正月が終わったのはつい最近のことのような気がした。
 家族の団欒や正月料理の味、特番の内容まで鮮明に思い出せるのに、今自分がいるのは進学希望していた県立晴海高校の昇降口。長机の向こうから機械のように作業的に灰色の封筒を渡す教師、受け取った各中学の生徒はありありと喜怒哀楽を表現している。
 蜂谷和輝は封筒を受け取った時、胸の中に奇妙な塊が転がり込んで来るような感覚を覚えた。教師に礼を言って頭を下げる間も握り締めていた封筒は微かな厚みがある。確認はまだしていないが、不合格通知だけならばペラペラだからこの厚みは多分、合格したんだろうと思う。
 県立晴海高校は創立三十五年の学校だが校舎は新築したばかりで、スポーツ校なんて銘打って色々な都道府県から各スポーツの申し子のような生徒を越境入学させている。スポーツ推薦枠等もあるが、和輝の受けた前期選抜試験は倍率六倍という難関校で、同じように受験した中学の十人程の仲間は和輝を除いて不合格という思いも寄らない結果となった。
 和輝は封筒を弱々しい冬の日差しに翳した。数枚重なっている中で一番上の書類が透けて見えるが、やはり皆とは違って三文字ではなく二文字の単語が堂々と並んでいる。
 人生何が起こるか解らないな、と思った。晴海高校を受験したいと言った時は担任に「夢を見るな」なんて言われたけれど、隣りで泣いている学年でも優秀な優等生が不合格で自分が受かってしまった。成績なんて良くないのに受かったのは面接試験の元気の良さか、或いは中学時代のアピールポイントのお陰だろう。
 思考はどんどん深く潜って行く。胸の中にある奇妙な冷たい塊の正体にも気付けぬまま、隣りで泣いていた筈の友達が疲れた顔で「おめでとう」と言った。和輝は礼儀として無表情のまま「ありがとう」と答える。仲間は同じく言葉だけの祝福をしてくれたけれど、裏に張り付いた感情は読もうとする必要も無く解ってしまった。


「和輝、何で前期選抜でここ受けたの?」


 帰り道、探るように充血させた目を向ける友達の声は掠れていた。和輝は聞こえなかった振りをして薄い笑顔を返すが、質問は重ねられる。


「お前ならスポーツ推薦枠でも十分だったろ? 匠だって栃木のエトワス学院に越境入学したし」


 匠と言うのは和輝の幼馴染の白崎匠の事で、彼のいう栃木県のキリスト系の強豪校である私立エトワス学院への入学がほぼ確定している。何の強豪かって? 野球だよ、野球。
 対する此方は校舎を含む施設は綺麗で各教室や体育館には冷暖房、階段の代わりにエレベーターまである。当然、グラウンドだって広いし屋上のプールは眺めが良い。スポーツ校なんて言うだけあってその分野の行事は多く、部活動も強者揃いだ。硬式野球部は五年くらい前までは甲子園にも出場したチームとして有名だった。


「なあ、何で?」


 和輝は曖昧に笑い、合格通知を押し込んだ鞄ごと握り締めた。


「これは勝負なんだ」
「勝負?」


 首を傾げる友達を尻目に見ながら和輝は頷き、重ねられる質問には答えず笑顔を張り付けたまま学校まで黙って歩き続けた。
 中学から晴海高校は見えるくらいに近く、その間に位置する和輝の家からは更に近い。自転車も必要無い徒歩三分の距離にある。それも晴海高校を選んだ理由の一つなのだけども。
 やがて中学に到着し、漸く握り締めていた鞄からは手を離した。掌に吹き込む冷たい風を握り、和輝は漸く合格通知を受け取った時に抱いた奇妙な塊の正体に気付く。普通に考えれば他人ですら解るだろう答えに気付けなかったのだから、もしかするとあの時点では自分でも解らない程気が動転していたのかも知れない。胸の中に転がるこの冷え固まったマグマのような感情は不安だ。だが、その火成岩に変わった不安が暗示している未来を和輝は鼻で笑ったのだからまだ正気には戻っていないらしい。
 正門を越え、列の最後尾を歩いていた和輝はピボットのように振り返って丘の上にある晴海高校を睨んだ。骨組になった桜の枝に囲まれる様はB級RPGのラスボスの城のようで少しだけ笑える。


(見てろよ)


 そう、これは一つの勝負。
 長い人生で二度と無い僅かな時間を全て、一つの我侭に懸ける。ちっぽけな誇りも卑小な心も呆れてしまうような意地も全部懸けてやる。
 和輝は小さな宣戦布告を胸に、魔王の棲む城に向かって拳を握った。


天才の名前・1

届かない希望に縋るよりは、目の前の絶望を変えたいと願った


 豆電球のみがぼんやりと光る室内は薄暗い。外界と内部を隔てる窓にはスカイブルーのカーテンが吊るされ、木製の扉は固く閉ざされている。ベッドの膨らみは規則正しく上下し、部屋の中で聞こえるものは微かな寝息と枕元の大きなベルの付いた目覚し時計くらいのものだった。
 午前七時五秒前。
 チッチッチッチ――……カチン。
 甲羅から伸びた亀の首のようにベッドの中から伸びた腕が目覚し時計を引っ掴む。ベルを叩こうと動き出した小さなハンマーは指先で押え付けられていた。
 和輝はほっと胸を撫で下ろして起き上がる。誕生日に兄から貰った目覚し時計はえげつない音で喚くので一秒前に起きて止める事は既に習慣になっていた。まだ半分眠っている頭で目覚ましを睨む。その目覚し時計は家中どころか向こう隣に住む幼馴染の匠まで起こしてしまったとんでもない代物で、確実に目は覚めるけれど爽やかな目覚めと引き換えだった。
 ベッドに座り込んだままカーテンを引っ掴み、一気にレールを滑らせる。大きな窓の向こうから零れる金色の光が春の朝を告げていた。
 合格発表の日からおよそ三ヶ月。春を迎え、今日はいよいよ高校の入学式だった。
 少し毛羽立った黒いスウェットを脱ぎ、真新しい制服に着替える。普通なら少し大きめで、最初は制服に着られている筈なのに殆どサイズがぴったりなのは「お前の身長は絶対に伸びない」という兄の何処から来るのか解らない強い自信によるものだった。結局言い返せずに今制服を着ているのも、小学校の頃から三センチしか伸びていない事実に基づくものである。
 小さいという劣等感は何をするにも常に付き纏って来た。スポーツに置いては特に大きく、見た目で判断される事もあれば本当に力が及ばない事もある。それなのに今年で高校三年になる下の兄の身長は百七十をとっくに越えているのだから遺伝子はどうなっているのか知りたいものだ。
 着替えを終え、真っ直ぐ洗面所に向かうと件の兄、祐輝と鉢合わせた。


「よう、やっぱり制服小さめにして良かったな」
「うるさい」


 祐輝の横を摺り抜けるようにして洗面所に入り、蛇口を捻った。まだ冷たい水が白い陶器に跳ね返り、両手で掬うようにして一気に顔を洗った。ぼんやりしていた頭が冴える。濡れた顔を拭きながら鏡を見れば薄く目の下に隈が浮んでいた。柄にも無く、緊張していたのかも知れない。
 洗面所を出れば居間があり、ダイニングテーブルには父親の裕が片手に新聞を広げながら食パンを齧っていた。息子から見ても若作りな父は、友達に紹介しても信じて貰えない渋谷界隈にでもいそうな姿だった。息子は当然その遺伝子をしっかり受け継いでいる訳で、和輝や祐輝を含む五人の兄弟は皆年相応に見えない。残念ながら一番上の兄と双子の姉は成人して家を出た為、この家にいるのは父の裕と下の兄の祐輝と末っ子和輝のみである。母は既に亡い。


「おはよう、和輝。制服小さめにして良かったな」
「うっさいなぁ!」


 裕は笑った。
 そんな父も高校時代は和輝と同じく百六十センチも無く、大学時代に百七十センチを越えたと言う。だから、和輝の当分の目標は高校生活で百六十センチを越えるべく後八センチ身長を伸ばす事だ。
 和輝は席に着き、台所に立つ祐輝の背中を見た。蜂谷家は食事も掃除も当番制で今日は祐輝が食事当番。潔癖症とも取れる几帳面な性格なので毎朝バランスの良い献立で作ってくれる。
 祐輝は和輝の分のスープを置くと裕の新聞を取り上げ、両手を合わせた。


「いただきます」


 同じように和輝も言い、サラダに手を伸ばす。祐輝は食パンを片手にテレビに目を向けて溜息を吐いた。


「学校行きたくねェなァ」


 テレビに映るのは毎朝のニュース番組なのだけど、どうしてか早朝のある高校を映している。端にテロップで『翔央大学附属高校』と表示されているので和輝は笑ってしまった。そこは今年で三年を迎える兄の通う学校だ。
 一昨年の甲子園での鮮烈なデビューを切欠に人気が爆発してしまった祐輝は日々女の子に追い掛けられている。容姿も性格も最高級で、更に実力も持ってしまえば世間が放っておく訳は無い。祐輝は黙ってチャンネルを変えた。


「入学式何時から?」
「九時からだよ」


 和輝が答えると、祐輝は何か考え込むように俯いて唸る。早々と食事を終えた裕は席を立ち、洗面所で歯を磨いて現れた。


「悪い、和輝。入学式出れそうにないや」
「別に良いよ」


 最後に「悪いな」と言って申し訳無さそうな顔で家を出て行く父を見送る。少し特殊な職業であるカウンセラーとして働く父は毎日膨大な仕事に忙殺されながら一家を支えている。母のいない家で子供五人を立派に育て上げている父をどうして責める事が出来るだろうか。和輝は苦笑し、扉の閉まる音を遠く聞いていた。
 祐輝は顔を上げた。


「俺が入学式出るよ」
「いや、いらない」


 チッ、と舌打ちが聞こえた。相当学校に行くのが憂鬱らしい。
 祐輝は最後にスープを飲み乾すと真っ直ぐ洗面所に入って行った。朝食を食べ終え、和輝は食器を流し台に運んだ後でソファに座り込む。橙の布を張ったソファは和輝が生まれる前からこの家にあるが、家族全員が大切に使うので未だに無傷という奇跡的な家具でもある。
 洗面所から出て来た祐輝はソファの脚の横に投げてあった鞄を引っ掴んだ。恨めしそうな目を向ける兄に和輝は軽く手を振る。


「ガキじゃないんだから大丈夫だよ。別に兄ちゃんの事が恥ずかしい訳じゃなくて信頼してるけどさ」
「……その信頼してる兄貴には、晴海高校に行く理由を未だに教えちゃくれてねェけどな」


 和輝は苦笑した。


「意味なんて無いよ。ただ近くて校舎が綺麗だから選んだだけ」
「じゃあ、野球は?」
「辞めないよ。ちゃんと続けるってば」
「そーかよ」


 素っ気無く言って祐輝は背中を向ける。足音を立てて玄関に行く兄を見送る気はどうしても起きなかった。和輝はソファに凭れ掛かったままぼんやりと流れっぱなしのテレビの音声を遠く聞いている。流れる日々の凶悪事件、変わらない政治、増加する自殺。
 和輝はそっと左手の袖を捲くり、手首を眺めた。肌の色に溶け込む絆創膏の上をなぞれば微かに横一文字の傷の存在が解る。剥がせば貼り直すのが面倒だが、その下には恐らくリストカットに似た傷が隠されている。
 目を閉じても闇は無く、透けた瞼の橙色が視界を占拠するだけだ。目を開けると蛍光灯の白い光が眼球を焼く。波一つ立たない心の中は冷え切っていた。今度は俯いて目を閉ざすと黒い闇がゆっくりと下りて来る。テレビのリポーターの声も遠く、意識はぼんやりと闇の中に浮んでいる。何処かで声がした。


――なあ、何で晴海高校に行くんだ?


 誰かと思えば、幼馴染の匠の声だった。
 沢山の人に問われた質問の答えはまだ誰にも言ってない。兄にも、親友とも言える匠にも。父だけは何と無く察したように少しだけ笑って背中を押してくれた。


――やっぱり、祐輝君か? それとも、自分なら弱っちいチームも立て直せると思った?


 違う。兄ちゃんの才能は確かに弟の俺から見ても凄いよ。天才って呼ばれるだけあるよ。でも、別に兄ちゃんとの違いに絶望した訳じゃない。俺はそんなに弱くないし、自信家でもない。


――何で何も言わないんだよ。親友だなんて言っても、結局その程度か


 背中を向けた匠を追う事はしなかった。
 じゃあ、お前は俺が何て言ったら納得してくれたんだよ。兄ちゃんのせいだって言って同情誘えば良かった? 俺には出来るって鬱陶しい自信見せびらかせば良かった? 何を言ったってお前は否定しただろ。
 俺はただ、遣りたい事を遣ろうとしてるだけだ。そのくらいの選択権はあってもいいだろ。


「俺は――」


 目を開けると捲り上げた手首が見えた。
 和輝は大きく溜息を吐いて背凭れに倒れ込む。酷い疲労感が背中に伸し掛かるようで頭の中がグラグラと揺れていた。祐輝も匠も背中を向けてしまったけれど、それでも遣りたい事があった。
 頭を掻き毟りたい衝動に駆られ、苛立ちを呑み込みながらもソファから体を起こす。まだ午前七時半の町は人の往来こそ少ないものの小鳥の囀りが聞こえて来ていた。爽やかな朝に鬱屈とした気分になるのは勿体無い。入学式まではまだ時間が有り過ぎるが和輝は鞄を持って立ち上がった。
 外に出れば温かな春の日差しが迎えてくれる。表を掃く白崎家の母がいた。和輝が家から出るといつものように元気良く挨拶して来るが、先手を打つのは何時だって和輝だった。


「おはようございます!」
「おはよう、和輝君! いよいよ入学式でしょ」
「はい」
「気をつけてね、行ってらっしゃい!」
「行って来ます!」


 現在、この町に匠はいない。栃木のエトワス学院に入学が決まり、神奈川にある実家からは遠いので学校の寮に入った為だ。寂しくもあるけれど、どの道、晴海高校の入学が決まった時点で殆ど口を利いてくれなくなっていたので大した変化は無い。
 誰もが和輝は匠と同じ学校に行くと思っていた。寂しいけれど、この選択は多くの人を裏切った事になるのだから自業自得だ。
 和輝はふっと息を吐いて走り出した。
 アスファルトにローファーの打ち付ける乾いた音が響く。ぐるぐる沈み込んで行きそうな思考を食い止めようと何も考えず無言で走った。学校まで走れば五分と掛からないけれど、目的地は学校ではないのだ。
 一軒家の並びを抜け、公園の前を通り過ぎて走り続けた。通り過ぎるジョギングの老夫婦や犬の散歩をする若い女の人が妙なものを見る目を向けるが気にならなかった。兎に角、このまま螺旋階段を下って行きそうな思考を食い止めなくちゃならない。赤茶のマンションを越えると視界は一気に開けた。弾む息を整えながら金色の光を反射する川を眺め、漸く目的地の河川敷に辿り着いた事を知る。中学時代はシニアリーグで毎日のように練習していた場所だった。
 春休みの間、匠は寮に入る準備で忙しかった事もあり一人で練習に参加させてもらっていた。整備されたグラウンドに僅かに残る足跡、消し忘れられた得点。数日前の事なのに胸の奥から懐かしさが込み上げて来る。和輝は気分に任せて川沿いの真っ直ぐ続く道を歩いた。
 川のせせらぎが聞こえる中、少し離れた先の鉄橋を走る電車の音がする。見上げれば黄色い体をした電車が丁度通り過ぎるところで、中に押し込められた乗客が恨めしそうな目で此方を見ていた。先に家を出た父も兄も電車では無いが、知り合いが乗っているかも知れない。親しい友達を送るように和輝は立ち止まって小さくなって行く電車を最後まで眺めていた。
 鉄橋の傍に辿り着いた頃にはまた違う電車が来る。今度は朝陽を反射する銀色の電車だった。やはり中は満員で、サラリーマンが窓に手を突いて体を支え、少し余裕のある女性専用車両では黒いスーツの女の人が気紛れに手を振った。和輝は応えるように手を振りつつ、車輪とレールの悲鳴の中に聞こえる乾いた音に耳を澄ました。
 カツーン……。
 カツーン……。
 夜だったら多少の恐怖も生まれたかも知れないが、早朝の明るさの中、和輝は音の方向にそっと近付いて行った。音はホームレスのダンボールハウスが犇く鉄橋の下の薄暗い空間から聞こえている。覗き込むとコンクリートの壁に向き合う一人の中学生らしき少年の姿があった。
 壁にボールを打ち付けた少年は、足元に帰って来たものを左手で拾い上げる。そのままキュッと構えた。
 少年の右足がゆっくりと持ち上がる。そして、右手が前に突き出されると上に伸びた左手が一気に振り下ろされた。
 カツーン……。
 音の正体はこいつだったんだ。
 和輝はその動作を数度見た後、鉄橋を支える河原の柱の傍にしゃがみ込んだ。少年は和輝に気付いていないのか、ただ興味が無いので無視しているのかそのまま無言で投げ続けた。
 同じ動作で投げられたボールは壁にぶつかる直前、急ブレーキが掛かったようにカーブする。かと思えば横に滑って行くかのような変化も見せる。和輝は何も考えず、ただそのボールを眺めていた。
 その内、故意か偶然か少年の投げていた硬球が足元に転がって来た。和輝が何気無く拾い上げても少年は冷ややかな目を向けるだけで何も言わない。やはり、本当は気付いていて無視していたらしい。
 和輝は立ち上がって手の中の硬球を見詰める。赤い糸が毛羽立ち、白い牛革は所々に汚れが目立つ。見れば少年は無言で左手を差し出していた。和輝は少しだけ笑い、手首だけで投げ返す。


「良い球投げるね」


 バックスピンの掛かったボールを受けた少年が目を細めた。


「……そりゃ、どうも」


 和輝は再び元の位置に座り直した。


「いつもここで投げてんの?」
「大体ね」
「何年生?」
「……お前何なの?」


 所々に嫌悪を込めた言葉に和輝は苦笑するが、先に少年が意地悪そうに口角を吊り上げて言った。


「俺はその顔に見覚えがあるけど、無関係とは思えないな」
「見覚えって?」
「例えば蜂谷祐輝。お前の顔、そっくりだよ」


 和輝は答えなかった。少年は壁に向き直り、再び等間隔にボールを投げ始める。沈黙の中、頭上の鉄橋を電車が通過する。再び静寂を取り戻した頃に少年は言った。


「噂を聞いた」
「噂?」
「蜂谷祐輝の弟が入学するってさ。もしかして、お前の事じゃないの?」
「どうしてそう思うの」
「だから、顔だよ、顔」


 振り返った少年は薄く笑っている。和輝は苦笑して立ち上がった。


「俺の名前は蜂谷和輝。確かに、蜂谷祐輝は俺の兄ちゃんだよ」
「……俺もシニアやってたからお前の兄貴の事もお前の事も知ってるけどさ、何で晴海なんだよ」
「別にいいだろ」


 少年はきょとんとして黙り、すぐに喉を鳴らして可笑しそうに笑った。


「そうだな。別に関係無いよ」
「……?」


 今度は和輝が黙る番だった。少年は傍に捨てるように置いてあった鞄を拾い上げてボールを押し込み、更に中から黒いブレザーを出して羽織る。和輝はそれを見てはっとした。黒いブレザーは自分が着ているのと同じものだ。彼は制服に着られている印象だが。
 少年は鉄橋下の暗がりから朝陽の中に出て目を細める。そして、最後に思い出したように振り返った。


「俺は高槻。宜しく、弟君」


 一気に草生す斜面を駆け登って行く背中を眺めながらも和輝は呆然としていた。


「……高校生かよ」


 届かないだろうが、和輝は無意識に呟いていた。高槻の姿は既に、無い。
 驚きを抱きつつ携帯で時間を確認すると既に九時十五分前だった。始まるのは確かに九時で、学校までは五分も掛からないが集合する為の時間もあるだろう。和輝は鞄を片手に走り出した。
 来た道を引き返すように走り続けると、来た時とは違って多くの人と擦れ違った。同じように晴海高校の制服を着た学生もいるがやはり走っている。“第三十六回 入学式”と書かれた看板の立て掛けられた正門を通り抜け、真っ直ぐ昇降口まで走った。
 息を切らしながら顔を上げるとクラス分けの表が張られていた。一学年四百人がAからJの十クラスで分けられている。名前を探すのに時間が掛かると思ったがすぐに見つける事が出来た。一年A組の三十二番。


「あった!」


 合格発表なさがらに上がった声に目を向けると、ついさっき追い抜かした遅刻組の一人だった。
 和輝の方に顔を向け、照れ臭そうに笑う。


「遅刻したの俺だけかと思ったけど仲間がいて良かった。俺は一年A組の箕輪翔太」
「予定ではギリギリセーフだから。俺も一年A組の蜂谷和輝」
「同じクラスじゃん。宜しく」


 差し出された手を取り、和輝は笑った。そのまま昇降口を潜ると体育館に移動を始める新入生の群れが見えた。隣りで間に合ったと胸を撫で下ろす箕輪は早々と上履きに履き替え、和輝の首根っこを掴んで群れに紛れ込んで行った。

2008.2.22