一日で最も穏やかである筈の昼休みの教室の空気が、風の吹き込んだ竹林のようにざわりと揺れた。葉の擦れ合う音はクラスメイトの囁き合いだろうか。
 和輝は口に運ぼうとしたおにぎりを空中で停止させ、騒ぎの根源である教室の横開きの扉の方向に目を向ける。片手を扉に当てて薄笑いを浮かべながら此方を見ている三人の男子生徒。上履きの色が違うから、恐らくは三年生。
 キャプテンと同じ色だ、なんて思いながら和輝はおにぎりを口に運んだ。その男はいっそ胡散臭いくらいの笑顔で運悪く扉の近くにいた女子生徒に声を掛ける。


「蜂谷君と箕輪君、呼んでくれない?」


 その声は離れたところで昼食を摂っていた和輝と箕輪にも届いていた。仲の良い面子で食事していた輪の中で和輝は、女子生徒に呼ばれてからゆっくりと立ち上がる。目を向けた先の箕輪は顔を真っ青にしていた。
 知らない顔だな、と思いつつ和輝は歩いて行く。箕輪は自分よりも小さい和輝に隠れるように数歩遅れて後を追った。そして、二人がそこに到着すると本題に入る前の確認を挟んだ。


「君が蜂谷君で、君が箕輪君だね?」


 真っ青な箕輪に代わって和輝ははっきりと頷いた。
 ちょっと来てくれる。
 拒否を許さないような口調でその男は言うと先を歩き出した。付いて来いと言っているのだろう、取り巻きの二人が薄笑いを浮かべながら歩き出さない和輝と箕輪を促す。
 嫌な予感はしたが、ここで断ったら余計に面倒な事になりそうだ。和輝は箕輪に一瞥くれてから足を踏み出した。箕輪が後を追って歩き出したのは和輝が廊下の角を曲がってからの事で、その小さな姿を見失う事すら望んでいたが、和輝はその期待を裏切るようにゆっくりと歩いていた。
 箕輪は腹を決めて大きく息を吸い込み、和輝の隣りに並んで訊いた。


「おいおい、何なんだよ」
「そんなの俺が知るかよ」


 見覚えがないのだ。恨まれる事をした覚えは――無くも無いか。
 和輝は木島の顔を思い浮かべて苦笑した。けれど、その関連にしては遅過ぎる気がするのだ。それなら別件。でも、覚えがない。和輝は首を傾げ、昇降口を出た三人の後を追った。
 三人は先を歩きながら何かこそこそと声を潜めて話し合い、結局、ベタだが体育館の裏で漸く足を止めた。薄暗い体育館裏にも桜が植えられ、白い花弁がちらちらと舞い降りている。空は快晴、絶好の昼寝日和だななんて場違いな事を考えていると一人の男が口を開いた。


「野球部に入部した?」


 和輝は少し考えて首を振った。まだ仮入部期間で、新入部員はその間に入部届けを各部活の顧問に提出するのだが、和輝と箕輪はすっかり馴染んでいた為に提出するのを今日まで忘れていた。つまり、入部するのは時間の問題だと言う事だ。
 男は頻りに顎を動かしながら言う。


「じゃあさ、入部しないで欲しいんだけど」


 口調は柔らかいけれど、それは脅しだろう。
 和輝は自分の背後に移動した男を横目に見ながら思った。二人の一年生を取り囲んで何かと思えばそんな事、和輝は困ったように笑う。


「何でですか?」


 子供っぽい明るい口調で和輝は訊いた。三人は一瞬硬直したように動かなくなったが、すぐに答えた。


「迷惑だからさ」
「先輩方には迷惑掛けません。それならいいでしょ」
「いいや、野球部に新入部員は要らないんだ。このまま廃部になってもらわなきゃ、面倒だし」


 他の部活からの圧力だろうかと考えるが、和輝はすぐにその問いを否定した。あんな校舎裏で練習してる野球部が、一体他のどんな部活の迷惑になるのだ。せいぜい桜をスケッチしに来る美術部くらいじゃないか。
 目の前にいる金髪の男を見て和輝は自問する。これが、美術部の面構えか?
 金髪は言った。


「いいだろ、他の部活でも。お前だって本当は、兄貴から逃げてここに来た癖に――」


 和輝は眉を寄せ――、叫んだ。


「勝手に決め付けんなよ!」


 声に驚いたのか金髪の表情が強張る。和輝も自分が叫ぶ事は後々面倒になると解っていたが、止める事が出来なかった。続け様に叫ぼうとした言葉を呑み込む努力は努力に終わる。


「俺はお前等みたいなのが何て言ったって野球部に入る! 面倒だとか、お前等には欠片も関係ねェだろーが!」


 金髪が眉を寄せた。黒い双眸にちらりと怒りの感情が見えたが、和輝はしまったと思うだけで精一杯だ。隣りで箕輪の悲鳴にも似た声が響く。男は苛立っていた。


「何だ、その言い方は」


 銀色の指輪が幾つも嵌められた手が黒いカーディガンを掴む。じわりと汗が滲み、和輝は振り上げられた拳を見てすぐに目を閉じた。
 どれくらい痛いかな、なんて見当違いの事を考え、何処かに打ち込まれる拳を想像して体を強張らせる。けれど、その時、ぐわんと喧しい音が響いた。聞き覚えのある金属の容器が響く音だ。カーディガンを掴む手が一瞬震え、和輝は目を開いた。金髪から表情が消え失せていた。
 すぐ傍に、それまで無かった青いアルミ製のバケツが落ちていた。何処から現れたのかと何気無く顔を上げ、体育館の屋根の上から覗く影を見つけた。


「悪ィ、怪我ァ無かったかぁ?」


 軽薄な声が降って来た。逆光で顔は見えないが、金髪の手がびくりと震えて離れて行く。和輝は目を凝らしたが、その努力を嘲笑うように影は落下して来た。体育館と言っても高さはそれなりにある。だが、影は猫のように軽々と着地した。
 何故か視線は足元に行った。上履きの色を確認し、和輝は顔を上げる。三年生、金髪や高槻と同じ学年だ。
 向けられた背中に箕輪は呆然とする。けれど、金髪等はその顔を見て蛇に睨まれた蛙のように動きを止めてしまっていた。


「こいつ等、俺の知り合いなんだけど。何か用があるなら、俺を通してもらえないかな。大事な弟分だから――」


 低くどすの利いた声。金髪等はおどおどと責任を擦り付け合いながら一歩ずつ後退さり始めた。


「いや、萩原君の知り合いとは思わなくて……」


 金髪はそれだけ言うとすぐさま走り出した。後を追うように残りの二人も走り、体育館裏には和輝と箕輪と、萩原と呼ばれる男だけが残った。和輝は眉を寄せ、向けられた背中を睨む。
 『萩原』、何処かで聞いた名前だ。
 ゆっくりと萩原は振り返った。逆光で見えなかった顔が現れる――が、和輝と箕輪は言葉を失った。本当はお礼を言うべきなのだろうが、始めに出たのは悲鳴だった。


「ッぎゃあぁあー!!」


 和輝と箕輪は萩原を指差して悲鳴を上げたかと思えば、次の瞬間には恐怖で引き攣った顔で逃げるように走り出した。後ろから萩原の制止する声が聞こえるけれど足は止まらない。体育館が見えなくなるまで走り出し、昇降口に辿り着いたところで二人は息を弾ませながら足を止めた。
 呼吸を整える和輝に箕輪は息を切らしながら言った。


「前科何犯だ、ありゃあ……」


 その問いに和輝が頷いたのは、呼吸を整えた後からだった。


カタルシス・2

終わらせられなかった過去は、必ず未来に復讐する


 二人が逃げ去った体育館裏に残された萩原は居た堪れなくなって頬を掻いた。最高に良い天気なのに何で人助けでこんな状態にならなければならないのだ。怒りをぶつけたい矛先は既に逃げ出してしまったので、行き場の無い怒りは頭の中でループする。
 溜息を一つ零したところで萩原はゆっくりと歩き出した。進む先に目を向け、動きを止める。体育館の柱に寄り掛かる桜橋が此方を見て笑った。


「柄にも無ェ事してくれるじゃねェか」
「……本当だよ。ここじゃなかったら、俺は関わってなかった」


 萩原は頭を掻きながら体育館裏を離れて行く。向けられた背中に向かって桜橋は叫んだ。


「嘘、吐くなよ!」


 振り返った萩原の顔には驚愕が浮んでいる。桜橋は言った。


「お前がまだ野球やりたい事、俺が知らねェと思ったか!?」


 桜橋の言葉に萩原は苦笑し、後ろ手を振りながら歩き出す。後ろから響く声に萩原はもう振り返らない。


「逃げるのか!」


 一瞬、足が動かなかった。けれど、萩原はそのまま校舎に戻って行く。残された桜橋だけが桜花に包まれた中で立ち尽くしている。桜橋は、初秋に起こった事件の真実を知らない。高槻と萩原が対立したという話を少し聞いただけだが、真実を追究する事だけは未だに出来ずにいる。
 誰も触れられなかった真実に手を伸ばす権利は、あの時に踏み出せなかった自分にはない。けれど、新しく一年が入る。その新しい風と共に真実は明るみに出るのだと思っていた。どうやらその道は、無かったらしいけど。
 和輝は桜橋の話を聞いても腑に落ちないと言った感じで少し考え込んでいた。なのに、今ではすっかり興味も失せたように関わろうとしない。計算違いと言えばそうなのだけど、こればかりは仕方が無い。
 萩原は桜橋と別れた後、昇降口に辿り着いた。和輝と箕輪は逃げるように既に教室に戻ってしまったが、チャイムが鳴って他の生徒が教室に帰った後なのに、そこには人影が一つあった。顔を上げた萩原の視界に見覚えのある、背の低い不機嫌そうな男子生徒――高槻が映った。
 高槻は萩原に冷たい視線を送ると背中を向け、ポツリと言った。


「関わるなって、言ったろ」


 言い返そうとしたが、萩原は言わなかった。どんな理由があったとしても萩原に関わって欲しくないと、潔癖なまでに高槻は考えている。萩原はその胸中を悟ったのだ。
 だが、萩原は口を開いた。それは忠告だ。


「袴田の意思は生きてるぜ」


 咄嗟に高槻は振り返った。視線の先にはもう萩原はいない。階段を上って行く足音だけが聞こえ、高槻は嫌な予感と共に流れる冷や汗を手で拭った。
 『袴田』の単語が心をざわつかせる。初秋に起こった事件を思い起こさせる単語、袴田。
 高槻は息を呑み込んでゆっくりと歩き出した。




「今日、萩原先輩見ましたよ」


 日も暮れた午後八時過ぎ、ボールの詰まった籠を抱えながら和輝は言った。話し相手だった桜橋は数本のバットを担いでいたが、和輝の口から『萩原』の名が出た事に少なからず驚いている。
 体育倉庫に到着し、大きな音を立てて籠を置いて大きく息を吐く。傍に桜橋がバットを置き、二人はそこを離れた。整備されたグラウンドを大きく回って部室に戻る道、和輝は言う。


「萩原先輩ってすごく損な顔してるんですね」
「損?」
「俺と箕輪、顔見た瞬間に逃げ出しちゃいました。だって、こんな顔してたんですから」


 和輝は自分の目を吊り上げ、桜橋は笑った。大袈裟かも知れないが、実際に見た萩原は確かにそんな顔をしていた。
 目は吊り上がって酷く目付きが悪く、箕輪の言うように前科何犯という悪役面だった。子供が見たら例外無く泣くだろうという顔だ。
 頻りに頷いて萩原の顔を見た時の衝撃を説明する和輝の話を聞きながら桜橋はそっと問い掛けた。


「高槻と対立して辞めた男の名前が萩原……。興味無いか?」
「無いっスねぇ」


 和輝は頭を掻きながら笑って言った。言葉の通り、欠片も興味は無いらしい。だが、数秒の間を置いて和輝は意味深に笑う。


「何を考えてますか? いや、俺に何をさせたいんですか」


 何か的を得ている問いだった。和輝は困ったように眉を八の字にする。


「桜橋先輩は兎の皮を被った狐だ。俺を使って何かしようとしてる事は解ってますよ」


 怒るかと思ったが、桜橋は怒らずに笑った。


「俺は真実が知りたいんだ。今更と、思うかも知れないけど」
「二人の対立は嘘だと思うんですか?」
「ああ。勿論、集団暴行事件もな」
「じゃあ?」
「……袴田」
「?」
「初秋の事件で転校した男の名前だよ。集団暴行事件で膝に致命的な怪我を負って選手生命を絶たれたらしい」
「集団暴行事件が嘘なら、その袴田先輩の怪我も嘘ですか?」


 桜橋は首を振って静かに否定した。


「袴田が怪我をしたのは事実だ。救急車で運ばれる様を俺は見てる」


 和輝は少し黙って考え始めた。
 去年の初秋に『何か』が起こり、関係者である袴田が重傷を負い、萩原が部活を去った。そして、高槻はそれを何らかの理由によって隠蔽している。
 高槻の性格を一言で表すなら、自己犠牲だろう。対立と集団暴行事件の二つの話で高槻が悪役になっているのはそのせいだ。つまり、高槻は偽悪。事件には殆ど関与していない。
 萩原と袴田が何か事件に巻き込まれたか、或いは事件を起こした。そして、高槻は誰かの為に事件を隠蔽し、悪役を演じている。高槻が守ろうとしたもの――。その時、脳裏に突然あの雨の夜の高槻がフラッシュバックした。
 傘も差さずに弟の形見である壊れたキーホルダーを探して奔走していた高槻。思い出した瞬間にそこ等に漂っていた糸が繋がった気がした。高槻が守ろうとしたものは――……。


「興味無いって言ったのは、嘘だったみてェだな」


 突然、僅かに怒りを含んだ低い声が背後から突き刺さった。和輝と桜橋はほぼ同時に振り返り、薄闇の中に佇む小さなユニホーム姿を視界に映す。それが高槻だと気付いた瞬間、桜橋は僅かに動揺し、和輝は静かに息を吸い込んだ。
 高槻に表情は無かった。けれど、それこそが怒気の現れだとすぐに気付く。和輝は高槻の言葉をすぐに否定した。


「興味無いのは本当です」
「お前は嘘吐きだな。なら、何で」
「俺が言い出したんだ」


 桜橋が庇うように前に進み出て言った。


「なあ、高槻。去年の初秋の事件、好い加減、教えてくれないか」
「今更?」


 高槻の声は酷く乾いていた。


「ずっと傍観していた癖に、事件が終わった後に掘り返すのか?」
「……そんなんじゃない。俺はただ」
「違わないだろ。お前は傍観者である事を決めたんだ。なら、ずっと傍観してろ!」
「キャプテン」


 今度は和輝が口を開く。何かを疑うような、否定するような目で一言訊いた。


「終わったと、本当にそう思いますか?」


 どういう意味だ。
 高槻が問おうとした言葉は喉に張り付いて出て来なかった。和輝は眉を寄せる。


「終わってなんかない。だって、キャプテンは真実を知らないまま全部隠しちゃったじゃないですか」
「俺が真実を知らないだと?」
「キャプテンは偽悪で自己犠牲主義みたいだけど、時々、人が変わったように自己中心的になるようですね」


 和輝の声が低く冷えて行く。吹き抜ける一陣の風が春の夜に桜花を散らした。


「事件を隠したのは、野球部を守る為でしょ」


 ぴたりと高槻の動きが止まった。桜橋は意味が解らずに眉を寄せ、先を話すように和輝に目を向ける。


「この野球部を守る為にキャプテンは事件を隠蔽した。悪役を演じたのは、萩原先輩と袴田先輩を庇った訳じゃない。自分の目的の為に、事実を隠したんだ!」


 高槻が、くすりと笑った。


「……で?」


 和輝はぐっと息を呑んだ。高槻は喉を鳴らして可笑しそうに言う。


「中々面白い話だ。で、それがどうしたんだ?」


 ただ話を聞いていた桜橋さえも動きを止めた。それ程に、この高槻の様子は不気味に冷徹な空気を漂わせていた。和輝は目を細めて一歩後退さる。花吹雪の中に佇む高槻は昔話にでも出て来るような、鬼、或いは夜叉のように見えた。
 和輝は震えを誤魔化すように拳を握り、負け惜しみのように少しだけ笑って見せる。


「そうやって全部無かったみたいに隠して、何処まで行く気ですか」
「何処まででも。俺はずっと独りで、そうやって生きて来たからな。誰も頼らないし、誰も守らない。お前の言う通り俺は自己中心的な人間だよ」


 自嘲のような笑みを浮かべる高槻を見て和輝は脱力して肩を落とした。呆れや諦めの感情ではない。和輝は今度こそ本当に笑った。


「なら、俺は」


 目の前にいる鬼を見て和輝は言う。


「俺は、そうじゃないキャプテンを信じます」


 何を言っているのか解らなかったのは、高槻だけじゃない。桜橋もその理解し難さに眉を寄せるが、和輝は笑って見せる。


「雨の中、傘も差さず、ずぶ濡れで弟さんの形見を探して走り回ってたキャプテンだけは、嘘だと思えないから」


 和輝は頭を丁寧に下げた。


「失礼な事を言ってすいませんでした」


 そうして、二人を置いて歩き出す。桜橋はやはり訳が解らずに小さくなる背中を見詰めているが、高槻はその背中に弟を重ね見た。どうしても、和輝と弟は重なって見えてしまう。あの雨の日もそうだった。
 和輝の姿が部室に消えてから桜橋は動かない高槻に一瞥くれてからそっと歩き出した。残された高槻は暫くその場に立ち尽していたが、ゆっくりと歩き出した。頭の中には色々な情報が溢れ返っている。それはきっと、独りで背負うには多過ぎる量なのだ。
 弟の死、初秋の事件、そして、萩原の忠告。


――袴田の意志は生きてるぜ


 嫌な予感が雫となって頬を伝った。

2008.3.14