夕暮れの町を背景に、数羽の烏が漆黒の羽を広げて寝床へ帰って行く。シニアの練習が終わった後の気だるさと、達成感から来る清清しさとを抱えながら和輝は用具を片付けていた。河川敷のグラウンドも朱に染まり、後ろに伸びた影も色を深くしている。
 中学に上がりたての頃、小学校から変わらず続けていたシニアリーグ。兄の祐輝が同じように上級生になってから状況は少しずつ変わっているのだと、その時はまだ気付かなかった。
 祐輝は中学に入ってからめきめきと実力を付けて頭角を現していた。並外れた才能とカリスマ性はチームの期待の星で、和輝にとってもそれは誇りだった。でも、それだけでは済まなかった。
 蜂谷祐輝の弟だと知れると、それまで普通に接して来た筈の友達の態度がガラリと変わる。ある人はあからさまに避け、ある人は媚びるように付き纏った。普通の行動が偽善だとか、悪行だとか言われるようになった。弱音を吐けば囃し立てられ、誇張されて噂になる。
 和輝にとっては自慢するべき事なのに、言えば皆が離れて行く。だから、自然と自分の事は隠すようになった。しかし、知られたくないと思う程に自分が嫌いになって行く。
 隠すのは俺が弱いからだ。兄ちゃんは何も悪くない。
 だから、湧き上がる怒りや哀しみを何処にぶつければいいのか解らなくなった。人を信じられなくなって行く自分が、許せなくて、何を信じればいいのか解らなくて。気付けば独りぼっちだった。
 俺は皆が思う程、温厚でもないし、大人でもない。もっと馬鹿でガキで短気で自分勝手だ。でも、そう言ったところで押し付けられる理想像は消し去られる事は無かった。期待は無言の脅迫だ。でも、それに負ける事なんて許されていない。
 同情はいらない。羨望もいらない。でも、俺は信じたかったんだ。心の底から信じていたかった。俺は友達や仲間を何があっても裏切らない。だから、その分だけ皆にも信じて欲しかった。
 先輩の分まで仕事を引き受けて用具倉庫に行き、重い荷物をゆっくりと置いた。無理な姿勢を保っていたせいで腰が痛かったから、大きく背伸びをしようとした。その小さな倉庫に電灯は無く、内部は濃厚な闇が支配している。差し込む夕日の紅い光だけが全てだった。
 背伸びをして骨を鳴らしていると、背後で扉の滑る喧しい音がした。咄嗟に振り返った時には既に闇の世界に閉じ込められていた。隙間から差し込む光を頼りに扉まで駆け寄ってみると、ガチャリと乾いた音がした。聞き覚えのある、というか、無い訳が無い。いつもは自分が掛けていた南京錠の音だ。


「なっ、何で!?」


 慌てて扉を叩いて自分の存在を示したけれど、鍵が解かれる様子は一切無かった。
 冷や汗が頬を伝い、嫌な予感が心臓を握る。練習が終わった後の倉庫に一体誰が来るというのか。ミーティングが終わった後は用具を片付けてそのまま解散だ。
 力任せに引っ張ってみても扉は開かない。夕暮れから夜に変わろうとする外の光は弱まり、室内に広がる闇はどんどん色濃くなって行く。


「待って! まだ、中に……」


 そこまで叫んだところで気付いて、扉を叩いていた手は止めた。掌に広がる鈍い痛みごと拳を握り、和輝は呆然とする。


(……まさか、閉じ込められた……?)


 そう理解した時、体中から力が抜けた。
 自分はきっと、何者かが持つ悪意の元にこの暗い倉庫に閉じ込められたのだ。相手は先輩か同級生だろうから、匠達も適当に言い包められて帰ってしまっただろう。扉の外に耳を澄ましてみるが、微かに川のせせらぎと烏の鳴き声が聞こえるだけだ。
 和輝は呆然としたまま、その場に崩れるように座り込んだ。
 何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ。俺が何をしたって言うんだ。
 頭の中でぐるぐるとループする不条理に対する怒りは全て吐き出す前に呑み込んだ。全ては自分の弱さがいけないのだ。理由を問うのはもう止めよう。どうやら俺は、全部一人で背負い込んで弱音も嗚咽も全部呑み込んで生きる姿が正しかったらしい。いつもの事じゃないか。もう慣れただろう。
 人に期待したって駄目なんだ。だから、俺は一人でやってやると決めた筈なのに。

 もう、疲れた。



――ドンッ!
 背中を預けていた扉に何かがぶつかった。大きな音がして身を起こし、体に残っただるさから眠ってしまっていた事を知った。ぼんやりと霞む視界は相変わらず闇に塗り潰されているけれど、扉の向こうからの物音は止まない。これが例え更なる嫌がらせだとしても、俺は。


「和輝!」
「……?」
「ここにいるのか!?」
「た、匠?」


 声の主は匠だった。和輝の存在を確かめると匠は黙ってポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、すぐさま電話を掛け始めた。


「もしもし、祐輝君? 和輝見つけた」
『本当か!? 今、何処?』
「河川敷の用具倉庫」
『解った、今行く』


 通話の切れた携帯をポケットにしまい込み、匠は扉に背中を預けた。そして、ふっと息を吐いた。空には幾つかの星が地上の光に怯えるようにしてぽつりぽつりと浮かんでいる。鉄橋を行く電車の光を反射する川の水面がきらきらと瞬いていた。
 匠は扉越しに、倉庫の中に閉じ込められている和輝に話し掛ける。


「なあ、和輝」


 和輝は声に反応して顔を上げた。


「頼むから、一人で何でもかんでも背負い込もうとしないでくれよ。弱音吐いても俺は笑ったり見捨てたりしないから。だから……、お前も独りきりだって決め付けないで少しくらい寄り掛かってくれよ」
「……きっと、お前も嫌な思いするよ」


 声は少しくぐもっていた。和輝は膝を抱えて顔を伏せていたのだが、その声は泣いているかのように震えていた。匠は可笑しそうに鼻を鳴らす。


「お前がいなくなる以上に嫌な事があるかよ。お前がそうやって独りで嫌な事全部背負い込んで消えるくらいなら、一緒に嫌な事乗り越えて笑い合った方がずっと良い」
「なん、で」


 匠は「馬鹿だなぁ」と笑った。だって、当たり前じゃないか。


「お前だって、そうするだろ?」


 当たり前みたいに信じて、当たり前みたいに傍にいてくれる。それがどれだけ嬉しかったか、匠は知っているだろうか。
 和輝は体を丸めて唇を噛み締めた。それでも殺し切れなかった嗚咽が漏れる。匠は苦笑しつつ拳を握った。
 とりあえず、鍵を開けたら最初にする事は決まった。扉越しに全部の感情を殺し続ける幼馴染をぶん殴る事だ。それからきっと、和輝は祐輝にも叱られるだろう。その後に、一緒になって必死に探してくれた兄の浩太にも説教されるだろう。同じ幼馴染の奈々には抱き締められるだろう。その兄の涼也だけは笑うかも知れないけど、もしかしたら他の兄を真似て説教の真似事でもするのかも知れない。
 そんな事を考えながら匠は言う。


「俺は何があってもお前を信じるよ。ずっと一緒に育った、幼馴染じゃんか。だから、俺達の前でだけは抱え込むな」


 その時、遠くで砂利の跳ねる音がした。電話した相手は祐輝のみだったが、どうやら連絡網で皆に情報は行き渡ったらしい。駆け付けて来た幼馴染達を見ながら匠は少しだけ笑った。


完全無欠の傷痕・2

殴られたのも切られたのも、棄てられたのも潰されたのも、全て同じものだった


 萩原が立ち去った後も和輝は暫くそこに佇んでいたが、一陣の風が前髪を揺らした事で思い出したように校舎裏の練習場所へと歩き出した。まだ、片付けが途中だった筈だ。
 校舎裏に戻ると片付けは粗方終わっていた。和輝がいなかった為に相当扱き使われたらしい箕輪が恨めしそうに見詰めて来たのでそっと肩を叩いて笑顔を返す。そうすると、箕輪はすっと目を細めた。


「サボりやがってぇ……」


 不機嫌そうな声で箕輪は呟き、持っていた用具の籠を押し付けて来た。和輝は苦笑してそれを受け取り、用具倉庫へ向けて歩き出す。最後に振り返った時、箕輪は凄く晴れやかな笑顔で手を振っていた。単純なやつだな、と和輝も笑う。思えば箕輪は今日用事があるから出来るだけ早く帰りたいのだそうだ。
 ふと時計を見ると最終下校時刻の十分前だった。急ごうと思って歩調を速めると、途中で擦れ違った高槻が言った。


「もう下校時刻近いから急げよ。過ぎたら置いて行くから」
「ええ!」


 走り出すと後ろで笑い声が聞こえた。
 明日は練習も無い。校舎の点検があるらしいのでグラウンドも使用出来ない。サッカー部や陸上部は他の学校へ合同練習に出掛けるようだが、マネージャーを含めて総勢十人の野球部がそんな事出来る筈も無い。仕方なく明日は休みだ。
 倉庫まで急いで行く途中、もう一人、見覚えのある一人の女子生徒と擦れ違った。カモシカのようにすっと長い足を持った高槻の幼馴染である陸上部のキャプテン、相馬美希子だ。倉庫に向かう和輝に気付くと美希子はそっと呼び止めた。


「和輝君」


 和輝は振り返り、闇の中に浮かぶ美希子を見る。制服のブレザーと短めのスカートが良く似合っていた。籠を持ち直して首を傾げ、和輝は目を瞬かせる。


「何ですか?」
「君、木島と百メートル走して勝ったんだって?」


 今更だな、と思った。だが、和輝は苦笑する。
 美希子の背景には帰宅していく生徒の群れがあった。当然、陸上部も。そして、遠くに高槻らしき姿を見付け、胸の内で溜息を零す。本当に帰るとは思わなかった。


「思い出したんだけど、蜂谷和輝って言うと野球よりも陸上で有名だったよね」
「そうですか?」


 適当にはぐらかして重い籠を持ち直すが、美希子は意味深な笑みを浮かべている。


「蜂谷和輝って言ったら全国、いや、国際大会でも注目されてた短距離の選手じゃない」


 和輝は無表情だった。
 それは事実だ。走力に関しては他の追随を許さない。それこそ、中学・高校の部活レベルの陸上では歯も立たないくらいの実力だ。だが、和輝は黙っておいた。
 そのまま美希子の横を擦り抜けて倉庫に行こうとしたが、敢無く阻まれた。美希子は和輝の前に立ち、意味深な笑みを浮かべたまま言う。


「ねぇ、和輝君。陸上部に来ない?」


 瞠目し、立ち止った。だが、和輝は笑った。


「陸上には興味無いんで」
「……そう」


 美希子はすっと道を開け、和輝は籠を持ち直して歩き出した。
 その遣り取りを一人の陸上部員が見ていた事を和輝は知らなかった。そのまま美希子は去り、倉庫に辿り着いた和輝は重い籠を定位置に戻して溜息を吐く。予定外の時間ロスはあったが、最終下校時刻には間に合うだろう。そう思って振り返った時、外からの光が一気に遮断された。
 乾いた音が倉庫の中に木霊する。横開きの扉がぶつかり合う巨大な音に肩を跳ねさせ、闇に落ちた倉庫内で和輝は立ち尽くした。デジャビュとか、そんな事はどうでもいい。
 慌てて扉を叩きまくるが、開く気配は一向に無い。そんな馬鹿な。


「待って! まだ、」
「お前さ」


 乾いた、乾き切った声がした。背筋が冷たくなるような低い、聞き覚えの無い声だ。


「恵まれてるからって調子に乗り過ぎじゃない?」
「だ、誰だ……?」


 本当に覚えが無いのだ。だが、扉の向こうで声の主は言う。


「お前が負かした木島先輩だって血反吐を吐くような努力をしてる。才能に恵まれたお前なんかとは天と地の差なんだよ」


 扉を叩く手は止まっていた。和輝には黙り込み、向こうの話を聞くより他無い。


「興味無いとかさ、すげぇむかつく。お前がそうやって見下したものを必死になってやってる人がいるんだよ」


 見下した訳じゃない。だけど、結果として相手はそういう風に捉えた。
 結局は自分のせいだ。和輝は拳を握った。声の主はゆっくりと歩いて行く。開けるつもりは無いのだろうと解ったが、このまま放って置かれては困る。何度も扉を叩いて叫んだが、すぐに無駄な事だと気付いて止めた。
 野球部は、もう帰っただろう。和輝がここにいる事は高槻と箕輪しか知らない。二人は早く帰ったし、皆、箕輪が早く帰ったのなら和輝もそうだと思うだろう。
 今日、父は帰って来ない。兄も遅くなると言っていたから、きっと帰ったらそのまま寝てしまうだろう。
 加えて明日は誰もここに来ない。夏や冬ではないから死にはしないだろう。一日くらい食事なんて無くても大丈夫。


(……万事休すか)


 扉の前にしゃがみ込み、和輝は溜息を吐いた。
 正面の扉は開かない。他の窓は侵入防止の為に金網が掛けられ、脱出は不可能。唯一無事な窓と言えば遥か上空に位置する天窓だけ。今は、差し込んで来る月明かりが酷く恨めしい。
 何でこんな目に遭わなきゃならないのだ。そう思った時、過去に押し込めて来た世界における諦観が沸々と湧き上がって来た。
 どうやら、この世界は不条理が当たり前らしい。知らず知らずの内にまた、他人に期待を寄せていたようだ。何処まで行ってもこの運と間の悪さは変わらない。
 人を頼るのは止めよう。裏切られて傷付くのはもう嫌だから。
 和輝はゆっくりと立ち上がり、月明かりの差し込む窓を見上げた。扉の向こうからは微かに車のクラクションが聞こえる。人の話し声は一切無く、この学校には教師や用務員数名が残っているだけだろう。そして、グラウンドの外れにあるこの倉庫には誰も気付かない。
 いつも守られて来た。ここに閉じ込めた相手に対する怒りよりも、自分の弱さに対する怒りが更に上を行く。
 助けは期待しない。だから、自力でここを脱出してやろうと思った。こんな事で誰にも迷惑掛けたくない。陸上部の何者かに閉じ込められたのだと知れれば皆に迷惑が掛かる。野球部だけじゃなくて、陸上部にも、そして、家族にも。
 倉庫の中をぐるりと見回して使えそうなものを探して見る。走り高跳び用のバーがあるが、こんな狭い場所で使ったら自殺行為だ。無数のマットもあるが、積み重ねても高さが足りない。縄もあるが、引っ掛けるところも無い天窓相手にどうやって使えと言うのか。倉庫の奥の奥まで調べて見るがどれも良く整備された運動競技用の道具ばかりだ。
 絶望がじわじわと胸の中に広がる。兄が気付いて探しに来るまでにここを脱出しなければならないのだ。焦る程に視界は狭くなって行く。だが、その時。さっき投げ掛けられた悪意に満ちた声がした。


――お前が負かした木島先輩だって血反吐を吐くような努力をしてる。才能に恵まれたお前なんかとは天と地の差なんだよ


 木島が努力している事くらい、知ってる。見下したつもりなんかない。皆頑張ってる事くらい始めから解ってるのだ。あの百メートル走をした時から、多少の不正があったとしても彼が才能に溺れているとは思っていない。ただ、結果として勝負は自分が勝った。それだけの事だ。


(木島先輩の努力を知って怒る癖に、どうして俺の努力は頭から否定するんだよ)


 木島が努力したように、自分も努力したとはどうして思ってくれないんだろう。さっきの萩原にしたってそうだ。どうして才能なんて言葉で全部終わらせるんだ。
 人々が祐輝を天才と称する傍らで、彼がどれ程の努力を重ねたのか知っているのだろうか。彼がたった一キロメートルの速度を上げる為に、一体何百球投げたのか解るというのか。天才だと言って全てを消し去ろうとする人達は、兄の掌を見た事があるだろうか。あの掌は大きいけれど、指先は細い。だが、その指先には幾つもの肉刺や胼胝がある。
 努力は認めてもらうもんじゃないとか、そんな事はどうだっていい。決め付けるな。
 和輝は長い棒を彼方此方から集め始めた。全ての主張は結果を残した者だけが許される。誰かの助けを借りて脱出したって駄目なのだ。
 ここには匠も兄もいない。この道を選んだのは自分だ。泣いても世界は変わらない。それでも朝は来る。全部、自分の力だけでやってやる。
 集めた棒を立て掛けて天窓まで伸ばすが、長さが疎らな為にどうやっても高さが足りない。
 それならと棒高跳びの要領で助走を付けて一気に天窓まで跳ね上がるけれど、やはり、届かない。微かに指先だけが硝子に触れたものの、体はそのまま通り過ぎて壁に勢い良く衝突した。衝撃で色々な用具の中に倒れ込み、全身を打ち付けた鈍い痛みが広がる。だが、目はまだ頭上を捉えている。
 何度も、何度も繰り返した。その度に壁や床に衝突し、手足に青紫の痣が現れた。それでも下は向かない。出口は上にしかない。
 その何十回目とも解らない無謀な挑戦を繰り返した時、偶然か必然か指先が天窓の鍵を弾いた。カチリと鍵が開いたが、体は勢い余って用具の中に突っ込んでしまった。
 鍵だけが開いた窓を見上げ、胸の内に絶望ではなく微かな希望が芽生えた事を知る。けれど、同時に左手首に、これまでとは違う鋭い痛みを覚えた。
 絆創膏を貼った貼った生白い手首の内側とは逆に、日焼けの残る皮膚が抉られたように裂けていた。真っ赤な血液が闇に沈む床に広がる。予想以上の出血に冷や汗が頬を伝った。それでも、目は上を向く。
 再び棒を掴むが、血のせいで掌が滑った。白いユニホームで血を拭いてまた飛び上がる。大きく伸ばした右手が窓硝子を掠めた。窓は押せば簡単に開くのにもどかしい。多量の出血を拭い、嗚咽も弱音も全部呑み込んで再び飛び上がった。

2008.3.29