白雪が降り積もるように、咲き誇る満開の桜花が舞い踊る。
 花弁を掴もうと伸ばした手は空を切り、掌を逃れた花弁は土の露出した校舎裏の地面へ落下して行った。和輝は何も掴む事の無かった掌をゆっくりと開いて顔を上げる。天上を埋め尽くす白い靄の隙間から覗く空は、水色の絵の具を広げたように透き通っていた。
 部活の休憩時間も直に終わる。箕輪達のように水分補給したり、座って体を休めたりするべきなのだろうが、和輝は相変わらず気狂いのように桜の花弁を追い掛けている。誰もが不気味だと思っただろうが、和輝はその単純な行為を止められなかった。中々掴めない花弁を追い掛け、微風に泳いで落ちて行く先を読んで手を動かす。
 そんな和輝の頭の中には全く別の情景が浮んでいる。桜の花弁を掴む事なんてどうだっていいのだ。究極的に言えば、桜がここで散ろうが燃えようが関係無い。ただ、単純な中で多少の複雑性を持つ行為を繰り返す事によって妙に騒ぐ頭の中を整理したかった。
 今朝、匠が栃木に行った。学校を遅刻して近くの新幹線が通る駅まで見送りに行ったのだが、その時から胸の中には奇妙な焦燥感が沸き立っている。
 朝の駅は通勤ラッシュと時間がずれているとは言え、酷い混乱に陥っていた。目まぐるしく動き回る人の群れに目が回ったが、そこは幼馴染が呆れつつフォローしてくれた。他人で溢れる駅に響くアナウンス並に良く通る声が何度自分の名前を呼んで罵倒したかなんて解らない。
 おい、こっちだよ、バ和輝。何処に行くんだ、しっかりしろ。
 新幹線に乗り込んで行く姿を見届け、発車するまで匠の座席の横にいた。二人を隔てる窓硝子は透明なバリアのようで、大声で話し掛けても中々伝わらない。仕方なく距離にして一メートルも離れていないのにメールで会話した。彼方此方で電波が飛び交う駅で至近距離のメールが届くには時間が掛かった。本当に他愛の無い話をして、時間差で起こる笑いを更に笑った。
 時間が経つのはあっという間で、気付けば出発の時刻を迎えた。喧しいサイレンが鳴り響く中で匠は最後のメールを送って来た。和輝はメールを開いて笑う。
 “甲子園で会おうぜ”なんて。
 次に匠が帰って来るのは初秋らしい。いや、今回みたいに無理矢理帰って来る可能性もあるけれど、確実なのは夏の大会終了後の夏休み。それまで、一人だ。
 一人だと考えるのは自分が歪んでいるせいだろう。上辺繕って隠して来たが、俺達はきっとお互いに依存してる。生まれてから殆ど一緒に育った相手は双子の片割れみたいに大切で、言葉にしなくても話が通じるような気さえしていた。仮面で隠し続けている脆い内面を知っているのは匠だけで、それ以上には誰にも知られたくない。
 永遠に会えなくなる訳でもないし、友達以上の親友でしかない少年が離れて行く事が寂しいと思ってしまう自分を和輝は皮肉っぽく笑った。だって、離れて行ったのは匠ではなく自分なのだから。
 発車した新幹線は匠を乗せてゆっくりと離れて行く。安っぽいドラマの恋人みたいに追い掛ける事はしない。お互いに弱い部分を知っていながら見せようとしないのは、親友でライバルというある種歪んだ関係故だ。和輝は白い新幹線が鈍い光を反射させながら加速する様を見詰め、もう既に見えない匠の顔を思い浮かべた。今頃はきっと、少し寂しそうな顔で唇を尖らせているんだろう。和輝は苦笑してメールを打ち始めた。
 送信には時間が掛かった。ディスプレイに『送信完了』の文字が表示される頃には既に新幹線は視界には無く、匠が気付いてメールを開いた時は暗く沈んだトンネルに入る直前だった。
 和輝は学校に向かう為、駅から歩き出した。そして、匠はメールを開く。
 “俺は頑張る。お前も頑張れ”と、そんなメッセージだった。
 俺に何処まで出来るかなんて限界はもう知らない。和輝も匠も、場所は違えども同じように顔を上げた。
 約束だ。匠が送ろうとしたメールは分厚いトンネルに阻まれて届く事は無かったが、和輝には匠の返事が既に予想出来ている。不敵に笑って言うのだ、『約束だ』って。


カタルシス・1

自ら鎖を望み、自ら不自由を願い、自ら枷を背負った


 人間には限界があり、努力では決して埋められぬ才能の格差も確かに存在する。積み重ねた努力の果てに見せつけられた絶望は胸を抉るような痛みを与える。途方に暮れて座り込んで、どんどん遠くに行ってしまう背中をじっと見詰めた。痛感させられる無力さに泣き出しそうになる事もある。けれど、何もかも諦めて捨ててしまう事だけは出来ないから。だから、自分の非力さに胸を痛めて苦しむよりも、力を得る為に苦しみたい。
 出来ない出来るの判断なんて解らないから、悩んでいる暇なんてないくらい、自分に出来る事を精一杯やろう。
 和輝は目の前に舞い落ちる花弁をそっと掌に乗せ、顔を上げた。空を埋める白い桜花の隙間に金色の日輪が見える。春の暖かい風を感じる頬は少し緩んだ。


(俺はやるよ、頑張るって決めたんだから)


 脳裏の過る匠の横顔は少しだけ笑っていた。
 その時、遠くで高槻が休憩の終わりを告げた。和輝は掌の桜花を足元に落として走り出す。既に集合した七人の野球部員は休憩明けの為に多少溜まった疲労が回復されたようだった。
 次のメニューの準備に取り掛かる部員達を横目に、和輝は兄から聞いた話を思い出す。晴海高校野球部の集団暴行事件の隠蔽。真実を知りながらも黙って見ていて、止める事もせずに増長させて、あげくに嘘を吐いて現実を覆い隠している。善悪を問えば高槻は間違い無く後者だろう。けれど、それだけではないんじゃないかと思った。だって、高槻がそれを隠蔽する事にメリットはないし、ここ数日とは言え、見る限り彼はそんな卑怯な人間じゃない。
 和輝はそう思うが、追及はしなかった。昨夜、過去に拘るつもりはないと言ったばかりだ。その様子を高槻は遠く眺めている。
 予定通りのメニューを行う傍ら、高槻は丁度傍にいた和輝にだけ聞こえるように尋ねた。


「訊いては、来ないんだな」


 和輝は顔を上げ、無表情に答える。


「だから、興味無いんですよ。終わった事を何時までも気にしてたらカッコ悪いでしょ」
「カッコ悪いって……」
「俺は何時でも誇れる自分でいたいんです。他人が何を言っても揺るがない人間で」


 そう言う事に酷く力を使った。気持ちさえ込めなかったら言葉はすらすら朗読するように言えただろうけれど、それでは何の意味もない。伝えたいのだ。
 高槻には伝わっただろうか。和輝はすっと背中を向けて歩き出す。その背中を高槻は遠く眺めていた。
 その小さな背中は、四年前に届かなかった掌を思い出させる。守ろうと伸ばした手は虚空を切り、弟の体は一瞬の内に銀色の閃光に呑み込まれた。もう帰っては来ない、永遠に。
 部活終了後、部室に戻った面々は談笑しながらのんびりと着替えている。外は既に暗く、闇に浮ぶ桜は仄かに光を放っているような不気味さを醸し出していた。点々と灯る橙の外灯、重い体を引き摺って行く運動部員。窓の外には闇に沈んだグラウンドが見えた。
 高槻は相変わらずさっさと着替えて帰ってしまい、残された何時ものメンバーは変わり無く会話を続ける。和輝は着替えを進めながら隣りにいる箕輪に声を掛けた。


「箕輪って兄弟いる?」
「姉貴と妹がいるよ」


 箕輪は目を泳がせながら言う。


「俺んちの女強いんだよ。姉貴は空手やってるし、妹は柔道始めたし、お袋はお袋で熱狂的なプロレスファンだし」
「ぶっ」


 傍で聞いていた桜橋が噴出した。


「最凶一家じゃん。怒らせたら鉄拳制裁か?」
「原型が無くなるくらいボッコボコですよ」
「お前もなんか格闘技やるの?」


 和輝が訊くと、箕輪は真顔で首を振った。


「俺の家、男は弱いの。親父は外資系企業のサラリーマンだし、俺はこんなだし」


 どっと笑いが溢れ、六人には広過ぎる部室に笑い声が満ちる。
 箕輪の話が発端となって皆の話題は家族になった。今日俺の親父がどうしただとか、お袋はこんな存在だとか、兄貴は、姉貴は、弟は、妹は。
 そんな話をしている中で和輝は少しだけ話から離れて行く。最初に気付いたのは桜橋だった。何処か寂しげな横顔を見て、自分の事は話したくないんだろうなと思った。
 自慢の家族だろう。だが、そのまま言葉にする事は難しい。自慢とコンプレックスが同じというのは苦しいんだろうな、と桜橋は和輝の頭を撫でた。振り返った顔は少し驚いていたが、桜橋は何も言わなかった。
 暫く話は盛り上がっていたが、桜橋の言葉を合図に皆は帰路へ着いた。暗い帰り道を辿る和輝は家が最も近い事から一番早く皆と別れ、何の気無しに河川敷へ向かう。闇に沈む河川敷は昨日と同じ景色を映し出していたが、草生す斜面に高槻はいなかった。
 今頃匠は学校の寮でのんびりしているのだろうか。遠い空の下にいるだろう親友の顔を思い浮かべて和輝は拳を握る。約束だと、伸ばした掌は何も掴んではいない。それでも、掴みたいと思うから。
 空に少しだけ欠けた月が浮んでいる。遥か後方でバイクのエンジンの音が聞こえ、和輝は思い出したように歩き出した。後ろから眩し過ぎる黄色のヘッドライトが光った。振り返った先は目が眩んで暫く見られなかったが、慣れて来た頃に声がした。


「よう、和輝」


 バイクが唸りを上げ、エンジンが静かに停止する。和輝はライトの残像を視界に残しながらそこにいる人物を凝視して笑った。


「浩太君、偶然だね」


 浩太はバイクに跨ったまま片足を着いている。和輝は傍に駆け寄った。


「バイト帰り?」
「ああ。お前は学校帰りだろ?」


 和輝は頷く。浩太はヘルメットを取って静かに言った。


「お前の野球部、どうだ?」
「……ああ」


 思い出したように手を打つ和輝を見て浩太は苦笑する。晴海高校の隠蔽について調べたのは浩太だ。和輝は意味深な笑みを浮かべて答える。


「俺はキャプテンの事疑ってないよ。あの野球部じゃ少なくて大会出られないけど、きっと何とかする。だから、心配しないでよ」
「真実を知りたいとは思わないのか?」
「人の過去には興味無いよ。俺には関係無い事だ」
「関係無いかは解らないだろ。お前は野球部だ、知る権利がある」
「なら、関係者になった時に知るよ」


 和輝は言った。


「俺はキャプテンを信じてるからさ、浩太君の調べてくれた隠蔽事件は悪いけど信じてない。あの人は見て見ぬ振りをするようなずるっこい人じゃないよ」


 浩太は瞠目したが、額を押えて溜息を零す。


「その信頼は何処から来るんだよ……」
「勝手な自己判断」


 余りにも和輝がきっぱりと答えるので浩太は笑ってしまった。一頻り笑い合った後、二人で並んで再び帰路を辿った。浩太はバイクの後ろに乗るように言ったが、校則で禁止されているので和輝が断った為だ。
 他愛の無い事を話しながらお互い自宅に到着し、門の前で別れた。家には明かりがあったので誰かが帰宅しているのだろうと考えながら玄関を開けると、リビングの方から裕が顔を出して「お帰り」と笑った。
 玄関で靴を脱いで上がるとリビングからは夕食のカレーの食欲をそそる匂いがした。和輝は荷物を置く為に自室のある二階に上がる。闇の中で適当な場所に鞄を置き、朝のままになっているベッドに座った。頭の中に響くのは浩太の言葉だ。


――真実を知りたいとは思わないのか?


 知りたくないと言えば嘘になるかも知れない。でも、人が直隠しにするような過去を暴く程悪趣味ではない。何か理由があって隠して、意味があって背負った枷ならばその時でいいだろう。
 高槻と萩原という三年生同士の対立、そして、集団暴力事件。何処までが嘘で、何処からが真実なのか。或いは真実はまだ何処にも存在していないのか。
 闇の広がる室内で独りで悶々と考えていても答えが出る筈もない。それに、空腹だ。腹の虫が鳴く声を聞きながら和輝は部屋を後にし、階段を下りて行った。

 その頃、高槻は既に帰宅している。誰もいない家の中は凄惨な状態だったが、足元に散らばる化粧品やらストッキングやらを跨いで自分の部屋に篭った。ボロアパートの汚い室内では唯一綺麗に片付けられた部屋だが、逆に生活感の無い程だった。机の上の本棚には教科書がキッチリと整頓されて収められ、空いた隙間には木製フレームの写真立てが据え付けられたように置かれている。映っているのは、青空の下で笑う仲間だった。
 総勢八十人を越える去年の野球部がそこにはある。全員を一枚の写真に収めようとしたせいか一人一人の顔が小さくて殆ど識別出来ない。夏の大会が終わった頃に取った先輩との最後の思い出の写真では、新しいキャプテンになった高槻が中央付近で苦笑いしていた。隣りにはこの野球部を去った相方であるキャッチャー、萩原英秋が映っている。
 去年の初秋に起こった事件が脳裏を掠めた。真相を知るのは自分と萩原と、転校した部員と僅か数名のみ。込み上げて来る色の失せた感情の正体を誤魔化すように高槻は自嘲の笑みを浮べた。後悔は、無い。自分は最良の判断を下した筈だ。けれど、和輝の声がその決意を揺さ振る。


――強いって何なんですか?


 あの恐ろしく乾いた声が、恐ろしく透き通った眼が訴えて来る。


――俺にはそうやって無理して自分偽って生きるあんたよりも、泥だらけで惨めでも胸張って歩いてる人の方がよっぽどカッコイイと思いますよ


 強くならなければならないだろう。この世界は不条理が当たり前で、常に冷たくて結局は独りで。お前は独りじゃないと言いながらも現実は誰だって独りだろうが。
 それでも、救いが欲しいと願っている自分がいる事にはもう気付いている。


――俺は何時でも誇れる自分でいたいんです。他人が何を言っても揺るがない人間で


 今の俺は、あの時の俺が思い描いた強さで歩けているだろうか。
 その時、鞄の中の携帯電話が唸りを上げて振動した。反射的に慌てて鞄から取り出して見るとサブディスプレイに着信の文字が浮かんでいる。相手の名前を見た時、目を疑った。
 『萩原英秋』
 萩原からの電話なんて何ヶ月ぶりだ。そっと通話のボタンを押した。


『久しぶりだな、高槻』


 高槻は笑った。


「久しぶり過ぎて、声も忘れたぜ」


 電話の向こうで乾いた笑いが聞こえる。萩原は言った。


『新入部員が来たんだろ』
「ああ、二人だけどな」
『……そうか』


 意味深な間を感じて高槻は言う。


「あいつ等は野球部の過去になんて興味無ェってよ。だから、お前はもう関わるな」


 萩原は何も言わない。


「俺はお前の事を許した訳じゃねェ。ただ、利害が一致しただけだ。このまま消えてくれる事が、唯一の罪滅ぼしだよ」
『言ってくれるぜ』


 萩原は笑う。


『一年A組、蜂谷和輝と箕輪翔太。蜂谷祐輝の弟が来るとは、思わなかっただろうな』
「調べたのか?」
『学校中の噂になってるよ。あの木島と競走して勝ったとか、お前が庇ったとかな』
「後輩を庇うのは当然だ」
『そうか? お前は、他人に興味の無い人間だっただろ』
「人を冷たいみてぇに言うんじゃねェよ。大体、それがどうした」
『……別に』


 高槻は眉を寄せ、低い声で忠告するように言った。


「もう一度言う、お前は関わるな。それから、手を出すな」
『随分庇うじゃねーか。ま、どっちにしても俺には関係無い、か』
「そうだ。もう切るぞ」


 萩原の返事も聞かずに高槻は通話を切った。携帯電話の向こうからは何の音も無く、高槻は顔を伏せる。何故、今頃になって電話等して来るのだ。
 嫌な予感が胸中をざわつかせる。高槻は通話の終わった携帯電話を眺めていた。
 頭の中には去年の初秋に見た、非現実的な情景が浮んでいる。あれが全て夢だったなら、こんな虚しさは存在しなかった筈なのに。
 起こってしまった事象は誰にも変えられない。高槻は携帯を閉じて顔を上げた。少しだけ欠けた月が窓の外でぼんやりと薄く光っていた。

2008.3.15