翌朝、いつものように祐輝は朝早く目覚めた。昨夜は親睦会という事で中々早く帰してもらえなかったので僅かにまだ寝不足で体が重い。お陰で、帰ってすぐに風呂に入り、夕食を取ってそのままベッドにダイブしてしまった。
 大きく背伸びしながら一階のリビングに向かう。弟はまだ寝ているだろう。先日、建物の点検の為に部活が休みだと言っていた事を思い出し、恐らく昼過ぎまで寝ていると思った。休日の過ごし方は人それぞれだし一々文句を言うつもりは無い。ただし、朝食は取ってもらわないと困る。
 自分の部活は午後からだが、習慣で早起きした祐輝はのんびりと朝食を作り、暫くはソファに座って大して興味も無いテレビを見ていた。だが、中々起きない弟に痺れを切らして和輝の部屋に向かった。
 和輝のネームプレートが下がった扉をノックする。乾いた音と共に名前を呼んだが、全く返事が無い。
 どれだけ眠る気なんだと苛立ちを覚えてドアノブを捻ると、鍵は掛かっていなく、簡単に開いた。ずぼらな弟だから鍵を毎回掛けている訳ではない。別段、不審には思わずに部屋を覗くが、ベッドは蛻の殻だった。
 変だな、とは思った。早朝にトレーニングに出掛ける事は少なくない。だが、いつもは部屋に散乱してるかハンガーに掛かっている筈の制服が無い。通学用の鞄も無い。違和感を覚え、玄関を見るとローファーも無い。


(あの馬鹿、休日なのに学校行ったのか?)


 ありえる話だと思ったが、学校に行くにしたって早過ぎる。再び和輝の部屋に戻って、自分が上げた目覚まし時計が喚く前に止めて嫌な予感を覚えた。目覚まし時計はまだ鳴っていないのに、一人で自分よりも早く起きて学校に行ったとは思えない。
 もしかして、まだ帰って来ていないのか?
 一晩明けた空を見詰め、祐輝は息を呑んだ。昨日から帰って来ていないのだ。体中を寒気が襲う。祐輝は悪寒に身震いしつつ、部屋にある晴海高校の連絡網でキャプテンの高槻に電話を掛けた。早朝だった為、一回目のコールでは高槻は電話に出なかった。ここで引き下がる訳にも行かず、もう一度掛け直す。電話は七回目のコールで繋がった。


『はい、高槻です』


 以前聞いた時よりも低く眠そうな声。微かに苛立ちを含んでいるようだったが、苛立っているのは祐輝も同じだ。


「蜂谷和輝の兄です。和輝が昨日から帰って来てないみたいなんですが、何か知ってますか」
『和輝が――?』


 その時は布団の中で寝起きだった高槻も、嫌な予感と共に目が覚めていった。布団から起き上がって昨日の事を思い出す。いつものように先に帰ってしまったが、最後に和輝を見たのは体育倉庫に用具を片付けに行くところだった。そのまま、行方不明?


『……他の部員に聞いてみます。ちょっと待って下さい』
「待てないんですよ、こっちは!」


 祐輝はすぐに電話を切って家を飛び出した。何を悠長な事、言っているのか。苛立ちを抱え、祐輝は手当たり次第に覚えのある場所へ走りながら、向こう隣の幼馴染に電話を掛けた。
 浩太は早朝のコンビニでバイト中だったが、状況を聞いてすぐに行くと言った。その間に河川敷に到着した祐輝は焦燥感に駆られながら走り回っている。和輝の携帯は通じない。
 高槻は急いで着替えながら、とりあえず箕輪に電話をしたが出ず、仕方なく桜橋に掛け直した。桜橋は早起きの為、すぐに電話に出た。詳細を伝えると箕輪と一緒に帰ったと思ったと言い、萩原にも電話してみると答える。
 そのまま高槻は家を出た。電話に出ない箕輪にメールを送っておいた。
 祐輝とは違ってまず学校に向かった。校舎点検の為にグラウンドには誰も無い。工事関係者が出入りするのみの為に正門は開いていなかったので裏口に回る。その頃になって箕輪から電話が掛かった。
 箕輪は現在、祖母の住む埼玉県にいるらしい。探す手伝いは出来ないが、代わりに一緒には帰っていないと答えた。
 事の詳細を告げて学校の中に入れてもらい、部室に向かって走る。鍵は閉まっていた。職員室に行って部室の鍵を借りに行っている間に、浩太と合流した祐輝が学校に訪れる。表情には焦りと苛立ちが浮かんでいた。
 警察に連絡しようと浩太が言い出す。高槻は嫌な予感を呑み込んで部室を開け、和輝のロッカーを覗き込んだ。残された鞄を確認した時、丁度、桜橋と萩原が到着した。
 祐輝は残された和輝の鞄の中から携帯を取り出す。無数の着信記録が残っていた。


「何処に行ったんだよ……!」


 何処か泣き出しそうな横顔だと、高槻は思う。


「何で、そんなに、」


 そこまで問い掛けたところで、祐輝は高槻の胸倉を掴んだ。言葉の先は続かないというより、祐輝によって止められた。高槻は目の前で焦りと苛立ちと僅かな恐怖に支配された天才を見て眉を寄せる。祐輝は高槻を棄てるように離して背中を向けた。


「あんたには解るでしょ」


 祐輝は走り出した。


完全無欠の傷痕・3

弱い故に強く、脆い故に優しく


 走り出した祐輝の後を追うように浩太が部室を飛び出す。行き先が決まっているらしい祐輝の足に迷いは無かった。真っ直ぐに思い当たる場所、用具倉庫に向かう。
 昔の事を思い出していた。和輝は前に用具倉庫に閉じ込められた事がある。その時は匠が見つけてくれたが、ここに匠はいない。あの時も自分は見つける事が出来なかった。あのまま匠が発見してくれなかったらと、考えるだけでぞっとする。
 グラウンドの端にある用具倉庫へ走る祐輝と浩太の後ろを高槻達も同じように追った。均されたグラウンドに足跡がくっきりと残っている。高槻はどんどん小さくなる祐輝の背中を呆然と見詰めていた。


――あんたには解るでしょ


 どういう意味だと問い返したかった。でも、答えはきっと解ってる。
 今の祐輝はきっと、怖くて堪らないのだ。喪失の恐怖、無力さに対する恐怖で一杯だろう。だが、そんな祐輝は突然、歩を止めた。
 用具倉庫の影から歩き出す小さな姿。手首を押さえる見覚えのある顔。祐輝は息を呑んだ。


「あ、兄ちゃん」


 煤だらけの頭、汚れたユニホーム、血の滴る左手首。顔も擦り傷だらけだ。祐輝は拳を握り、ゆっくりと歩み寄る。和輝は逆に足を止め、近付いて来る兄をただ見詰める事しか出来なかった。
 どうやら、ギリギリで間に合わなかったらしい。あれから何度も繰り返し、漸く脱出出来た時には月は消えて朝陽が昇っていた。これだけ必死に、ボロボロになってやったのに全て無駄だったのかと肩を落とす。
 祐輝は和輝の目の前に立ち、握っていた拳を解いた。その代わり、擦り傷の残る頬を思いっきり引っぱたいた。乾いた音が朝のグラウンドに反響する。傍で見ていた浩太は余りにも盛大に良い音がした為に眉を寄せた。引っぱたかれた和輝はその方向に顔を向けたまま呆然としている。
 和輝は恐る恐る兄の顔を見た。そして、目を丸くする。祐輝の頬に一筋の涙が見られた。
 祐輝は和輝の前に膝を突き、血塗れの左手首を見て、持っていたハンカチで縛った。手馴れた応急処置が何処か痛々しい。止血を終えた祐輝はそのまま縋り付くように和輝の両腕を取った。


「もう、止めてくれよ……」


 握り締めた掌が震えている事に和輝は気付いている。だが。


「ごめん、なさ、い……」


 ポツリと涙が落ちた。
 この世界は不条理が当たり前らしい。だから、全部一人で遣ってやろうと思っていた。なのに、無力で心配ばかり掛けている。悔しくて仕方が無いのだ。
 一方、浩太は鍵の掛けられた体育倉庫を見詰めた。恐らくきっと、過去にもあったように閉じ込められたのだろう。それが故意か事故かは解らないけれど。
 高槻は目の前にいる兄弟をただ見詰めている事しか出来なかった。過去に自分が守り切れなかった弟を和輝と重ね見る。そして、自分と祐輝を見比べた。


(俺はこの人のように、形振り構わず走る事は出来なかった)


 祐輝はいつも和輝を守ろうと必死だ。
 嗚咽を呑み込もうとする和輝の頭を撫でながら祐輝は涙を拭う。だが、和輝は座り込んでそのまま眠ってしまった。
 すぐに浩太が救急車を呼んで和輝は病院に搬送された。祐輝と浩太はその付き添いで病院に行ったが、残された高槻達も遅れて電車を乗り継ぎながら病院に向かった。
 通勤ラッシュから運良くずれた電車内の吊革に片手をぶら下げながら萩原は言う。


「蜂谷祐輝って、何だかイメージと違ったなァ」


 窓の外に流れて行く町並みを見詰め、萩原は少しだけ笑う。あの時、涙を零した姿はテレビが報道するような天才的スターではなかった。弟の頬を打ったあの後姿はただ一人の、弟を守ろうとする兄でしかなかった。


「天才も人の子か」


 桜橋は言った。
 高槻はぼんやりと二人を思い出す。二人で泣いていたあの兄弟が頭に焼き付いて離れない。

 病院に着き、一つの病室で点滴を受ける和輝の傍に祐輝はいた。黙り込んで点滴が終わるのを待つ姿がやはり、何処か痛々しい。病室の外から中を覗き込んでいる三人は声を掛けられずにいる。そこに飲み物を持った浩太が歩み寄った。
 高槻は浩太に気付いて軽く頭を下げる。


「和輝は……」
「命に別状は無いって。ただ、ちょっと出血が多くて疲れただけ」


 三人はほっと胸を撫で下ろす。高槻は和輝の傍で黙っている祐輝に目を向け、浩太は何か悟ったように苦笑した。


「過保護だろ、あいつ」


 浩太は笑っている。


「昔からそうなんだよ。弟馬鹿でね、子離れできない親みたいなもんなんだ」
「何で」
「……だって、祐輝には和輝しかいなかった」


 意味が解らなかった。だが、浩太は言う。


「天才と呼ばれる以前に、あいつは蜂谷祐輝っていう一人の男なんだ。あいつは和輝がいるから強くいられる。和輝も祐輝に守られてる」


 浩太はふっと病室の中に目を向けた。眩しそうな横顔はぼんやりと二人を見詰めている。


「世間はあいつ等兄弟が完璧だと言う。俺も最近までそう思ってた。でも、あいつ等は綻びだらけの、ただの人間でしかない」


 だから。
 浩太は高槻達に笑い掛け、背中を向けて病室内に歩き出して行った。


「だから、あいつ等は強いんだ」


 数秒遅れて届いた声が胸に突き刺さる。全てに恵まれたような男が、弟がいなくなっただけで涙を零した。マウンドで見せるあの意志の強そうな眼差しも無い。
 彼等は完璧ではない。だからこそ、強いのだ。長所も短所も全て受け入れて歩き出せるからこそ、彼等は天才と呼ばれた。
 病室に入って行った浩太は祐輝に買って来たベットボトルを渡した。祐輝は力無く笑って受け取り、すぐに眠っている和輝に目を戻す。浩太は苦笑し、疲れ切っている祐輝の肩を叩いた。
 和輝が目を覚ましたのは日が高く昇った昼下がりだった。結局、祐輝はその日の部活を休んで病院で付き添い、仕方無く浩太も傍にいた。高槻達はそれぞれ用事があったので帰る事になったが、和輝が目を覚ましたら連絡を入れてくれるように頼んで去って行った。
 目を覚ました和輝は数回瞬きを繰り返し、ぼんやりと滲む視界に兄の顔がある事に気付いた。


「兄ちゃん……?」
「よう」


 祐輝は笑った。
 和輝は掌で目を隠すように押さえ、気だるさを抱えながらポツリと呟いた。目覚めた事を医師に報告する為に部屋を出ようとした浩太さえも、その言葉に足を止める。


「俺のせいでいつもごめん」


 浩太は立ち止って振り返る。どう見ても、彼だけに罪があったとは思えないのだ。


「この世界は不条理が当たり前なんだって解ってた。だから、全部一人の力で遣ってやろうと思ったのに……」


 真っ直ぐに歪んだ言葉だと、祐輝も思う。誰もそんな事は望んでいない。
 全てに正しさを求める事は愚かだ。人間なんて正義と悪が同居する不完全な生き物なのだから。野生のように生きる為だけに生きる事は出来ない。
 祐輝は和輝の頭を撫でて笑う。


「強くなんてなろうとしなくていい。弱さを切り捨てて行かなくていい。強さと弱さは表裏一体だから」
「同じものなの?」
「強さ故の弱さも、弱さ故の強さもある。お前の生き方は見てて凄く痛々しいよ。誰かの為に自分を犠牲になんてするな」
「でも、そうしないと駄目なんだ」


 和輝は掌を退けて祐輝を見た。


「何かを得る為には何かを失わなきゃならないだろ。俺の手は二つしかない」


 何だか小難しい話になって来て浩太は眉を寄せる。中学でも学年最下位だった頭を持つ和輝らしくない話だが、祐輝には何か解っているようだ。


「お前は、お前が思っている以上に沢山のものを守ってるよ」


 祐輝は窓の外に目を向けた。山の上に立つ病院の景色は家々の屋根が見え、まるで町を抱いているように見える。その上空を飛び交う白い鳥の群れが日光を反射してキラキラと輝いているようだった。


「頑張れ、負けるな」


 本当に欲しかった言葉は、何時だってそれだけだった。祐輝も和輝も、浩太さえも。
 それぞれ自分が選んだ道を苦しみながらでも必死に進んでる。その背中を見て同情したり、労わったりなんてしないで欲しい。
 黙って背中を押してくれればそれで良い。


(そうしたら俺は、その言葉の為だけに何処までも走って行くから)


 和輝はくすぐったそうに笑った。
 その時、病室には近所に住む幼馴染の二人が飛び込んで来た。目を見張るような美男美女だが、三人は顔を見合わせて噴出すように笑う。祐輝・浩太と同い年の北城涼也と、和輝・匠と同い年の奈々だ。和輝は体を起こした。
 奈々はベッドに駆け寄ると怪我人である事も忘れて抱き付いた。暫しの沈黙が流れたが、涼也は奈々の真似をして和輝に抱き付く。祐輝はその頭を叩いた。


「何してんだ」
「いや、そういうノリかなと思って」


 涼也は笑った。


「また手首怪我したんだな」


 涼也は頭の後ろに両手を回して言う。浩太は居た堪れなくなって目を伏せるが、和輝は奈々に抱き付かれたまま軽く笑った。


「運悪いんだ」
「ああ、お前はいつも運が悪い。俺の幸運を分けて……て、奈々、好い加減離れろよ、気持ち悪い」


 妹の奈々を引き剥がそうと涼也は手を伸ばすが、奈々は離れない。
 和輝は、自分に抱き付く奈々の肩が震えている事も気付いていた。泣いているのか、怒っているのか。どちらにしても、きっと心配を掛けた。


「ごめん」


 呟くように言うと、奈々はゆっくりと離れて睨み付けた。丸い目には細長い睫が揺れ、微かに透明な雫が光って見える。奈々は右手を振り上げ、一気に振り下ろした。
 病室に乾いた音が反響する。和輝はぼんやりと、遠いところで二回目だと思っていた。
 恐る恐る奈々の方を向き、和輝は動きを止める。奈々は叫んだ。


「馬鹿っ!」
「……ごめん」
「お願いだから、これ以上傷付かないで」


 奈々は和輝の頬に手を伸ばし、目を伏せた。周りで兄達が囃し立てるが、内心、和輝はそれどころじゃない。目の前で目を伏せてしまった奈々を見て冷や汗が頬を伝うが、もう遅いようだ。
 次々に涙を零す奈々を宥めながら和輝は苦笑する。窓から差し込む光が奈々の涙を宝石のように光らせていた。

 その夜、地方へ出張していた父が帰宅した。和輝は疲れの為か、病院から帰ってすぐに自室で眠ってしまっている。祐輝は父の土産である手羽先を食卓に並べながら何気無く訊いた。


「親父は和輝が晴海高校を受験するって言った時、何で反対しなかったんだ?」


 それはずっと疑問に思っていた事だった。だが、裕は苦笑して簡単に答える。


「あいつには立派な意志と覚悟と責任があったから」
「……何で和輝が晴海高校を選んだのか、解るのか?」
「うん」


 裕は頷き、手を合わせた。そのままテレビを見ながら笑う横顔をじっと祐輝は睨む。暫く裕はそのまま食事を続けていたが、溜息交じりに祐輝を見て言った。


「お前は頭が固いんだよ。何時だって物事は簡単だ。もっと肩の力を抜いて現実を見ろよ」


 からからと笑う裕に祐輝は首を傾げてテレビに目を向ける。ブラウン管の中で最近よく見るグラビア上がりの女の子が甲高い声で笑っていた。
 理解出来ないのだろう。不機嫌そうな横顔を向ける祐輝を見て裕は言った。


「あいつは強くなりたかったんだろうよ。……強くなる為に自分の弱さと向き合おうとしたんだ。その為に選んだ道を否定されたあいつはどう思ったかな」


 裕は可笑しそうに笑った。それこそが、息子が真っ直ぐ歪んだ性格になった理由だと知っている。だから、裕は和輝の背中を押した。黙って背中を押して、何時でも逃げられる場所を用意していた。
 和輝が何をして欲しかったのかなんて、始めから裕には解っていた。


「和輝は信じて欲しかったんだ。同情も労わりも期待もいらなかった。ただ、たった一言『頑張れ』と言ってもらえればそれで良かったんだ」


 お前もそうだっただろう、と裕は言う。祐輝は目を伏せた。
 裕はぼんやりとテレビを見ながら笑っていた。

2008.3.29