あの乾いた音を聞くと心が踊る。砂を舞い起こす一陣の風、脳の一部が痺れるような感覚が訪れる。
 真夏のブラウン管の向こうはいつもドラマが広がっていた。焦茶の土に染まったユニホームで駆け回る選手、緑の芝生を滑る白球、高く響く吹奏楽部の演奏、応援。一打逆転、満塁、サヨナラ、ツーアウト、フルカウント。甲子園には何千何万もの球児の汗や涙が染み込んでいる。
 高槻は手に汗握り、届く筈の無い応援を続けた。隣りでは同じく人事ながら熱くなる弟がいた。
 試合終了のサイレンが響く中、すっかり声を嗄らした弟は此方を見て言う。


「絶対甲子園行ってやる!」
「バーカ。お前みたいな下手糞に行けるかよ」
「言ったな! じゃあ、勝負しようぜ」


 弟は立ち上がって笑う。


「俺と兄貴、どっちが甲子園に行くか勝負だ」


 夏の日差しを背景に笑う弟の顔が今でも脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。あの声もあの笑顔も、あの約束さえ帰っては来ないのに未だに復讐するように蘇っては俺に命令する。
 勝負だと。
 だから、俺はこんなところで立ち止まってられない。進む先が血塗れだろうが後ろ指指されるような道だろうが構わない。俺は勝負に勝つんだ、あいつの分まで。
 俺の荷物は誰にもやらない。見せないし、教えない。全部背負ってやる。理解も同情もいらないんだ。




「キャプテーン」


 橙色に染まったクリーム色の校舎、砂利を跳ねさせながら駆けて来る小さな姿。過去に回帰していた高槻の意識は急浮上し、正面で不思議そうに首を捻る和輝の姿を見て苦笑した。
 今日の部活も終盤に差し掛かろうとする時間帯だが、昨夜の雨の影響か高槻は体に重さを感じている。浅黒い顔が蒼いのは恐らく気のせいではなく、和輝は尋ねた。


「顔色悪いですよ。風邪じゃないですか?」
「かも知れねェな」


 それだけ言って歩き出す高槻の背中を和輝はぼんやり眺めた。
 弟の死から四年。何も無かったように平然と生活を続ける高槻は常に冷静で余り感情を表に出さない。それも一種の強さなのだと解っているけれど、昨夜弟の形見を探して雨の中傘も差さずに駆け回る高槻の姿を思い出すと生まれる僅かな温度差が少し痛々しい。体裁繕って、中身は隠して背負い通し。疲れないのか、なんて問いを投げられる筈もなく和輝は高槻を追って歩き出した。
 空を埋め尽くす桜花の隙間から橙の空が見える。黄昏。遠く血のように紅い夕陽が沈もうとするトワイライトの空には逢魔が通る。そして、人の心を惑わせると言う。
 辻を駆ける魔物はどんな姿をしているだろう。もしかすると、自分と同じ人の姿をしているのかも知れない。
 本当の強さをずっと探している。大切なものを守れる強さを、何も傷付けずに救える優しさを。それでも、本当の強さというものが未だに解らない。雲を掴むような心地で和輝は風に泳ぐ白い花弁に手を伸ばす。花弁は小さな掌から逃げるように軌道を変え、ひらひらと舞いながら降りて行った。
 強さの定義など知らない。目に見えるものではないけど、今もずっと探し続けている。
 桜花を逃した右手で拳を作り、和輝は顔を上げる。


「和輝ー」


 水飲み場の傍で箕輪が大きく手を振った。応えるように和輝も手を振って走り出す。
 その頃、部活真最中だった埼玉私立翔央大附属高校で祐輝の鞄の中に押し込まれた携帯のバイブレーションが無人の部室に響いていた。淡いライトを発し、サブディスプレイには『メール受信』の文字が浮ぶ。送信者は浩太だ。
 持ち主の戻らない携帯電話、開かれる事のないメール。送った浩太は焦燥感を抱きながら来ない返信を恨んだ。


From:白崎浩太
Sub:晴海高校野球部の隠蔽



トワイライト・トゥモロー・3

きっと、欲しかったものは救いではなく罰だった


 晴海高校は五年程前までは強豪校として甲子園も出場し、部員は八十名を越えるチームだった。チームのバランスも良く、部員も一人一人が高い意識を持って練習をしていた。だが、ここ数年は甲子園から遠ざかっている。
 そして、事件が起こったのは去年の秋。夏の大会を地区予選準々決勝敗退という結果を残した後の事だ。
 三年生が引退する引継ぎ式で次のキャプテンに任命されたのは生徒会長も務める高槻智也だった。それを不服とした萩原英秋というキャッチャーは退部、説得すら行わなかった高槻に不信感は高まり次々に部員が辞めて行った。

 とっぷりと日の暮れた午後八時過ぎ、片付けを終えた和輝は途中で会った桜橋と部室へ向かっていた。途中、何気無くこの野球部に起こった事件を問うと桜橋はこう言った。
 高槻らしいとは和輝も思ったし、桜橋も苦笑を浮かべるしかない。だが、尤らしい内容だなと感じた和輝は何か裏があるような気がしてならなかった。
 何故、女房役とさえ言われるキャッチャーが、相方のピッチャーがキャプテンで不服なのだ。そんなに仲が悪いのならバッテリー等組んでいない筈。まるで全ての原因が高槻にあるような話を信じる事など到底出来ず、和輝は腕を組んで考え込んだ。
 隣りで唸る和輝を見て桜橋が首を傾げる。


「どうした?」
「あ、いえ。なんか、変だなぁって思って」
「変?」


 胸の中に広がる漠然とした闇の正体も解らず、和輝はそれを伝える術を知らない。桜橋の追及に答えられないまま二人は部室に到着した。
 扉を開けば元気の良い声が飛んで来る。たった七人の部活の終わりとは言え、運動部さながらの元気の良さはあった。
 和輝はロッカーを開けて鞄を取り出した。通路の中央、縦に並べられた青いベンチに鞄を転がして隣りに座って携帯を取り出すと淡いライトの点滅に気付いた。開いて見れば『メール受信』の文字。


From:浩太君
Sub:気をつけろ

>お前のいる野球部は、とんでもない問題を隠してやがるみてぇだぞ
キャプテンの高槻には注意しろ


 何の事かとメールを返信しようとするが、すぐに気付いて止めた。浩太がわざわざ注意して来るのには裏があり、大抵自分の兄が事の発端だ。
 メールの返信は浩太ではなく兄にした。文句を言おうと思ったのだが、恐らくまだ部活中だろう。それなら家に帰ってから文句を言っても遅くはない。携帯を閉じ、和輝はゆっくりと着替えを始めた。
 午後九時には和輝は帰宅していたが、生憎まだ誰も帰って来てはいなかった。電気を点けてソファに体を沈め、兄を怒る算段を考えている頃、祐輝の部活は丁度終わった。
 天下の翔央大附属高校野球部の練習は超ハードで有名だが、その分結果が伴っているから誰も文句は言えない。祐輝は三年目とは言え重い体を引き摺って部室に戻り、鞄を開けて着替えようとして携帯が仄かに発光している事に気付いた。サブディスプレイを見れば『メール着信』で、メールマガジンか浩太だろうと考えれば案の定浩太からだった。
 返信は後回しにしようかと思ったが、何と無くメールを開いて動きを止める。タイトル、晴海高校野球部の隠蔽。内容にざっと目を通して祐輝は息を呑み、慌てて自宅に電話するが返答はない。和輝はその頃、時間を持て余してジョギングに出掛けていた。
 闇に沈んだ町は死んだように静まり返っている。いつものコースを無心に走っていると途中、あの河川敷に到着した。青いTシャツは汗で体に貼り付き不快感を与える。内から溢れて来る熱気を吐き出したくて和輝は静かに深呼吸した。見渡せるこの河川敷には思い出が多過ぎる。橘シニアの練習場所であり、試合を行ったグラウンドであり、匠と喧嘩したり、喜んだり落ち込んだり、時には泣いたりした大切な場所だ。
 ゆっくりと草生す斜面を下って行くと川のせせらぎが近く聞こえた。闇の広がるグラウンドを見渡し、和輝は大きく息を吸い込む。乾いた風が懐かしい匂いを運んだ。胸を擽るこの感覚は――。


「ねぇ、キャプテン」


 和輝は、斜面にしゃがみ込む黒い塊に目を向けた。


「奇遇ですね、俺もこの河川敷にはよく来るんですよ」


 黒い塊――高槻が何の反応も見せなくても和輝は言う。


「この川って首都圏じゃ珍しく綺麗な水だから、夏になったら泳いだり魚釣りしたり出来るんです。こういうの、町の自慢っていうんですかね」


 漸く顔を上げた高槻の目は律見川を見ていた。夜の色を映した水面が月光を浴びてちらちらと煌いている。鉄橋を渡る電車の車輪が喧しい音を立てて通り過ぎて行く様を遠くに、和輝は呟くように訊いた。


「でも、透き通る水が恐ろしいと感じるのは俺だけですか?」


 高槻は和輝に目を向ける。


「恐ろしい?」
「夜は特に、恐ろしく感じます。吸い込まれてしまいそうだ」


 だが、高槻は思った。そう呟く和輝の横顔こそが闇に吸い込まれてしまいそうだと。透き通る瞳こそが恐ろしいと、言葉に出来ないままに高槻は思う。


「そうだな」


 結局、言葉に出来たのはそんな事だった。
 和輝は少しだけ笑って高槻に目を戻した。


「時々、自分がこの世界に存在しなかった未来を思い浮かべます。俺がいなかったら皆は何をしていたんだろうなって」
「そうか」
「でも、そんなの簡単な事なんです。俺がいなくても世界は存在してるし、俺がやった事はきっと誰かが代わりにやった。人一人の重さなんてそんなものなんだ」


 後ろ向きな、歪んだ考えだと高槻は思う。そんな事を考える人間はきっとこの世界に絶望、或いは諦観を抱いていて、もしかしたら自殺願望すら持っているかも知れない。
 死にたいのだろうか?
 高槻はその質問を投げられずにいる。


「きっと、俺がいる事で不幸になった人は幸せになっただろうし、俺のせいで死んだ人は生きてた」


 和輝は力無く笑った。


「死にたいと思った事はないんです。でも、生まれなかったらと考える事はあります」


 自分を否定し続けるその裏側には何が貼り付いているんだろう。だが、高槻はそれを知る術を持たない。


「昔は心の中でずっと自分は許されないと思ってた。生まれた事を恨んで、世界に絶望して、自分を殺したくなった。でも、それを誰も許してくれなかった。だから、全部背負って行かなければならないんだって思った。でも、違ったんです」


 和輝は先日、祐輝が言ってくれた言葉を思い出した。


――誰もお前に苦しめなんて言わないし、楽したって責めたりしねェ。だから、もう一人で背負い込むなよ


 きっと祐輝はその言葉で和輝がどれ程救われたかなんて知らないだろう。
 確かに背負ったものを捨てる事なんて出来ない。正解は誰にだって解るけれど、選ぶ事は出来ない。解っていても間違った道を歩かなければならない事はあるのだ。和輝は言った。


「誰も俺に苦しめなんて言わなかった。恨んで当然なのに、誰も俺を責めなかった。当たり前みたいに傍で笑って守ってくれた。だから俺は、誰の強制も無く、身勝手な強迫観念も無く、全部背負って歩いて行こうと決められた。俺は俺の為に生きる事で皆の為に生きられるって解ったんです」


 そう言って笑う和輝の透き通るような瞳に先程の儚さは無かった。


「キャプテンは解らないですか?」
「……何を」
「誰も苦しめとか、背負い続けろとか言ってないんだって」


 要領を得ないな、と高槻は思った。


「何が言いたいんだ。結局お前は野球部の過去が知りたくて、人の秘密暴いて良い人ぶりたいだけだろ」


 しまったと気付いた時にはもう遅い。予想以上に冷たい口調にきつい言葉を発してしまったが、和輝は別段変わった素振りは見せなかった。


「ねぇ、キャプテン」


 恐ろしく乾いた声で和輝は言う。


「強いって何なんですか? 俺にはそうやって無理して自分偽って生きるあんたよりも、泥だらけで惨めでも胸張って歩いてる人の方がよっぽどカッコイイと思いますよ」


 何が言いたいのだ。
 高槻は苛立ちを覚えながら、自分と殆ど背丈も変わらぬ後輩を睨み付ける。


「背負っても歩き出せないんじゃ何の意味も無いんですから」
「だから、言えってか?」
「別に興味無いですよ、過去なんて。振り返ったって虚しいだけだ。過去がこれからの未来に及ぼす影響があるなら、俺は知りたいと思いますけどね」


 それは正論過ぎて、苛立つ。真っ直ぐ歪んだ人間は相変わらず地面を這ってでも前を見詰めて泥濘の中を進み続けるけれど、空を見上げれば翼を広げて悠々と飛んで行く鳥がいる事も知っている筈だ。
 高槻は立ち上がり、真っ直ぐ見据える和輝の傍まで歩み寄った。真っ直ぐ過ぎる瞳は透き通っていて、先程和輝の言っていた言葉の意味を漸く知る。透き通る水は吸い込まれそうで恐い。透き通るこの目は、抱え込んで来た汚い感情や過去を見透かされそうで恐い。
 恐怖を抱く自分にすら苛立ち、気付けは高槻は和輝の胸倉を掴んでいた。抵抗一つ見せない和輝は平然としていて、高槻は右手に力を込める。拳を振り上げたその時、ベルの音がした。
 チリリリン。
 はっとして顔を上げれば、斜面の上の道に自転車のヘッドライトが光っていた。自転車に跨っている人間は闇に染まっていたけれど、そこから発せられる声を知れば正体はすぐに解る。


「おい、止めろ!」


 凛としたよく通る声の主はやはり、祐輝だった。乗り付けた自転車を乱暴に止め、弟に向かって拳を振り上げる高槻を押し退ける。
 そんなに弟が大事かよ。
 皮肉っぽく高槻は思った。祐輝は和輝が何の怪我もしていない事を確認して安堵の息を漏らす。和輝は困ったような顔で訊いた。


「何で来たの?」
「何でだと?」


 逆に訊き返した祐輝は酷く苛立った口調で和輝の頭を叩く。


「お前は相変わらず行き当たりばったりだ。自分のいる場所がどんなところかも解らないで勝手な事するな!」
「何でそんな事言われなきゃならないんだ」
「何でそんなに聞き分けないんだよ。晴海高校の野球部は、過去に事件を起こしてる」
「――え?」


 和輝は目を丸くした。そんな事、知らない。


「去年の初秋、ある野球部員が暴力事件を起こしてる」
「暴力事件?」
「簡単に言えば集団リンチ、度を越えたイジメだ」


 高槻は無言無表情を保ったままただ話を聞いている。


「学校側にイジメが発覚し、被害者は転校という形を取った。加害者達は退部、大会は出場辞退。野球部は決裂して今の人数になった」
「そんなの、」
「事実だよ」


 和輝の言葉を遮って高槻は微笑みさえ浮かべ肯定した。


「表上は部内での決裂だけどね。実際は」
「何で、隠したんですか」


 今度は和輝が言葉を遮る。


「俺は、あんたがキャッチャーと喧嘩したせいだって聞きました。キャプテンは何も悪くないじゃないですか! それなのに、何で悪者の振りして全部責任被ってるんですか!」
「和輝、解らないのか?」


 冷めた声で祐輝は言った。


「こいつは、部内で起こっているイジメに見て見ぬ振りを続けたんだ。傍観者と加害者は同罪なんだよ」


 和輝は言葉を失った。それは真理だ。
 祐輝は和輝を引き摺りながら斜面を上がり、最後に振り返った。


「最後に言ってやる。俺はあんたを認めない。あんたにキャプテンの資格はねェよ」


 だが、高槻は口角を吊り上げて笑う。


「それがどうかしたかよ。どの道、俺と関係あるのは弟の和輝だけだ」


 祐輝は忌々しそうに舌打ちして睨み付ける。その横で、和輝は場違いのように柔らかく笑って見せた。
 一瞬、時間が止まった。和輝は首根っこを引かれながら礼儀正しく頭を下げる。


「キャプテン、また明日」


 高槻さえも言葉を失って黙るが、和輝は言う。


「過去に、興味はありませんから」
「お前……」


 祐輝は数秒黙ったが、溜息を吐いた。
 その後は何も言わず、自転車の荷台に和輝を乗せて地面を蹴った。河川敷から離れて行くにつれて小さくなる高槻の姿も遠く、和輝は頬を撫でる風を感じている。
 通り過ぎて行く景色を見ながら和輝は言った。


「心配してくれてありがと。でもね、俺は兄ちゃんが思ってるより真実は見えてるよ」
「真実だと?」
「キャプテンは偽悪だ。俺も匠に言われたけど、キャプテンも生きるのが苦手なんだよ」


 和輝は笑う。


「事実が真実とは限らないよ。俺は、まだ何か隠れてる気がするんだ」


 祐輝は曖昧に返事をしてペダルを漕いだ。加速する町並みを進む自転車の車輪の音だけが耳に残った。
 一方で河川敷に残された高槻も帰路を辿り始める。頭に焼き付いた映像が蘇っては頭の隅を蹴るのだ。弟の笑顔、そして、死の瞬間。行ってしまった仲間の背中、その中で一人だけが振り返って笑った。


――また明日


 高槻はぼんやりと東の空を見上げた。闇を広げた夜空にはちらちらと星が瞬いている。朝の来る気配は欠片も見られないこの空を見上げた目の端に奇妙な光が広がって見えるのは、恐らくきっと気のせいだろう。

2008.3.6