入学式が行われる体育館の中は静寂が支配している。厳かな空気に包まれている中、長い挨拶に誰もが飽きて疲れているのに校長は気付かず誇らしげに退屈な挨拶を延々と体育館の中に響かせていた。
 座り心地の悪いパイプ椅子に凭れ掛かって隠す事もせずに欠伸をすると、こっそり席を移動した箕輪が隣りで声を潜めて言う。


「なあ、和輝。お前何部入るの?」


 晴海高校は部活動の入部が義務付けられている。帰宅部なんてものは存在しないので面倒臭がる生徒は殆ど文科系に行くが、基本的に晴海高校に入学する生徒は皆中学かそれ以前かにそれぞれのスポーツで腕を鳴らして来た人間だ。
 和輝は数秒の沈黙を挟んで言った。


「野球部」


 箕輪は目を丸くした。


「……俺も野球部だけどさ……」


 歯切れの悪い箕輪の言葉に和輝は眉を寄せる。箕輪は困ったように言った。


「俺も合格決まってから聞いたんだけどさ、今、晴海の野球部五人しかいないらしいぜ」
「え?」
「部内で喧嘩して一気に辞めちまったらしい。だから、春の大会も出場出来なくて……」
「本当に?」


 箕輪は頷く。


「ずりィよな。こっちが入学決まるまで隠してたんだから」


 和輝は曖昧に答え、黙った。未だに続く校長の話を隣りで黙って聞いている教頭が時間を気にしているが、終わる気配は無い。話は校長の青春時代に変わっていた。


天才の名前・2

美しいだけの世界では生きたくなかったんだ


 入学式を終え、教室で明日から始まる新しい高校生活について担任が手早く説明するとすぐに下校となった。小学校のように揃って挨拶すると和輝は鞄を引っ掴んで教室を出ようとしたが、直前に箕輪に捕まった。
 箕輪は意味深な笑みを浮かべ、声を低くする。


「蜂谷って言うとさ」
「言うと?」
「蜂谷祐輝の弟だろ」


 頬を掴んで箕輪は笑いながら言った。冗談のつもりで言っているのか腹の底は読めないが、和輝は頬を抓られたまま「そうだよ」と答える。箕輪は「やっぱり」と笑う。


「この顔じゃあ隠せないな。初めて見た時に一般人じゃないって思ったもん」
「何だよ、それ」


 和輝もつい笑ってしまった。
 箕輪も中学では相当持てただろう整った顔立ちはしているが、悔しいのか箕輪は指先の力を強める。


「このイケメン野郎ー!」
「痛い痛い!」


 笑いながら手を引き離して和輝は鞄を背負い直した。中身は殆ど空なので背負っている感覚も殆ど無い。
 赤くなった頬を摩りながら教室を出ようとすると再び箕輪が肩を掴んだ。


「ちょっとグラウンド見に行こうぜ。たった五人の練習、気にならない?」


 少し考え、和輝は頷いた。
 晴海高校はスポーツ校と銘打つだけあって各運動部はどの大会に置いても優秀な成績を収めて来た。その最たるものが陸上競技部、所謂陸上部だ。有名な駅伝競走は勿論、個人競技でも多くの結果が残り、校長室前の硝子ケースの中には『晴海高校陸上部』と刻み込まれた盾や滑らかな輝きを放つ杯等が所狭しと並べられ、他の部活に比べればその使用面積は圧倒的だ。オリンピック出場候補と呼ばれる名選手にもこの晴海高校出身は少なくないし、部員の数も桁が違う。
 和輝は昇降口の傍からグラウンドを眺め、納得した。流石としか言いようの無い状態だった。
 晴海高校の広いグラウンドの半分を使う陸上部。残り半分をサッカー部等の屋外運動部が利用している。結果こそ全ての弱肉強食の世界を目の当たりにし、箕輪は思わず溜息を吐いた。残り半分と言っても十分な面積ではあるけれど、その格差は余りにも大きい。
 だが、見に来たのは陸上部ではない。和輝は視線をゆっくりと動かして行くが、『結果を残せなかった野球部』は何処にもいない。箕輪の話では殆どの部員が対立を理由に辞めてしまったらしいが……。
 箕輪は腕を組んで首を傾げた。


「野球部、無いじゃん。廃部になったのかなぁ」
「嫌な事言うなよ」


 それじゃあ、俺は何の為にここに来たんだ。
 言おうと思った言葉は呑み込んだ。箕輪は職員室で訊いて来ると踵を返し、和輝も頷いたが視線は未練がましくまだグラウンドを泳いでいる。
 広がるグラウンドは暗くなっても使えるようにナイター設備さえあるのに、あの胸を騒がせる金属の音は何処からも聞こえて来ない。活気溢れる声援は飛び交うのに、あの乾いた音は何処にも無い。嫌な予感が心臓を針のように突付く。頭の中に蘇って来る兄の苛立った顔、匠の悲しそうな声。俺は間違ったのか?
 返って来ない問いの答えは初春の風に溶け込む。後ろで箕輪が急かすので振り返ると、目の端に見覚えのある姿が映った。
 高槻だ。左肩に鞄を背負い、右手はポケットの中に突っ込んである。着崩された制服はやはり着られている印象のまま変わらない。
 和輝が高槻を見て動きを止めていると、箕輪が苛立ったように声を荒げて名を呼ぶ。そして、気付いた高槻がゆっくりと振り返った。
 視線が合い、声は聞こえなかったが高槻は「あ」と言ったらしく口を開ける。箕輪が呼んでいる事も忘れ、和輝は傍まで走った。寄って来た和輝を見て高槻は目を丸くし、首を傾げつつ訊く。


「何してんだ? 俺はてっきり、お前は野球やるのかと思ってたけど」
「いや、やるよ。でも、野球部無いじゃん……」


 高槻は少しだけ目を歪め、息を吐くように笑った。
 初めて笑ったな、なんて考えは一瞬の内に通り過ぎ、箕輪が後頭部を叩く。


「何してんだよ」
「え、いや」


 説明に困ると高槻は「付いて来いよ」と言って意味深に笑い、先を歩き出した。
 二人は何も言えずに渋々その後を追う。高槻の足は真っ直ぐグラウンドから離れて行き、不審に感じた箕輪が言った。


「おい、何処に行くんだよ」
「うるせェな。男ならガタガタ言わずに黙って付いて来いよ」


 箕輪はあからさまな不満を表情に浮かべ、隣りで黙って歩く和輝に「何だあいつ」と声を潜めた。何だと言われても、和輝だって知らない。今朝会ったやつとしか言えないのだ。面白いというエピソードも無いし、真面目と言える程のものを見た訳じゃない。ただ知っているのは名前だけだ。


「高槻だよ」
「そうじゃなくて」


 高槻の足は迷いも無く校舎裏に進み、其処から聞こえる微かな『あの音』に和輝ははっとした。咄嗟に隣りで文句をつらつらと並べる箕輪の口を塞ぎ、耳を澄ます。
 キンッ……カンッ……カツンッ……パスンッ……。
 聞き覚えのある金属音、乾いた音がする。先に角を曲がった高槻は、校舎裏にあるそれに目を丸くする二人を満足げに眺めた。
 緑色のネット、銀色に鈍く輝くバット、ミットの乾いた音、足もとの転がる白球。練習と言うには余りにも粗末だが、それは紛れも無い野球部だった。箕輪の話の通り少ないが――四人?
 和輝は隣りで眉を寄せる箕輪に目を向けた。


「四人?」


 二人組でティーバッティングしている面々は確かにユニホームを纏っているが、箕輪の話なら五人いる筈だ。
 呆けている和輝を見て高槻は言った。


「これが晴海高校の野球部だよ」


 今も響く金属音、ネットに飛び込む白球の乾いた音。一心不乱に練習する横顔は確かに高校球児そのものなのだが、部活と言うよりは同好会に近い。だが、同好会と呼ぶには見合わない鬼気迫るものが感じられた。
 箕輪は目を細め、動きを止める和輝の手を引いて元来た道を引き返そうとする。


「行こうぜ」


 だが、和輝は動かなかった。


「何処に行くんだよ」
「帰るんだよ」
「ええ!」


 箕輪はわざとらしく盛大な溜息を吐いて言う。


「こんな部活に入るなんて嫌だね。惨めだし、格好悪い」


 和輝はハの字に眉を下げ、困ったような顔をした。反論する言葉は見つけられず、箕輪は黙り込んだ和輝の向こうに立つ高槻に目を向ける。


「お前もそう思わない?」


 高槻は、そうだねと笑った。


「惨めだよなァ。たった四人で何やってんだって俺も思う」
「君も野球部辞めれば? 他の部活にしようぜ」
「……お前はどうする?」


 高槻は和輝に目を向け、意味深な笑みを浮かべる。和輝はやはり困った顔のまま首を振った。


「俺は逃げないよ」


 和輝の脳裏には別の情景が浮んでいる。
 周囲を埋め尽くす漆黒、目の前にある白い二本道を進む影。向けられた横顔を何時までも、何時までも見詰めていた。彼等にさえ何も言わずに、裏切るような真似までして選んだ道をどうしてそんな簡単に諦められるだろうか。
 黙り込んだ箕輪に一瞥くれた後、高槻は笑って和輝の肩を叩いた。


「だよな」


 高槻は四人の野球部に向き直り、両手を叩いた。乾いた音は白い校舎に反響し、練習に熱中していた四人を含めた目が一斉に高槻へと集まる。高槻は再び右手をポケットに戻し、微笑みを浮かべて言った。


「歓迎しよう。ようこそ野球部へ」


 和輝と箕輪が目を丸くする向こう側で四人組が元気良く「おはようございます」と声を投げ掛ける。高槻は軽く手を上げて応えながら和輝の傍に歩み寄った。


「ようこそ、弟君」


 声を潜めて挑発するように口角を吊り上げたが、思いに反して和輝は乗って来なかった。一言低い声で「どうも」と答えただけで鋭い目を向ける。


「お前、何者?」


 高槻は鼻で笑って言う。


「俺か? 俺は晴海高校野球部キャプテン、高槻智也」


 咄嗟に答えられなかった和輝だが、少し離れた所で箕輪が「あっ」と声を上げた。ゆっくりと持ち上げられた指先は間違い無く高槻を示し、微かに痙攣のような震えが見える。


「生徒会長だ……」


 何処かで見たと思ってたんだよな。
 箕輪はそう言って頭を抱えた。和輝はそれを聞いても俄に信じられずに首を傾げる。と言うか、今朝までは中学生だと思っていたのだ。


「君、三年生なの?」


 見当違いの質問を投げ掛ける和輝に向かって、高槻はいっそ嫌味のような笑顔を浮かべて頷いた。肩に乗せる手に力が篭ったが、和輝は気付かなかった事にした。
 高槻は和輝から離れて四人組の方にゆっくりと歩き出し、背中を向けたまま言う。

「うちの部は確かに総勢五人。数ある運動部の中では打っ千切りに少ない……って言うか、廃部寸前なんだけどね」


 四人がぐっと息を呑む。高槻は続けた。


「そっちの君の言う通り惨めで格好悪いかもね」
「――んだとォ!」


 ユニホームの一人が熱り立って怒鳴るのを他の三人が押える。箕輪はすっかり校舎の影に隠れてしまっているが、高槻は怒りに顔を紅潮させた少年を軽く諌めながら振り返った。


「練習場所なんて校舎の裏だし、大会も出れなかったし」


 押え付けられていた少年は顔を伏せる。


「それなのに、何でお前は逃げない?」


 和輝は真っ直ぐ高槻を見詰めたままだった。高槻は薄く笑う。


「お前があの蜂谷祐輝の弟だからかなぁ?」


 だが、やはり和輝は高槻の思考を裏切る。困ったような笑顔で首を振り、はっきりと言った。


「俺が決めた事だからですよ」


 兄との比較も、才能への期待ももう慣れっこだった。何をするにも完成された兄に比べれば、頭は悪いし背は低いし、今まで押し付けられて来た期待を幾つ裏切って来たかなんて解らない。向けられる感情なんて羨望か期待か同情くらいのものだ。でも、欲しかったのはそんなものじゃない。
 高槻は何処か満足したように笑って頷いた。
 その時だ。野球部が練習している奥から揃った掛け声が聞こえ始めた。
 イッチニーサンシー、イッチニー、ソーレ。
 イッチニーサンシー、イッチニー、ソーレ。
 砂利を踏む音と共に奥の茂る桜の影から現れたランニングの集団。四人組がどよりと揺れる。校舎の影から出て来た箕輪が「何だ、あれ」と言う。先頭を走る茶髪の男が率先して声を出している。統率された動きはまるで軍隊のようだった。
 ジャッジャッジャッ。
 砂利を撒き散らすランニング軍団。何の迷いも無く直進して来るが、このままでは野球部の練習場所を完全に侵してしまう。四人組が慌てて緑のネットを動かそうとするが、先頭を走る男は何も無いかのように走っていた。四人の努力も空しくネットは薙ぎ倒されてしまう。先頭の男はその場で数回足踏みをして止まり、振り返って笑った。


「悪ィな、見えなかったよ」


 四人は睨み付けているが、茶髪の男は薄笑いのまま足元に転がる白球を踏み付けた。先程怒鳴った四人組の一人が立ち上がって睨むが、茶髪は依然として踏み付けたまま言う。


「野球部、まだやってんの? 好い加減廃部にしようぜ、見苦しくて仕方無ェよ」


 笑いを殺しながら振り向いた先に和輝がいた。茶髪はそれを見て「ほう」と鼻を鳴らす。


「新入部員来たんだ。止せばいいのに」


 茶髪は和輝の肩に手を置き、倒れたネットを起こす四人組を見て笑う。


「君もさァ、もっと見る目を養った方がいいよ? せっかく顔は良いんだから」


 和輝は目を細め、肩に乗っている手を掴んで一瞬の内に捻り上げた。表情は無く、茶髪が悲鳴を上げると取り巻きがどよりと揺れる。箕輪が慌てるのも無視して和輝は口を開いた。


「――れ」
「あ?」
「謝れって言ったんだ!」


 茶髪は表情を歪めて握られていない方の手で拳を握る。だが、当然振り下ろされる事は無かった。
 高槻は振り上げられた手を押え、微笑みさえ浮べながら和輝の手を離す。高槻を確認した時、茶髪の表情が引き攣った。


「高槻、君……いたんだ」
「キャプテンがいるのは当たり前だろ。随分勝手な事をしてくれているけど、生徒会は陸上部員に他の部活への干渉権利なんて与えていない。これは次回の予算委員会で参考にさせてもらおう。それから、部長にも報告しておく」


 和輝は頻りに頷きながら舌を巻く。自分と同じくらい小さい先輩が生徒会長だとは俄に信じ難いが、この話を聞く限り彼は本物の生徒会長なのだ。
 茶髪はぐっと息を呑んだが、開き直ったように笑う。


「……あれ、なんか腕痛いな」


 高槻は目を細めた。


「いてて。あぁ、筋痛めちゃったかなぁ。……これって傷害だろ」
「な!」


 和輝は進み出る。


「ふざけんな! 何が傷害だよ! 俺は」
「先輩に向かってなんて口の利き方だ。謝れよ、一年」
「そうだ、謝れ」


 最初の一人を皮切りに取り巻きが一気に騒ぎ出す。


「謝れ!」
「謝れ!」
「謝れ!」
「謝れ!」


 噴出した謝れコールに和輝は一歩身を引いた。
 何なんだ、この集団。
 尚も続く声の中、茶髪は颯爽と歩み出て笑った。


「ほら、謝れよ」
「謝るのは、お前だろ」


 負けじと和輝も睨むが、圧倒的な声の量に足は無意識に後退さる。茶髪は追い討ちを掛けるように言った。


「学校に訴えて野球部廃部にしてやろうか」
「野球部は関係無いだろ! 俺は」
「……俺は?」


 高槻が進み出て言う。


「『俺』はもう野球部だろ?」
「え……」


 高槻は笑った。


「さて、こいつが野球部である以上頭は簡単に下げさせられないな。どうしようか」


 そう言って不敵な笑みを浮かべる高槻の頭の中には既に考えがあるようだった。何時の間にか止んだ謝れコールの代わりに静寂が広がっている。高槻は「そうだ」とわざとらしく手を打った。


「勝負しようか」
「勝負?」


 茶髪が身を乗り出し、高槻は指を突き付ける。


「百メートル走。勝ったら俺が頭でも何でも下げてやるよ」
「キャプテン!」


 四人組が声を荒げて止めようとする。しかし、高槻は表情を消して続けた。


「その代わり、お前が負けたら謝れ。いいな」
「ちょ、キャプテン!」


 今まで黙っていた箕輪が慌てて割って入る。声を潜めて「相手は陸上部ですよ」と説得するが、高槻は平然と認めて頷く。状況に取り残され掛けていた和輝に向き直り、高槻は言った。


「俺の頭はお前と違って軽くねェからな。負けたらリンチじゃ済まさねェぞ」


 和輝は口を結んで一寸間黙り、ゆっくりと笑みを浮かべる。
 顔は整っている。丸い目は幼い印象を増長させるが、その顔立ちは正しく天才と呼ばれる彼の兄、蜂谷祐輝にそっくりだった。あの天才が甲子園のマウンドで見せたものとそっくりな笑みを浮かべ、和輝は屈伸を始める。


「誰に言ってるんスか」


 吹き抜ける風が髪を揺らす。和輝は着ていたブレザーを鞄の中に突っ込んで茶髪に向かって先程の高槻と同じく指を突き付ける。
 自分より遥かに小さい一年を相手にして、陸上部三年の茶髪が乗らない訳にはいかない。意地やプライドも全部ひっくるめて茶髪は負けじと笑ってやった。顎をしゃくって付いて来るよう促して歩き出す。取り巻きさえ勝ったものだと笑い、野球部四人組と箕輪が心配そうに顔色を悪くさせる中で和輝と高槻だけが笑っていた。

2008.2.22