まるで、全て何も無かったかのような振る舞いだった。
 昨日の事件を知っている高槻でさえも驚いた。それほどに、翌日登校して来た和輝は普通だった。友達と笑い合い、変わらぬ調子で運動し、当たり前の顔で部活に顔を出す。一晩の間、体育用具倉庫に閉じ込められていたとは思えない天真爛漫な笑顔は、萩原や桜橋でさえも驚きを隠さずにはいられなかった。
 高槻は、前に和輝が心配されたくないと言っていた事を思い出した。
 和輝は労わりや同情を病的に嫌っている。その裏側に潜んでいる余りにも真っ直ぐ過ぎる歪みは、今も変わらず硝子の破片のように彼自身を傷付け続けているのだろう。でも、その全てを背負って行こうと決めたのもまた、彼自身だ。
 準備の為に体育倉庫へ向かう途中、高槻は和輝と擦れ違った。笑顔で頭を下げるその様が何処か余所余所しく、高槻は漸くその意味に気付いた。その態度は和輝自身が作り上げようとしている壁、境界線、バリアなのだ。そうして距離を作り出す事で自分を守ろうとしている。
 歪んだ真っ直ぐさは相変わらず健在のようだ。だけど、その弱さこそが和輝の強さだ。だからこそ、彼は何度も何度も傷付き、その度に立ち上がって歩き出す。
 心配も同情もいらなくて、羨望も嫉妬も必要ない。本当に欲しかったものはもう、手に入れたのだろう。
 高槻は擦れ違い、離れて行く和輝の首根っこを掴んだ。和輝は蛙のような声を上げて踏み出した足を空中に停止させる。


「手は平気か」


 ぶっきらぼうに訊くと、驚いた顔で振り返っていた和輝は途端に顔を綻ばせる。


「はい。沢山血は出たけど、大した怪我じゃありませんでしたから」
「そうか」


 高槻の頭の中に、祐輝の顔が浮かんだ。
 弟の為に必死になって駆け回るあの姿は、普段テレビで流れる天才的ヒーローのそれではなかった。
 多分、彼等は本当に大切なものを知っているのだ。当たり前の事が最も難しく、そして、最も大切だと言う事を。


「俺、ガキの頃から怪我多かったんで、もう慣れっこなんですよ」


 和輝は照れ臭そうに話し始めた。


「昔から兄ちゃん達は心配してたけど、俺は大丈夫なんです。皆、心配性なんですよね。野球してたら嫌でも怪我するし、慣れるんだ。だから、」


 だから。
 和輝の言葉は続かなかった。突然、言葉の先を失ったかのように息を詰まらせて動きを止める。でも、高槻には和輝の言わんとしている事が手に取るように解った。
 それは、和輝の身を裂くように辛く強い願いなのだ。
 高槻はふっと息を吐いた。


「心配なんかしてねぇよ」


 すると、和輝はきょとんと首を傾げた。


「誰がお前の事なんか、心配するかよ。お前は大丈夫だろ、負けないだろ」
「キャプテン、」
「解ってんだよ」


 高槻は、ただ目を丸くする和輝の横を通り過ぎ様に肩をそっと叩く。


「頑張れ」


 一陣の風が吹き抜け、殆ど葉桜に変わった桜を揺らす。舞い散る桜花が吹雪のように視界を埋め尽くして行く。和輝は振り返った。高槻は背中を向けている。和輝はその背中を見詰め、黙って拳を握った。
 多くの声が頭の中に返って来る。

 がんばれ。
 がんばれ。
 ガンバレ。
 ガンバレ。
 頑張れ。
 頑張れ。

 負けるな。

 和輝は笑った。そして、感謝を告げるように頭を下げてそのまま立ち尽くしていた。
 その言葉の為だけに、その言葉だけを糧に、俺は何処までも走れる。同情や労わりなんていらない。他人行儀の羨望も必要ない。
 ずっと強くなりたいと思った。優しさを受けた分、優しくあろうとした。でも、そんなものはどうだって良かったんだ。
 欲しかったのは弱さと向き合える強さでもなくて、全てを包み込んでくれる優しさでもなかった。本当に欲しかったのは、壊死しようとしている心を切除してくれるような残酷さだった。
 今にも立ち止って倒れてしまいそうな背中を蹴っ飛ばしてくれるような、泣き出す横で指差して笑ってくれるような。大よそ、優しさとは掛け離れたところで叱咤を飛ばしてくれれば良かった。倒れるまで、走らせて欲しかったんだ。
 和輝は、黙って高槻に、兄に、匠に、自分を応援してくれた全ての人間に感謝した。
 そして、高槻は気付いていた。本当に救われたのは和輝だけではなくて、弟を救えなかったあの日から歩みを止めてしまった高槻自身も救われたのだと。
 弟の為に、形振り構わず走ったあの蜂谷祐輝のように自分も走れば良かったのだ。
 起こった事象は変えられない。でも、あの時祐輝が必死に走ったから高槻は同じ悪夢を繰り返さずに済んだ。また、失わずに済んだのだ。
 高槻は自分の背中に向かって頭を下げる和輝を考え、少しだけ笑った。


等身大の鏡・1

俺とお前は同じで違う。けれど、同じものを見ている


 昼下がりの晴海高校は酷く穏やかだった。昼食を終えた生徒の他愛の無い会話や、軽く柔らかな笑い声が教室だけに留まらず、廊下にまで反響している。入学から一ヶ月と経過していない新一年生、和輝達もだんだんと新しい生活に馴染みつつある。
 和輝は頬杖突いて窓の外を眺めている。自分の机を囲ってクラスメイトが騒いでいるのも気に留めず、透き通るような青空にポツリポツリと浮かぶ雲を数え、小さく溜息を吐いた。
 ここ数日は色々な事件が続き過ぎて、心身共に疲れている。まるで鑢のようなものでじわじわと削り取られているようだ。
 意識は体からふわりと浮かび上がって、青空を燕のように旋回する。そんな空想を繰り返している横で、箕輪は叫んだ。


「和輝!」


 びくりと肩を跳ねさせて和輝は顔を向ける。余りにも大きな声だったせいで、鼓膜の振動はかなり限界だ。和輝は箕輪を睨むように見つめ、低い声で問う。


「何だよ……」
「次の授業、体育だぜ。早く着替えろよ」


 和輝は手を打ち、机の上に広げたままになっている弁当を片付ける。ぞろぞろと解散して行く群れを見送りながら、机の横に掛かっている鞄に手を突っ込んで体操着を取り出した。
 平和な学園生活。穏やかな毎日。……そんなものが訪れない事はもう、解っている。
 授業開始十分前のチャイムが鳴り響く。早々に着替えを終えたクラスメイトが足早に教室を出て行き、待っている箕輪は早くと急かす。だが、急かされると無駄な動きが増えてしまう。何しろ、今は手首を負傷しているのだ。天気が良くて暖かくても、暫くの間半袖は封印だろう。
 なるべく見られないように素早く着替え、和輝も足早に扉の前で待つ箕輪の方へ駆け寄った。
 そうして教室から飛び出した時、目の前に壁が出現した。


「うわ!」


 妙な声を上げて体を仰け反らすが、そのまま和輝は尻餅を着いた。何が起きたのか解らず、白く点滅する視界をよく見てから、そこに何が出現したのか気付いた。人だ。
 同じく体操着を着た、すっと背の高い男子生徒。彫りの深い顔立ちは整っているが、日本人離れしているようだ。髪の色素は薄く、地毛か染髪かの判断は付かないが、殆ど茶色だ。和輝は尻餅を着いたまま目を瞬かせ、その顔をじっと見詰めていた。すると、ゆるりと手が差し出された。


「大丈夫?」
「あ、はい」


 差し出された手を取って和輝は立ち上がる。左手を差し出されたので、同じく左手を伸ばしたが、生憎負傷している。和輝は鈍痛に眉を寄せつつゆっくりと立ち上がった。
 背の高いその男子生徒は無表情を一切崩さない。和輝が立ち上がった事を確認すると、軽く頭を下げて、さっさと歩き始めてしまった。
 きょとんとしていると、少し離れたところで箕輪がぽつりと呟くように言った。


「あいつ、夏川じゃん」
「何、知り合い?」
「いやぁ、有名人だよ」


 箕輪は苦笑した。


「フランスだか何処かのハーフでさ、結構なイケメンだろ?」
「ふうん」


 興味無さそうに和輝は相槌を打って自分の掌を見詰める。数秒前、夏川に掴まれた左手だ。
 掌に僅かに残った硬い感触。大きな掌だったが、肉刺や胼胝だらけの強く優しげな掌だった。頭の遠いところで、和輝はその掌が兄と似ていると思った。
 何かスポーツをしているのだろう。
 その時はそれだけで、箕輪が急かすから和輝もすぐに走り出した。
 グラウンドは整列が始まろうとしていた。二クラスを男女で分け合同で行なうので、グラウンドには四十人程の男子生徒がいる。慌てて列の後ろにこっそりと箕輪と揃って並ぶが、ふっと横を見て驚いた。ついさっき会ったばかりの夏川が無表情に前を睨み付けるようにして立っている。


「……あ」


 和輝の声に気付いて夏川がふっと目を向けた。


「ああ、さっきの」


 いかにも興味無さそうに夏川が低い声で呟き、すぐに目を戻そうとした。だが、和輝は気付かなかったように明るく話し掛ける。


「さっきはごめんな。それから、ありがとう」
「いや」
「俺、野球部の蜂谷和輝。よろしく」
「そう」


 余りの素っ気無さに、和輝は困ったように笑う。
 嫌われたか、と前に目を戻す。すると、隣りで低く夏川は言った。


「一年B組、夏川啓。……写真部だ」
「写真部?」


 てっきり運動部だと思っていたが、どうやら違ったらしい。
 意外そうに頷いていると、夏川は口角を吊り上げてそっと言う。


「蜂谷祐輝の弟、だろ?」


 和輝は小さく溜息を吐く。
 どうやら、この夏川という男は、かなり高槻側に偏った皮肉屋らしい。


「そうだよ」


 短く肯定すると、夏川は数秒の間を置いてクスリと意地悪そうに笑った。


「あの蜂谷祐輝の弟の割りには、随分チビだな」


 和輝は眉を寄せた。
 初対面の同級生にいきなりどうして、こんな事をズケズケと言われなければならないのだ。不満げにそっぽを向いたら負けた気がして悔しいから、和輝は前を見詰めたまま溜息を零した。


「俺だって好きで小さい訳じゃねぇや」
「やっぱり、弟は弟だよな」
「余計なお世話。大体、何でそんな事言われなきゃならないんだ……」


 そこまで言い返したところで、正面にがたいのいい筋肉質な体育教師が現れたので、和輝は口を噤んで目を向けた。
 授業内容を説明していく体育教師。和輝は無言でその話に耳を傾けていたが、前に並んでいる箕輪がちょいちょいとギャグを挟んで来るので終に笑ってしまい、結局教師に見付かって用具の片付けを後ほど手伝わされる事になった。
 体育の授業はソフトボールだった。野球よりもボールは大きくてグラウンドは小さい。細かいルールも違うので中々新鮮な経験だろう。そこで、何の偶然か、和輝は夏川のチームと対戦する事になった。
 準備運動、軽い練習を済ませ、いよいよプレイボールとなる。トップバッターに選出された和輝は慣れないソフトボール用のバットを片手に、バッターボックスへと立った。対する相手方のピッチャーは、あの夏川だ。
 和輝はすっとバットを掲げて口元を結ぶ。体育の授業だろうが関係無い。ゆっくりと構え、真っ直ぐにマウンドの夏川を仕返しと言わんばかりに睨み付けた。だが、夏川は死んだように無表情だった。
 マネキンのようだ、と和輝は思う。ゆるりと夏川がセットアップする。そして、投球。大きく円を描いた左手、下方から放たれる浮き上がって見える奇妙な球筋。和輝はバットを振り抜いたが、背後で乾いた音が響いた。


「ストライク!」


 主審を務める体育教師が興奮したように声を荒げて叫んだ。敵味方無く、感嘆の声が漏れる。
 和輝は自分の横を通り抜けて行った先を数秒間眺め、そして、再び構え直した。


(何が、写真部だ)


 心の中で悪態吐きながら和輝は思う。これの何処が文化部の投げる球なんだ。ソフトボールは素人でも、これはスポーツの素人に投げられる球じゃない。
 もしかして、こいつ、元野球部か?
 そんな考えが過ぎったが、それはすぐ次のボールによって掻き消される。また、背後で体育教師の同じ声が響いた。
 遠くで箕輪の叱咤する声が聞こえる。仲間の応援も届いた。もう大丈夫だろう。
 最後の一球。浮き上がる速球。風のうねる音。和輝はバットを振り抜いた。確かな手応えを感じて打球の行き先を眺めるが、大きなそのボールはふわりと、気持ちのいい青空に浮かび上がってから、ゆっくりと誰かのグラブの中に落下した。


「アウト!」


 がくりと肩を落とすと、遠くで笑い声がした。和輝は俯きながらバッターボックスを後にし、指差して笑う箕輪のメットを深く押し込んでやった。
 ベンチに座ってマウンドの夏川を眺める。二番からは体育の授業らしい、少し肩の力の抜けたソフトボールが開始されていた。文句を叫びたい衝動を呑み込んで和輝は、隣りに座っている箕輪に問い掛けた。


「夏川って何者?」
「さぁ。だって、同じクラスじゃねーもん」


 そりゃそうか、と肩を落とすと、近くで応援していたクラスメイトが何気無く答えた。


「あいつ、遠くからわざわざ入学して来たらしいよ」
「へぇ?」


 クラスメイトは眩しそうにマウンドを見詰めながら言葉を続ける。


「何の為に晴海高校来たのか知らないけどさ、結構な変わり者だってさ」


 和輝は同じようにグラウンドを眺め、適当に相槌を打った。大して興味は湧かなかった。胸の中に小さな違和感と嫌悪の念を抱え、和輝は体育終了までの五十分間、優等生のように真面目にソフトボールをやった。
 慣れないソフトボールのせいか、五回までで試合は終了した。和輝は五打席中三打席は三振、一度フライを打ち上げ、最後の最後にしみったれたヒットで出塁し、二回の盗塁を成功させた。勝敗は互いに無得点の引き分けだった。
 体育が終わってから、熱を外に逃がそうと冷水で顔を洗った。昇降口の傍にある水道は混雑していたので、わざわざ離れた体育館近くの水道を使った。体育館は同じく授業終了で帰って行く女子生徒で溢れている。和輝と箕輪が顔を洗っていると、マネージャーの亜矢と青葉が軽く手を振って行った。
 穏やかな一日だった。昼食後のスポーツは軽いものだったので、清清しい気分のまま教室に帰り、憂鬱な数学の授業を受け、少しの疲労感を残して部活に向かう。そんな他愛の無い一日の僅かな時間。和輝は顔を濡らしたまま夏川の事を思い浮かべた。
 何処かで聞いた事があるような、何処かで見た事があるような。
 夏川。夏川。夏川、啓。
 俺はあの男を何処かで知っている筈だ。
 和輝は隣りで飛沫を跳ねさせて顔を洗う箕輪を待ちながら携帯でメールを打った。相手は現在栃木にいる幼馴染の匠だ。
 『夏川って知ってる?』
 挨拶も何も無く、用件だけの短いメールを打ち、返事も来ないまま携帯を閉じて、満足そうに息を吐いた。記憶力は自分よりもはるかに上だから、もしかしたら解るかも知れない。
 それにしても、箕輪はいつまで顔を洗っているつもりだろう。時計を確認して隣に目を向けると、箕輪の姿は既に無い。顔を上げればわざとらしい忍び足で昇降口へ歩く箕輪の後姿が見えた。


「箕輪コノヤロ!」


 叫んで追い駆けると箕輪の笑い声が聞こえた。そのまま昇降口に駆け込み、素早く履き替えて、階段を二段飛ばしで駆け上る。箕輪はまだ笑っていた。
 教室に続く廊下に差し掛かると、壁一面に貼られている色取り取りの絵画に目が行った。美術部のコンクールが近いのだろう。気合の入った油絵を次から次へと眺めて行くと、やがてその絵画の列は途切れた。代わりに、小さな写真が数枚、掲示板のようなコーナーに貼られていた。
 写真部の小さな展覧会のようだった。和輝は何の気なしに目を移し、そこにある一枚の写真に目を留めた。
 学校の傍にある山の中だろう。小さな滝を遠くから撮ったその写真には春の日差しが差し込んでいて、何とも言えず神秘的な空気を醸し出している。けれど、それだけなのだ。
 確かに上手いと思うし、美しいと感じる。けれど、素人でも素人なりに上手く撮ろうとしている一生懸命さがそこには存在しない。撮れと言われたからその通りに撮ったような、虚しく冷たい風景写真。
 これが、夏川を象徴しているような気がした。和輝は黙って視線を動かして歩き出す。遠くで箕輪が笑いながら待っていた。

2008.5.1