濃紺を薄めて行く光、いつものように東の空に金色の朝陽が上る。今朝も和輝の部屋では悪魔のような目覚まし時計が今か今かとその時を待ち侘びていた。えげつない音で午前七時を知らせる為のカウントダウンが今日も始まり、そして、その一秒前で遮られる。
 頭から布団を被って眠っていた和輝は、腕だけ伸ばして目覚まし時計の暴力的な行為を寸前で止めた。のそりと顔を出し、今日も一日が始まった事を知る。寝癖の付いた短髪を掻きながらゆっくりと着替え、ベッドは整えないままカーテンだけ開けて部屋を後にした。
 一階に下りると父である裕が台所に立ち、兄の祐輝が洗面所の鏡に向かってネクタイを結んでいる。和輝はそのまま祐輝の前に立って顔を洗った。後頭部を叩かれたけど。
 食卓に着くと父は忙しそうに味噌汁を運びながら笑みを浮かべて言った。


「おはよう」


 和輝は同じように挨拶を返して笑う。
 昨日の騒ぎのせいで体が酷くだるい。洗面所から祐輝の現れ、朝食の為手を合わせた。だが、食事を始めてすぐに裕は言った。


「今日出張なんだ。悪いけど、夕食置いとくから適当に温めて食べてくれ」
「解った」
「あ、俺も」


 祐輝が思い出したように手を上げる。


「俺も今日部活の親睦会があるから遅くなる」
「じゃあ、今日は俺一人か」
「だから、遅くなるだけだっての」


 和輝が悪戯っぽく笑う横で裕は早々に席を立った。


「じゃあ、悪いけど」


 それだけ言ってバタバタと玄関に走って行く父を見送り、和輝は再び朝食を再開する。暫く二人でテレビを見ていたが、祐輝は独り言のようにポツリと言った。


「随分、だるそうだな」


 和輝は苦笑した。


「昨日、ちょっとね」
「野球部か?」
「半分はね」


 祐輝の表情がぴくりと動いたが、和輝は見なかった事にした。そして、黙っておこうかと考えていたが、覚悟を決めて口を開く。


「晴海高校で起こった集団暴行事件は、未遂だったんだ」


 顔はテレビに向かったまま、祐輝は黒目だけをじろりと動かした。和輝はなるべく表情に出さず、ゆっくりと話し始める。


「集団暴行事件は確かに起こり掛けた。でも、被害者になる筈だったキャプテンを庇った萩原先輩が相手を返り討ちにした。真相を知らないまま、キャプテンは全てを隠蔽した……」


 祐輝は静かに息を呑む。そして、拳を握った。
 歪んだ人間関係だと思った。誰かが気付けば終わった事件なのだ。それをいつまでも引き摺って抉らせた。けれど、それが自分に言えるだろうか。
 他人を信じ続ける事なんて夢物語だ。祐輝自身、幼馴染である浩太と決別した時にそれを悟った。だからこそ、自分の弟は凄いと思うのだ。


「信じるって、難しいよなぁ」


 突然、祐輝は呟いて自嘲気味に笑った。
 無条件に他人を信じられるだろうか。裏切られる可能性を知りながら、傷付いても平気な顔で笑いながらまた、信じられるだろうか。


(俺には出来ねぇなぁ……)


 誰だって傷付くのは怖いから。
 和輝は言う。


「俺も、全部を信じる事なんて出来ない。でも、信じるって決めた相手なら全部信じられる」
「……それで十分だよ」


 祐輝は笑って和輝の頭を撫でた。


完全無欠の傷痕・1

壊れた硝子の鏡、歪んだヒロイズム。落として壊れたのは、


 仮入部期間を終えた晴海高校の放課後は、新たな部員を迎えて何処も同じように活気に溢れている。校舎裏の野球部は輪になって新入部員の自己紹介を始めていた。
 新たに加わる部員は和輝を含めて三人。内一人は言うまでもなく、同じクラスの箕輪翔太。そして、もう一人は出戻り三年生、萩原英秋。
 すっと前に進み出た萩原が頭を下げると、それまで黙っていた三人の二年生は揃って目に涙を溜めて抱き付いた。萩原は驚いた表情で固まっていたが、すぐに頭を下げる。声が少し震えていた。


「迷惑掛けて、すまなかった……!」


 心からの言葉だと、誰もが解った。桜橋は笑みを浮かべながら黙って拍手を送り、つられるように和輝と箕輪も拍手した。乾いた音が反響する校舎裏、高槻だけがばつの悪そうな顔でそっぽを向いている。
 仲直りをした手前、顔を合わせ辛いのだろう。そんな心境を悟って和輝は密かに笑った。どちらにしても、高槻と萩原はバッテリーなのだから二人で色々と話さなければならないだろうに。
 そして、挨拶もそこそこに始まった部活で早速二人はキャッチボールを始めた。皆がそれを微笑ましく見守っている。一人だけ状況を把握し切れていない箕輪が気の毒で大よその流れをこっそりと耳打ちした。
 やがてピッチングを始めた高槻を横目に和輝は、以前彼がキャッチャー代わりに使っていたブロック塀を見た。高槻がまるで感情をぶつけるみたいにボールを投げ続けたブロック塀は所々に傷が生み出されているけれど、もう二度と、彼がこれを相手にボールを投げる事は無いだろう。
 和輝は今朝、兄が言っていた事を思い出した。信じるというのは、言葉で言うよりも遥かに難しい事なのだ。同じ状況になった時、自分は果たして過去の彼等と違う道を歩む事が出来るのだろうか。目の前の惨劇も受け止めて相手を信じられると、本当に言えるか。
 だが、幾ら自分に問い掛けたところで答えは解らない。ただ、これだけは言える。惨劇の奥にいたのが自分が信じると決めた相手ならば、最後の一人になったとしても絶対に信じ抜く。
 もう、同じ事は絶対に繰り返させない。例え誰かがその状況になったとしても、自分だけは信じていよう。和輝は人知れずそう誓った。
 一方、久しぶりのピッチングをしている高槻はゆっくりと振り被る。目の前に萩原がいる事は、もう永遠にないだろうと思っていた。嬉しいと言えば嬉しい。そうやって、正直に自分の感情すら受け止められない自分の性格を高槻は自嘲する。
 投げれば萩原は口角を吊り上げて言った。


「随分とコントロール甘くなったんじゃねぇの?」
「キャッチャーがいなかったからな」


 言い返せば萩原はクッと可笑しそうに笑う。このやり取りも何ヶ月ぶりだろうか、なんて。
 二人がピッチングをしている奥では桜橋を中心にバッティングの練習が続いている。二人組みになってトスしたボールをネットに向かって打つのだが、桜橋はその二人を見て眉を寄せた。無論、一年二人組みだ。
 箕輪がトスしたボールを和輝が打つ。酷く単純に見える作業だが、その行為は他の誰よりも優れていた。スイングの鋭さがまるで違う。ステップ一つにしたって精錬された動作で、整ったフォームは教育テレビに出る模範のようだ。乾いた音を響かせたボールは緑のネットに吸い込まれて行くけれど、もしも相手がグラウンドだったなら、他の部員との差は歴然だっただろうと桜橋は思う。
 腐っても――腐ってもというと酷いようだが――、彼はあの天才・蜂谷祐輝の弟なのだ。並から見れば上に当たる。そして、常人から見れば間違いなく天才と呼ばれる部類の人間だ。彼は常に同情と羨望、そして期待に晒されて来た。
 よく、歪まないでここまで来たものだと関心する。だが、同時に思う。これは、歪んだ結果なのだ。だから、彼は真っ直ぐに歪んだ人間なのだと思う。
 その練習風景は高槻も見ていた。ここでは、彼の才能を腐らせる可能性がある。幾ら和輝は真剣に練習したって名門高校の広いグラウンドを使用した練習には及ばない。そして、二年、いや一年後でもいい。彼は今と同じように笑えるだろうか。その問の答えはきっと、和輝しか知らないのだろうけど。


 練習が終わった後はすっかり暗くなっている。ナイター設備のあるグラウンドも使用した部活が均し終え、何処も練習を終えて帰宅を始めていた。野球部も例に漏れない。練習が終わり、和輝は一人で外灯一つ無い水道で顔を洗っていた。
 春先の冷たい水で体内の熱が消化される。汗として流れた分以上の水分を補給し、静かに蛇口を閉める。校舎裏のその水道は人気が無い。暗くて不気味だからか、誰も近付かないのだ。和輝が何故そこを使用するに至ったのかは本人も解らない。ただ、何と無く気が向いただけだ。
 その小さな背中にそっと影が忍び寄る。砂利を踏む音と気配で人の存在は気付いていたが、和輝は振り返ってみて驚いた。闇の中に人相の悪い萩原が立っていると洒落にならない。刃物でも隠し持っていそうだと言ったら萩原の拳が振り上げられるのだろうと和輝は黙っておいた。
 萩原は隣りに並んで蛇口を捻る。人気の無い辺りに水音が響いた。そのままザバザバと顔を洗い出した萩原の横で和輝はしゃがみ込む。


「お疲れ様でした」
「……ああ」


 ぶっきらぼうに萩原は言って蛇口を閉めた。


「お前は」


 萩原の声に和輝は顔を上げる。


「何で、俺を信じると言った?」


 数秒の沈黙が流れた。和輝は暫しの間黙り込み、少しだけ笑って突然切り出した。


「萩原先輩は、生まれて来なければ良かったと思った事がありますか?」
「は?」


 萩原は眉を寄せ、突然、とんでもない質問を切り返して来た小さな後輩を睨むように見詰める。和輝は何処か遠くを眺めながら、薄く笑顔を浮かべて話し始めた。


「俺はね、あるんです。生まれて来なきゃ良かったって」
「どう、して」


 途切れた声が震えている。含んでいる感情は驚愕か恐怖か、それとも、悲哀か。
 和輝はそっと答えた。


「お母さんを殺したんです」


 一陣の風が吹いた。夜の闇に浮かぶ白い桜花を舞わせる様は吹雪のようで、荒廃した世界に降り頻る灰のようでもあった。その闇をぼんやりと見詰める和輝の横顔に表情は無い。いや、薄く笑ってはいる。でも、それは恐らくきっと仮面だ。
 その横顔を向けながら和輝はゆっくりと言葉を綴る。なるべく、感情を含まないように。


「俺はお母さんの命と引き換えに生まれた子供なんです。中学生までそんな事知らなくて、お母さんのいない家で育った自分達は不憫だって何処かで感じてた。授業参観の日に向けられる目は全部同情に見えて凄く切なかった」


 でも、と和輝は言う。


「でも、俺が殺したんです。天国のお母さんに何で死んだんだ、とか、酷いだとかって思って、嫌な思いばっかり向けてた。だから、真実を聞いた時はもう、どうしたらいいのか解らなくなった」


 抑揚の無い声がまるで機械の合成音声のようだと、萩原は思った。


「全部悪いのは俺だったんだ。俺なんか生まれなかったら良かったんだ。そうしたら、皆は幸せだったんだ。頭の中はそればっかり。俺、可笑しいくらい自己中心的ですよね?」


 その問に、萩原は頷かなかった。
 和輝は何かを誤魔化すように苦笑して話し続ける。


「でも、そんな自己中心的で救えない俺みたいな弟を兄ちゃんや姉ちゃん達は当たり前の顔で守ってくれる。居場所をくれる。自分達の哀しみとか淋しさとか全部何も無いみたいな顔で、傍にいてくれる。だから、俺は強くならなきゃいけないんです。俺を産む為に死んだお母さんの分まで立派にならなきゃいけないんです」


 それはある種のヒロイズムなのかも知れない。萩原は、以前、この後輩を紹介する時に『真っ直ぐ歪んだ人間』だと言った。それはきっとこの常に真っ直ぐであろうとする頑なな意思の事なのかも知れない。
 萩原は面倒臭そうに頭を掻きながら言った。


「……要するに、お前は自分が正義である為に俺を信じると言った訳か」
「そう、です。俺はね、人が思う程綺麗な人間じゃない。もっともっと汚く歪んだ臆病な人間なんです」
「馬ァ鹿」


 漸く萩原は笑って、足元で蹲るようにして言う和輝の頭を撫でた。


「臆病な人間は自分の事を臆病だなんて言わねぇよ」


 萩原自身、弟がいる。その弟は何処にでもいるような少年だが、萩原にとってはやはり、守るべき対象だ。だから、高槻が過去に目の前で弟を失ったと聞いた時は心が軋むような痛みを覚えた。同時に、萩原は和輝の兄である祐輝が過保護である事を思い出す。どうしてだろうか、この真っ直ぐ歪んだ人間は守ってやりたくなる。それはきっと高槻も一緒だろう。高槻は、恐らく自分の守れなかった弟を重ね見ている。
 以前、萩原が和輝と箕輪に会った時、高槻は過剰な程に拒絶した。つまり、そういう事だ。


「自分をそんなに貶めなくていい。もっと楽に生きろ。お前が苦しんだところで喜ぶ人間も、お前が喜んだところで憎む人間もここにはいない」


 和輝は頷かなかった。肯定も否定もせずに真正面の闇を睨み付けている。
 兄も、萩原と同じ事を言った。でも、そんな事を言われたって自分はこれ以外の生き方なんて出来ない。背負ったものを下ろせと言われるのが一番辛いのだと、彼等は知らないのだろう。それはまるで、お前には無理だと言われたような気持ちにさせる。
 本当に欲しかった言葉はそんなものじゃない。労わりも同情も羨望も期待も全部いらない。理解してくれるのなら、黙って背中を押して欲しい。目の前にあるのが地獄であったとしても、黙って背中を押して欲しい。それだけで何処までも行ける。
 暫く和輝が黙り込んでいると、萩原は何の前触れも無く話を切り出した。


「なあ、お前はどうして晴海高校に来た?」


 そんな遣り取りを少し前に、何度も繰り返したなと和輝は思う。説明するのが面倒だったので適当に返そうかと思うが、萩原はそのまま質問を重ねた。


「こんなところにいると、お前は確実に潰れる。お前なら、もっと上の学校に行けただろ」


 和輝はクスリと笑った。


「随分、俺の事を買い被ってますね」
「そりゃ、そうだろう。お前はあの蜂谷祐輝の弟だ」
「悪いんですけど、俺は兄ちゃんとは全く違います」
「……逆に、お前は自分を過小評価するのが好きみたいだな」
「そうじゃなきゃ遣って行けませんって」


 周りの期待が余りにも大き過ぎて。
 言葉にはしなかったが、萩原には何と無く伝わっていた。目の前にいる気の毒な一般人を見て少しだけ笑う。


「一年後、果たしてお前は今と同じように笑ってられるかな?」
「潰れませんよ、俺は。俺には頑張れって背中を押してくれるやつがいる」


 まさにヒロイズムだな、と萩原は思う。最後に苦笑して立ち上がった和輝の横を萩原は通り過ぎて行く。そして、和輝は暫くその場所に佇み、何時か昔の夕焼けを思い出していた。

2008.3.29