ、そこらの雑誌モデルなんか足元にも及ばないくらい整った顔をしている。
 色素の薄い茶色っぽいふわふわした髪、丸くて大きな目は透き通っているのかと思うくらい綺麗で見ていると吸い込まれそうになるし、唇はピンク色、肌は白くて滑らか、背はそんなに高くないけどもスタイルは抜群。少し高めの優しげな声に、ふわりと柔らかな笑顔。そんな彼女を道端で見た男は人目惚れして次々軟派して来るほどだと言う。
 ただ、彼女は学校でも有名な『悪女』だ。男を取っ替え引っ替え乗り換えては貢がせる尻軽女なのである。当然、女子からの人気は最悪。男子も下手に近寄ろうとはしない。でも、だから奈々は独りぽっちかと言えばそうでは無い。彼女には絶対に見捨てない少年が一人いる。


「和輝!」


 教室を飛び出して、廊下を友達と横並びで談笑しながら歩く小さな後姿に向かって飛び付く。和輝は顔だけ振り返って笑った。


「なんだ、奈々か。びっくりさせんなよ」


 奈々はにっこりと微笑んだ。

スマイリー


 和輝は学校で一番カッコイイ。いや、それこそジャニーズなんか足元にも及ばないような外見だ。背は低いけども、それもまたカワイイで通用するのだろう。学校で奈々と並んでもおかしくない唯一の男だった。
 そんな和輝の性格はどうかと言うと、これが最高。友達思いで温厚篤実。人の為に一生懸命になったり泣いたり怒ったりするよく出来た人間だった。頭は究極的に馬鹿で学校ぶっちぎりのビリだけども、並外れた運動神経等それを補っても余りある長所が沢山あった。しかも、彼は自分がどんな偉業を成し遂げてもそれをちっとも鼻に掛けない。友達を外見で判断しない。そんな和輝の人気は高く、いつも周りには大勢の友達がいた。いつも放課後には遊ぼうだとか一緒に帰ろうだとか誘われているくらいだ。
 そんな和輝が奈々と仲が良いのは、彼の性格を考えれば仕方が無い事なのだけども周りはそれが面白くない。しかも、奈々と和輝は幼馴染である。
 奈々のような女の子が和輝を独占するのが許せなかったと言うのもあるだろう、特に、彼の周りでは奈々の悪口は多かった。


「北城って本当性格悪いよな」
「ヤリマンらしーよー」
「高校生があいつの事襲うとか言ってたらしいしよー」


 そんな悪口を聞き慣れている和輝の反応はどうかと言うと、いつも決まっていた。


「へー、そうなんだー」


 大体、この通りである。
 和輝は怒らない。奈々がどんな我侭を言っても常識の範囲内なら聞いてくれる。周りの人から見れば、和輝は奈々にいい様に利用されているようにしか見えない。


「お前、本当なんであんな女と仲いいんだよ」
「そうそう、今にとばっちり食うよ。悪い事は言わないからあの子だけは止めときなよ」
「あはは」


 軽く笑って、和輝はそれ以上何も言わない。つられて悪口を言う事もしないし、周りの人に怒る事もしない。もう一人の幼馴染である白崎匠はとっくに奈々とは距離を置いているのに、和輝だけは奈々を拒否しようとはしなかった。


「まぁ、誰がどう言っても俺は別に奈々の事嫌いじゃないしな。あはは」
「あはは……じゃねぇよ!」


 その時、教室の扉がガラリと音を立てて開いた。皆の目は一斉に集まった。

「和輝、一緒に帰ろ!」

 そこにいたのは噂の人物、北城奈々。その姿を確認すると今まで和輝の傍にいた皆はバラバラといなくなり、残された和輝は笑顔で「いーよ」と答えた。


 下校のチャイムが鳴り響く頃はもう夕暮れだった。夏を目前にした町は僅かに蒸し暑く、和輝は衣替え期間がまだだった為に来ていた学ランを脱いでカバンの中に突っ込んだ。
 彼等は中学二年。入学してから一年経ち、受験も無い一番のんびりとした学年である。
 坂道を下りながら奈々は昨日のテレビの話をするかのような口ぶりで今の彼氏の話を振った。その男は高校生で、一週間前に軟派されて顔がそれなりに良かったのでOKしたのだと言う。


「亮君ってかなり自信家で自慢ばっかりする。もう別れようかなー」


 その軽い口調に和輝は困ったように眉を下げた。


「お前、男を嘗めてるとその内痛い目に遭うからな」
「和輝が説教? 珍しいねー」


 奈々は笑った。


「男なんか単純。頭悪いよ」
「俺にはお前の方がよっぽど頭悪く見えるけど?」
「和輝に言われたくない。アンタ、学年ビリじゃん」
「勉強じゃない、常識の話」


 和輝ははぁ、と溜息を吐く。この先、学校で奈々を庇う気は無いが、幼馴染がここまで嫌われると言うのは結構辛いものがあった。そんな和輝の心境など奈々は知ってか知らずか軽く笑う。


「男はお前が思っているほど馬鹿じゃないよ」
「……馬鹿だよ、男なんか」


 奈々は持っていたカバンを和輝にぶつけた。大して痛くは無かったが、中から色々な香水の混ざった鼻を突く匂いがして和輝は眉を顰めた。きっと、カバンの中には教科書なんか一冊も入ってない。和輝も置き勉が日常だが、流石に筆箱は毎日持って帰る。それなのに奈々は自分より頭がいいなんて不公平だな、と思った。


「ま、好きにすりゃいいよ。俺はこれからもお前の事庇う気は無いし」


 和輝は少し先を歩きながらそう言った。その冷たい言葉は実際、奈々が毎日言われている陰口に比べれば大したものでは無かったが、普段そんな事を言わない和輝に言われると結構響く。
 少し沈黙が流れ、奈々は俯いた。そんな様子など知らない和輝だが、背中を向けたまま言った。


「見捨てる気も無いけどね」


 奈々は顔を上げ、振り返りもしない背中に飛び付いた。和輝は少しよろけたもののそのまま引き摺るようにして歩く。線が細い頼り無い背中だけども、和輝も男には変わりない。奈々は少しだけその背中に顔を埋めて笑いを殺していた。ふわりと洗剤の香りがした。




「なんか奈々ちゃん、すっげー嫌われてるらしいね」


 夕食の席で祐輝は言った。
 蜂谷家の今日の夕食は、二人の姉が外出中の為に三人。和輝は味噌汁をすすりながらうーんと低く唸る。


「男遊びが激しいんだってさ」
「涼也も言ってたな」


 ちなみに、涼也と言うのは兄の祐輝の幼馴染で奈々の兄である。
 それまで何も言わず食事に徹して来た父、裕は空になった茶碗を置いてようやく口を挟んだ。


「まぁ、今時の子はしょうがないんじゃないの?」
「今時って……」


 祐輝はガクリと肩を落とす。見た目が二十代と言う詐欺にも近い特権を持つ父が時々そんな発言をすると改めて四十を越えた親父であると認識させられる。「お父さん若いね」と言われ続けて育った息子達には僅かに抵抗があった。


「何にしても、お前は男なんだからちゃんと守ってやれよ?」


 裕はニコリと笑って和輝に言ったが、当の本人は眉を顰めて首を捻る。


「俺、あいつよく解んないんだよね」
「女なんかそんなモンだよ。とにかく、俺はお前が怪我しなきゃいいからよ」


 祐輝はそう言って手を合わせた。
 祐輝は、幼馴染である白崎匠の兄、浩太が和輝に怪我を負わせて以来、弟の怪我に過敏だった。だから、手首に未だ残るその傷を見ると申し訳無さそうに目を伏せるので和輝はなるべく家では長袖を着るように心掛けている。その事に関して裕はびっくりするほど何も言わないが。


「兄ちゃん、高校入ってから女の子と遊んでないでしょ。涼也君が『あいつはこのままじゃ男に目覚めちまう、良い子紹介するから早いトコ連れて来い』って言ってたよ」
「よーし、早速明日殴り込みに行こうか!」
「若干引くかも知れないけど理解はしてやるわ」
「目覚めねーよッ!」




 その夜、匠が貸していたゲームを持って家に来た。遊びに来るのは随分久しぶりである。部屋でしばらくゲームしたりCD聞いたりしていて、ふと話題が切れた時に匠は奈々の話題を持ち出した。


「お前、奈々と関わるのもう止めろ」
「何で?」


 ベッドに寝そべって漫画を読んでいた和輝は顔を上げたが、匠は睨むようにしていた。


「お前までとばっちり食うぞ」
「うーん……。でも、放っておけないんだ」
「お前はお人好し過ぎるよ。あいつ、学校でどんだけ嫌われてるか知ってんだろ?」
「知ってるけど……」


 分らず屋、と匠は言ったが和輝は困ったように笑う。


「じゃあさ、匠は俺が学校でスッゲー嫌われたら友達止めるんだ?」


 匠はうっ、と言葉に詰まった。そして、手元にあったクッションを投げ付ける。


「そういう事じゃねーよ! 馬鹿!」


 和輝は笑った。匠は口は悪いがいいヤツだ。こんな事を言うのも、和輝の心配をしているからである。それももしかしたら、半年前に兄が和輝にした事から来る罪悪感かも知れないが。


「お前が嫌われても俺は関係ねぇよ!」
「そう、今の俺の気持ちもそれだから」


 再び言葉に詰まって、今度は盛大に溜息を吐いた。何時の間にか言葉で負かされているこの状況は一体どうなってしまっているのか訳が解らない。
 匠が口を尖らせていると、和輝は笑った。


「俺もお前が学校で嫌われても見捨てたりないから」
「あー、もう!」


 すっかり元の話がとんでいる。匠はそのまま怒るようにして帰って行った。




 数日後、奈々は駅前のブロンズ像の前にいた。何かの芸術らしいがまったく理解出来ない。その時、人通りの多い広場の背の高い時計が午前九時を知らせた。
 学校の無い土曜、こんな朝に一人で何をしているのかと言うと、奈々は彼氏と待ち合わせていた。呼び出したのは奈々である。話があると呼び付けたのだが、その相手は中々現れない。今日は別れ話をして早々に帰宅し、和輝が家にいれば遊びに行こうと考えていた。


――見捨てる気も無いけどね。


 和輝の言葉が過る。それだけで顔は自然と緩んで笑顔を作ってしまう。
 そういう温かい言葉をしばらく聞かなかった。だから、和輝に言われてすごく嬉しかった。凍っていた心が解けたのか、頭に上っていた血が下がって冷静になったのか。とにかく、奈々は全てを清算しようと思っていた。
 数分後、少し遅れて彼氏は到着した。奈々が拗ねるようにむくれると、悪い悪いと悪びれずに言った。そういうところが嫌いだった。


「ね、あたし話があるんだけどー……」
「ああ、解ってる。俺もさ。ちょっと落ち着けるとこ移動しよう」


 そう言って彼氏は奈々の手を引いた。
 この場で終わらせるつもりだったが仕方が無い。奈々はその手に引かれて町の奥へと向かった。


「ちょっと、どこまで行くの?」
「いいからいいから!穴場見つけたんだよ」
「いいよ、ここで!」


 奈々の言葉も無視してグイグイと人の少ない奥へと進む。何処か焦っているような素振りに奈々も嫌な予感がしていた。無意識にポケットに入れた携帯を握り締め、気付けばリダイヤルからその番号へ発信した。
 ディスプレイには『かずき』。数回のコールの後、微かに声が聞こえた。


『はい、どした?』


 その声を聞いて少しだけ落ち着いた。奈々は電話に気付かれないようにしながら声を張り上げる。


「ちょっと止めてよ! こんな奥に何で連れてくの? こっちってホテル街じゃん!」
「大丈夫だからよー」


 声がポケットの中の携帯に届いているか不安だったが、和輝は確かに反応していた。


『は? 何? ホテル街?』


 彼氏は手をガッチリ掴んで離さない。嫌な予感ほど的中するのだと奈々は知っていた。


「離してよ! こんな岡田屋の隣りのビルなんか来た事無い!」
『岡田屋? 今、そこにいるのか?』
「嫌だってば!」
『……今スグ行くよ』


 そこで電話はプツリと切れた。声が届かなくなった途端、不安が固まりになって押し寄せて来た。灰色の鉄の扉の中に押し込まれて、真っ暗な中で薄暗い電気が辺りを照らす。そこはゴミ捨て場のようだった。酷い臭いが鼻を突く。
 ふと、気配を感じた。辺りを見回すと見覚えのある男達が並んでいる。


「あんた達……」
「忘れたとは言わせねぇよ?」
「さんざん貢がせて捨てやがってよー。中坊のくせに生意気だよなァ」


 それは、元彼だった。


「……ねぇ、どういう事?」


 奈々は後ろにいた彼氏の方を見るが、ニコニコと楽しそうな笑顔を向けているだけである。
 そうしていると元彼の一人が奈々の肩を掴んだ。


「お前、調子に乗るなよ。男嘗めてるとどういう目に遭うか教えてやるよ」
「やだ!」


 持っていたカバンをその顔面にぶつけて、奥に見えた扉の中に駆け込んだ。そのまま扉を閉じて鍵をかける。心臓がドクドクと音を立てていた。
 中は暗くてよく見えない。入って来た扉は男達がガンガンと蹴っ飛ばしていて出られる状況では無く、冷や汗が流れた。手探りで中を探索するが、そこは物置のようだった。出入り口は扉だけである。
 恐くて恐くて、携帯を取り出してまた和輝にかけた。コールが何回も虚しく響き、最後は留守番電話サービスに繋がった。


「和輝……!」


 祈るような気持ちで携帯を握り締める。少なくとも、和輝の家からここまでは二十分は掛かる。何度も電話を掛けている内に充電はあっという間に切れてしまい、完全な闇に閉じ込められた。


「助けて……!」


 向こうから怒声が響く。扉を蹴る音がする。名前を呼ばれる。鼻を突くゴミの臭いなどもう気にならない。音全てが今は恐怖そのものだった。
 時間が経つのが遅い。和輝はまだ来ない。


「出て来いよ、クソアマァ!」
「テメーみてぇな性悪がどういう目に遭うか解ってんのかァ?」
「言っておくけど、助けなんか来ねーよ。警察に言ってもいいけどよぉ、被害者は俺らだからな!」


 逃げ道が無い。耳を塞げばもっと恐い『無』の恐怖が訪れる。どうすればいいか解らない。
 部屋の隅で膝を抱えて、時間が経つのを必死で待った。この建物に入った時の鉄の扉とは違い、ここは木の扉。時間の問題だ。


「お前なんか助けに来るヤツいねーよ!」
「お前みたいな女本気で相手にするヤツもなァ!」


 もしかしたら、和輝は来ないかも知れない。そう思った。
 今まで酷い事を言った。心配してくれているのに聞かなかった。我侭ばっかりで迷惑掛けた。自分と一緒にいるせいで悪口を言われたかも知れない。匠に怒られたかも知れない。
 和輝は助けに来ない……。だけど、頭の中に声が過る。


――見捨てる気も無いけどね。


 和輝は確かにそう言った。約束を彼は破らない。それが例えどんな小さな口約束でも。
 絶対に来ると思いながらも、心の中では祈るような気持ちだった。

 その時だ。

 ガンッと鉄の扉を蹴るような音が響いた。男達は木の扉をこじ開ける手を止めてその方向を見る。少し焦ったような顔をしたのは一瞬で、不機嫌な顔をして扉を開けた。


「んだ、テメーは……」


 奈々の耳にその声が届いた次の瞬間、木の扉に何かが思い切りぶち当たった。それを追うように男達のどよめき。


「奈々、いるんだろ?」


 微かに扉の向こうからその声は聞こえた。和輝の掠れた声だった。きっと全力で走って来たに違いない。今すぐ扉を開けて会いたい。
 だが、すぐさま鈍い音が数回聞こえた。呻き声も。


「何なんだよ、お前!」
「うっせーな。いいからどけよ。女一人相手にこんなに集まりやがって」


 きっと、その外見で嘗めていただろう。和輝は汗を拭う。


「お前、あの女の何なんだよ!」
「何って……」


 ゴッと鈍い音。


「幼馴染だよ!」


 その声を最後に和輝はしばらく何も言わず、鈍い音を響かせた。その姿は奈々には見えなかったが、闇の中にいた時間に比べればほんの刹那だったように思う。
 少しすると、外は静かになった。カツンと足音が木の扉の前に近付き、それまでと打って変わって丁寧なノックが転がった。


「奈々、助けに来たよ」


 ガチャンと鍵が開き、軋みながら扉は光を中へ入れる。奈々は和輝のシルエットに抱き付いた。
 自分と大して変わらない小さな男の子。すっかり息が上がっている。


「だから、言っただろ。男は馬鹿じゃないって」


 でも、その言葉は奈々に届かない。和輝の顔を見たら涙が出て来たからだ。和輝の頬は腫れている。一撃貰ってしまったらしく、口の端は切れていた。
 それでも、和輝は怒らない。よかった、と安心したような笑顔だった。


「さ、帰ろう」


 和輝は出口の方へと歩き出し、奈々はその後を追った。
 その時、扉の傍で倒れていた筈の男が起き上がって奈々の首に手を回した。一瞬の事で奈々は声も上げられず、和輝が振り返った時にはナイフが付き付けられていた。


「……お前、」
「へへ……。立場逆転だな」


 その言葉が合図のように、辺りに倒れていた男達も起き上がる。和輝は舌打ちした。


「離せ、女人質に取って見っとも無いと思わないのかよ」
「うるせぇよ、ガキ。俺らだってこの女に仕返ししてやんなきゃ気が済まねぇんだよ」


 ナイフがギラリと鋭く光った。皮膚の僅か数センチ傍、奈々は動けない。


「この女がどんな性悪か知らねぇのかよ。こんな馬鹿女助けに来て、お前も騙されてんだよ!」
「……うっせーな、騙されてねぇよ。奈々は奈々だ。お前等は騙されたんじゃなくて勝手な理想押し付けただけだろ。奈々を離せ」


 和輝は苛立っているように再び舌打ちした。
 こんな時ではあるが、奈々は和輝が怒っている顔を初めて見た。今までどんな我侭を言っても怒らなかった彼が今、こんなに怒っている。


「こいつを放してほしいか」
「?」
「じゃあ、てめー手首切れよ」


 和輝は目を細めて不快感を露にするが、男達はニヤニヤと笑った。


「お前、手首に何か傷あるよなァ? 同じ事、ここでやれよ」
「……本当に、カスだな」


 和輝は傷のある左手首を握り締めた。
 これはリストカットではない。半年前、匠の兄である浩太に付けられた傷である。だが、男達にはそんな事はもうどうでも良かった。
 チッと小さく音を立ててちっぽけな刃物が和輝の足元に転がった。カッターナイフである。
 和輝は一瞬それを見つめたが、すぐに拾い上げて左手首の傷の上に当てた。


「オレが手首切ったら、奈々を放すんだな。約束しろよ」
「和輝!」


 奈々の叫びを聞いて、和輝は力無く笑う。


「ちょっと目、閉じてろ。すぐ助けてやっから」


 ナイフが、和輝の手首に刺さった。
 ブッと音を立てて皮膚を裂き、そのまま真横に進む。ブツブツと皮膚の切れていく音がリアルだった。血がポタポタと垂れ、傷が広がるほど出血が増える。何の躊躇も無いような、慣れた手付きにぞっとした。リストカットなどやった事も無い筈なのに。
 傍観していた男達も尋常でない出血量に真っ青になっていた。そして、一人が悲鳴を上げた。


「イカレてんじゃねーの?! マジで切りやがった!」


 それを筆頭に次々扉の向こうへと逃げて行く。奈々を抑えていた男も最後には逃げ出し、解放されたのを見て和輝は膝を付いた。
 ボタボタと垂れる血を抑えようと傷を心臓より高くして血管を圧迫してみるが効果は見られない。さすがに、中学生の能力じゃこの程度かと和輝は少し諦めた表情だった。


「和輝!」
「奈々、無事で良かった……」


 見る見る内に顔色が悪くなって行くが、和輝は優しく微笑んだ。
 救急車を呼ぼうと携帯に手を伸ばすが、充電が切れている。自分はいつも迷惑を掛けて何も返せない。


「今、誰か呼んで来るから……!」
「もう呼んだよ」


 その時、第三者の声が届いた。
 鉄の扉に手を掛けて肩で息をしながら、そこには匠がいた。だが、その惨事を見て慌てて駆け寄る。


「お前、また手首かよ! ここは今皮膚薄いから触るなって言われてんだろ!」
「でも、右手じゃ野球出来なくなるしな……」


 冗談っぽく和輝は言ったが、その表情に余裕は無い。匠は奈々を睨み付けた。


「奈々、解ったかよ! お前が勝手な事して勝手に傷付くなら俺は一向に構わねぇよ。でもな、お前がピンチになったらコイツは駆け付けちまうんだよ。コイツを巻き込むな!」


 匠は自分の服の裾を千切って止血するが、もう足元には大きな血溜まりが出来ている。処置する匠も真っ青だった。


「お前の馬鹿でコイツを傷付けんな。コイツはもう自分の事で一杯一杯なんだよ」


 泣きそうな声で匠は言う。その声は微かに、和輝に届いていた。
 だらんと下げられていた右手が奈々の手を掴む。


「見捨てなかったろ?」


 ニコッと和輝は笑った。その言葉を聞いて奈々の目から涙が一気に溢れた。幾つも筋を作っては頬を伝い、顎に辿り着いて落ちて行く。血溜まりの中に消えて行く。
 奈々は和輝の右手を握り締めた。


「ごめんね、和輝……」


 それから数分後、救急車は到着し和輝は病院に搬送された。
 出血のショックを起こしかけていたものの幸い命に別状は無かったらしい。ただし、祐輝には酷く叱られた。

 その病院の廊下で、病室に入れず奈々は壁に寄り掛かって中の声を聞いていた。楽しそうな和輝や匠、祐輝の笑い声。幼馴染なのにそこに自分の居場所は無い。
 そうして俯いていると、涼也がひょいと顔を覗き込んだ。


「よお、奈々。やったなァ」


 それは涼也の嫌味である。奈々は睨み付けた。


「うるさい」
「お? 兄貴に向かって酷いねェ」


 涼也は飄々とした態度だったが、すぐに真剣な顔に変わった。
 そして、右手を振り上げて思いっきりビンタを食らわせた。乾いた音が廊下に反響し、奈々は咄嗟にビンタを受けた右頬を抑えて兄の顔を見たが涼也は睨むように見下ろしている。


「痛いだろ?」


 そして、もう一発。パーンと威勢のいい音が今度は左に鳴った。


「殴られれば痛ェんだよ、傷付けられりゃ悔しいんだよ、皆。お前があの男達や和輝にやった痛みは、こんなもんじゃねェぞ」


 涼也はそのまま病室の中へ入って行った。
 奈々は何も言えず、ただ立ち尽くす。両頬がジーンと痛みと熱を残していた。
 中から祐輝が心配そうにチラチラ様子を伺うが、流石に奈々も空元気を見せる余裕は無かった。涙が次から次へと流れて止まらなかった。


「奈々!」


 その時、病室から和輝が呼んだ。奈々は顔を出さない。


「気にしてないから!」


 それは和輝なりの気の使い方だったが、匠は声も無く頭を叩く。祐輝は少し呆れた表情で、涼也は小さく笑った。
 だが、奈々は顔を出さずに叫んだ。


「和輝! あたし、いい女になる!」


 涙を何度も拭いながら奈々は言う。


「次にあんたに会う時は……今のあたしじゃないから!」


 和輝はベッドの上で、ニッと笑った。


「楽しみにしてるよ!」


 その言葉を聞いて、奈々は歩き出した。




 物心付いた時から、和輝が好きだった。優しくて強くて、でも、何処か儚げで。
 和輝はみんなの人気者だった。きっと、学校の皆が和輝の事を好きだった。自分は幼馴染で特別仲良しだったけども、それ以上にはなれなかった。それが悔しくて、和輝の前で他の男の子の話をした。でも、和輝は表情一つ変えなかった。
 それを何度繰り返しても結果は変わらないと解っていたのに、繰り返さざるを得なかった。

 和輝に振り向いて欲しかった。
 一人の女の子として見て欲しかった。

 そう思うほど、全ては遠ざかって行く。それに気付いた時にはもう遅かった。
 でも、和輝は笑ったのだ。見捨てないと言った。

 もう、繰り返したくない。このまま嫌な女でいたくない。和輝と釣り合う女の子になりたい。
 きっと、和輝は笑わない。笑っても、それはきっと違う笑顔。

 優し過ぎて、何処か儚い。だから、いつか和輝を支えてあげたい。今度は助ける方になりたい。

 小さな決意を胸に、奈々は歩き出した。