グラウンドは奇妙な空気に包まれている。初春の温かな日差しが降り注ぐ広いグラウンド、陸上部の使う範囲に引かれた二つのコース。他の部活も練習を止めて野次馬に変わってしまっていた。
 高槻の提案した一見圧倒的に不利な勝負に皆興味津々だ。野球部側は顔を青褪めさせ、陸上部側は薄笑いを浮べながら声援が飛び交わせている。当事者である和輝はスタート地点で制服を早々と着崩し、高槻に借りたスパイクを履いて準備運動を始めた。
 箕輪は真っ青だった。周りに集まった予想以上の人だかりを見れば当然の事だろう。こんな人込みの中で生徒会長でもある高槻が陸上部に向かって頭を下げるとは一体どういう事なのか。
 野球部は大会も出られない総勢五人の部活だ。有名なスポーツ校である晴海高校で野球部が廃部を免れているのは偏に高槻のお陰と言っても過言では無い。彼が生徒会長として生徒に認められているからこそ、同窓会にも近い状況の野球部が何とか練習する事が出来ているのだ。その高槻がこの場で頭を下げるような事になったら面子は丸潰れになってしまう。
 予想外に大事になった勝負を前に箕輪は隣りで腕を組んでどっしりと構えている高槻に声を掛けた。


「大丈夫なんですか?」


 高槻は笑い、陸上部の声援を一身に受ける茶髪を顎でしゃくる。


「あいつは陸上部三年の木島慶太郎。勿論レギュラーの一人でそれなりの結果は残して来た」


 絶望的な情報だ。箕輪の顔から一層血の気が引いて行くのを横目に高槻は言う。


「でもな、お前の連れも面白い奴だぞ?」
「え?」
「俺があいつを初めて見たのはもう三年も前の事だったかな」


 古い思い出を懐かしむように高槻は口を開き、ゆっくりと語り始めた。
 三年前の初冬、シニアリーグに所属していた高槻はまだ引退した直後だった。強くも無ければ弱くも無い極々普通なチームに入って普通に練習してそこそこの成績を残して後輩の涙の中引退した。
 高校を晴海高校に決め、受験の為に勉強やら何やらで忙しい毎日が始まろうかというある日。夏を彷彿とさせる妙に暑い日だった事を覚えている。異常気象だとか騒ぐニュースを聞き流しつつ、偶の息抜きという事でシニアリーグの関東大会の決勝戦を見に行く機会があった。神奈川を代表する橘シニアチームが出場すると言えば観客の目的はあの投手しかいない。
 天才・蜂谷祐輝。
 太陽の光を背負っているかのように彼を包む空気は輝いていた。人目を引く容姿は勿論の事、その類稀な才能に迫力。遠目に一度見ただけで高槻自身、彼が天才と呼ばれるに相応しい男だと解った。
 投げれば三振、打てば長打。郡を抜く実力に誰もが舌を巻いた筈だ。それが同い年だと知れば、体格的には余りにも恵まれなかった高槻は虚しさのようなものを覚えた。だが、緑色の巨大な電光掲示板が示すスターの存在は当然一つではない。一人の天才が余りにも目立ち過ぎているせいで気付かなかったが、橘シニアには確かに『蜂谷』の名は二つ有った。一つは五番の投手『蜂谷(祐)』である。そして、もう一つ。トップバッター『蜂谷(和)』だ。
 聞いたところ彼等は兄弟だと言う。興味が沸いてグラウンドに目を向けるが、それらしい選手は何処にもいない。確かに皆上手いけれど、あの蜂谷祐輝と兄弟と言われてすぐに解るような選手は見つけられなかった。
 暫く視線を泳がせていると、隣りの友達が肩を叩いた。


「ホラ、あれだよ。あれが弟」


 指差す先はバッターボックス。バットを持っているのは選手の顔はヘルメットの影で見えない。だが、弟と言われても兄のように空気が輝いている訳でも無い。噂も聞いた事が無いし、見る限り体格も良くない。無い無い尽くしの弟。背負わされただろう期待、向けられただろう同情。高槻は後者と同じ目で和輝を見ていた。だが、隣りで再び友達は言う。


「余り知られて無いけどさ、実はあいつが凄いんだよな」


 言葉の意味を理解したのはそれから数秒後の事だった。


天才の名前・3

向けられた優しさの分まで俺は、


「あいつの異名を聞いた事ないかな」


 話を切って高槻は聞いた。箕輪は突然振られた問いに慌てて首を振る。


「あいつが蜂谷祐輝の弟だって知ったのもついさっきですから。でも、橘って名前はシニアリーグやってなかった俺でも聞いた事あります」


 箕輪は屈伸する和輝に目を向け、高槻は頷いた。


「去年は全国大会に出場してるからね。あいつがいた年だぜ?」
「へえ……」


 だが、箕輪の興味はそれではない。和輝の異名だ。


「で、和輝の異名って言うのは……」
「ああ」


 意味深に高槻は笑い、スタート地点に着いた二人に目を向ける。
 和輝と木島は両手を地面に突けて同じように屈んだ。そして、審判の「用意」という声で膝を上げる。皆の視線が集まり、グラウンドは奇妙な緊張感と静寂に包まれる。
 青空に向けられた黒い銃、審判は薄く笑った。
 審判は当然、陸上部員。木島の息が掛かった者である。スタートのタイミングは打ち合わせ通り、スタートダッシュから既に大きく違うだろう。そして、一度引き離されてしまえばたったの百メートルで挽回する事は出来ない。勝負は決まったものだと木島は少し笑った。
 ずっと高槻という存在が気に食わなかった。生徒会長だか何だか知らないが、チビの癖に皆から一目置かれているのも気に食わない。これまでは何も出来ないでいたが、まさかこんなチャンスが舞い込んで来るとは思わなかった。
 土下座させてやる。木島はそう思った。
 空を差す銃、引っ掛かった人差し指に力が篭る。そして、次の瞬間、グラウンドに乾いた音が響いた。
 パンッ。
 空気がざわりと揺れる。スタートの合図だ。予定通りに木島が飛び出し、一瞬の遅れの後に隣りに小さな背中が並ぶ。
 百メートル走は『世界最速を決めるレース』と呼ばれる。その流れは大まかに分けるとスタート・加速・中間疾走・フィニッシュである。瞬発力を必要とするスタートは勿論、加速も重要になるプロでは高い技術力も必要とされる。
 木島の勝利は最早誰もが確定的だとしていた。何しろ、彼等陸上部は毎日走り、その一秒にも満たないタイムを縮めようと日々努力を重ねている。走るというある意味原始的な競技のプロフェッショナル、計算されたとは言えそのスタートダッシュには誰もが舌を巻いた。
 乾いたグラウンドを蹴る足には隆々たる筋肉が浮び、周りの景色を目にも留まらぬ速度で通り過ぎさせてしまう。加速する長身、茶髪が後ろに流れて行く。周りの歓声が聞こえた。
 だが、和輝は表情を変えなかった。目に映るものは正面のゴールのみで周りの歓声も景色も何も分からない。モノクロに変わった一直線のコースで足元の砂が只管跳ねた。頬を撫でる風が冷たく、走るには適していない制服が風で膨らんでは踊る。
 残り十メートルも無い。木島が勝利を確信した時、斜め後ろで砂利を踏む音が迫っている事に気付いた。冷たい何かが背中を伝うが、振り返る隙などある筈も無い。
 高槻は殆ど予想通りになったレースを見て漸く素っ気無く一言、箕輪に答えた。


「あいつの異名はね、韋駄天だよ」


 レースに目を奪われていた箕輪が振り返る。その時だ。
 それまで飛び交っていた声援が変化し、奇妙な静寂が訪れた。ゴール地点にいた審判が動きを止め、走り抜けた二人はゴールの先で膝に手を突いて息を整えている。
 和輝は乱れた服を直し、無表情に木島を見ていた。箕輪は慌てて周囲に目を回す。


「どっちが勝ったんですか!」
「決まってんだろ」


 高槻はゴールを指差す。


「まさか……、嘘だろ……」


 息を呑む箕輪の隣りで高槻は笑った。
 箕輪の声を合図にしたかのように歓声が一気に噴出した。野次馬の群れが揺れ動き、全ての予想を裏切った少年に向かって驚愕と賞賛の声を飛ばす。和輝はスタート地点の近くにいる高槻と箕輪に向かって子供染みたピースを向けて笑った。
 箕輪は思い出したように高槻に向き直る。


「韋駄天って言うのは」
「今じゃ足が速い人の代名詞だけどさ、元は神様の名前なんだよ」


 高槻は駆け寄って来る和輝に軽く手を振りながら言った。


「子供の病を除く神とも言われてるらしい。捷疾鬼っていう足の速い鬼が仏舎利を奪って逃走した時に韋駄天が追い掛けて取り戻したっていう俗伝から、良く走る神様だと言われるようになったんだって」
「……詳しいっすね」


 箕輪は混乱しそうな話をどうにか理解し、苦し紛れに笑う。だが、高槻は笑わなかった。


「多少の皮肉も込められてるんだろうけどね」
「え?」


 それ以上、高槻は言わなかった。和輝はボサボサになった髪を直しもせずに子供っぽく「勝った」と笑っている。
 観客と化した野次馬が拍手さえ送る中、敗者となった木島は重い足取りで近付いて来る。和輝は笑ってまた、ピースサインを向けた。
 約束は約束だと渋々木島が頭を下げようとした時、列になっていた野次馬がぱっくりと二つに割れ、ざわめきと共に一つの道を作り出した。突然現れた無人の帯、少し先から歩いて来る一人の背の高い女子生徒。高槻は小さく溜息を吐く。
 現れた女子生徒は楽しそうな笑顔を貼り付け、ポケットに片手を突っ込んだまま歩み寄って軽く手を上げた。


「よう、何してんの?」


 箕輪が声を潜めて正体を問うと、高槻は素っ気無く答えた。


「陸上部キャプテンの相馬美希子」


 美希子は人の良さそうな笑みを浮かべ、ゆっくりと後退さる木島に目を向ける。


「お前は何をしてんのかなぁ」


 優しそうな笑顔の背後に黒い空気が渦巻いているように見えるのはどうしてだろうか。すっと背が高く、細いがしっかりと筋肉の付いた足はカモシカのようだ。整った顔立ちで少し吊り上がった大きな目は気の強そうな印象を与える。
 高槻は口に指を立てて足音を忍ばせ、こっそりとその場を離れて行く。和輝と箕輪も顔を見合わせて後を追う。だが、美希子は逃げて行く高槻に気付いていた。


「トモ、またな!」


 男のような荒々しさで美希子は言い、高槻は振り返って苦々しそうな顔で睨む。後ろで箕輪が茶化すように「彼女ですか」と問うが、高槻は鼻で笑った。


「まさか、あんなデカ女。……幼馴染だよ」


 後ろに聞こえる歓声も遠く、和輝は高槻を追って歩く。『幼馴染』という単語に匠の顔が過るけれど、彼は今県内にはいないのだ。胸に微かな痛みを覚えつつ、和輝は砂で汚れた高槻のスパイクのつま先を見詰めている。
 その後、高槻は五人だけの野球部で練習を始め、着替えも何も用意していない和輝と箕輪は家に帰された。途中通り掛ったグラウンドではさっきの騒ぎなんて無かったように各部活が練習を続けている。陸上部は高槻の幼馴染だという美希子が仕切り、敗者の木島は端の方で只管筋肉トレーニングしていた。一瞬目が合ったような気がしたが、お互いに何も言わず、和輝は箕輪の話に耳を傾けながら校門を出た。
 長閑な昼下がりの町は静かだった。自転車通学の箕輪と学校の傍にある駐輪場で別れ、一人川縁の道を行く。今朝通った道は相変わらず平和で川のせせらぎと電車の車輪の音が聞こえていた。
 足に微かな疲労を感じ、今日は走ってばっかりだなと苦笑する。その足を休めるように川縁の緑の斜面に座ると足元から青臭い匂いが上り、遠く過去の記憶を思い起こさせた。砂塵の舞うグラウンドも、乾いた音全てが穏やかな川の流れのように近付いて来る。ゆっくりと瞼を下ろし、訪れた闇の世界に意識を手放す。現実から歩き出した思考は自分でも驚く程簡単に闇の中に沈み込んで行った。
 中学時代、まだ兄がチームにいた頃は毎日が辛かった。向けられる好奇や同情の眼は痛かったけれど、本当に痛かったのは自分自身だったのだ。欲しかったのは労わりでもなければ羨望でもなく、同情ですらない。


(だって俺は、兄ちゃんの弟に生まれた事を誇りに思うんだから!)


 許せなかったのは兄に対する劣等感ではない。歪んだ感情を向けられる自分自身の弱さだ。恵まれなかった体格や才能を埋めるように重ねた努力は偽りの『才能』という言葉で隠されてしまった。いや、隠したのは自分自身だと和輝は既に気付いている。
 “あの兄にして、この弟あり”と呼ばれていたかったのだ。泥を塗りたくなかった。ちっぽけな弟のせいで兄の存在が貶められるのは何よりも許し難い事だったからだ。
 同情で満足出来る程弱くはなかったが、全てに嘘を吐き続けられる程に強くはなれなかった。中途半端さから生まれた矛盾は、砕け始めた偽りの破片は鋭く己自身を刻み始めた。でも、その棘を抱えて行こうと決めたのは自分だ。自分が覚悟して決めた道を他の誰が邪魔出来ると言うのか。
 次第に闇は周囲を埋め始めた。どのくらいの時間こうしていたのか、目を開けると夕陽は西の空に沈もうとしている。朱を広げた空は次第に紺を帯び、少しずつ色を深めて行った。日が長くなっている筈の春先だが、外灯の少ない川縁は殆ど闇の世界に囚われている。
 重い体を起こし、再び帰路に着く。正面に伸びる乾いたアスファルトの道を照らす点々としたスポットライトから逃げるように和輝は角を曲がって行った。
 今朝と同じ道を抜け、閑静な住宅街に並ぶ自宅を見上げた。午後七時を回った周囲の家は光に包まれて賑やかな笑い声が響くのに、自分の家だけが取り残されたように闇に沈んでいる。鞄の中から取り出した鍵には姉が冗談半分に買って来た不気味なキーホルダーが揺れていた。
 兄は遅くまで部活の練習があり、県境とは言え千葉にある学校まで自転車で通っているのだから帰りはいつも十時近くになる。父はカウンセラーとして小学校等の色々な施設を回ったり、大量のデスクワークに忙殺されたり、通常のそれ等よりも遥かに多忙な日々を送り、当然帰りは遅い。それに対して寂しいとか悲しいという感情を持てる程、子供にはなれなかった。でも、だからと言ってそんなに早く大人になれる訳ではない。
 鍵を捻って扉を開ければ、外よりも一層深い闇の世界が顔を出す。玄関の電気を点けてから扉を閉め、靴を脱ぎ捨ててからゆっくりと自室に向かった。
 部屋も当然闇の中だ。今朝出たままの部屋向こう、窓の外は光に溢れた夜の住宅地が広がっている。向こう隣の匠の家も晩御飯の時間らしく台所の明かりが点いていた。匠はいない。でも、彼の怒っているような悲しんでいるような顔を思い出すと遣り切れない気持ちになる。
 カーテンで外の世界を遮り、部屋の明かりを点けた。白い光が照らす中で脱いだ制服をベッドの上に放っていつものジャージに着替え、また部屋を闇に戻してから飛び出した。
 階段を駆け降りて散乱した履き慣れた某スポーツメーカーの運動靴に足を通して玄関の扉を押し開ける。
 息苦しい。心臓が機能を失おうとしているのか、幾ら息を吸っても酸素が肺に満たされない。死の瞬間はこんな感じなのかなんて事を頭の隅で考えた時、目の前に影が出来ている事に気付いた。
 黒縁の眼鏡を掛けたスーツの男が父親だと解り、和輝はほうっと息の塊を吐く。裕は闇の中にある家から飛び出そうとする息子の頭をくしゃりと撫でて蕩けるような笑顔で言った。


「お疲れさん、いってらっしゃい」


 途端に心臓は思い出したかのように動き出す。和輝は唇を噛み締めて数秒俯いて黙り、ゆっくりと顔を上げて明るく笑った。


「行って来ます」


 きっと、自分の為に仕事を早く切り上げて帰って来てくれたんだろうなと思った。
 今日早く帰った分、明日は今日以上に忙しくなるんだろう。それでも、息子の高が高校の入学式の埋め合わせみたいに早く帰って来てくれる。それなのに家を勝手に飛び出して行く息子を見て文句も無く笑って『いってらっしゃい』と言ってくれるのだ。
 晴海高校を受験したいと言った時、笑顔で黙って背中を押してくれたのは父だけだった。何も言わずに解ってくれたのは、父だけだったのだ。
 和輝は裕の横を摺り抜けるようにして門を飛び出して走り出した。きっと今も、振り返れば父は笑顔で見送ってくれているのだろう。

 無言で走り慣れた道を駆け抜け、どのくらい走ったのか気付いた時は汗だくで今朝の河川敷に立っていた。闇に沈んだ川は何処か不気味で、幽霊と呼ばれる魂だけの存在が犇いているような気がする。
 電車が通過する轟音が遠く聞こえ、和輝は吸い寄せられるように緑の斜面に座り込む。一つ息を吐くと後ろで砂利を踏む音がした。


「よう、また会ったな」


 振り返って見れば、昼に会ったばかりの高槻がポケットに手を突っ込んで立っていた。隣りには陸上部キャプテンでただの幼馴染だと言う美希子がいる。
 高槻はゆっくりと斜面を下り、和輝の隣りに立った。


「こんな時間に一人で何してんだ」
「キャプテンこそ、こんな時間にデートですか?」
「ははは、殴るぞ」


 高槻は拳を握って笑う。
 美希子はその隣りに立ち、ポケットから闇に浮び上がる軟球を取り出した。


「君、あの蜂谷祐輝君の弟なんだよね? あたし、小学校まで男の子に混ざって野球してたんだ。キャッチボールしない?」


 和輝は手を突いて立ち上がり、白い歯を見せて笑う。
 良いっスよ。二人は河川敷に降りて行く。
 高槻はキャッチボールを始めた二人を眺めながら座った。掌が軟球を受け止める乾いた音が響き、白いボールは闇の中を跳躍して行く。電車の車輪の音やせせらぎもあるのに、二人を包む世界には音が無いように感じられた。和輝も美希子も楽しそうに笑い合い、時たま美希子の暴投が和輝の遥か後方に飛び出して行くけれど楽しそうだ。それなのに、高槻は困ったような和輝の笑いを思い出していた。
 子供っぽく無邪気に明るく笑う。それが嘘だとは思えないけれど、あの時見せた妙な笑いは一体何だったのだ。
 二人がキャッチボールを続ける中、高槻の隣りに一人の少年が立った。二人は気付かない。高槻は隣りの少年を見上げて少しだけ首を傾げた。少年は黙ってキャッチボールを見詰めていたかと思えばどかっと胡座を掻いた。


「何だよ、あいつ」


 広がる闇の中で色素の薄い猫のような目が光っている。高槻は正体も問わず、再び楽しそうにキャッチボールする二人に目を向けた。
 猫目の少年、白崎匠は不満そうに唇を尖らせて言う。


「何で、あんなに楽しそうにキャッチボールなんかしてるんだよ」


 ぶっきらぼうな口調には怒りのような感情が込められているようだった。高槻は少しだけ笑う。


「楽しいからだろ」


 匠は睨むように高槻に目を向けた。


「本当に楽しいと思いますか?」
「あれは、嘘偽りの笑顔じゃないよ」
「あんたに何が解るんスか」


 鼻を鳴らして目を背けた匠に高槻は言う。


「誰でも見れば解るよ。あんなに解り易いやつ、そういないさ」


 高槻は笑った。


「楽しいんだよ、あいつはきっと。周りが何を言っても真っ直ぐ歩いて来たやつだから」


 匠は少しだけ力無く笑い、肩を落とす。そして、呟くように言った。


「……知ってますよ、そんな事」


 続いていたキャッチボールの中、再び美希子の暴投でボールが大きな弧を描く。零れる笑い声を遠くに聞きながら匠は目を伏せた。


「だから……、だから、あいつは馬鹿なんだ。昔からそうだ。もっと楽な道はあるのに!」
「そうだなァ。俺も蜂谷祐輝の弟なんて、すっげー捻くれたやつだと思ってたよ」


 匠は首を振る。


「……捻くれる訳は、無いんスよ」


 匠は笑った。


「人並み以上の才能と外見と運動神経。頭と身長はともかくとして、あれだけ恵まれてどうして捻くれるんスか。兄貴も実は結構過保護だし、あいつには捻くれる理由が無かったんです」


 再び乾いた音が続き始めた。
 行くぞー、そーれ。
 二人の笑い声が河川敷に響く中、匠は言う。


「周りの嫉妬や羨望や期待の中で真っ直ぐ生きて来たから、捻くれちまえって言われる中でちょっと意固地になってるんスよ。生きるのが下手なんです、苦手なんですよ」
「生きるのに上手いも下手も無いだろ」
「あります。現に、あいつは下手糞だ!」


 匠がそう言った時、続いていたキャッチボールの音は止んでいた。高槻達が顔を上げると何時の間にか和輝は腰に手を当てて匠の方を睨んでいる。


「悪かったな、下手糞で!」


 キャッチボールの事だと思った和輝は勇み足で匠に詰め寄る。匠は鼻で笑って立ち上がり、自分よりもずっと小さい幼馴染を見下すように笑ってみせた。


「本当だよ、ノーコン! 昔から変わらねェなァ」
「うっせぇ!」


 昔から何も変わらないままだと、二人は口にしないまでも心の何処かで安心していた。和輝は匠がここにいる理由も問わずにそのまま背中を向けて再び河川敷に降りて行く。
 またキャッチボールが始まった。高槻は言う。


「楽しそうだろ?」


 匠は苦笑して頷いた。


「変わっちまったと思ってたのは、勘違いだったみたいだ」
「変わった?」
「あいつは晴海高校を受験した理由を今でも教えてくれない。今更になってあいつが捻くれたり歪んだりして逃げても、誰も文句なんて言わないのに。――いや、言わせないのに。それでも、あいつは言ってくれなかった」


 悔しかったんですよ。
 匠はそう言って笑う。あの時、だんまりを決め込んだ和輝は少しだけ俯いていた。弱音一つ吐いた事の無い生き下手な幼馴染は最後の最後にも頼ってはくれなかった。
 だが、高槻は首を傾げる。


「あいつは逃げてないよ?」


 匠は顔を上げ、高槻は不思議そうに言った。


「だってさ、あいつは俺の学校で野球部入ってんだぜ。普通は逃げるなら知り合いも野球部も無い遠くの学校行くだろ。それでもあいつがここにいる理由を逃げたって思う?」
「じゃあ、何で」


 高槻は笑う。


「逆なんじゃねェの? お前、自分で言ってたじゃん。真っ直ぐだって。だからきっと――」


 あいつは、『真っ直ぐ』歪んだんだ。
 高槻は続けようとした言葉を呑み込み、キャッチボールを止めた二人に目を向ける。聞こえていたのかも知れない。和輝は少しだけ俯いていた。
 美希子が掌の中に収まった軟球をポケットに仕舞い込んで終わりだと告げると和輝はゆっくりと足を進め、匠の隣りに立った。


「――――スよ」


 呟くような口調は消え入りそうで聞き取れない。匠が聞き返そうとする前に和輝は言った。


「俺だって、解ってるんスよ」


 崩れるようにしゃがみ込んで和輝は言う。


「期待とか羨望とか全部すっ飛ばして、差し出される同情の手に縋っちまえばいいって事くらい、俺だって解ってるんです。でも、出来なかった。……俺は、お前が思ってる程強くもなければ弱くもないんだよ」


 匠は何も言わず、ただ耳を傾けた。ずっと隠し続けて来た本音が少しずつ零れ落ちて来る。
 自分という人間を見詰めて来た。そうでなければ歩き出せないと解っていたから、その上で晴海高校を選んだ。晴海高校を選んだ理由はそこにある。強くもなければ弱くもない中途半端な自分とよく似ていたからだ。そして、ここなら、逃げたと思われないと思った。


「可哀相なんて言われたくない。同情の目でなんか見られたくない。心配だっていらない。なぁ、匠。俺は兄ちゃんの有無で決められる程薄っぺらい中身の無い人間だった? 退屈でつまらない人間なの?」


 答えは返って来ないけれど、和輝は続けた。


「俺が兄ちゃんへの劣等感の塊だと思わないでくれよ。俺は弟に生まれて嫌だとか、兄ちゃんが憎いだとか、そんな事を考えた事は今まで一度だって無いんだから!」


 高槻はその言葉も遠く、和輝の真っ直ぐ歪んだ理由がそこにあるのだと解った。余りにも真っ直ぐ過ぎるのだ。汚れた世界で生きるには余りにも純粋過ぎるのだ。少しくらい歪まなければならないところでも意固地になってしまっているから生きるのが下手だと言われるのだ。
 けれど。
 高槻は、すっかり顔を伏せてしまっている和輝の肩を匠越しに叩いた。顔を上げた和輝はいつもと何も変わらない。


「お前は本物の馬鹿だなァ」


 和輝は少しだけ笑った。
 生き下手だと言われる自覚はあるのだ。けれど、どうしても逃げようとは思えない。逃げる先はあるから、何処までも走って遣りたくなる。当たり前のように黙って知らん顔で逃げる先を用意してくれるから、絶対に逃げたくないと思ってしまう。逃げるくらいなら、諦めるくらいなら死んでやるとさえ思ってしまう。
 人に優しくなりたいと思った。その度に何度も手を差し伸べた。強くなりたいと願った。その為に努力も重ねた。けれど、本当に欲しかったのはそんなものではなかった。
 欲しかったのは全てを包み込んでくれる優しさでもなくて、弱さと向き合える強さでもなくて。ただ壊死しようとしている心を切除してくれるような残酷さだった。
 だから、自分を包む全てのものと向き合いたかったのだ。逃げたとだけは思われたくなかった。そう思われれば絶対に誰かが嫌な思いをするから、それなら自分が傷付く方がずっとマシだと思えた。
 そんな心中を察しているのかいないのか、高槻は笑ってしまっている。


「お前のその馬鹿さはいつか身を滅ぼすよ。でもな、俺はお前がそういう馬鹿で良かったと思う」


 高槻は立ち上がって斜面を登り始めた。美希子は手を振って同じく歩き出し、高槻は背中を向けたまま言った。


「じゃあな、和輝。また明日」


 初めて名前で呼んだな、なんて思いながら高槻は歩いて行く。和輝は振り返らない二人の背中を見送り、大きな声で挨拶をした。二人の後姿は闇に消えた。
 匠も立ち上がって歩き出す。


「一言くらい、言ってくれても良かっただろ」


 和輝は何も言わない。だが、上の道に辿り着いた匠が振り返って「なぁ」と言うので和輝は答えた。


「お前は理解出来ないって言っただろ。……否定しただろ」
「当たり前だ!」


 匠は怒鳴り、上って来る和輝の頭を叩く。


「俺は、お前と野球したかったんだよ!」


 数秒の沈黙の後、和輝はくすりと笑った。
 匠が文句を言うが、和輝の笑いはだんだんと大きく爆笑になる。始めからそう言ってくれれば良かったと思うのもまた、お互い様だったのだろう。
 久しぶりに二人並んで家路を辿る途中、匠が帰って来た理由も聞いた。取り残した問題を片付けに来たのだと言うが、問題というのは勿論和輝の事だった。
 お互い玄関の前で意味深な笑みを浮かべて向かい合って立つ。


「明後日までこっちにいるから、また明日な」
「俺は学校だよ」
「知ってる。部活、見に行ってやるよ」
「いらないなァ」


 和輝は笑って背中を向け、玄関の扉のノブを掴む。手に力を込めたところで匠は言った。


「また明日!」


 振り返った時、匠は既に家の中だった。
 和輝は少し笑いながら玄関の扉を開ける。予想と反して明るい玄関に驚き、眩んだ目を擦る。潔癖の気がある兄は電気を点けっぱなしにしないから父だろう。だが、それは間違いだった。


「お帰り」


 祐輝が壁に凭れ掛かっている。眉間には不機嫌そうに皺が寄り、短い髪は風呂から上がったばかりらしく濡れていた。それからずっと待っていたのだろうか。和輝が問おうとした時、奥から裕が歩いて来る。


「お帰り、和輝」


 困ったように裕は祐輝を見て「だから言ったろ」と笑う。
 和輝は靴を脱ぎ、何か言い合う二人を通り過ぎる。居間と廊下を分ける扉の前で漸く振り返り、後ろを歩いて来る父と兄に向かって笑った。


「ただいま」

2008.2.22