静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。数度繰り返した後に和輝は腹に力を込め、声を張り上げた。


「野球部新入部員募集中でーす!」


 放課後の昇降口は人がごった返している。行き交う生徒は皆一様に奇妙なものを見るような目付きで横目に和輝を見て通り過ぎて行った。めげる事無く更に声を張り上げ続ける和輝の傍には箕輪がしゃがみ込み、様々な運動部がいつものように熱心に練習しているグラウンドをぼんやりと眺めている。
 和輝がもう一度大きく息を吸い込んだところで箕輪はその袖を引いた。


「おい、もう止そうぜ」


 通り過ぎて行く人は振り返りもしない――訳ではないが、ほぼ全てが求めている人材とは違って女子生徒。箕輪はその様を暫く冷ややかな目で見ていたが、茶化したり冷やかすのも既に飽きてしまった。
 現在晴海高校は部活動の仮入部期間中。部活動の参加が義務付けられている為、一年生はこのおよそ一週間の間にめぼしい部活に参加するお験し期間という訳だ。
 野球部は和輝と箕輪の入部が確定したとは言え、現在総勢七人。最低でもあと二人いなければ試合も出来ないし、もしもこのまま夏の大会に出場出来なければ部の存続さえ危うい。そこで、キャプテンである高槻が一年二人に部員を集めて来いと命令した訳だが。


「さ〜〜っぱりだなぁ〜〜」


 箕輪は盛大な溜息を吐いた。和輝は苦笑しつつ隣りにしゃがみ込む。


「一人や二人来てもおかしくないのになぁ」
「一人や二人は既にここにいるけどね」
「やー、あと二人」


 和輝は笑った。


「多分野球部が今五人しかいないって皆知ってるんだよ」
「そう絶望的な事言うなよ……」


 箕輪はがくりと頭垂れる。


「俺達も転部を視野に要れた方がいいと思うぜ」
「えぇー……。じゃあ、箕輪は何処にすんの?」
「そうだなぁ」


 腕を組んで暫く考え込む箕輪を横目に和輝は変わらない毎日を繰り広げるグラウンドに目を向けた。何処も仮入部期間だというのに一切の手を抜かずに熱の入った練習を続けている。野球部も場所は同じ。違うと言うのなら場所が校舎裏で、部員が遥かに少ないという事だけだ。
 箕輪が唸る横、突然和輝の視界は黒い影に遮られた。顔を上げて見れば見覚えのある、しかし、いる筈のない少年が仁王立ちしている。和輝は笑った。


「何でこんなところにいるんだよ。……匠」


 匠は「やれやれ」とでも言うように溜息を吐いた。


「これが晴海高校野球部の練習?」
「うっせーな、違うよ!」


 振った拳は空を切り、上から匠の笑い声が降って来る。見下ろす態度が気に食わなくて立ち上がるが、結局身長差は埋まらず匠の笑いを一層深めるものになった。
 箕輪が隣りで耳打ちする。


「誰?」
「幼馴染だよ」
「幼馴染ねぇ……」


 箕輪はまじまじと匠の顔を見て呟くように言った。


「類は友を呼ぶんだな」
「類って俺か?」


 眉間に皺を寄せて自分を指差す和輝を見て匠は首を傾げる。


「野球部の練習ねェの? せっかく来てやったのに、つまんね」
「いや、あるよ。でも、一年は部員募集っていう雑用が……」
「部員なんて勝手に来るだろ。つか、二人しかいねェのかよ」


 和輝と箕輪は顔を合わせて口篭もった。


「野球部は……今、七人しかいないから」


 恐る恐る和輝が言うと、匠は猫のような目を一層丸めて動きを止めてしまった。


「ば、」


 言葉は続かない。和輝は昨日高槻がいる場面で言っておくべきだったと密かに反省するが、今更どうしようもない。この先に説教が始まる事は目に見えていたので身構える。しかし、予想に反して匠は冷静に腕を組んだ。


「……、……何で」


 前半部分の沈黙には葛藤が見て取れるが、ここは黙って短気な幼馴染の成長を喜んでおく。眉間に皺を寄せる匠の組んだ腕が怒りに震えているように見えるのもきっと気のせいだ。
 和輝が自分に言い聞かせている横で箕輪が首を傾げた。


「部内で対立したって聞いたけど」
「誰と誰が」
「そんなの知らないよ」
「知ってろよ! お前の部活だろ!」


 突然怒鳴られ、和輝は耳を塞いだ。


「お前っていつも行き当たりばったりだよな! もう中学とは違うんだぞ! ここにはお前の兄貴も俺もいないんだからな!」


 昇降口の前で正座をさせられて和輝は匠の説教に対して「ご尤もです」と頻りに頷いている。流石に生まれた頃からの付き合いなので、下手に逆らうと火に油を注ぐ事になると解っている。


「シニアの時もキャプテンの癖に試合日程忘れて朝俺が何回起こしに行ったと思ってんだ!」


 怒りが過去まで遡り始めた横で箕輪は黙ったまま静かに首を傾げる。


「そういえば、何で俺達の部活って五人だけになったんだろうなぁ……」


トワイライト・トゥモロー・1

歩き出した道には迷いも後悔も許されない


 校舎裏はずらりと立ち並ぶ桜のお陰で日差しが殆ど差し込まない。満開になった桜花が散る様は儚く幻想的なので美術部が時たまスケッチに来る事もある。
 太陽が傾き始め、野球部も一息入れようと休憩を挟む。たった五人の部員、四人が水分補給やらトイレやらに校舎裏を離れても高槻だけは壁に向かい合ったままだった。
 掌には白いボールが収まっている。多くの部員が去ってからも用具の量は変わらないので、前回の予算委員会で野球部の経費は大幅カットした。余っているとはいえ、用具を買い足す余裕は無いので一つ一つの道具を以前より大切にするようになっている。
 高槻は口を真一文字に結んでゆっくりと構えた。狙う先は少し草臥れた灰色のブロック塀。こんな小さな場所を狙う事にも既に慣れてしまっている自分を高槻は心の中で蔑んでいる。
 頭の中には常に去って行く仲間達の冷たい目が思い出された。残った僅かな仲間は何も言わずに付いて来てくれたけれど、今も迷いや葛藤はある筈だ。自分の立っている場所がどれ程不安定で脆いかは解っている。でも、其処を進むと決めたのは自分だ。
 自分が決めた事だから、立ち止まれない。
 そう思う高槻は、何処と無く和輝と近しいものを感じていた。


「キャプテーン」


 噂をすれば影。いや、噂していた訳ではないけど。
 高槻は振り上げた手を下ろして声の方向に目を向けた。予想通り和輝が橙に染まった日差しを受けながら走って来る。連れているのは箕輪で、匠はややこしくなる為無理矢理帰した。だが、そんな二人の後ろに影が更に二つ。


「新入部員捕まえましたよー」


 誇らしげに笑う後輩が可愛いと思ったのは言葉を言い終わった瞬間までで、次の瞬間に目を凝らして見れば感情は怒りに切り替わっていた。
 高槻は腕を組んで目を細め、和輝は連れて来た二人の紹介を始めた。


「こっちが水崎さんで、こっちが霧生さん」
「そうか、そうか」


 二人の『女子生徒』はにこやかに頭を下げる。高槻も嫌味に笑顔を浮かべた。


「残念だけど、高校野球の大会に女子はまだ参加出来ないんだよね」
「そんな事知ってますよぉ」


 笑い合う四人は前にいる男が怒っている事に気付いているのかいないのか。和輝は二人を指差した。


「マネージャー希望ですって」
「……ああ、そう……」


 高槻は肩を落とした。確かに新入部員だ。
 計算した訳ではないだろうが、これでは叱れない。高槻は引き攣った笑顔のまま無言で和輝の頭を叩いた。
 たった七人の部活にマネージャーが二人も必要だとは思えないけれど、いないよりはいる方がいい筈だ。自分にそう言い聞かせた高槻だが、休憩から戻って来た四人が二人の女子生徒がマネージャーだと紹介された時に声を上げて喜んだので、頓知を利かせてくれた二人の一年はお咎め無しとした。
 仮入部期間の初日にマネージャーとは言え二人集まったのだから成果と言えば成果には違いない。一年二人を混ぜて練習は続いた。
 晴海高校の最終下校時刻は遅くても八時四十五分。日も暮れた八時過ぎでも各部の活動は続いているが、外灯の無い校舎裏で練習する野球部は既に片付けを始めていた。雑用は自然と一年に任されるものだが、面倒なグラウンド整備もこの野球部にはない。用具の片付けがせいぜいなものなので、和輝と箕輪は揃って転がっている白球を拾っていた。
 白いボールは闇の中で浮び上がるように見える。和輝は壁際に転がっているボールを拾い上げ、ふと傍のブロック塀に目を止めた。
 何の変哲も無いブロック塀だ。薄暗い中では殆ど解らないが、触れてみれば其処にある無数の跡に気付く。四箇所が削られているようだった。和輝は高槻がそこに向かって構えていた事を思い出し、少し奇妙な感覚を覚える。硬球とは言え、こんなコンクリートのブロック塀を削るには一体何球投げればいいんだろう。そして、何故ボールが痛んでしまうようなブロック塀を相手に一人で投げ続けるのだろうか。
 ブロック塀に手を置いたまま動きを止めている和輝を見て箕輪は面倒臭そうに呼んだ。


「おーい、和輝。サボるなよー」


 はっとして和輝は誤魔化すように笑う。


「ごめん、ごめん」
「ったく、終わらねェだろー」


 箕輪の文句を遠くに聞きながら和輝は持っていた籠を担いで用具倉庫へ向かって歩き出した。
 倉庫はグラウンドの端にあるが、他の部活と兼用なので八時を過ぎると人が溢れている。小走りに後を追って来た箕輪が置いて行った事に対して抗議するけれど、和輝は笑いながら暗い倉庫の隅に籠を置いた。その時。


「おい、野球部。んなところに置くなよ、邪魔臭ェ」


 聞き覚えのある声だなと和輝が顔を上げると、昨日百メートル競走して負かしたばかりの木島が腕を組んで立っていた。


「邪魔じゃないようにしてるじゃないスか。木島先輩こそ、そんなところに立ってると邪魔です」
「何ィ」


 詰め寄って来る木島も無視して和輝は箕輪の持っている籠を受け取って重ねる。木島が更に何か言おうとして来るので顔を上げるが、そこには言葉を失った男が立っていた。
 倉庫の入口に外の橙色の灯りに照らされた小さな影が凭れ掛かって見える。


「お前、学習しろよ」


 高槻は無表情に言い、木島を睨み付けた。
 昨日の負い目があるのか木島は舌打ちしただけで何も言わずに出て行った――訳ではないが、和輝にわざとらしく「邪魔だ」とぶつかって出て行った。
 和輝と箕輪が倉庫から出ると、高槻は既に背中を向けて歩き出している。
 言いたい事とか訊きたい事はあった。けれど、黙って向けた背中が全てを拒否している。和輝は何も言わず、隣りで「キャプテンかっこいいなー」とか言っている箕輪の言葉を聞いていた。
 部室の扉を押し開けると蛍光灯の白い光に目が眩んだ。激しい明暗の変化の中で「お疲れ様です」と軽く会釈して入る。彼方此方から飛んで来る声は友好的なものだった。
 晴海高校の野球部は仮入部中の一年を除けば五人しかいない。内二人は三年生で、残りが二年生である。三年生は言わずと知れたキャプテンの高槻。もう一人は温和で常に笑顔を絶やさないような桜橋礼司という副キャプテンだ。
 桜橋は新たな後輩二人に笑顔で「お疲れ」と言って着替え始めた。分け隔て無く公平に優しい態度を取るので箕輪はすっかり懐いている。二人が談笑する声も遠く、和輝は自分の鞄を開けて携帯を取り出した。
 未開封のメールが三通。開いて見ると、一通はメールマガジン、もう一つは匠の抗議。そして、残り一つは兄からだった。


『買い物付き合え、八時四十分に商店街入口集合』


 簡潔かつ自分勝手な俺様主義。拒否権は無い。
 和輝は携帯を閉じて素早く着替えを始めた。現在八時二十分。商店街までは走れば五分と掛からないが、潔癖症の兄が相手では一秒でも遅刻だ。
 急に慌て出した和輝を横目に高槻は早々と着替えを終えて鞄を背負う。皆の着替えを待たずに扉へ向かう背中には体育会系さながらの「お疲れ様でした」と元気な声が響き、高槻は軽く片手を上げて応えて出て行ってしまった。
 残った部員は相変わらずのんびりと着替えるが、唯一和輝には時間が無い。急いでYシャツのボタンを締めるが、掛け間違えている事に気付いて慌てて直している横で箕輪が何の気なしに桜橋に訊いた。


「野球部って何で五人になっちゃったんですか?」


 一瞬、時間が止まったようだった。静寂は突然訪れ、存在を確認する前に立ち去って行く。桜橋はきょとんとしていたが、すぐに苦笑を浮かべて言った。


「部内で対立しちゃってね」


 箕輪の情報通りだと考えながら和輝はボタンを直して行く。桜橋は続けた。


「俺も詳しくは知らないけど、高槻とキャッチャーが決裂しちまったらしい」
「それで、そのキャッチャーの先輩が辞めたら一気に?」
「ああ、そうだよ」


 桜橋は曖昧に苦笑するが、和輝はそれに違和感を覚えた。匠に言われた事だが、どうして自分達の部活の事を知らないのだ。知らないままで終わらせていいものなのだろうか。
 幼馴染の言う事も馬鹿に出来ないなと心の中で笑いながら和輝は鞄を背負った。


「じゃあ、お先に失礼します。お疲れ様でーす」
「おい、こら」


 出て行こうとする和輝の首根っこを桜橋が掴む。


「先輩より先に帰ろうとするとはどういう事だ?」
「いや、本当すいません。でも、兄ちゃんに呼び出されちゃって、遅刻すると夕飯が無いんです」
「ああ、そう」


 桜橋は舌打ち混じりに手を離した。和輝は再び扉の前で勢い良く頭を下げる。


「さよーならー!」


 時刻は八時半過ぎ。ボタンを掛け間違えたせいで時間はギリギリだが、全力疾走すれば間に合わない事も無いだろう。
 和輝はローファーを履き直して走り出そうと足元に目を向け、奇妙な丸い物体の存在に気付く。扉を半開きのまま拾い上げて光に翳し、それが汚れてはいるものの精巧な硬球の小さいキーホルダーだと解った。白い筈のボールは色褪せているのか茶色く変色し、赤い糸は解れてしまっている。
 部室内から扉を閉めろと文句が飛ぶので和輝は振り返ってキーホルダーを指先で摘んで見せた。


「これ、誰かの落し物ですか?」
「何だよ、それ」


 ネクタイを締めながら近付いた箕輪が眉間に皺を寄せる。


「見た事ねェけど、ゴミじゃねェの?」
「捨てて良いよ」


 桜橋も言うが、和輝は小さなボールを眺めて唸る。結局、何故か捨てられずにポケットの中に仕舞った。落し物は職員室に届ける決まりだが、この時間では職員室に行けば夕飯は確実に無い。
 和輝は再び部室内に向かって挨拶をして走り出した。
 校門付近は既に下校する生徒で溢れ返り、和輝は人の波を泳ぐように掻き分けて道を急ぐ。途中で掛けられる声に軽く返事を返しながらも足は一直線に待ち合わせ場所の商店街を目指していた。
 川沿いの道を抜け、鉄橋を越えて先の商店街へ向かう。坂道が多いのが面倒だが、高が五分そこらの疾走でダウンする程か弱くは無い。予定通り五分と掛からず到着したが、商店街は帰宅する学生やサラリーマンがポツリポツリと歩いている程度で中には既に閉店している店もチラホラ。携帯で時間を確認すると、約束の時間を二分過ぎている事に気付いた。


「あっ――」


 しまった。
 心の中で叫ぼうとした時、後ろから誰かが肩を叩いた。振り返った先には兄の祐輝が意味深な笑顔を浮かべている。


「よう、遅刻小僧」
「たった二分だよ!」
「二分でも遅刻は遅刻。罰として――」


 夕飯抜き。
 祐輝がそう言うと思ったが、予想と反して鞄を押し付けた。


「罰として俺の荷物持ち」


 にやりと笑う祐輝に和輝も苦笑する。祐輝は傘を片手に歩き出した。
 どうして自転車ではないのかと思ったが、やはり潔癖症なので今朝の天気予報が夕立を告げていた為に持って行かざるを得なかったのだろう。だから、今日は電車を乗り継いで行ったに違いない。
 和輝は先を行く祐輝の鞄を背負って後を追う。顔見知りばかりの商店街は店じまいの為に安売りを始め、殆どただの値段で押し付けるような様々な食材を二人で買って歩いた。
 夕飯は野菜炒めだとか、今日の練習内容だとか、匠が来ている事だとか他愛の無い話を交わしながら商店街を二人で練り歩き、全ての買い物を終わらせた頃には既に九時を回っていた。


「帰るか」


 祐輝はそう言い、アーケードを抜けようと歩き出した。買い物の白いビニール袋は全て祐輝が持ち、和輝は二人分の鞄を背負って後を追う。だが、祐輝はアーケードを抜けようという場所で足を止めた。


「雨だ」


 言葉の通り闇に無数の雫が浮んで見える。夕立というには余りにも遅い時間だが、祐輝は役に立ったと何処か子供っぽく誇らしげに言いながら黒い傘を広げた。和輝はその横に並び、二人で商店街から離れた。
 九時を過ぎた町は昼間の騒がしさも消え静まっている。唯一晴海高校の生徒が下校する騒がしさはあるものの、通過する電車の無い川沿いの道は静かだった。水面を打つ雫の微かな音を遠くに祐輝は言う。


「親父、もう帰ってるかな」
「残業だと思うよ。昨日、早く帰って来てくれたから」
「だよなァ」


 祐輝はぼんやり傘の先から落ちる雫を眺めた。


「なあ」


 ポツリと雫が落下する。和輝が顔を上げると、前を見つめたままの兄の横顔が見えた。


「何で、晴海高校にした?」


 和輝は一瞬口を噤んだが、答えようと口を開く。しかし、祐輝は更に質問を重ねた。


「それって、俺のせいか?」


 祐輝は前を見たままだったが、その言葉に和輝は息を呑んだ。兄なりに、ずっと考え込んでいたらしい。


「違うよ。俺は俺の考えで選んで決めただけ。誰のお陰でもないし、誰のせいでもない」


 だから、誰も苦しまなくていい。
 和輝はなるべく明るく言って笑った。だが、祐輝は欠片も笑わない。


「お前は昔から生きる事が少し下手だ。確かに自分一人だけが苦しめば済む道もこの世にはあるけど、誰も苦しまずに済む道だってある。それでも、お前は自分を追い込もうとするよな」


 生きる事に上手いも下手もあるのか解らないが、和輝は同じような事を以前匠に言われた事を思い出した。
 確かにこの世にある道全てが棘や坂道だとは限らない。平坦な道もあればアスファルトの道もある。でも、舗装された道では何の意味も無い事を和輝は既に知っている。予め決められた未来を歩くという事は自分を捨てるという事だ。
 祐輝は恐らくその心中を知り、言う。


「誰もお前に苦しめなんて言わないし、楽したって責めたりしねェ。だから、もう一人で背負い込むなよ」


 和輝は黙った。
 正解は何時だって解ってる。ここで頷いて解ったと元気良く返事して、兄の言う通り何も無かったみたいに楽に生きればいいのだ。でも、誰にでも選べる正解には何の意味も無いから。間違いでも選択肢は自分の手で掴み取りたい。背負ったものを下ろす気は端から無いのだから昇華する方法を見つけたい。
 返事をしない和輝の頭をくしゃりと撫で、祐輝は黙った。

2008.3.6